野口の戦いでは、野口城がしばしば登場するが、かんじんの野口城の場所は、現在もはっきりとしていない。
野口城跡について橘川真一氏は、『別所一族の興亡』(神戸新聞総合出版センター)で、次のように書かれる。一部をお借りしたい。
文体等、若干書き変えている。
野口城
『別所長治記』には、野口城は「播州一ノ名城」と記されているが、規模等は、遺構が残っていないのではっきりしない。
地誌『播磨鑑』(はりまかがみ)には、「野口城長43間、横21間、野口庄在寺家村(じけむら)四方沼田要害ノ城。今ハ田地ト成、村ヨリ半丁ノ方総廻リたけ藪、外ニ堀構」とあり、別の史料(『御領中組々書留』)には「古城跡、長43間、横21間、惣廻り東西に堀有、寺家村より半丁北」とある。
これでみると、野口城は長さが約77.4メートル、横が約37.7メートルあり、四方を沼地で囲まれた要害で、外郭には竹藪と堀がめぐらされていたと想像される。
江戸時代の中期に、すでに田畑になっており、痕跡をとどめていなかったようである。
いつの頃に制作されたかわからないが、「播州三木城地図」(写真下)に野口城が描かれており、「野ロノ城祉本城(三木城のこと)へ三里半、北野邑(村)此地平地也」「大手東向、 同所稲荷社アリ、有寺教信上人ノ寺」とある。
野口城は野口神社付近か?
「播州三木城絵図」では、寺(教信寺)と稲荷社を抱きかかえるように曲輪(くるわ)があり、堀をめぐらせており、三方が沼地、一方が池(城ノ池)のようである。
教信寺は当時、塔頭も多く、城とともに炎上したと伝えており、城郭の一部として利用されたようで、守りの固い城のようである。
「調査報告」では、野口神社(写真上)の周辺に主郭があったと思われる「岡」をはじめ「構(おかまや)ノ谷」「竹(館)ノ下」「前田(通称しろのつち・しろのうえ)「古屋敷」等の地名が残されているところから、ここに野口城があったのは間違いないとしている。
しかし、城跡は確定していない。将来の発掘調査を待たざるを得ない。
*写真上:野口神社、下:「播州三木城図」の描かれた野口城