ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

続・加古川の戦争(16):陸軍航空通信隊尾上教育隊(2)

2013-12-15 13:37:52 |  ・加古川の戦争

 戦後、一部は浜ノ宮中学校校舎として利用
      
<陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図>
 
 戦史研究家・上谷昭夫氏のパンフに「陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図」があるので掲載させていただいた。
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終戦後の一時期、加古川飛行場を管理した連合国占領軍が、兵舎として利用したこともあった。また、兵舎の一部は浜ノ宮中学校としても利用された。
 現在、この教育隊のあとに次のような説明がある。読んでおきたい。
 <教育隊跡地の説明> 
 「当公園内には、戦前、旧陸軍(大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊)の兵舎が建設され、約1,500人の隊員が駐留していました。
 戦後まもなく建物は取り壊されましたが、最近まで数多くの基礎石が存在していました。
 ここにあの不幸な歴史を二度と繰り返さないことを誓い、基礎石の一部を保存し、後世に伝えることにしました」
 加古川第一陸軍病院
 なお、上記の図の左端(西端)病院がある。説明をしておきたい。
 この病院は、昭和12年(1937)に加古川飛行場に付属する「加古川陸軍病院」として開設された。
 診療は、内科・外科・眼科があり、歯科は姫路陸軍病院へ行かねばならなかった。
 昭和16年に、神野兵舎付属の陸軍病院(現在の「(私立)甲南加古川病院」)が開設されたので、名称を「加古川第一陸軍病院」と改めた。

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続・加古川の歴史(15):陸軍航空通信学校尾上教育隊(1)

2013-12-15 08:25:14 |  ・加古川の戦争

 Kyou_023加古川は小軍都であったが、幸い大きな空襲から免れた、「もし」もう少し戦争が長引いておれば、大災害は免れなかったと思われる。加古川の戦跡については「加古川の戦争」をご覧ください。
 「続・加古川の戦争」では「陸軍航空通信学校尾上教育隊」について少し加えて、終わりとしておきたい。
     陸軍航空通信学校尾上教育隊(1)
 浜国道がすぐ隣に走るが、騒音は気にならない。静かである。
 陸軍航空通信学校尾上教育隊施設跡(写真)は、松の木漏れ日の中で戦争があったことを伝えている。
   陸軍航空通信学校尾上教育隊跡(写真)
Kyou_010
 加古川市尾上町の浜の宮公園には、陸軍航空通学校『尾上教育隊』の兵舎の跡が残る。
 ここで学んだ少年兵たちが住んだ兵舎の名残である。
 ここで学ばれたKさんは、「外出できたのは一度か二度、夜は上官の制裁が日課のようでした」と厳しかった生活を証言されている。
 航空教育隊は、昭和1375日、朝鮮の平壌(ピョンヤン)で編成され新兵の教育を実施した。
 昭和1625日、加古川に移駐し、その後、紹和18917日、加古川航空通信学校として改編した。
 さらに、昭和2053日、加古川で編成『陸軍航空通信学校』の教育隊として改編し、通信隊は、主として少年飛行兵の教育を担当した。
また、昭和1941日に新設された陸軍幹部候補生第1期生(旧制中学校三年修了以上)が入校した。
 1,800名(跡地の説明板では、1500名)が在校した。
 *戦史研究家(上谷昭夫氏)の研究、参照
 *写真(上):通信隊航空学校の跡地(現状)、(下):同学校の記念碑

 

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