ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

入ヶ池物語(15) 国岡新村誕生

2015-01-27 08:41:33 |  ・稲美町 入ヶ池物語

     国岡新村の誕生

 国岡新村(現:国岡)について見ておきます。

 国岡新村は、加古新村と、ほとんど同じ時期に開発された新田(村)です。
 国岡土地改良区には、寛保二年(1742)、寛延三年三月(1750)、そして寛延三年七月、それに宝暦拾四年(1764)四月の明細帳(控)の四種の国岡新村の明細帳が保存されています。

 その内、完全な形で残る寛延三年の明細帳を読んでみます。

 『明細帳』の表紙は、下記のようです。

   寛延庚午歳   中村組

   明細帳

   三月     国岡新村

 寛延庚牛歳とは、1750年のことです。

   国岡新村誕生・寛文二年(1662

 明細帳の最初の部分を読んでおきます。

  加古郡五ヶ所蛸草庄国岡新村

一 村之初り寛文二□歳 開発人  彦太夫

                   安右衛門

 この明細帳は、国岡新村ができてから88年後に書かれています。

 国岡新村のはじまりについて、『稲美町史』(p351~2)は「・・・国岡は寛文二年、国安村の彦太郎と岡村の安右衛門が開発した。国岡という名称は両者村の頭字をとって名づけられたという。・・・」と、国岡新村を紹介しています。

 村のはじまりが忘れ去れるほどの長い年月ではありません。

 国岡新村は、国安村の庄屋・彦太郎と岡村の庄屋・安右衛門が中心になり開発した村としてよいでしょう。

 そのため、国岡地区の祖先は、国安(村)・岡(村)出身の方が多かったと思われます。

 国岡は、北山の東で、現役場から西側の高台に広がる地域です。この地域に、水はありません。どうしたのでしょうか。

 次回の「入ヶ池物語」から入ヶ池・北山が登場します。

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入ヶ池物語(14) 水、沢山の時は構無御座候!

2015-01-26 12:13:25 |  ・稲美町 入ヶ池物語

        水沢山の時は構無御座候!

 大溝用水、加古新村で話がさまよっています。入ヶ池そして、北山の話に移らねばならないのですが、もう少しご辛抱ください。

 次の話題に注目をしておきます。やがて、国岡新村・入ヶ池・北山と関係してきます。

 加古土地改良区に古文書「仕ル手形之事」(つかまつるてがたのこと)があります。加古新村から、草谷川の村々(草谷郷)へ出した願いの返事です。

 (注)下記の史料「手形之事」は、飛ばして、内容からお読みください。

     仕ル手形之事

一 西条組加古新村数年旱損仕付、草谷川筋草谷之上より新溝掘り加古新村池々水取申度と御普請望申候付、構無之候哉と御尋被成候、冬春の儀少シも構無御座候、四月より七月之内は下流申様 願申候、四月より七月迄之内たり共水沢山の時は少シも構無御座候、右之内申分無之候、為後日仍件

  延宝八年申六月        

(内容)

 (加古新村から草谷郷へ大溝用水の工事の許可願に対する返事)

 「加古新村から、数年水不足で困っています。草谷川の上流から新しい溝を掘り加古新村の池(加古大池)へ工事をしたい。つきましては、御了解願えますでしょうか」とお尋ねがありました。

 (草谷郷から加古新村へ次のような返事をしておきました)

 水を使わない春・冬は、かまいません。

 しかし、水を使う四月から七月前は、下(草谷川郷)へ流してください。

 ただし、四月から七月の間であっても水が十分にある時は、(草谷川から)大溝用水へ水を取り入れてもかまいません。

 以上です。後日の為、文章にしておきます。

      延宝八年(1680)申六月

 赤字の部分に注目ください。

 「四月から七月の灌漑期でも水が十分にある時は、大溝用水へ、つまり草谷川から加古大池に水を取水してもかまいません」という文言があります。

  「水が十分にある!」と判断するのは誰でしょうか。

 草谷郷の村々と加古新村の解釈は、当然異なります。

 加古新村が水は十分にあると判断しても、草谷郷はすんなりと同意するはずがありません。

 そのため、判断(解釈)の違いにより草谷郷村々と加古新村(国岡新村も含む)との水争いはしばしば発生しました。

 記録に残るものだけでも、明和元年(1764)、明和二年(1765)、文化元年(1804)、文化四年(1807)、文化五年(1808)、文化六年(1809)、文化八年(1011)と次々に発生しました。

