十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

アジサイ

2024-06-16 06:51:04 | 趣味

 我が家の小さなベランダにアジサイが咲いてくれる。挿し木で増やしたものばかりだが律儀に目を楽しませてくれる。今年はアナベルが見事。姉が貿易商の家で女中として働いていた時小学生の私は一人で芦屋まで訪れたことがあった。坂道の途中の家に青いアジサイが咲いていたのを記憶している。


こいのぼり

2024-05-05 06:48:30 | 見山

五月晴れの日が続く。子供の頃風呂屋さんに行くと菖蒲が湯船に入れてあった記憶がある。見山にモーニングを楽しむために行ったが途中鯉のぼりを見ることはなかった。子供の心身の成長を家族で願ういい慣習だと思っているが。棟方志功の作品に鯉の油絵があるが、鯉の持つ生命のほとばし、エネルギーを見事に描いていた。子供たちは本来そんな荒々しいエネルギーにあふれた存在であり、親たちもそう願ったのであろう。見山に行くと鯉のぼりが高く泳いでいた。ナニワイバラも満開であった。田植えももうすぐ始まる。


親ばか

2024-05-02 06:50:03 | 人生

 もう昔のことだが大学に通っていたことがあったが何を学んだかほとんど記憶してないが、一つ蘇ることがある。どの講義だったか忘れたが、子供を産むことによってのみしか世の中に貢献できるないのがプロレタリア―トだと言われたことだ。そういう意味では私はプロレタリア―トにちがいない。娘がイラストを担当した本がアマゾンから販売されることになった。4人の子供を育てながらよくやったと思う。娘の人生もこれからも紆余曲折があるでしょうが、一歩前に進める端緒になればと願っている。

 


ジオラマ1

2024-04-11 15:29:01 | 思い出

 作り出して約1年余り。やっと電車を走らせ動画を取れるまでになった。その間現存する建物は写真を撮りに行ったり、古い写真を出してみたり、今は亡き姉たちに聞いてみたり、記憶をたどって午前中のひまな時間をとぎれとぎれに制作にあてた。画面のそれぞれに私の思いを詰め込んだつもりだ。材料はほとんどは百円ショップ。発泡スチロール、板、画用紙、厚紙。トンネルはペットボトル。紙粘土はネットで。手作りをモットーにした。

 全く家のことは記憶にないが、私の生まれた家は今は新幹線が走っている北方貨物線の北側にあった。6畳2畳二間の家に祖母、父母、姉3人兄そして末っ子の私。父は工場に勤めながら近くの長楽寺の土地を借り、田畑を耕作。長楽寺もわが家も大阪大空襲で燃えてしまったが、戦後も農業は続けていた。この家のことは全く記憶にないが、田植えの頃、祖母が卵を抱いたザリガニをバケツに入れて見せてくれたことは明るい楽しい光景として強く残っている。祖母は優しかった。線路わきの川でかえるを捕まえ、カエルのお尻に麦の茎で息を吹き込みおなかを膨らまし水に放つと最初水に浮かんでいたカエルはお腹の空気が徐々に抜けそして水中に消えていった。野菜泥棒の見張りに夜座っていたこともあった。食料難の時代、我が家も含め致し方なかろう。長楽寺には小学1年の時に行ったことがある。本堂はまだ消失したままでお墓だけがあった。幼馴染の骨入れの時であった。

 幼かったため私は戦争中のことは全く覚えていないが、姉たちの話で印象に残っているのは、家の前を兵隊を乗せた蒸気機関車に手を振ると兵隊さん達が手を振り返してくれたそうです。ジオラマの蒸気機関車と土塀だけの寺と粗末な家にまつわる話です。


