ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:なぜ平荘村・上荘村

2009-03-03 13:11:01 |  ・加古川市上荘・平荘町

42374aef_2  2月21日のブログ「上荘村・平荘村誕生」の続きである。

 江戸時代の村々が合併して、明治22年4月1日新しく上荘村・平荘村が誕生した。

 その時、なぜ上荘村・平荘村と命名したのだろう。

 ◇なぜ平荘村・上荘村◇

 山角の報恩寺には、「報恩寺文書」として知られている多数の古文書がある。

 その一つが、永正十七年(1520年)の右の文書である。一部を読んでおきたい。

 賀古河之流、平・都染・益田三箇庄之内、殺生禁断之処(以下略)

 「報恩寺文書」については、後日報告したい。

 平・都染・益田三箇庄に注目して欲しい。

 加古川右岸に位置するこの三箇庄は、もともと印南荘の村々であり、平は、「屏」が使われることもあった。

 荘園時代の「平」が、新しく合併した村の範囲にあたることから、「平荘村」と名づけられた。

 そして、上荘地区は平荘の「上」(加古川の上流)にあたることから「上荘村」と名づけられたと考えられる。

 かくて、上荘村・平荘村は誕生した。そして、それぞれ上荘村・見土呂と平荘村・山角に村役場を置いた。

コメント
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