十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

大晦日

2005-12-31 21:04:47 | 散歩
正月を迎えての私の仕事は、迎春用の花をいけることと百貨店への買い物。昼過ぎに家をでる。リュックを背に電車に乗る。解けない数学の問題を考えているうちに眠ってしまう。日本橋に着く。黒門市場は人人の群れ。去年一昨年は河豚を買ったが今年はすじ肉だけを買う。正月用の土手焼き用。何時も飲み屋で頼むがあまり気に入ったものに出会わないのでそれじゃあ自分でということで昨年はじめて黒門で買ったすじ肉で作ったのがなかなか好評だったので今年も再度挑戦。黒門を後にして千日前から心斎橋に向かう。千日前は妖しい雰囲気があたりに漂う。年末というのにけだるさが満ち人の歩く姿もけだるい。戎橋を渡ると右手が宗右衛門町。この町に働く甥に急に会いたくなる。私の兄の長男。兄が生きていればどんなに誇りにしただろう。会社を訪れると幸運にもいて、一緒に太左衛門橋を渡り二人で喫茶店を探すがなかなか見つからず地下街の店に入る。久しぶりに会ったがそんな気がしない。兄のせいでお互い苗字は変わったが深いところでつながっている気がする。彼と別れ心斎橋筋にでる。お茶の匂いで昔の心斎橋が蘇る。そごうのたねやで和菓子とあんぱんを買う。店員さんの完売ですーという声でこちらまでハッピーな気分。地下鉄で梅田へ。阪急百貨店と阪神百貨店で正月用の焼肉を買うが人の群れに圧倒され早々に出る。半額になったユリの花を見つけ、購入。家に着いたのは五時過ぎ。これから土手焼きに挑戦だ。
  
 

年末

2005-12-30 19:04:27 | 思い出
 私の中学生の年末は賃搗屋(ちんつきや)のアルバイト。中学二年の秋に一度過労という病院の診断で牛乳配達をやめていた。朝は牛乳配達、放課後は柔道の稽古、そのあと牛乳会社で瓶詰めのバイト、その後警察署で柔道。ちょっと無理をしていた。家計は苦しかった。急場を凌ぐには丁度いい仕事だった。当時、年末ちんつきやは年の瀬を迎えると一年の稼ぎ時だった。もち米を店に持って行きちんつきやで搗(つ)いてもらうのが一般的であった。今のように餅を買うという習慣は無かった。私の仕事は夜明け前に家を出てかまどの火をつけ、お湯をわかすのが最初の仕事で、そのあとはもち米をとぎ蒸籠(せいろ)に入れ、かまどまで運び、餅がつきあがると配達、最後の仕事はかまどの火を消すこと。長い一日だったが配達は楽しかった。宗教施設に正月用のお鏡を届けるとお祝儀をいただけることもあったし、店から外に出て気を紛らすことができるのが最大の喜びだった。一週間という短い期間だったのでしんどいという記憶は今は全然無い。大晦日仕事を終え、手についた餅や粉で白くなった体を洗いに行った銭湯での解放感が強く蘇る。

リース

2005-12-21 13:51:28 | 散歩
 6年の子供たちと金曜日クリスマスのリースを作る約束をした。久しぶりだ。時にこういう約束もうれしいものだ。
 朝飯前の早朝家を出る。冷たい空気が肌に快い。天王春日神社に向かう。中央環状によって参道が分断され一の鳥居は道路の反対側にあるこの神社は無人なのによく手入れが行き届いている。1700㎡の境内は黒松が多いがすっかり冬支度の藁が巻かれている。クリスマスの用意の松ボックリを拾いに来たが、神社には少し気がひけるが、わが日本の神々はおおらか。許してくれるだろう。紙袋に松ボックリを拾いいれ、蔓を捜しに竹やぶに向かうが整地されて竹は一本もない。神社の隣の土手に出てみると木に巻きつく蔓を発見。足場は悪かったが蔓と綱引きの末必要量を入手。その場で輪状にした。帰りため池に赤い実をたわわに付けたくろがねもちを二本見つけた。万博の自然文化園にもあるがこの木の方が大きく見事だ。

玉子焼き

2005-12-20 10:45:19 | 男の料理
子供の頃の玉子焼きといえばおいしくないものと思っていた。小麦粉たっぷりで玉子少々といったもので今でいえばお好みの焼きの無味の生地。
 私は小さい頃二階の物干し台で遠くを眺めるのが好きだった。小学校に上がる前いつもの通り物干し台にのぼり横木にもたれていた時急に木がはずれ私は一階に落ちていった。幸いに落ちたところが土の上。泣いていたところ母がくれたのがお好み焼き。でもまずかった。
 そういう経験が為せるわざか、最近玉子焼きに凝っている。
玉子焼き1
 1 卵3個 木綿豆腐 濃縮つゆ ケチャップ 砂糖 酢
   片栗粉 きのこ ねぎ
 2 卵と木綿豆腐をミキサーで数秒混ぜる
 3 玉子焼きを焼く
 4 濃縮つゆを水にとき、ケチャップ 砂糖 きのこ 酢をいれ沸騰したら片栗   粉でとろみをつける。
 5 玉子焼きにたれをたっぷりかけ熱いうちに食べる。