さようなら松ちゃん

2024-02-09 15:33:56 | 人生

 姉が亡くなって一週間になる。3歳違いで年齢的に一番近い。他の兄姉とは遊んだ記憶が全くない。あれは姉が小学校1.2年の頃、近所の子らと遊んでいる時にわか雨が降ってきた。私たちは家の前のみそ工場の屋根のある入り口に逃げた。そこで姉はみんなの前で野崎小唄を唄いながら舞った。野崎小唄は東海林太郎の戦前の歌だが、歌が好きだった母が教えたのだろう。父にはそんな趣味はない。父は当時近くの鋳物工場で旋盤工として働いていた。工員仲間が家に集まり酒を酌み交わすことも多かった。そんな席で姉は父に言われて舞を披露したのであろう。母の歌声に合わせて踊ったであろう。父の同僚もいい人ばかりで、幼かった私の記憶の中でも明るく楽しい時間であった。年末から姉が病床で低い声で歌を口ずさんでいたと姪が言っていたが、きっとこの唄と思う。「野崎まいりは屋形船でまいろ・・・」この唄には姉にとっていい思い出が詰まっていたのだろう。きっと母を思い出す歌でなかったろうか。一駅先に2番目の姉が住んでいたが、二人で飴を一つ頬張りどこまで持つか競争したり、一番星を見つけたり、流れ星を探したり、今はないどぶ川沿いの道を歩いたのが懐かしい。もう姉は勤めていたと思うが、姉と「つづり方兄弟」の映画も見に行った記憶がよみがえる。二人して泣いて笑った。姉が中1の時、父が人員整理で首を切られ失業、その後数年で他界。姉は高校進学をあきらめ、最初に勤めた町工場は数年でやめ、映画館、プレイガイド、エース鞄と職場を変えた。エース鞄の時は阪急百貨店での勤務でした。その時に見合いの話があり、結婚した。姉より先旅立ちましたが、旦那さんは本当に文字通りのよき人で、姉は幸福な人生を送ったと思う。娘二人孫4人みんな姉のことが大好きでした。さようなら松ちゃん。今も姉のことを思っていると野崎小唄のメロディーが流れてくる。

野崎まいりは 屋形船でまいろ どこを向いても菜の花ざかり 粋な日がさにゃ 蝶々もとまる
呼んで見ようか 土手の人・・・・・・・・・

 

 

 


結婚記念日

2023-09-28 10:20:20 | 

結婚式を祭日にしたのはこの日に仕事を入れない為だったが私の仕事は定年がないので今も有効。ただ私の体の経年劣化は確実で記念日の計画も年々縮小気味である。今年は私の希望で海の見える場所と決めていたがギリギリまで決まらず前日になって、須磨浦公園に決定。昼食は公園内のTooth Toothで、夕食は出たとこ勝負といった計画ともいえないものになった。しかしTooth Toothでの食事は味よし、景色よし、雰囲気もよしで二人とも満足。食事のあとロープウェイとカーレーターに乗り回転展望閣でゆっくり景色を眺めながら時間をゆっくり過ごした。もう今はない海づり公園にもよくきた。二人で淡路島を一周したのはいつだったろうか。孫二人をつれて明石からタコフェリー乗って淡路の海で遊んだのは10年以上前のことだったかな。今年亡くなられた先輩二人といった寿司屋はどこにあったのだろうか。お二人とももうお会いすることもできない。ゆっくり動く景色をみながらいろいろ思い出していたが、こうした時間の中に妻が常にいてくれたことに感謝感謝。二人で小さなバニラアイスクリームをゆっくりと味わった。


佐伯祐三展

2023-06-19 10:09:52 | 備忘録

中の島美術館に佐伯祐三展に妻と行った。自宅からは阪急、地下鉄と乗り継いだが、大阪地下鉄はエスカレーター、エレベーター共に少なく、足が少し弱くなった者としてはつらい。肥後橋で降りる。仕事の講習でこのあたりの詳しいという妻の後に従っていった。美術館に入るとすぐにヤノベケンジの作品が迫力をもって迎えてくれた。2005年に作られた「ジャイアント・トラやん」操縦室に子供の顔がみえる。子供の命令にのみ従う「子供の守護神」とのこと。私の町に同じ作家の「サンチャイルド」があるが、トラやんの弟分。なぜかほっこりする。サンチャイルドは復興を願って東北に目を向ける。美術館の北側の庭には同じ作者の作品「SHIP'SCAT」があるがこれは旅の守り神。いづれもヤノベケンジの心のメッセージが優しい。地方選挙で悲しいことにサンチャイルドの撤去を公約にして立候補した輩がいたが、落選してよかった。                                           佐伯祐三展は5階。まず驚かされたのはわずか数年で描かれた作品の量と質の高さ。絵の具の重なりがすべてのものに命の存在感を見せる。命を懸けた作品群だ。一枚一枚が優しくて格別上品だ。ゴッホ展を見に来た時と同じように作者の心にふれる気がした。作品の一つに「ノートルダム」があった。この作品は高校時代美術教室の西側の壁面に飾られていた。勿論手の届く高さにはなかったが、美術の時間にはいつも見ていた。高校時代、音楽コース、書道コース、美術コースに分かれていた。私は美術コースを選択したが、このコースを選ぶ人は少なかった。少なくとも私の親しい人にはいなかった。美術の時間は2時間。初めに出欠をとり、その後はどこで何を描いても作ってもいいという授業で本当に自由でした。私は公園でもっぱら風景画ばっかり描いていた。時間の終わりには作品を先生に見せなければならなかったので、速くかくことを覚えたと思う。残念なことにその時の作品は一枚も残っていない。先生は岡島先生。一年の時の担任。手塚治虫も教えて、東京に行くと手塚治虫の家で泊まるとおっしゃっていた。1年のとき遠足代が出すことが出来ず、美術準備室におられた先生を訪れ、無料の手続きをしてもらった。いろいろなことが思い出された展覧会でした。

