十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

おばあちゃん

2021-10-19 10:43:08 | 俳画

 私はおばあちゃん子で彼女にはいい思い出しかない。祖母は明治8年(1875)に徳之島の母間で生まれた。名前はまんだる。戸籍をみると”まん朶る”とある。公文書では濁音は漢字で書くことになっていたようでで、”だ”に”朶”をあてはめたようだ。幼い頃少し変な名前と思っていたが、徳之島の主産業の砂糖は樽で取引されたので、今考えると”万樽”という意味合いでお金に困らないように願いを込めて安政生まれの曽祖父がつけたのではないだろうか。今も残る祖母の写真を見るとハンカチで手の甲を隠している。祖母の手の甲には刺青があり、恥ずかしかったのだろうか。しかし祖母が若いころ徳之島では女子として生まれた者は刺青をしなければ女子としての分限を失い、死んでも逝くべきところに逝けないという琉球から伝わった言い伝えがあり、刺青は14,5歳の女子のあこがれであったという。自分で彫ったと言っていた。明治37年(1904) 6歳年下の祖父と結婚。その年私の父も誕生。その頃の徳之島の農業の中心は製糖だったので、サトウキビを作っていたに違いない。3年後には父の弟も誕生するのだが、そんな中、祖父は利き腕をハブにかまれてしまった。当時は血清もなく、腕を切り落とすことしか生きる道はなかった。そして不幸なことに祖母も鶏小屋で脚をハブに噛まれ、太ももを大きくえぐり取って生き延びた。片手がなければ農業はできるはずもなく、島での生活はあきらめざるを得なかったに違いない。二人は子供を連れて名瀬に移住。そこでどんな生活をしていたのだろうか。祖母43歳の時に三男を生んでいる。その時私の父は14,5歳。働きに出ていたかもしれない。私の家に一隻の船の写真がある。白川丸と写真の裏に書いてあったが、家族の写真ばかりの中の一枚で、謎の一枚だった。ところが徳之島町誌をぱらぱらめくっていると、その船名を見つけた。海に囲まれた奄美諸島の開運を担った大正期の船をあげた中に、大阪商船の白川丸の名があった。父は少年時代船員をしていたと聞いていたが、この船の機関室で働いていたのではないのだろうか。祖父のことは片腕で海に潜って魚を器用に捕っていたということは、かすかに祖父を知るだれかから聞いた覚えがあるが。祖母がどのように生きていたのか全く分からない。ただ片腕の夫と子供3人との生活はたいへん苦しいものだったろうなということは想像できる。父は私が小学5年で亡くなっているので、父からは何も聞いていない。生前もっと聞いておくべきだった。姉たちに聞けばいいのだが、その姉たちの記憶も薄くなっている。日中戦争がはじまる前には祖父母と三男の叔父は大阪に来ている。北方貨物線沿いの家で、長楽寺の農地の小作もしていたのではないだろうか。昭和14年祖父が亡くなった後、この家に私の家族が引っ越している。昭和16年同居中の叔父が亡くなって2年後私が生まれている。昭和20年3月大阪大空襲があり北方貨物線沿いの家は焼失、十三に引っ越し。戦後の食糧難の数年、寺の土地をそのまま借りて農業をしていた。畑や田んぼを耕作していたのを私もかすかに覚えている。田植え、作業小屋、父は工員として働いていたので、祖母が中心になって、農地の世話をしていたのではないだろうか。家に唐箕や石臼もあったし、石臼を使う祖母の姿も。小学校に行くようになって、祖母は常に家にいた。見てきた紙芝居の話をすると、「はごけー」と恐ろしがっていた。祖母があまり外へ出なかったのは方言しか使わなかったからかもしれない。しかし私は話すことはできなかったが、彼女の方言はよくその意味を分かっていた。祖母が私の家から叔父の家に行ったのは昭和28年。父が朝鮮戦争後の不況で会社を解雇され、さらに癌が見つかったためである。昭和44年叔父の家で祖母は老衰で息をひきとった。おばあちゃんが叔父の家から持ってきたのが俳画のヤブランである。

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