十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

日本民家集落博物館

2018-03-28 16:51:08 | 散歩

久しぶりに服部公園を訪れた。子どもの頃友人と三国で神崎川を渡り、神崎川に繋がる天竺川沿いに自転車で公園までよく走った。バイトの牛乳配達用の頑丈な自転車で、サイクリングとはほど遠かったが、川で遊んだり楽しかった記憶がある。南方で地下鉄に乗換、緑地公園駅で下車。駅から公園へ向かう人が多いのでびっくり。家族連れでバーベキューをする人、犬の散歩をする人。万博公園と雰囲気が全く違う。民家集落に入ると、先ほどまで喧騒とは全く違う景色となり、人も少ない。古民家に菜の花が映える。宮崎県から移築された椎葉の茅葺の民家。堂々とした木組みに圧倒される。昔の人々が持っていた能力に驚かされる。昔の生徒に椎葉兄弟がいたが彼らはこの村に関係あるのだろうか。部屋の中から外を見ると緑が鮮やかだ。昔の人も家の中から外を見たとき自然の移ろいを、私たちより強く感じたに違いない。ミツマタの花も満開であった。

 

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中上正男先生

2018-03-19 10:05:31 | 柔道

 中上正男八段が急逝。享年92歳。先生と初めてお会いして半世紀を超える。私の中学時代の柔道部の恩師福留晴久先生を介してのことでした。人間味のある非常に魅力的な方でした。誠実で面倒見がよく、常に前向きでエネルギッシュでお会いするといつもパワーをいただいていました。 先生は岡山県日生の尋常高等小学校卒業後、一時煉瓦工場に勤められました。海岸沿いにある工場まで先生のお母さんが弁当を届けにきたことを懐かしく話されたことを思い出します。その後山口県にある海軍防府通信学校に入学、首席で卒業。終戦後大阪府警に巡査として採用され、最初の勤務地は水上署。その後機動隊に移られ、アメリカンフットボールのフルバックとして活躍。アメリカ軍との交流試合で大怪我をし長期入院も経験。また相撲は最も得意で府警の横綱にもなられました。柔道は府警に勤務後はじめられたが、後に茨木署に師範として派遣されている。先生が柔道で一番影響を受けたのは熊川敏彦師範。旧制市岡中学卒業の非常に小柄な先生でした。多彩な技で大柄な警察官を翻弄する本物の柔道家と中上先生は熊川師範を評され、熊川親分ともいわれて慕っておられました。熊川先生のお墓は名張にありますが、先生は墓参りを欠かされることはありませんでした。茨木署師範時代交番で暴れる空手家を少々荒っぽく制圧。ところがその男が議員の息子であったことで問題が大きくなり、先生が警察を辞めることで収拾がはかられた。困っている先生を助けたのは当時府警の師範であった浜野正平先生でした。大阪製鋼の舎監並びに柔道部師範になられ、その後大阪行岡整骨で整骨医の資格をとられ、三国の神原整骨院で修行の後、十三で開業。茨木署師範時代府立島上高校の柔道部の指導もされていました。北野高校の柔道部を指導していただくようになったのは昭和51年頃のことです。体育館が燃え道場のない柔道部でした。校庭に畳をひき稽古することもありました。また床が斜めになった講堂に畳を敷くこともありました。そして先生のお陰で十三警察の道場を借りることもありました。先生の差し入れでおにぎりというのもよくありました。夏グランドの上の畳が異常に熱くなり、先生がバケツで水を撒いていた姿も思い出されます。指導は的確で生徒にあった技を懇切丁寧に教えられ、そして生徒にいつも温かい声をかけられました。先生が来るとなぜか畳の上は活気ずくのでした。先生のお人柄が空気を作るということでしょう。昇段すると黒帯まで部員のために用意していただきました。三年間で初段になれず、名前入りの黒帯が先生の手元に残った子もいましたが、彼も京大の医学部に進み、現在は病院長になっている。若者にとって青春の一時期どのような大人に出会うかは非常に大切なことです。北野の柔道部員にとって中上先生に出会ったことは大変幸せなことだったと思う。                                       先生は昼休みには診療所の近くの堤防をよく走られていたし、休みの日には箕面の道場で汗を流されたりと、常に修行をされていた。毎年全日本選手権前日に講道館で行われる高段者大会にも参加されていました。私は一度大阪のニュージャパンの道場での高段者大会を見に行ったことがある。見事大内刈で一本。奥様と娘さんも応援に来られていて大きく拍手されていたことをよく覚えている。世界マスターズで金メダルも取られた。90近くになっても高校生と乱取りをされていましたが、到底まねの出来ない凄さでした。今は亡き松江 隆七段が「中上先生は怪物やで」とおっしゃっていましたがまさしくその通りの人物でした。剣舞も嗜われていた。黒田節を演じられたのを一度見たことがあるが、姿形メリハリがきいた見事なものでした。先生がよく口にされていた「天勾践を空しゅうする莫れ。時に范蠡無きにしも非ず」は児島高徳の詩。隠岐の島に流されていた後醍醐天皇を救い出そうとしたが果たさず、桜の幹を削ってそこに筆で「 天莫空勾践 時非無范蠡」と書いて他日必ずお救いに参りますと約束した。浅学にして私は知らなかったが児島高徳は備前の武士。誠にしてして華のある武人。先生の目標とする人間像だったかもしれない。