 

 

 

 

 


非暴力不服従

2023-05-15 16:27:40 | 世の中

選挙のたびに、世の中いい方向にと願いながら投票所に向かうが、いつも歯ぎしりばかり。選挙権が政治に自分の意思を反映させる手段と考えていたが、限界を感じている。何か打開策はないのだろうか。国民をヒツジ化して思う通りの国家にしようとする権力に対して庶民が対抗できるのは、非暴力不服従の立場を日常から貫くことではないか。まずできること、自転車のヘルメットは拒否しよう。自分の命の価値は自分で決めよう。自転車大国のオランダはじめ世界の国でヘルメットの着用を義務化している国はあるのだろうか。無い。ヘルメットをつけるかつけないかは個人に任せているのが普通でしょう。自分の命は自分のもの。余計なおせっかいだ。なぜこんなおせっかいをするのか。人々をヒツジ化する手段であり、ヒツジ化をはかるリトマス試験紙と思っているに違いない。

 


浪花千栄子の竹生庵はどこにあったか

2023-03-19 14:09:59 | 備忘録

 佐野藤右衛門の「桜守二代記)の第六章 京都の桜の10節 嵐山付近の桜の項に「浪花千栄子さんは小督塚の裏手,芒の馬場町に住んでもう二十年になられるでしょうか。彼女が経営する竹生の庭にひともとの山桜の大樹があります。天竜寺の現管長関牧翁師はこのあたりで名桜であるとほめたたえています。まさにそのとおりで、おそらく嵐山付近一帯ににある桜のうちでも最大の山桜といっていいし、樹齢も百七、八十年から二百年にもなるでしょう。幹まわりは四メートルもあり、木の高さ十五メートルに達する大山桜で、私はこの桜に”浪花桜”と命名しました。」とある。NHK連続テレビ小説『おちょやん』が放映されてからこの「浪花桜」を見るために嵐山に足を運んだ。小督塚の周辺を歩き、これぞと思う山桜を探し、写真を撮り、スケッチをしたが確信を持てなかった。同志社女子大学の吉海直人先生は(嵯峨野の「小督塚」)で「浪花千栄子が亡くなった後、竹生も廃業となり、現在ではその所在地もわからなくなってしまいました。)と書かれている。一方 (NHK朝ドラ「おちょやん」のモデルとなっている浪花千栄子さん。晩年は養女と共に料理旅館「竹生」を営んでいたが、福田美術館はその跡地となります。)という記述がある。私はその記述には違和感があった。もしそうなら浪花桜があるはずだが、そのような桜はない。そんな私の疑問に答えてくれたのが、1989年に発行された京都吉田地図株式会社の精密住宅地図であった。

