江戸時代の村々が合併して、明治22年4月1日新しく上荘村・平荘村が誕生した。
その時、なぜ上荘村・平荘村と命名したのだろう。
◇なぜ平荘村・上荘村◇
山角の報恩寺には、「報恩寺文書」として知られている多数の古文書がある。
その一つが、永正十七年(1520年)の右の文書である。一部を読んでおきたい。
賀古河之流、平・都染・益田三箇庄之内、殺生禁断之処(以下略)
「報恩寺文書」については、後日報告したい。
平・都染・益田三箇庄に注目して欲しい。
加古川右岸に位置するこの三箇庄は、もともと印南荘の村々であり、平は、「屏」が使われることもあった。
荘園時代の「平」が、新しく合併した村の範囲にあたることから、「平荘村」と名づけられた。
そして、上荘地区は平荘の「上」(加古川の上流)にあたることから「上荘村」と名づけられたと考えられる。
かくて、上荘村・平荘村は誕生した。そして、それぞれ上荘村・見土呂と平荘村・山角に村役場を置いた。