十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

嵐山 浪花桜

2022-04-09 05:09:14 | 俳画

嵐山でスケッチ。樹齢200年を超す山桜。観光客で立ち止まる人はいない。

    

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大門寺 

2021-12-01 10:33:13 | 俳画

 大門寺は大改装中。山門もこの前まであった姿はない。以前撮った写真をもとに俳画にしてみた。この寺には木村常陸介の経帷子、刀、槍が残されているというがまだ見たことがない。秀吉、秀次に仕え、武人として戦い、また茶道にも長けた彼は、主の秀次の失脚の後、連座。この寺で切腹、最期を終えた。山門をくぐるとき、彼は何を考えたのだろう。長男も死罪の上梟首、娘も磔刑。彼の無念さを思うと、教科書では教えない独裁者秀吉の無慈悲さに強く憤りを覚える。

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思い出

2021-11-17 11:15:09 | 俳画

 私には二人の娘がいる。上の娘は子が4人。下の娘は子が2人。私は6人の孫のおじいちゃん。娘たちが幼かったころ、地上げ屋が突然家にやってきた。目つきの悪い、新しい家主という輩の訪問。家賃の値上げを認めるか、家を出るかの選択を迫ってきた。新聞では彼らの存在は知っていたがいよいよこの5軒長屋にも来たかと思った。借地借家法が家主に有利に改正され、外堀は埋められていた。私たち5軒は団結して交渉することにした。一軒でも脱落するとその家に犬を放ち嫌がらせをし、立ち退くように仕向けるなど彼らは悪辣だった。交渉は数ヶ月続き、すったもんだの末、ある程度の条件で私達は立ち退きを受け入れた。私達は茨木に引っ越した。水田が広がり、近くには神社があった。子供たちと犬のピンキーとの散歩は日課となった。用水路が張り巡らされ、冬は厚い氷が張り、その上に恐る恐る乗ってみたり、春にはドジョウやフナを取ったり、夏には神社に咲くハスを真上から見てその美しさに感動した。一緒に虹を追いかけたこともあった。秋稲刈りが終わり、私が「杮くえば鐘が鳴るなり法隆寺」というと娘たちは「柿食えば鐘がなるなる法隆寺」鳴るなりとと言えず、なるなるというのだった。

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おばあちゃん

2021-10-19 10:43:08 | 俳画

 私はおばあちゃん子で彼女にはいい思い出しかない。祖母は明治8年(1875)に徳之島の母間で生まれた。名前はまんだる。戸籍をみると”まん朶る”とある。公文書では濁音は漢字で書くことになっていたようでで、”だ”に”朶”をあてはめたようだ。幼い頃少し変な名前と思っていたが、徳之島の主産業の砂糖は樽で取引されたので、今考えると”万樽”という意味合いでお金に困らないように願いを込めて安政生まれの曽祖父がつけたのではないだろうか。今も残る祖母の写真を見るとハンカチで手の甲を隠している。祖母の手の甲には刺青があり、恥ずかしかったのだろうか。しかし祖母が若いころ徳之島では女子として生まれた者は刺青をしなければ女子としての分限を失い、死んでも逝くべきところに逝けないという琉球から伝わった言い伝えがあり、刺青は14,5歳の女子のあこがれであったという。自分で彫ったと言っていた。明治37年(1904) 6歳年下の祖父と結婚。その年私の父も誕生。その頃の徳之島の農業の中心は製糖だったので、サトウキビを作っていたに違いない。3年後には父の弟も誕生するのだが、そんな中、祖父は利き腕をハブにかまれてしまった。当時は血清もなく、腕を切り落とすことしか生きる道はなかった。そして不幸なことに祖母も鶏小屋で脚をハブに噛まれ、太ももを大きくえぐり取って生き延びた。片手がなければ農業はできるはずもなく、島での生活はあきらめざるを得なかったに違いない。二人は子供を連れて名瀬に移住。そこでどんな生活をしていたのだろうか。祖母43歳の時に三男を生んでいる。その時私の父は14,5歳。働きに出ていたかもしれない。私の家に一隻の船の写真がある。白川丸と写真の裏に書いてあったが、家族の写真ばかりの中の一枚で、謎の一枚だった。ところが徳之島町誌をぱらぱらめくっていると、その船名を見つけた。海に囲まれた奄美諸島の開運を担った大正期の船をあげた中に、大阪商船の白川丸の名があった。父は少年時代船員をしていたと聞いていたが、この船の機関室で働いていたのではないのだろうか。祖父のことは片腕で海に潜って魚を器用に捕っていたということは、かすかに祖父を知るだれかから聞いた覚えがあるが。祖母がどのように生きていたのか全く分からない。ただ片腕の夫と子供3人との生活はたいへん苦しいものだったろうなということは想像できる。父は私が小学5年で亡くなっているので、父からは何も聞いていない。生前もっと聞いておくべきだった。姉たちに聞けばいいのだが、その姉たちの記憶も薄くなっている。日中戦争がはじまる前には祖父母と三男の叔父は大阪に来ている。北方貨物線沿いの家で、長楽寺の農地の小作もしていたのではないだろうか。昭和14年祖父が亡くなった後、この家に私の家族が引っ越している。昭和16年同居中の叔父が亡くなって2年後私が生まれている。昭和20年3月大阪大空襲があり北方貨物線沿いの家は焼失、十三に引っ越し。戦後の食糧難の数年、寺の土地をそのまま借りて農業をしていた。畑や田んぼを耕作していたのを私もかすかに覚えている。田植え、作業小屋、父は工員として働いていたので、祖母が中心になって、農地の世話をしていたのではないだろうか。家に唐箕や石臼もあったし、石臼を使う祖母の姿も。小学校に行くようになって、祖母は常に家にいた。見てきた紙芝居の話をすると、「はごけー」と恐ろしがっていた。祖母があまり外へ出なかったのは方言しか使わなかったからかもしれない。しかし私は話すことはできなかったが、彼女の方言はよくその意味を分かっていた。祖母が私の家から叔父の家に行ったのは昭和28年。父が朝鮮戦争後の不況で会社を解雇され、さらに癌が見つかったためである。昭和44年叔父の家で祖母は老衰で息をひきとった。おばあちゃんが叔父の家から持ってきたのが俳画のヤブランである。

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百合

2021-07-02 15:48:51 | 俳画

十三にはキリスト系の教会が三つある。バプテスト派のミードの教会、日本聖公会の博愛社にある教会、駅の東にはカトリックの教会。この中で一番親近感を覚えたのはミードの教会。アメリカによる映画の上映会があり、確かコーモリの記録映画でコーモリの特殊な能力に感心した遠い記憶が残っている。小学校の時は写生会と言えば十三公園で、尖塔のある木造の教会はいい題材で何度も描いた。学生時代内村鑑三、トルストイの本を読んでその影響で何度か日曜日に足を運んだことがある。聖書の言葉には感銘を受けるのだが、教会に集まる人々とは違和感があり、教会に行かなくなった。しかしキリストの貧しいものに対する深い優しさは今も感銘を受けている。ヨハネによる福音書の「罪のないものだけが石を投げよ」マタイによる福音書「野の百合、空の鳥を見なさい」、「明日のことは明日煩え、一日の労苦は一日にて足れり」今でも折々生きた言葉として出てくる。

 

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