前回紹介したように「官兵衛の妻」は、後に紹介する。いったん話題を変えたい。
信長・秀吉軍と毛利軍の狭間で
官兵衛が父から家督を受けたのは永禄十年(1567)で、その時、信長は隣国・美濃の斉藤龍興(たつおき)を倒した。
そして、翌永禄十一年には足利義昭を擁して上洛した。
その頃、石山本願寺が信長との対決姿勢を強め、各地には一向一揆が勃発する事態になった。が、信長は領土拡大を目指した。
ひたひたと信長・秀吉の影が播磨に近づいてきた。
一方、中国地方では、毛利元就(もとなり)が元亀二年(1571)に死に、子の隆元は元就より先に亡くなっている。孫の毛利輝元(てるもと)が跡を継いだ。
そして、輝元の二人の弟の吉川元春と小早川隆景が毛利家を守っていた。
毛利領国は、元就亡き後も、順調に国を拡大した。
美前・備中・美作に勢力を持っていた宇喜多直家も毛利方になびいた。
とすると、西播磨の地は直接の毛利軍と秀吉軍とのせめぎ合いの地になるのである。
後に、宇喜多直家が大きな意味を持つので名前を記憶しておいてほしい。
信長方に味方することが決まったが
この時代の中・小の領主は、どこの、より強い勢力と組むかによって、その運命は決まる。
御着城の小寺としては、毛利軍と信長・秀吉軍とのはざまにあって、あいまいな中立は許されない。
天正三年(1575)六月、小寺の重臣たちは御着城に集められた。
議題は「御着城(小寺)としては、毛利方に味方すべきか、信長・秀吉側に味方すべきか」ということであった。
論議は湧いた。評定(会議)は、途中までは「毛利に味方をすべし。・・・」という雰囲気で進んでいたが、官兵衛が「現在の毛利の領主・輝元は凡庸である。それに比べて信長はいかに優れているかを、五月の長篠の合戦の例をあげながら説明した。・・・」
官兵衛の説得により、小寺家は信長側に属することが決まった。
しかし、結果は尾をひいた。すっきりしなかった。
参列の重臣たちは、「なぜ、信長・秀吉ごときに従わねばならぬのか・・・」という古い播磨の古い時代を引きずっていた。
まさに、播磨の武士は、中世の名門意識(身分意識)に縛られていた。
*写真:御着城をイメージした姫路市東出張所