 *古文書:「仕ル手形之事」(加古土地改良区蔵)

 

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入ヶ池物語(13) 大溝用水

2015-01-26 08:34:14 |  ・稲美町 入ヶ池物語

      草谷郷の村々

 草谷川は、雄岡山・雌岡山を源として、上流から、それぞれ広谷川、草谷川、八幡川と呼ばれています。

 草谷川は全長11,47m、流域14.6kmの余り大きくない川ですが、印南野台地の主要河川の一つです。

 草谷川流域には、山西村、広谷村(以上明石藩:現神戸市)、草谷村、下草谷村(以上現稲美町内)、野村、下村、宗佐村、船町村、上西条村、中西条村(以上現加古川市)の10ヵ村があります。

 草谷川の水利に関して、姫路藩に属した8ヵ村は草谷川の水を共用し「草谷郷」と呼ばれていました。

   大溝用水(おおみぞようすい)

 延宝八年(1680)、草谷川を水源とする画期的な計画が立てられ、草谷川下流の八ヵ郷へ、水をあまり使わない時期に草谷川から水を引き池に水をためておくという願い提出しました。

 もともと、水のきわめて不安定な草谷川からの取水が可能になったのは、加古新村の開拓の中心になったのは下村・上西条村・中西条村の有力者が中心にったこと、それに、なによりも姫路藩の新田開発の指導(命令)が大きかったと言えます。

 藩の命令となると、村々は反対できません。

 川郷8ヵ村(草谷村・下草谷村・野村・宗佐村・下村・船町・上西条村・中西条村)と加古新村との粘り強い話し合いがあったのは当然のことです。

 結果は、「田畑にあまり水を使わない7月から翌年4月までの期間に草谷川から加古大池や入ヶ池に水を貯蔵してもよい」との了解を得ることができました。

 ともかく、草谷川の上流に堰を造り、大池までの用水路の造成が始まりました。

 これが、図にある大溝用水です。

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入ヶ池物語(12) 水は草谷川から・・・

2015-01-25 08:21:04 |  ・稲美町 入ヶ池物語

       加古新村の水源は草谷川から

 加古新村は台地上の村で、しかも水源となる川がありません。加古新村が大きくなるにつれ、たちまちに水不足になりました。

 どうしても大きな池が必要です。

 加古新村の北に谷をつくり、その底を草谷川が流れています。

 草谷川から水を求めなければ、他に水はありません。

 しかし、加古新村の池(加古大池)の予定地は、土手を造るとの高さは59㍍となります。

 そして、加古大池をまっすぐに北へ進み草谷川とぶつかる辺りの高度は24㍍です。

 その差35㍍。

 近距離だからといっても、水は24㍍から59㍍の台池へ流れてくれません。

 加古新村の台地に池を造るとすると、当然、草谷川をさかのぼり59メートル以上の場所に取水口を造り、そこから加古新村まで溝(用水)を引く必要があります。

 しかし、草谷川流域の土質は、砂れき質のため地下水は地中深く潜り、梅雨・台風の雨の多い時期を除いて上流ではほとんど水の流れを見ることはできません。

 草谷川が、加古川市八幡町に入って流れが緩やかになり、やっと川らしい水量で西へ流れ、加古川本流に至ります。

 草谷川流域の村々にとっても、水の余裕がありません。

 そうであっても、加古新村は草谷川の上流に堰をつくり、加古新村まで水を引く以外に水を得る方法はないのです。

 何か良い方法はないでしょうか。

 *写真:雨の日の草谷川(昨年の梅雨の頃)

