ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

野口を歩く(20):残った阿弥陀如来立像

2012-10-15 11:52:49 |  ・加古川市野口町

加古川評定が決裂し、三木合戦が始まりました。

その最初の本格的な戦いは秀吉による野口城でした。

野口城の攻防では、野口城の兵はもちろん、教信寺の僧たちも共に闘いました。

しかし、援軍もなく、むなしく野口城は落城し教信寺も炎上しました。

この時、ほとんどの宝物は焼失してしまいました。

本尊の阿弥陀如来像(写真)などは奇跡的に残されました。

教信寺の小杉隆道氏は『教信()・涅槃』を著し、教信寺の宝物の焼失時の状況を次のように想像しておられます。

『教信(四)』から一部お借りします。   

    教信寺炎上

9dd192f2・・・・戦場荒しのこの雑兵どもは、重く閉ざされた扉を破って宝蔵の内部に侵入し、寺僧を切り捨て、手当たり次第に収蔵する品々を引きだした。

清和帝の詔書、崇徳帝の祈願文、五深草帝宸筆(しんぴつ)等帝、上皇の親書、勅額の外縁起(えんぎ)、過去帳,資材宝物帳や多くの古文書、記録簿冊類が経書とともに投げだされ、宝蔵の外には見る間におびただしい反故(ほご)の山となった。

だが、この種の品々は、雑兵(ぞうひょう)どもには無用のものだった。

金銀の類が手に入らにと見ると、狼にも似た男どもは、腹いせに無法な行為に出た。破り捨てた文書の山を点在する書堂の前に積み上げると、次々に火をつけた。

火焔は瞬く間に堂塔をなめ、殿堂諸門一棟も残さず焼き尽くし、仏器、宝物ことごとく灰になった。・・・(以上『教信(四)より』)

    残った阿弥陀如来像立像!

天正6年(1578)、秀吉軍に余りすべての諸堂が灰燼となりましたが、わずかな仏具・仏像が奇跡的に残りました。

それらを紹介します。

きょうは、阿弥陀如来立像の紹介です。

この像は、戦国期前期から教信寺本尊であったと考えられています。

頭部を除いて大きく修理されていますが、全体のお像は損なわれていません。

台座、後背、脇侍は江戸時代後期の修理です。

台 座の銘文から弘化三年(1846)に現在の台座と光背が整えられたのが分かります。

*『仏と神の美術(中世いなみ野の文化財)』、『小説・教信(四)』参照

*写真:阿弥陀如来立像(「平安~鎌倉時代、1213世紀」の作)

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