ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛がゆく(34):野口城はどこに?

2012-12-22 08:58:42 | 黒田官兵衛

001_2野口の戦いでは、野口城がしばしば登場するが、かんじんの野口城の場所は、現在もはっきりとしていない。

野口城跡について橘川真一氏は、『別所一族の興亡』(神戸新聞総合出版センター)で、次のように書かれる。一部をお借りしたい。

文体等、若干書き変えている。

   野口城

『別所長治記』には、野口城は「播州一ノ名城」と記されているが、規模等は、遺構が残っていないのではっきりしない。

地誌『播磨鑑』(はりまかがみ)には、「野口城長43間、横21間、野口庄在寺家村(じけむら)四方沼田要害ノ城。今ハ田地ト成、村ヨリ半丁ノ方総廻リたけ藪、外ニ堀構」とあり、別の史料(『御領中組々書留』)には「古城跡、長43間、横21間、惣廻り東西に堀有、寺家村より半丁北」とある。

これでみると、野口城は長さが約77.4メートル、横が約37.7メートルあり、四方を沼地で囲まれた要害で、外郭には竹藪と堀がめぐらされていたと想像される。

江戸時代の中期に、すでに田畑になっており、痕跡をとどめていなかったようである。

いつの頃に制作されたかわからないが、「播州三木城地図」(写真下)に野口城が描かれており、「野ロノ城祉本城(三木城のこと)へ三里半、北野邑(村)此地平地也」「大手東向、 同所稲荷社アリ、有寺教信上人ノ寺」とある。

   野口城は野口神社付近か?

9812dfb3「播州三木城絵図」では、寺(教信寺)と稲荷社を抱きかかえるように曲輪(くるわ)があり、堀をめぐらせており、三方が沼地、一方が池(城ノ池)のようである。

教信寺は当時、塔頭も多く、城とともに炎上したと伝えており、城郭の一部として利用されたようで、守りの固い城のようである。

「調査報告」では、野口神社(写真上)の周辺に主郭があったと思われる「岡」をはじめ「構(おかまや)ノ谷」「竹()ノ下」「前田(通称しろのつち・しろのうえ)「古屋敷」等の地名が残されているところから、ここに野口城があったのは間違いないとしている。

しかし、城跡は確定していない。将来の発掘調査を待たざるを得ない。

 *写真上:野口神社、下:「播州三木城図」の描かれた野口城

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官兵衛がゆく(33):鎮魂の神社

2012-12-22 08:38:30 | 黒田官兵衛

   落 城

Snake_015(野口城の戦いでは、三木側からの援軍はなかった)

・・・・

三日目、野口一帯をおおう煙の海を泳ぎ渡るように、新たな兵力が攻囲軍の後方に迫った。

「待ち続けた味方、の援軍がとうとう着いたぞ」

「見殺しにされるかと案じていたが、これで助かった」

城内に一瞬生気がよみがえった。

「幾人かの兵が援兵を城内に導き入れようと裏門を開いて駆けて出た。だが、またたく間に道端に転がった。

味方と錯覚したのは、秀吉方に従って、搦め手(からめて)攻めに加わった加古川城の手勢五百であった。

・・・・

小杉隆道氏は、小説『教信』で野口城の戦いについて以上のように書いておられる。

野口城の兵は、バタバタと倒れた。

そして、戦は終わった。

   野口戦の犠牲者の魂を祭る

先日、教信寺の東の「播磨化成」に至る道を歩いた。

教信寺の東に、稲荷神社(写真上)がある。

神社の正面の少し高い所に説明がある。最近視力が弱りよく読めなかったが、野口戦の説明である。

この稲荷神社は、野口戦で亡くなった多くの兵士の魂を慰めるための神社でもある。

  <余話> 誰を祀る三基の五輪塔?

Snake_016稲荷神社の写真をとっていた時、後ろから声があった。

日ごろお世話になっている地元のTさんだった。

「あの畑の隅に古いお墓(写真下)がある・・・」と教えてくださった。

稲荷神社から南東へ100㍍程の場所である。

その場所は、野口城主であった長井家の墓所であった。

ずいぶん風化した宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、三基ある。

『加古川市史(第二巻)』は、この墓地の写真を掲載し、「野口城比定地付近」の説明がある。

それにしても、この三基の宝篋印塔は誰のものだろうか。

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