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入ヶ池物語(11) 加古新田の開拓

2015-01-24 08:36:21 |  ・稲美町 入ヶ池物語

 加古新田と国岡新田の誕生は、北山の水と関係してきますので、話題が少し北山・入ヶ池から離れますが、加古新田と国岡新田について少し触れておきましょう。

   加古新田・開拓許可を願い出る

 江戸時代になり、平和な時代が到来しました。それに伴って人口は増加し、藩も新田の開発を奨励し、支援しました。

 加古新村の開発は万治元年(1658)加古沢兵衛の開発願いに始まりました。

 加古新村の開拓について『加古新村由来記』は、次のように記しています。

 「中西条村(現:加古川市八幡町)の沢兵衛は、26才の時から、庄屋を勤めていました。

 村の東の広大な原野の開拓を考え、3年間、麦・稗・大豆・小豆などを植え、低いところには、稲の種を蒔いたところ実を結びました。

 さらに3年間、実際に住んで寒暑に耐えられることも確かめました。

 沢兵衛は、上西条(現:加古川市八幡町)の喜平次に印南野台地の開拓を熱心に説きました。

 喜平次も賛同はしたものの、開拓のための資金を心配していました。

 沢兵衛は、資金のことを親類の下村(現:加古川市八幡町)の治兵衛にも相談しました。

 彼も同意し、三人は印南野台地の開拓を固く誓い合いました。

 姫路藩の奉行に開拓願いを提出しました。

 願いを請けた藩は、役人をさっそく現地に向かわせました。

 しかし、あまりの荒れ地に驚き、役人は「しかるところを上様に申し上げ候こと存じよらず。なんと不覚者か・・・」と三人をしかりつけました。

 それでも、沢兵衛たちはひるみませんでした。

 彼らには実績から得た自信がありました。水を得る方法等を熱っぽく役人に話しました

    開発許可なる(万治四年・1658)

 沢兵衛の努力が実りました。加古台地の開発許可がおりたのです。

 この間の事情は、史料によりまちまちですが、『稲美町史』の説をお借りします。

 「・・・この開発願は、万治元年(1658)であったと思われます。

 姫路藩がこれを許可した年については、万治四年(1661)です。・・・」

 とにかく、加古台地に開拓許可が下りたのです。

 次の問題は水をどうするかです。

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入ヶ池物語(10) 大開拓時代(江戸時代初期)

2015-01-23 08:18:22 |  ・稲美町 入ヶ池物語

  戦国時代に発達した土木技術

  “天下分け目”といわれた関ヵ原の戦い(慶長五年=1600)を中心とし、その前後約60~70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代将軍家綱の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史をとおしてみても、他の時代に類例がないほど上木技術が大きく発達した時代でした。

 土木技術を大別すれば次の三分野に分けることができます。

 (1)鉱山開発技術-その結果日本は世界有数の金銀産出国となった

 (2)築城技術-それは今日も残る日本の華麗な城郭建築および城下町建設工事に開花した。

 (3)用水土木技術。

 戦国時代の支配者は、すぐれた技術者を家臣に抱えていることも含めて、武勇・武略と同時に、治水土木にも有能でなければ、戦国時代を勝ち抜けませんでした。

 戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、すぐれた武人である同時に、またすぐれた治水土木家でもあったのです。

     日本の大開拓時代

 やがて、関ヶ原の戦いを最後に戦国時代は終わり世の中は戦争のない平和な時代(江戸時代)になりました。

 (1)~(3)の技術は、平和な事業に利用されました。一番大きかったのは用水土木技術が耕地開発に利用されたことです。

 江戸時代の初期は、ものすごい勢いで荒れ地が耕地に変えられた時代でした。

 日本の農村の原風景は、この時代に形づくられたといえます。

 この時期あまりにも多くの田畑が開発されたため、多くの地で水不足の問題が発生し、江戸時代中期以降からは、原則として新規の開拓制限されたほどでした。

 江戸時代の初期は、まさに日本の大開拓の時代といえます。

 北山集落の周辺でも、江戸時代の初めに加古新田、国岡新田の開拓がはじまりました。

 加古新田(現:加古)の開拓により、この方面から北山の田への水が少なくなります。

 国岡新田(現:国岡)からは、北山に「入ヶ池の水」を分けてほしいという願いが出されました。

 水は、百姓の命です。さあ、大変です・・・・。

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入ヶ池物語(9)  堤防がない

2015-01-22 08:49:23 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   曇川(国安川との合流地点まで)

