教信『今昔物語集』に登場
『今昔物語(こじゃくもがたり)は、平安時代末期に成立したと考えられている説話集です。
集められた説話の数は千を越え、それもインド・中国地域からも集められています。インド・中国・日本は、平安時代では全世界を意味するものでした。つまり『今昔物語集』は、世界中から集められた説話集ということです。
私が、いま読んでいる本は『日本の古典を読む⑫・今昔物語集』(小学館)です。
この本は、専門書ではありません。一般の読者を対象に『今昔物語』から代表的な話を集め編集されています。
それに、「播磨国賀古駅(かこのうまや)の教信が往生すること」と教信の死が登場します。
教信は、平安時代でも、広く知られ尊敬を集めたお坊さんだったようです。
それでは、『今昔物語集』に登場する教信の話を読むことにします。
教信の死(『今昔物語集』より)
勝尾寺のお坊さんの勝如(しょうにょ)は来る日も、くる日も一心に念仏を唱えていました。
ある夜、誰かが訪ねて来ました。しかし、勝如は無言の行の最中でした。
返事ができないので「ゴホン」と咳払いをしました。
すると、訪問者は「私は、加古の野口の里の教信と申すものです。
「私も一心に念仏を唱えてまいりましたが、今日願いのとおり、極楽浄土へお参りすることができました。
あなた様も、来年の今月今夜(8 月15 日)に、お迎えがございます」そう言い終わると、訪問者の声はすっと消えたのです。
ビックリした勝如は、次の朝さっそく弟子の勝鑑(しょうかん)を野口の里へやりま
した。
すると、庵の前に死人が横たわり、犬や鳥が争って食っているのでした。
横にいる老婆に聞くと、「この死人は、私の夫の教信で、昨夜なくなりました。遺言で、自分の遺骸を鳥獣に施しているのでございます」と答えるのでした。
この話を聞いた勝如は、以後念仏ばかりでなく教信のように実践にも一層はげむようになりました。
そして、教信が告げた日(貞観9年8月15 日)に勝如は亡くなりました。
「勝如様も教信様のもとに行かれたのだろう・・・」と人々は、囁きあったということです。
*写真:教信上人の肖像(教信寺蔵・鎌倉時代の作)
最近の調査から初めから頭部だけの像として制作されていることが確認されました。
「教信の死に際して体は獣に施し、穏やかなお顔だけが残された」という伝承をから
制作された像なのでしょう。
*この文は、加古川市観光協会の「加古川探求記‐ぶらり野口編‐」に投稿したものの転載。