きょうのブログは、勝手の想像です。読み飛ばしてください。
宝殿駅周辺<o:p></o:p>
昭和25年6月15日、加古川市は加古川町・神野村・野口村・平岡村・尾上村が合併して誕生した。
その後、別府町(昭和26年10月)、八幡村・平荘村・上荘村(昭和30年4月)、東神吉村・西神吉村・米田町船頭・平津地区(昭和31年9月)を加古川市に編入した。
そして、志方町を昭和54年2月に編入し、現在にいたった。
そのうち、米田町との合併は、もめにもめた。結果、米田町は分裂した。
高砂市は、昭和29年高砂町・荒井村・曾根町・伊保村が合併して誕生したが、それに先立って米田町との合併を望んだ。
加古川市も同じで、米田町との合併を希望した。
米田町にあるニッケ印南工場と加古川工場は密接な関係にあった。
ニッケ工場は、行政が異なり、何かと不便があった。
さらに、西神吉村・東神吉村と米田町は、宝殿中学校を共同経営していた。
米田町は、高砂市と加古川市の狭間にあり、合併問題で翻弄されることになった。
JRは高砂市の長年の悲願
宝殿駅周辺の地盤割は、なんとも変則的である。宝殿駅と駅前は高砂市に属している。 (宝殿駅の一部は加古川市)
明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたものではなかった。
当初は、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定であった。
江戸時代、高砂は、海運業を中心に発展した町で、彼らを中心に「鉄道敷設」に反対した。理由は、鉄道が敷かれること海運が衰えるというのが主な理由であった。
その結果、海岸に予定されていた鉄道は、加古川の町を走るように変更になった。<o:p></o:p>
鉄道を拒否した高砂の町の商業(経済)の衰退は決定的になった。
そんな経験から、高砂市にとってJRは長年の悲願であった。
宝殿駅周辺の、変則的な地盤割りを見た時、「高砂市は、米田町との合併の時、長年の悲願であった宝殿駅を、むりやりに取り込んだのではないか」と想像したが、地図をご覧願いたい。
この地図は近世(江戸時代)の神爪村である。
もともと、神爪村の東はしは、コブのように出っ張っている。その部分をJRが走り、明治33年5月14日、宝殿駅が建設されただけである。
でも、高砂市としては米田町との合併では、宝殿駅のある神爪地区が欲しかったに違いない。
<お知らせ>
明日から(2014年)1月4日(土)まで、ブログはお休みとします。この一年お世話になりました。来年も拙文にお付き合いください。
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