 散る桜残る桜も散る桜 良寛

 

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笹部新太郎

2018-03-06 17:19:47 | 趣味

 「亦楽山荘の山桜 現在は枝が切られこの姿ではない」

水上勉の「櫻守」のモデルの笹部慎太郎。彼は御母衣ダム湖の底に消えようとしていた樹齢400年を超える光輪寺と照蓮寺の境内の2本のアズマヒガンを 電源開発の高碕達之助の依頼で移植をした。現在は荘川桜として親しまれ命の大切さを伝えている。38tと42tの巨樹の移植に40日もかかる大仕事だった。ただ活着するまでは地元の人の対応は冷たいもので、笹部の言葉によれば「私の受け取ったものは、ただ、沈黙と嘲罵の二つだけであった。」移植は昭和35年の冬、そして昭和37年の春には枝も花もつけるようになり、地元の人たちは「老若を分かたず、申し合わせたように誰も彼もみな、この僅か生き残った二株の桜の幹を手で撫でて声をあげて泣いていた。」とある。ほっとしたことだろう。佐野藤右衛門は「桜花抄」の中で笹部のことを書いている。「笹部さんは日本の桜界において、名実ともに第一人者であり、全国に残る名桜とは切り離せない存在として知られている。さらにみずから育成栽培を手掛けて、その道でも有数な名家というべき人である。しかも変転ただならぬ時代に処し、ご自分の信念に行き、筆に口に亡びゆく名桜、巨桜のために挽歌を口ずさみながら、じつはその貴重な生命ととり組んで睪生の力をサクラのためにふりしぼる。しかも名利に超然として、ただ一筋に八十余年の生涯をサクラとともに生きてきた、まことに稀少な存在というべき人である。」現在の桜守佐野藤右衛門の父の言である。笹部は個性と品のない桜を嫌った。笹部がいう優秀な桜とは1 苗木の成長の速いこと2 風説などの天災に耐え得ることこ 3 喬木巨木となる可能性のあること 4 花季のおくれぬこと5 花に気品のあること 6 嫩葉の色、葉の形のよきこと を挙げている。日本全国に気品の劣るソメイヨシノで覆われるのに我慢が出来なかった。私の住む町でも桜まつりが毎年あるが、ソメイヨシノの開花時期にあわせている。そしてそのことを不思議とも思わない人が大多数になっている。ソメイヨシノを桜といい、山桜も里桜も区別がつかない。これは笹部が危惧した日本人の感性の豊かさを脆弱にするものであろう。私がよく行く大阪市立大学理学部付属植物園には約200本の桜があるがソメイヨシノは見当たらない。笹部がこの植物園の桜の植樹について関与したと大学関係者から聞いたことがあるが、確かにそうかと思ったものである。武田尾に氏の演習林亦楽山荘の跡が宝塚市が桜の園として公開しているが、その前の広場にソメイヨシノが一本。なんと皮肉なことか。

 

 

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