十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

ヒヨドリ

2020-11-17 18:01:52 | 野鳥

 干し柿を作るようになって、10年以上になる。妻とカラスも食べに来ないなあと話し合った翌朝、柿3個が何者かによって、ついばまれていた。早速ポリ袋で応急処置をして、アマゾンでネットを購入。犯人さがしで耳を澄ましていると鳥の声。向かいの木のてっぺんにヒヨドリ。以前熟柿をベランダにおいたことがあったが、その時もヒヨドリがきた。その時は被写体になってくれてありがたがったが、この干し柿は上げることはできない。姉たち、娘たちと行き先が決まっているので今回はご容赦下さいねといいたい。今朝も6時過ぎに2羽のヒヨドリが偵察にきていた。

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福留晴久先生

2020-11-10 09:45:47 | 人生

 この時期喪中はがきが届く。親戚、友人、知人からと今年、遠くに逝ってしまった人の家族から知らせがくる。そんな中に先日我が恩師福留晴久先生の奥様からの一枚があった。当時は大阪市東淀川区十三南之町といった場所に新北野中学があった。私が入学した学年の生徒数は871名。クラスは16組あり、一クラス55名か54名のマンモス校であった。隣に北野高校があり、越境の生徒も多かった。兵庫県からの通学する生徒も一クラスに7,8名いた。一学期はプレハブ住宅の教室、天井も低く、夏は暑かった。当時のクラブは現在の中学校に比べ、多彩で多い。新聞部、科学部、文芸部、演劇部、家庭部、郷土研究部、弁論部、英語部、ペンパル部、音楽部、書道部、絵画部、卓球部、ハンドボール部、テニス部、登山部、体操部、陸上競技部、野球部、バレー部、ハンドボール部、バスケットボール部、剣道部、柔道部。私は柔道部に入った。入部したのは数十名だったが、その基礎練習のきつさに一週間で7-8人にまでになっていた。道場はなく、畳を校庭に敷き稽古。文字通り青空道場。月・水・金のクラブ活動で、そのほかの日はそれぞれ警察や町道場に稽古に行っていた。私は小学5年から十三橋警察署(現淀川警察)に通っていたので、学校のクラブがない日は警察に通った。当時は一階に道場があり、中学生、高校生、社会人、警察官と道場は活気があった。師範の中に小柄ではあるが古武士のような風格の福留吉久先生がおられた。技も多彩で、声も豪快。私は大内刈りと体落を教えていただいた。福留吉久先生は吉松義彦を輩出した柔道の名門校鹿児島商業出身で大阪を代表する柔道家であった。後に高校時代の師範の小川敬一先生とご親友であったことを知った。中学で柔道を指導していただいたのは福留晴久先生。先生が吉久先生の弟さんであることを知ったのはいつだったのだろうか。先生は180㎝を超える背の高い人で、お兄さんとは体格の違いは大きかったので、最初はご兄弟だと想像できなかった。岩井先輩の家が居酒屋で、ご兄弟で飲みに来られる話を聞いて知ったのかもしれない。先生は昭和28年11月15日大阪府立体育館で行われた第五回全日本学生柔道選手権に80名の選抜の一人として出場されていたが、体育の先生ではなく、英語を教えられていた。私は先生の授業を受けたことはなかった。学校の悪ガキたちも先生の前ではチジミあがっていたが、私はこわいと思ったことはない。柔道の稽古は私たち中学生相手には足払いで、ほとんど膝車であったろうか。先生が来られない日は生徒同士で乱取りばかりしていた記憶がある。当時私の家は経済的にも精神的にもぎりぎりの状態で、電気、水道が、止められることもあった。そのため近くの牛乳販売店で牛乳配達するようになった。朝4時前後に起き、帰宅は7時過ぎてからの毎日。日曜日もなく休みは一月一日だけであった記憶がある。朝食をかっこみ登校した。朝の朝礼の時、委員長はクラスの列の先頭に立たなければならなかった。先頭にいた私は急に睡魔に襲われることもしばしばであった。もちろん授業中も眠気とのたたかいであった。2学期になると成績も最低で担任の先生に委員長をやめさせられた。成績は悪く、授業中居眠りする委員長なんてクラスの示しがつかないと思われたのであろう。至極当然のことであったろう。私にとって救いになったのはクラブであり柔道であった。柔道着に袖を通すと、アルバイトの疲れ、貧しさ、成績のこともすっかりわすれることができた。クラブの雰囲気は福留先生の指導方針であったろうが、先輩後輩の関係も上下関係でなく、お互いを認め合う温かい関係であったと思う。公式戦は大阪城近くの馬場町にあったニュージャパン柔道場であった。当時大阪の柔道のメッカといえる大道場で、試合と言えばこの道場での記憶でしかない。梅田からは市電に乗ったが、部員は座ることなく立っていた。電車のゆれでぐらつくと、何のために柔道をやっているんだといわれていたのが印象に残っている。中学時代の写真は少ないのだが、そのほとんどを先生に撮って頂いたもので、先生との写真が卒業写真以外ないのが残念でしかたない。中学時代をまっとうに生きていけたのは先生の存在が大きい。その意味で今考えると晴久先生は私にとって真の恩師であった。練習が終わると日誌を書き、先生の所へ持っていくといつも温かい声をかけていただいた。小さなことでもほめていただいた。どれだけ励みになったかありがたいとしか言いようがない。そして先生の明るい声が今も耳に残っている。卒業の際先生の推薦で大阪市から特別賞をもらったが、先生のおかげである。享年91歳。ありがとうございました。

 

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干し柿

2020-11-08 16:27:48 | 趣味

ここ3年長野県の渋柿を注文している。ひら種無し柿20㎏。サービスもしてくれている。いつも感心するのだが梱包がとても丁寧で、柿を傷つけないような配慮がうかがえ、お人柄がしのばれる。朝から妻と二人で3時間ほどかかったが全部干すことができた。160個。後は晴天が続くことを願う。

 三千の俳句を閲し柿二つ 子規

 

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2020-11-03 09:34:21 | 人生

人は毎日毎日眠りにつく。明日目覚めがないと想像すると安心して眠りにつけないが、でも眠りに引き込まれる。そして深い眠りのなかで、夢のなかで別の世界を彷徨する。眠りは死への準備と言えるかもしれない。先日義兄が息を引き取った。朝風呂に入ってそのまま帰らぬ人になった。愛知県の中学を卒業後東芝に入社、茨木工場で洗濯機の生産に携わり、その後新制中学出身として初めて課長になり、また韓国、タイにも技術指導にも行ったりと活躍、また登山、スキーと余暇を十分楽しまれた。姉との結婚の際、酒を飲まれなかったが、徐々に飲まれるようになり、ご一緒すること多かったが楽しい酒であった。子供が大好きでまた子供たちも非常に慕っていた。私の娘たちも本当によく遊んでもらった。優しいひとであった。死の翌日お会いしたが本当に眠っているようお顔で、声をかけると、起きてくるんじゃあないかと思われるようすであった。多分義兄本人の魂は深い深いねむりの中で遠近古い古い記憶の中を楽しく飛び回っていたに違いない。火葬場は八幡山の山城が近くにみえた。昔この山に登ったと姪が語っていたが、義兄にふさわしいいい場所で最後の別れになった。さようなら。またお会いしましょう。

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