官兵衛は、秀吉に野口城の地理を説明している。
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「(城の周囲には)沼が多く」と、官兵衛はその地理を説明した。
付近に沼や湿田が多く、城はそれらを囲(めぐ)らし、わすかに乾いたところにあった。
このため寄せ手にとっては、一筋程の小径(こみち)を一列になって攻めねばならず、防ぎ手としては、一列の戦闘をいちいち鉄砲で潰しているだけで済む。(以上『播磨灘物語』より)
野口の地形
話は、すこし、野口合戦をはなれる。
野口城の南に駅ヶ池(うまやがいけ)がある。
印南野台地は、一般的に水が得にくい土地柄で開拓が遅れたが、ここばかりは、地形が西に低く、北と東が高く、水が集まる場所にあった。雨が多い時は沼地になる。
古くから人々は、ここに池を造り、水をためた。そして、田畑を潤し、生活に利用してきたのである。
池を造るための堤は、南と西に堤を防築けば完成する。北と東は、土地が高く堤防の必要がない。
それに、南の堤は、古代山陽道としてつくられ、近くには駅(うまや)が置かれた。このあたりは、古代から開けた土地であった。
野口城落ちる
秀吉は土木工事を得意とした。沼地のような湿田はたいした問題ではなかった。
彼にすれば「埋めればいい」のである。
城主・(長井)政重は櫓で指揮をとった。勇敢に戦ったが切れ目のない激戦に兵は、徐々に疲れ、多くの兵は倒れた。
最初から、野口軍600の兵だけでは、3000の秀吉軍と勝てるとは考えていない。
三木城からの援軍があり、中と外から秀吉軍を攻めようと考えていた。
しかし、三木方からの援軍はなかった。
三日目であった。「援軍が来たらしい」と城内には一瞬生気がよみがえった。
が、援軍と思われたのは、秀吉側に加わった加古川城の糟谷の兵であった。
政重は決断した。「これ以上の兵の死は無駄である・・・」と。
自分の死と引きかえに残る兵の命を願い出た。
あっけなく、「野口城の戦い」は、三日間でおわった。
秀吉は、城主をはじめ降伏した兵士らの命を助けた。
この戦いは、秀吉・官兵衛の戦(いくさ)であり、信長の判断はなかったと思われる。信長がこの戦いにかんでいれば、城主・政重の命はなかったであろう。
秀吉・官兵衛は、余分な血をみることを好まなかった。