地図には料理旅館浪花千栄子庵とある。隣家に竹本とあるが千栄子の自伝「水のように」の中で、深夜初めて嵐山の新居に着いた際のことを書かれている。「・・あの畑は、石がきが組まれ、しゃれた門ができ、門内の右手には、夜目にもハッキリ黒いりんかくで平屋建ての家が出来上がっているではありませんか。私たちの帰った気配を察してくださっとみえて、そこへお隣の竹本さんとおっしゃる家のご主人が、雨の中をわざわざ手燭にろうそくを立てて持って来てくださいました。」この中で述べられている竹本という家の名が確かにある。また旅館の向かいに千栄子が作った観光バス用の駐車場もある。1973年には浪花千栄子は66歳で亡くなっている。共同経営者であった養女の南口輝美さんもその後は苦労なさったことだろう。2001年発行された京都まるごとイラストマップには料理旅館浪花千栄子庵の名はなく,その地にえびす屋の名がある。えびす屋は観光人力車を全国に展開している会社だが、1992年3月に嵐山で創業とあるので、竹生庵をえびす屋が買いとったのであろう。なお1992年4月に撮られた浪花桜(竹生の桜と書かれている)の写真が紫紅社の「京の桜」に載っているが、昨年一昨年訪れたえびす屋がある場所には一本の山桜もない。移植されていればうれしいが、古木故難しいことであろう。

    

 

 

 

 

 

 

 


サンシュユ

2023-03-15 08:19:02 | 見山

久しぶりに見山へ。途中の風景が変わっていてびっくり。ダムに水が溜まってきているし、新しい信号ができているし、新鮮。見山には天ぷらの材料探し。柿の新芽はゲットできなかったが、ヨモギはいいのを採ることができた。家のベランダにはヤブカンゾウの新芽はある。娘家族と天ぷらで春を楽しもうとの目論見。見山の里ではサンシュウユを購入。花の黄色が鮮やか。この花を見ると一気に時代がもどる。昭和の空気に包まれる。唄っている元気な母の声。歌われているサンシュユは山椒というが私の頭の映像は地味な山椒の花でなく、華のあるサンシュユだ。

 

 


島ラッキョウ

2023-02-22 08:12:10 | 備忘録

一人でスーパーに行くと、春の山菜が目についた。その中に島ラッキョウがあった。鹿児島産431円。高いか安いかどんな味かも知らなかったが好奇心が勝った。箕面の森で拾ってきた朴の葉で遊ぶには格好の食材かと期待した。娘の家で朴葉味噌パーティを楽しんだが、島ラッキョウは生で味噌をつけて食べるのが一番だった。


磯島卯之助

2023-02-14 09:11:26 | 柔道

 磯島卯之助氏(以下敬称略)といってもご存知の方はほとんどいないだろう。現在ご存命なら131歳。明治44年3月大阪の北野中学を卒業。北野の卒業生中で唯一柔道専門家になった方だ。氏が北野柔道部員の先駆けの一人であったことは間違いない。一昨年たまたま手に入れた「大阪柔整六十年史」の中の「歴代会長のプロフィル」で、磯島が二代会長で、「大阪府立北野中学校に入学し勉学に励むと共に柔道部に籍を置き、衆に抜きん出た恵まれた体格を生かし選手として活躍する」と紹介されていた。氏の名前は存じ上げていたが、消息が全く分からなかったが、やっと磯島卯之助に出会うことができた感があった。

 

磯島は明治24年1月 大阪府西成郡豊崎村大字本庄で父三治郎、母サヨの二男として誕生。豊崎村は現在大阪市北区豊崎で現在は近代的な街だが、当時は田圃が広がる土地であった。豊崎尋常高等小学校に入学。明治36年に父死亡、その翌年には兄も亡くなる。明治38年北野中学校を受験。倍率約3倍の入試試験だったが合格を果たすことができた。

 北野中学は北野芝田町(現在の中津済生会病院あたり)にあり、堂島から移転のまだ新しい木造の校舎であった。家から徒歩約20分の距離。途中東海道本線の踏切があり、踏切で待たされることもあったが、田んぼや畑を見ながらの、普通ならのんびりした通学であっただろう。が早くして父を亡くし戸主となった磯島少年には心の不安を抱えての通学であったかもしれない。中学は義務教育でなく、学費もかなり高かったし、試験も難しく、中途退学の割合も今日に比べ非常に大きかった。将来への希望と少年期独特の不安。そんな不安を相談する父も兄もいない。疾風怒濤の時代を自ら切り開いていかなければならない。

 

