野口方は、やがて三木城からも、また周辺の仲間からの援軍があり、内と外から秀吉軍を挟み撃ちにできるものと考えていました。
しかし、三木城から、さらに近隣の城からも援軍はありませんでした。
三木方にとっても、野口城への援軍を考えていましたが、援軍を出すと、手薄になってしまいます。そのすきに、秀吉の別軍が三木城を攻撃するだろうと考え、援軍を出せなかったのが実際のようです。
野口合戦を司馬遼太郎は『播磨灘物語』で次のように書いています。黒田官兵衛も登場します。
播磨灘物語にえがかれた野口合戦
(秀吉は、三木城の周囲の城を攻め孤立させる作戦をとります。最初に狙いを付けられたのが野口城です)
・・・
されどどの城がよいか、と秀吉が官兵衛に聞くと、「左様さ、野口城がてごろでござろうか」
と官兵衛は考えた。
「野口か」秀吉も、その村が加古川の西二里、山陽道に沿っているために、村もそのあたりの地形も、記憶にある。
・・・・
「城主は、たしか長井といったな」
「長井四郎左衛と申す」
「出来星(できぼし)か」
と、秀吉が聞いたのは新興の家ならば力量のある人間がいるかわり、その付近の百姓は必ず懐いていない。それに比べ、古い家柄なら当主がたとえ凡庸でも土地者の支持が強い。 そういうことを知っておきたかったのである。
「鎌倉のころからの家でござる」
「古いわ」
秀吉は、播州にはまだそんな古い豪族が残っていたのか、とそんなところに感心した。
・・・
「野口の城は、この土地では播州一などと申しますが」
「堅固か」
「左様、沼が多く」
と、官兵衛はその地理を説明した。
付近に沼や湿田が多く、城はそれらを回らし、わずかに乾いたところにある。
このため寄せ手にとっては一筋ほど小道を一列になって責めねばならず、防ぎ手としては、その一列の先頭をいちいち鉄砲で潰しているだけで済む。
「沼を埋めればよい」
秀吉は、攻撃に土木工事を用いることを好んだ。
3月28日、秀吉はその兵力の内3000を率いて三木城に接近した。その一部を割いて俄かに野口城を襲い、数日で陥とし、城主・長井四郎左衛門の降伏をいれた。
その攻撃のとき、附近の山から雑木を大量に切り、それに草や土等を交えて湿田や沼をうずめ、そののちに攻めた。
沼がうめられるころには、城中の士卒の気が萎えてしまったらしい。・・・(以上『播磨灘物語』より)
城主・長井四郎左衛門(政重)は降伏を条件に部下の助命を願い出ています。
そして、城主自身も助命され追放されて百姓になったとも言われています。
が、戦いの中で討ち死にしたとか、その後秀吉に仕え丹波の戦いに従ったとも伝えられています。
はっきりしません。
*教信寺境内にある長井四郎左衛門政重の墓