ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

宮崎奕保さんのこと(3) 福田寺(ふくでんじ)に入る

2018-11-23 08:41:05 | 宮崎奕保さんのこと

   福田寺(ふくでんじ、現:加古川町稲屋)に入る

 明治44825日、少年の名前は宮崎保(たもつ)です。この時、尋常小学校の四年生であった。顔にはあどけなさが残っていました。

 この日は夏休みでしたが、この日、住みなれた自分の家を出ました。

 少年の家は、兵庫県加西郡(現・加西市)の地で32代、1200年近く続いた庄屋でした。 

 宮崎保少年は、その旧家の長男で、一人っ子でした。

 少年は、この時、実は、両親と一緒に暮らしていません。

 母は、父がよそに女性を作ったため、少年が小学校に上がる前に実家に帰ってしまったのでした。

 その原因を作った父は、少年が8歳の時に亡くなりました。

 両親と暮らすことができなくなった少年は、その後、祖父と一緒に古い屋敷で暮らしていました。

 少年には、家の事情はよく分からなかったのですが、かつての繁栄が徐々に失われていっていることだけは、少年の目にも明らかでした。

 やがて、身支度を整えた少年を迎えに、年老いた尼僧(にそう)がやって来ました。

 親のいない少年の将来を案じた親戚が、少年を寺に入れてくれるようにと頼んだのです。

  少年は、わずかな荷物が入ったカバンを持ち、祖父たちに別れを告げて家を出た。

  外はまだ暗く、闇の中からは、カエルの鳴き声に混じって、鈴虫の鳴き声も聞こえてきました。

 秋の気配を感じさせる未明の田舎道を、少年は尼僧に手を引かれながら黙って歩きました。

  数キロ歩いたところで、少年と尼僧は馬車乗り場に着きました。

 少年と尼僧を乗せた馬車は、朝の日差しの中を南 へと向かいました。

 やがて日が高くなり、暑さが増してきました。 

 宮崎禅師(ぜんし)が憎侶になったのは、寺の跡取りだったわけでも、自ら発心(ほつしん)して出家したわけでもなかったのです。

 ただ、家の事情で寺に入れられただけでした。

 宮崎禅師が寺に入ったのは、今の年齢で言うと、まだ10歳の誕生日を迎える前のことでした。

 後に、「親がいないという事情があったから、寺に行くことはしかたがないことやと思っておったね」と回想しておられます。

 その寺が、加古川町稲屋の福田寺(ふくでんじ)でした。(no4559

 (お断わり)

 後の宮崎奕保禅師ですが、特別な場合を除いて「さん」と呼ばせていただきます。

 *写真:現在の福田寺(ふくでんじ)

 ◇きのう(11/22)の散歩(10.647歩)

コメント
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