当時北野中学には明治25年に設立された校友会組織として、文芸部、武術部、運動部の三つがあり会費制であった。磯島が文芸部に属していたのは確実で。文芸部大会で、4年の時は「成功の要素は機を見るにあり而してその機は身辺にありこれを補う事能はざるは蠢々たる穀蟲なりと」また5年の時は「偉人研究の一節」の演題でスピーチをしている。

柔道との出会いがいつだったのか。武術部ができた時の先生は土井貫太郎、安芸の真貫流柔術だった。その流れで柔術の先生として巡査が来ていたと思われる。六稜100年史に磯島が入学した当時の武術大会の試合で「敵の隙を狙って突如喉部を扼して勝ちを得たり」の記述があり、柔術が随意科目として指導されていた。初めて柔道の専門家として北野に佐藤法賢先生が赴任したのは明治40年、磯島が16才の時である。この時が磯島の柔道との初めての出会いとなったと思う。

 

佐藤法賢は明治中期、警視庁武術大会において古流柔術と講道館の試合に出場し、楊心流戸塚派の西村定助と戦っている。秘録日本柔道によると「山下、横山に次ぐ喜納師範の秘蔵っ子。海軍兵学校に初めて柔道教師として山下と共に赴任したが、やがて横山作次郎、肝付宗次と交代して帰京、警視庁の世話係をしていた。」とある。明治38年武徳会に武術教員養成所ができた。磯貝 一、永岡秀一、佐藤法賢の3名が柔道教員で佐藤は寄宿舎の舎監も兼ねていた。岡野好太郎(後に10段)は一期生10人の一人だが、佐藤を訪ねてきた西郷四郎(姿三四郎のモデル)に寄宿舎で紹介されたという。寄宿舎は左京区仁王門寂光寺内にあり、私が訪れたとき建物はなかったが、老婦人が武専に通う学生のことを語ってくれた。

佐藤法賢は、新潟県人特有の無口で誠実で親切で努力家というひととなりを喜納治五郎は認め、評価していたに違いない。北野に来たのも嘉納治五郎の紹介があってのことであろう。

 

 磯島がいつ柔道部に入ったかは不明だが、5年の時ではなかろうか。柔道に打ち込み、武徳会の稽古にも参加。そのためか落第、卒業が一年延びている。井上靖の「北の海」の主人公洪作は中学卒業後の浪人中に道場に出入りしていたが、柔道部の友人の遠山は落第している。遠山は落胆していない。あっけらかんとしている。磯島少年も柔道に出会い、自分というものに自信を持つことができたことであろう。柔道の不思議な力である。佐藤法賢は明治43年までしか北野にはいない。胃がんの手術を受け、京都から大阪へ通勤は出来なくなった。佐藤法賢の後に北野の柔道教師になったのは戸張瀧三郎。戸張瀧三郎は喜納治五郎によって4年間ヨーロッパに柔道普及のため派遣され、帰国。体調を崩した佐藤の後に北野にきている。日露戦争の旅順港閉策作戦で戦死した広瀬武夫海軍中佐が父親宛の紅白試合について書いた手紙に「岩崎、戸張ノ両氏ハ警視庁ニ出勤シ、共ニ当時日本ノ若手デハ、屈指ノ先生ナリキ」と書いている。岩崎は佐藤法賢のことである。佐藤は静、戸張は動。磯島は落第したおかげで、佐藤、戸張という喜納治五郎の高弟から指導を受けることになった。幸いかな、落第である。

 

 明治44年、北野を卒業。上京。法政大学に入学。正式名は和物法律学校法政大学。修業年限3か年。大学部と専門部は夜間の授業だったので、昼間働き、夜勉学という苦学生となった。苦学生という言葉は今は聞かないが、当時は普通に使われた言葉である。明治43年には「苦学の方法」というハウツー本さえ出版されている。「苦学生となるに最必要といへば身体の健康が第一である。・・・特に苦学生たらんとする人には必須欠くべからず資格の一つである。現時東京で行はれて居る苦学方法の大分は労働である。即ち牛乳配達、新聞配達、車夫又は行商、新聞の売子など悉く労力を要せぬものはない。・・・何故ならば苦学生たる諸君は前記の労働を為したる上に学科の復習又は翌日の下調べ等冨有の人の一日やることを短時間で為し終はらねばぬので・・・普通以上の健康体が必要である」磯島は健康には自信があっただろう。しかし実際の苦学生としての毎日はどうだったのだろう。

