十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

磯島卯之助

2023-02-14 09:11:26 | 柔道

 磯島卯之助氏(以下敬称略)といってもご存知の方はほとんどいないだろう。現在ご存命なら131歳。明治44年3月大阪の北野中学を卒業。北野の卒業生中で唯一柔道専門家になった方だ。氏が北野柔道部員の先駆けの一人であったことは間違いない。一昨年たまたま手に入れた「大阪柔整六十年史」の中の「歴代会長のプロフィル」で、磯島が二代会長で、「大阪府立北野中学校に入学し勉学に励むと共に柔道部に籍を置き、衆に抜きん出た恵まれた体格を生かし選手として活躍する」と紹介されていた。氏の名前は存じ上げていたが、消息が全く分からなかったが、やっと磯島卯之助に出会うことができた感があった。

 

磯島は明治24年1月 大阪府西成郡豊崎村大字本庄で父三治郎、母サヨの二男として誕生。豊崎村は現在大阪市北区豊崎で現在は近代的な街だが、当時は田圃が広がる土地であった。豊崎尋常高等小学校に入学。明治36年に父死亡、その翌年には兄も亡くなる。明治38年北野中学校を受験。倍率約3倍の入試試験だったが合格を果たすことができた。

 北野中学は北野芝田町(現在の中津済生会病院あたり)にあり、堂島から移転のまだ新しい木造の校舎であった。家から徒歩約20分の距離。途中東海道本線の踏切があり、踏切で待たされることもあったが、田んぼや畑を見ながらの、普通ならのんびりした通学であっただろう。が早くして父を亡くし戸主となった磯島少年には心の不安を抱えての通学であったかもしれない。中学は義務教育でなく、学費もかなり高かったし、試験も難しく、中途退学の割合も今日に比べ非常に大きかった。将来への希望と少年期独特の不安。そんな不安を相談する父も兄もいない。疾風怒濤の時代を自ら切り開いていかなければならない。

 

当時北野中学には明治25年に設立された校友会組織として、文芸部、武術部、運動部の三つがあり会費制であった。磯島が文芸部に属していたのは確実で。文芸部大会で、4年の時は「成功の要素は機を見るにあり而してその機は身辺にありこれを補う事能はざるは蠢々たる穀蟲なりと」また5年の時は「偉人研究の一節」の演題でスピーチをしている。

柔道との出会いがいつだったのか。武術部ができた時の先生は土井貫太郎、安芸の真貫流柔術だった。その流れで柔術の先生として巡査が来ていたと思われる。六稜100年史に磯島が入学した当時の武術大会の試合で「敵の隙を狙って突如喉部を扼して勝ちを得たり」の記述があり、柔術が随意科目として指導されていた。初めて柔道の専門家として北野に佐藤法賢先生が赴任したのは明治40年、磯島が16才の時である。この時が磯島の柔道との初めての出会いとなったと思う。

 

佐藤法賢は明治中期、警視庁武術大会において古流柔術と講道館の試合に出場し、楊心流戸塚派の西村定助と戦っている。秘録日本柔道によると「山下、横山に次ぐ喜納師範の秘蔵っ子。海軍兵学校に初めて柔道教師として山下と共に赴任したが、やがて横山作次郎、肝付宗次と交代して帰京、警視庁の世話係をしていた。」とある。明治38年武徳会に武術教員養成所ができた。磯貝 一、永岡秀一、佐藤法賢の3名が柔道教員で佐藤は寄宿舎の舎監も兼ねていた。岡野好太郎(後に10段)は一期生10人の一人だが、佐藤を訪ねてきた西郷四郎(姿三四郎のモデル)に寄宿舎で紹介されたという。寄宿舎は左京区仁王門寂光寺内にあり、私が訪れたとき建物はなかったが、老婦人が武専に通う学生のことを語ってくれた。

佐藤法賢は、新潟県人特有の無口で誠実で親切で努力家というひととなりを喜納治五郎は認め、評価していたに違いない。北野に来たのも嘉納治五郎の紹介があってのことであろう。

 

 磯島がいつ柔道部に入ったかは不明だが、5年の時ではなかろうか。柔道に打ち込み、武徳会の稽古にも参加。そのためか落第、卒業が一年延びている。井上靖の「北の海」の主人公洪作は中学卒業後の浪人中に道場に出入りしていたが、柔道部の友人の遠山は落第している。遠山は落胆していない。あっけらかんとしている。磯島少年も柔道に出会い、自分というものに自信を持つことができたことであろう。柔道の不思議な力である。佐藤法賢は明治43年までしか北野にはいない。胃がんの手術を受け、京都から大阪へ通勤は出来なくなった。佐藤法賢の後に北野の柔道教師になったのは戸張瀧三郎。戸張瀧三郎は喜納治五郎によって4年間ヨーロッパに柔道普及のため派遣され、帰国。体調を崩した佐藤の後に北野にきている。日露戦争の旅順港閉策作戦で戦死した広瀬武夫海軍中佐が父親宛の紅白試合について書いた手紙に「岩崎、戸張ノ両氏ハ警視庁ニ出勤シ、共ニ当時日本ノ若手デハ、屈指ノ先生ナリキ」と書いている。岩崎は佐藤法賢のことである。佐藤は静、戸張は動。磯島は落第したおかげで、佐藤、戸張という喜納治五郎の高弟から指導を受けることになった。幸いかな、落第である。

 