玉子焼き2
 1 卵 絹ごし豆腐
 2 ミキサーで混ぜる
 3 焼く
 4 ショウガ醤油で食べる

以上二点我が家では孫も含めなかなかの好評。おためしあれ。


 

夙川カトリック教会

2005-12-15 08:44:05 | 思い出
 もう30年が経つ。夙川カトリック教会にテレマン室内管弦楽団の演奏を聴きにいった。延原武春の指揮でバッハのオラトリオであった。当時は気がつかなかったが私の両親はこの教会で式を挙げた。阪神間唯一のカトリック教会として1921年に発足、1923年に現在地に仮聖堂建立。1932年に聖堂が完成している。両親の挙式は1925年なので仮聖堂で行われた。父は指輪を用意できず神父さんのを借りたと聞いたが、父もあわてたことだろう。神父さんからお祝いに沢山のものを頂いたそうだが今はない。初代神父はS.ブスケ。どんな方だったのだろうか。

12月

2005-12-13 11:28:04 | 思い出
 毎年この時期になると母のことが思い出される。クリスマスは苦しますといって笑ってこの年末を切り抜けていた。母の名前はミサ。祖母がカトリックの信者であった。祖父は郵便局に勤務していたが母が生まれてすぐに亡くなった。奄美大島にフェリエ神父が初めて来たのは明治24年の12月31日。検事の岡禎良を中心とする名瀬の指導者達の要請に答えたのであった。それは薩摩藩圧制時代のしがらみを絶つための手段であった。そのため旧来の宗教でなく対抗できる宗教としてキリスト教を選択したのであろう。フェリエ神父の布教に二日間で信者数は500人を超えた。その中に曾祖母と祖母がいたのであろう。その後大正9年には信者数は4千人近くなった。当時日本全国のカトリック信者数が9万人からするとその数に驚かされる。
 祖母は再婚し、一人残された母は曾祖母に育てられた。洗礼も受けた。その後 母は島を離れ西宮の今津の薬局に女中奉公に出た。薬局の一家もカトリック信者であった。教会の紹介であったろう。母は人柄のいい薬局のご夫婦をなつかしく語っていた。私達両親が結婚式をカトリック教会であげ、その後見人をしてくれたのもこのご夫婦であった。

欲望

2005-12-06 08:50:30 | 世の中
 最近の事件をみると、この日本が危機的状況にあると言わざるをえない。相次ぐ幼い命への攻撃、ただ憤りだけでは済ますことができない奥深い底の広い問題だ。人間はもともと動物であり、その欲望を解き放つともう収拾が取れなくなる。その欲望を上手に手なずけるのが、宗教であり、倫理観であり社会規範としての法律である。しかし今の日本ではその機能を果たすものがひとつひとつ崩れていっている。心の歯止めがはずれ怒涛のように欲望がむき出しになっている。世の中の欲望の情報だけの肥大した奇怪な脳はそのはけ口を探してこの日本を席巻しているのが現状ではないか。
 自分の国家観を国民におしつけようとする政治家、止めどもない金銭的欲望をむき出しにする村上ファンド、自分の組織の拡大のためにはなんでもありの似非宗教団体、視聴率のためにはどんなことでもするテレビ業界、儲かればいいと何にでも手を出す金融業界、人の命など屁とも思わない建築業界。一度みな立ち止まってじっと見てみようではないか。自分たちがどんな船に乗っているかを。

カラオケ

2005-12-03 09:14:33 | 思い出
50年ぶりの同窓会があり先生含め12名。小学校卒業以来初めて参加した人もいたが、小学校の写真の顔と現在の顔がどうしても一致しない人がいた。少しでも面影が残っているものだが、不思議な感覚だった。色々な同窓会に参加して初めての経験だった。一次会の後カラオケに行ったが、どうも苦手だ。歌自体は嫌いじゃあないが、人の歌を聞くのはどうも苦手で、早々に退散。
 最近忙しく紅葉を楽しむ余裕もなかった。妻は同僚と京都の秋を楽しんだようだが私は近くの秋を探しに出た。もう桜は葉を落とし、柿の実も少なくなった葉の中で目立つようになった。ツワブキの黄色い花。名残のコスモス。一面のどんぐり。市役所の前の栃の木の下は大きな葉の絨毯。その上を歩くと乾いた栃の葉っぱの音が心地よい。