 

 法政大学に柔道部ができたのは大正8年。彼が在学中には柔道部はまだない。柔道とは縁のない厳しい生活を送っていた。しかし大学3年の大正3年5月17日講道館に入門。これは何を意味しているのだろう。私は彼が一番自信を持つ柔道に活路を見出そうと決心したのではないか思う。翌月の6月25日の紅白試合。即日昇段できる(抜群昇段)で初段。抜群昇段するには6人抜き(そのうち5人は1本勝ち)しなければならない。このとき柔道家として生きようと覚悟し大学を中退したのではないか。大正4年には2段、大正5年11月4日に3段。講道館に入門から3年しかかかってない。当時の3段は柔道教師として職を得ることができる段位だ。大正8年には4段に。大正10年7月23日から29日までの一週間、東京高師の道場で行われた4段以上の講習会が講道館によって行われたが、第一回の形の修得証を得たのは6人。磯島は修得証を得た。

 

 大正10年に出た武道家名鑑には柔道精錬証を磯島が大正6年に受領したとある。磯島が3段の時である。武徳会より当時全国の武道家に範士、教士、精錬証の称号が与えられている。因みに大正6年に称号が与えられたのは柔道の部は範士9名、教士52名、精錬証249名である。大正6年以前には大阪に戻っていたのであろう。大正15年5月には柔道教士になっている。そして修業の場を武徳会に。時期は定かでないが、天神橋6丁目の文武館柔道場を恩師から引き継いでいる。

 

 明治時代接骨業は禁止されていた。明治18年の内務省通達によって接骨業は新規開業が禁止され、医師以外の接骨業は取り締まりの対象となっていた。大正2年、柔道接骨術公認期成会が発足、請願運動によって大正9年に柔道整復術が公認された。大正9年10月に第一回柔道整復術試験が東京の警視庁において二日間の試験が施行され、磯島は受験。合格発表は大正10年1月15日。163名の合格者の一人になった。1月生まれの磯島にはいい誕生月であったろう。佐藤法賢は同年大阪で受験、京都の寂光寺の自宅で柔道整復師をしている。大正14年8月大阪府柔道整復師会が発足、事務所は磯島の文武館道場に置かれ、磯島は2代目会長を務めた。この年5段に。34歳。

 

 昭和になって、柔道整復師、文武館道場主さらに浪華高商(現大阪経済大学)、関西大学の柔道教師となって、柔道家として活躍の場を広げている。昭和の初めに戸張滝三郎が出版した「柔道大学」にも協力、本の中に30代後半の姿を見ることができる。この本の共著者である中西元雄は北野中学で大正9年から昭和15年まで柔道教師をしている。戸張は磯島の北野中学最終学年の先生であり、武徳会の柔道範士、柔道教士の関係であり、大阪で柔道整復師として治療院を持つ大阪柔整の仲間であった。磯島は昭和8年42歳の時に6段、昭和14年には7段になっている。

 

 昭和6年の満州事変以降日本の軍国主義は柔道界にも激変が起こる。京都の武術教員養成所の一期生で武道専門学校の教授で柔道整復師の重鎮であった稲葉太郎が講道館に反旗を翻し、昭和12年3月14日に全日本柔道会を設立。自らを名人十段、副会長の中西元雄、脇川良一を達人八段とした。柔道整復師で中学柔道教師であった中西元雄、脇川良一は稲葉に賛同行動を共にした。稲葉らは講道館の自他共栄、精力善用は時流に合わない西洋かぶれの思想と断罪。昭和12年5月6日に中の島中央公会堂において全日本柔道会の第一回大会を開催。稲葉は師の磯貝一の説得にも首肯せず、昭和12年の12月嘉納治五郎直々の説得にも応じなかった。その年12月22日には稲葉太郎、中西元雄、脇川良一の三人は講道館を破門されている。なお昭和13年3月嘉納治五郎はIOCカイロ会議に出席後、アメリカのIOC委員を表敬訪問したのち、日本に帰る途中5月6日に氷川丸船上で亡くなっている。北野にある「自他共栄」の書はこの訪米中に書かれた書である。全日本柔道会発足にあたる昭和12年から昭和14年まで磯島は大阪柔道整復師会の二度目の会長をしていた。彼は稲葉らの反講道館運動には参加しなかったと思われる。この時期の二代目講道館館長の南郷次郎と一緒の写真がある。全日本柔道会について話されたことであろう。