 明治44年、北野を卒業。上京。法政大学に入学。正式名は和物法律学校法政大学。修業年限3か年。大学部と専門部は夜間の授業だったので、昼間働き、夜勉学という苦学生となった。苦学生という言葉は今は聞かないが、当時は普通に使われた言葉である。明治43年には「苦学の方法」というハウツー本さえ出版されている。「苦学生となるに最必要といへば身体の健康が第一である。・・・特に苦学生たらんとする人には必須欠くべからず資格の一つである。現時東京で行はれて居る苦学方法の大分は労働である。即ち牛乳配達、新聞配達、車夫又は行商、新聞の売子など悉く労力を要せぬものはない。・・・何故ならば苦学生たる諸君は前記の労働を為したる上に学科の復習又は翌日の下調べ等冨有の人の一日やることを短時間で為し終はらねばぬので・・・普通以上の健康体が必要である」磯島は健康には自信があっただろう。しかし実際の苦学生としての毎日はどうだったのだろう。

 

 法政大学に柔道部ができたのは大正8年。彼が在学中には柔道部はまだない。柔道とは縁のない厳しい生活を送っていた。しかし大学3年の大正3年5月17日講道館に入門。これは何を意味しているのだろう。私は彼が一番自信を持つ柔道に活路を見出そうと決心したのではないか思う。翌月の6月25日の紅白試合。即日昇段できる(抜群昇段)で初段。抜群昇段するには6人抜き(そのうち5人は1本勝ち)しなければならない。このとき柔道家として生きようと覚悟し大学を中退したのではないか。大正4年には2段、大正5年11月4日に3段。講道館に入門から3年しかかかってない。当時の3段は柔道教師として職を得ることができる段位だ。大正8年には4段に。大正10年7月23日から29日までの一週間、東京高師の道場で行われた4段以上の講習会が講道館によって行われたが、第一回の形の修得証を得たのは6人。磯島は修得証を得た。

 

 大正10年に出た武道家名鑑には柔道精錬証を磯島が大正6年に受領したとある。磯島が3段の時である。武徳会より当時全国の武道家に範士、教士、精錬証の称号が与えられている。因みに大正6年に称号が与えられたのは柔道の部は範士9名、教士52名、精錬証249名である。大正6年以前には大阪に戻っていたのであろう。大正15年5月には柔道教士になっている。そして修業の場を武徳会に。時期は定かでないが、天神橋6丁目の文武館柔道場を恩師から引き継いでいる。

 

 明治時代接骨業は禁止されていた。明治18年の内務省通達によって接骨業は新規開業が禁止され、医師以外の接骨業は取り締まりの対象となっていた。大正2年、柔道接骨術公認期成会が発足、請願運動によって大正9年に柔道整復術が公認された。大正9年10月に第一回柔道整復術試験が東京の警視庁において二日間の試験が施行され、磯島は受験。合格発表は大正10年1月15日。163名の合格者の一人になった。1月生まれの磯島にはいい誕生月であったろう。佐藤法賢は同年大阪で受験、京都の寂光寺の自宅で柔道整復師をしている。大正14年8月大阪府柔道整復師会が発足、事務所は磯島の文武館道場に置かれ、磯島は2代目会長を務めた。この年5段に。34歳。

 

 昭和になって、柔道整復師、文武館道場主さらに浪華高商(現大阪経済大学)、関西大学の柔道教師となって、柔道家として活躍の場を広げている。昭和の初めに戸張滝三郎が出版した「柔道大学」にも協力、本の中に30代後半の姿を見ることができる。この本の共著者である中西元雄は北野中学で大正9年から昭和15年まで柔道教師をしている。戸張は磯島の北野中学最終学年の先生であり、武徳会の柔道範士、柔道教士の関係であり、大阪で柔道整復師として治療院を持つ大阪柔整の仲間であった。磯島は昭和8年42歳の時に6段、昭和14年には7段になっている。

 

 昭和6年の満州事変以降日本の軍国主義は柔道界にも激変が起こる。京都の武術教員養成所の一期生で武道専門学校の教授で柔道整復師の重鎮であった稲葉太郎が講道館に反旗を翻し、昭和12年3月14日に全日本柔道会を設立。自らを名人十段、副会長の中西元雄、脇川良一を達人八段とした。柔道整復師で中学柔道教師であった中西元雄、脇川良一は稲葉に賛同行動を共にした。稲葉らは講道館の自他共栄、精力善用は時流に合わない西洋かぶれの思想と断罪。昭和12年5月6日に中の島中央公会堂において全日本柔道会の第一回大会を開催。稲葉は師の磯貝一の説得にも首肯せず、昭和12年の12月嘉納治五郎直々の説得にも応じなかった。その年12月22日には稲葉太郎、中西元雄、脇川良一の三人は講道館を破門されている。なお昭和13年3月嘉納治五郎はIOCカイロ会議に出席後、アメリカのIOC委員を表敬訪問したのち、日本に帰る途中5月6日に氷川丸船上で亡くなっている。北野にある「自他共栄」の書はこの訪米中に書かれた書である。全日本柔道会発足にあたる昭和12年から昭和14年まで磯島は大阪柔道整復師会の二度目の会長をしていた。彼は稲葉らの反講道館運動には参加しなかったと思われる。この時期の二代目講道館館長の南郷次郎と一緒の写真がある。全日本柔道会について話されたことであろう。

 

 文武館道場で多くの弟子に柔道を教え、また大阪文武会を結成、勤労奉仕に弟子とともに参加し、活躍したが、昭和19年3月9日、風邪をこじらせ肺炎になりなくなっている。磯島53歳。若すぎる死であった。大阪柔整60年史に「性格は寡黙にして責任感が強く、自己を律するに厳しく他に対しては寛容であった。肉親、門下生、患者はもとより、その交際の及ぶ限りの範囲にわたって人々から深い信頼を受け、面倒な相談ごともよく引き受けていた。」とある。

磯島氏を知る方に話を聞きたかったが、残念ながら実現していない。このブログを読んでご連絡をいただければありがたい。

 

 

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