十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

ジオラマ1

2024-04-11 15:29:01 | 思い出

 作り出して約1年余り。やっと電車を走らせ動画を取れるまでになった。その間現存する建物は写真を撮りに行ったり、古い写真を出してみたり、今は亡き姉たちに聞いてみたり、記憶をたどって午前中のひまな時間をとぎれとぎれに制作にあてた。画面のそれぞれに私の思いを詰め込んだつもりだ。材料はほとんどは百円ショップ。発泡スチロール、板、画用紙、厚紙。トンネルはペットボトル。紙粘土はネットで。手作りをモットーにした。

 全く家のことは記憶にないが、私の生まれた家は今は新幹線が走っている北方貨物線の北側にあった。6畳2畳二間の家に祖母、父母、姉3人兄そして末っ子の私。父は工場に勤めながら近くの長楽寺の土地を借り、田畑を耕作。長楽寺もわが家も大阪大空襲で燃えてしまったが、戦後も農業は続けていた。この家のことは全く記憶にないが、田植えの頃、祖母が卵を抱いたザリガニをバケツに入れて見せてくれたことは明るい楽しい光景として強く残っている。祖母は優しかった。線路わきの川でかえるを捕まえ、カエルのお尻に麦の茎で息を吹き込みおなかを膨らまし水に放つと最初水に浮かんでいたカエルはお腹の空気が徐々に抜けそして水中に消えていった。野菜泥棒の見張りに夜座っていたこともあった。食料難の時代、我が家も含め致し方なかろう。長楽寺には小学1年の時に行ったことがある。本堂はまだ消失したままでお墓だけがあった。幼馴染の骨入れの時であった。

 幼かったため私は戦争中のことは全く覚えていないが、姉たちの話で印象に残っているのは、家の前を兵隊を乗せた蒸気機関車に手を振ると兵隊さん達が手を振り返してくれたそうです。ジオラマの蒸気機関車と土塀だけの寺と粗末な家にまつわる話です。

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