浪花千栄子の自伝「水のように」の中に「後醍醐帝の無りょうをお慰めすべく、夢窓国師が吉野からとりよせて嵐山全山に植えられたものの中の、最後に残った一本と申し伝えられる名木の山ざくら」とある。当時樹齢150年と言われていたので、時代的に少し無理がある。しかしそのようなことが地元の人々に語り伝えられているほど、名木、古木には違いない。浪花がこの山桜が立つ畑をやっと買い、終の棲家を建て、また敷地内に料亭竹生を開業。1973年66歳で急逝するまで住んで愛した家である。10数年前に佐野藤右衛門の本「桜花抄)で「浪花ザクラ」という桜の存在を知った。「佐野桜」以外に個人の名前が付けられた桜の木があるんやと感心したことを覚えている。テレビで「おちょやん」が始まり、その桜を探してみようと思いたった。昨秋12月確認のため本を持って訪れた。佐野藤右衛門の本の中の写真と記述通りの場所に大きな屋敷があり、その家の敷地に桜の大木が塀越しに見えた。うれしかった。山櫻があった。晩秋桜は葉もなくもちろん花もなかった。武田尾の亦楽山荘の山桜も見事であったが、その桜も私が行ったときはもう満開の時期を過ぎ、花が舞い落ちていた。この桜も満開の時期を過ぎているんではと危惧しながらも、やっと来ることができた。その願いの日が今日であった。この桜を見るべく嵐山に妻ときた。両足とも調子が悪いのだがそんなことは言っておられなかった。阪急電車で朝早く出かけた。普段は車での移動なので二人で電車というのも久しぶりのことだ。高槻の京大の農場は大きな公園になっていた。ポプラ並木も果樹園も田んぼもない。妻の実家が高垣町にあり、子供が幼いころこの農場の中を通る道がのどかな雰囲気を醸し出し、季節季節楽しんだものだ。嵐山まで約40分。駅前の桜は満開で、期待は膨らんだ。渡月橋からみる川面には鴨、鵜、サギ。そしてもうツバメが飛び回っていた。渡月橋を渡り左に折れすぐ目的地についたが、ああ残念、桜はすっかり葉桜になっていた。山櫻は一本一本開花時期が異なることはわかっていたが、浪花ザクラの開花は早すぎた。私を見たいのならもっと早く何度も何度も来なさいよと言われたようで、見事一本取られた。でも妻と一緒においしいランチを食べられたのだから良しとしよう。