 

 文武館道場で多くの弟子に柔道を教え、また大阪文武会を結成、勤労奉仕に弟子とともに参加し、活躍したが、昭和19年3月9日、風邪をこじらせ肺炎になりなくなっている。磯島53歳。若すぎる死であった。大阪柔整60年史に「性格は寡黙にして責任感が強く、自己を律するに厳しく他に対しては寛容であった。肉親、門下生、患者はもとより、その交際の及ぶ限りの範囲にわたって人々から深い信頼を受け、面倒な相談ごともよく引き受けていた。」とある。

磯島氏を知る方に話を聞きたかったが、残念ながら実現していない。このブログを読んでご連絡をいただければありがたい。

 

 


蒸し器

2023-02-12 15:18:03 | 男の料理

最近蒸し器を使うことが増えた。かぼちゃ、さつまいも、サトイモ、じゃがいも、にんじん、レンコン、ほうれん草、卵を一緒に蒸す。うどんだしを主に砂糖、醤油を入れて少し濃い目のだしを作っておいて、野菜類はそこに順番に放り込む。ほうれん草、かぼちゃ、サツマイモ、にんじん、サトイモ、じゃがいも、れんこんの順番。根菜類は串で確かめが必要。卵は12,3分のあと冷水につけると大変剝きやすい。手抜き料理でかつおいしい。お試しあれ。


今城塚古墳

2022-12-30 19:06:41 | 散歩

 十数年前はお墓詣りによく通ったが、最近は通らなくなった道を娘の運転で7歳と1歳の孫二人とドライブ。目的地は高槻の今城塚古墳。私が知っている今城塚古墳は崩れんばかりで荒れていた。しかし今ではすっかり整備されきれいになっていた。孫と手を合わせてから墳丘に入ってみた。孫が足元がおぼつかない私を見て、手を差し伸べてくれる。優しい心が芽生えているのが新鮮でうれしい。


今年 別れと出発

2022-12-18 10:39:29 | 出来事

 2022年は2月のロシアのウクライナ侵攻、7月の安倍晋三銃撃事件、連続的に起こった親戚との別れ、友人との別れ、そして個人的には頑強と思っていた肉体のほころびと精神的に余裕を許されないことが次々と現れた年でした。ロシアの侵攻の悲劇は10か月過ぎてもまだ終息しない。その間、人の命は奪われ続けている。権力者の夢のために。安倍晋三も夢を見ていた。その夢が旧統一教会と同じ夢であったということを我々は知らなかった。山上容疑者がそのパンドラの箱を開けた。しかしその中身を我々は十分に知らされず、闇の部分が多い。そして岸田政権になってもまだ安倍の亡霊が力を持っている。政権交代が一番望ましいが、せめて国民に正しい情報を知らせる健全なジャーナリズムの存在がこの国にあってほしい。

 10月に一番上の姉との別れがあった。姉は私が気づいた時にはもう嫁いでいた。義兄は中国では機関銃部隊に所属。帰国後もながく戦争体験のPTSDに悩まされていた。寝たきりの義兄のお父さんとの同居で長屋も落語に出てくるような家で隣の家との間に大きな穴があり、布で仕切っていた。水道も共同であった。そんな生活でも姉は常に前向きで楽天的に生きていた。大腿骨骨折の手術も2回したが、リハビリにも積極的に取り組んでいた。記憶力も90を過ぎても衰えなかったし、気配りもすごかった。尊敬する姉であった。施設に5か月ほど入ったがコロナ禍で十分見舞いにも行けず、その間姉は急速に衰え、姉から最後に聞いた言葉は「こんなところに入ったらしまいや」という、姉らしくない言葉であった。96歳。彼女はきっと今は天国にいると確信している。

 毎週末、孫が来てくれる。彼の人生は始まったばかり。本当にキラッキラ(孫のことば)している。もう5,6年動いていなかった鉄道模型を修理した。明かりも音も鉄道も動き出した。彼は来るたびに模型の前で、体中で反応してくれる。ありがたい。