福田寺(ふくでんじ、現:加古川町稲屋)に入る
明治44年8月25日、少年の名前は宮崎保(たもつ)です。この時、尋常小学校の四年生であった。顔にはあどけなさが残っていました。
この日は夏休みでしたが、この日、住みなれた自分の家を出ました。
少年の家は、兵庫県加西郡(現・加西市)の地で32代、1200年近く続いた庄屋でした。
宮崎保少年は、その旧家の長男で、一人っ子でした。
少年は、この時、実は、両親と一緒に暮らしていません。
母は、父がよそに女性を作ったため、少年が小学校に上がる前に実家に帰ってしまったのでした。
その原因を作った父は、少年が8歳の時に亡くなりました。
両親と暮らすことができなくなった少年は、その後、祖父と一緒に古い屋敷で暮らしていました。
少年には、家の事情はよく分からなかったのですが、かつての繁栄が徐々に失われていっていることだけは、少年の目にも明らかでした。
やがて、身支度を整えた少年を迎えに、年老いた尼僧(にそう)がやって来ました。
親のいない少年の将来を案じた親戚が、少年を寺に入れてくれるようにと頼んだのです。
少年は、わずかな荷物が入ったカバンを持ち、祖父たちに別れを告げて家を出た。
外はまだ暗く、闇の中からは、カエルの鳴き声に混じって、鈴虫の鳴き声も聞こえてきました。
秋の気配を感じさせる未明の田舎道を、少年は尼僧に手を引かれながら黙って歩きました。
数キロ歩いたところで、少年と尼僧は馬車乗り場に着きました。
少年と尼僧を乗せた馬車は、朝の日差しの中を南 へと向かいました。
やがて日が高くなり、暑さが増してきました。
宮崎禅師(ぜんし)が憎侶になったのは、寺の跡取りだったわけでも、自ら発心(ほつしん)して出家したわけでもなかったのです。
ただ、家の事情で寺に入れられただけでした。
宮崎禅師が寺に入ったのは、今の年齢で言うと、まだ10歳の誕生日を迎える前のことでした。
後に、「親がいないという事情があったから、寺に行くことはしかたがないことやと思っておったね」と回想しておられます。
その寺が、加古川町稲屋の福田寺(ふくでんじ)でした。(no4559)
(お断わり)
後の宮崎奕保禅師ですが、特別な場合を除いて「さん」と呼ばせていただきます。
*写真:現在の福田寺(ふくでんじ)
◇きのう(11/22)の散歩(10.647歩)