 ふだんは、あまり気にしないのですが、稲美町は坂の町です。

 以前、雨あがりの日でした。入が池から北山集落(北山の真楽寺あたり)まで、曇川の堤防を散歩しました。

 曇川は、勢いを増し濁流でした。

 明治時代、九頭竜川(福井県)を見たオランダの土木技師・デレーケは、「これは滝である」といったといいますが、曇川は、まさにそのような流れでした。

 「曇った時だけ水があるから曇川である」と揶揄される曇川ですが、その日の曇川は違っていました。

   堤防がない

 入ヶ池から真楽寺あたりまでの曇川の堤防の話です。

 伝承はともかく、入ヶ池の水を利用し、北山の集落に人々が入植し、田畑を開墾したのは、ずいぶん昔のことです。

 農業技術が十分発達していない時期のことです。

 小さな川とはいいながら、水を利用するには、ふつう堤防を造り、流れを閉じ込めます。

 雨の時でもビクともしない堤防を造らねばなりません。

 そのためには、農業技術が必要でした。

 それに多くの人出が必要です。なによりも費用が膨大となります。

 曇川の事情は少し違っています。坂を流れ落ちる川です。

 ということは、川の急な流れが台地を削り、谷(溝川)をつくっています。

 つまり、堤防の必要のない川なのです。

 深い溝川といってよいのかもしれません。

 北山を開拓した人々は、そんな溝川の上流をせき止め、入ヶ池を造り、北山までの流れ使い、田畑を開墾したのです。

 少しずつ、耕地を広げてきました。

 が、長い間あまり大きな変化はなく生活を繰り返していました。

 しかし、やがてこの生活が一変する時代を迎えることになります。

 *写真:曇川の堤防(真楽寺の付近。現在見事な桜並木となっている)

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入ヶ池物語(8) 三筋の流れ

2015-01-21 08:03:07 |  ・稲美町 入ヶ池物語

    三筋の流れ

 印南野台地に降る雨は、まさに恵みの雨でした。

 雌岡山(めっこさん)辺りから小さな流れを集めて、南西に流れ下りました。

 挿絵をご覧ください。

 印南野台地を流れ下った水は、愛宕山辺りの山塊に妨げられ、水は北へ、そして南へと分かれて流れます。

 南に流れた水は、岡・国安の方に流れ、そこに堰を造り、水をせき止め天満大池がつくられました。

 一方、北に流れた水は、愛宕山の北辺りに集まり造られたのが入ヵ池です。

 ともに、ずいぶん昔に造られた池です。

 天満大池が造られたのは、伝承では白鳳三年(675)で、兵庫県で一番古い池といわれています。

 それはともかくとして、古い池です。

 ということは、水が少なく、人の侵入を拒み続けた稲美野台地ですが、天満大池・入ヶ池の水が利用できた集落は、昔から人が住みついていました。

 北山集落と入ヶ池の関係については、後に述べることにしましょう。

 ここでは、とりあえず印南台地を流れた大きな二筋の流れを確認しておきます。

   三番目の流れ

 タイトルには「三筋の流れ」としました。

 第三番目の流れとはどこでしょうか。

 地図を見ればすぐに気が付きますが、草谷川(広谷川)のことです。

 稲美町の北部に深い谷を作り、低いところを流れる草谷川です。

 後に、この草谷川の水が加古大池の水源となり、また一部は「入ヶ池」に流れ、国岡(新)村の水源ともなりました。

 「入ヶ池物語(4~8)」では印南野台地の少し長い説明になりましたが、水のすくない印南野台地に生活した人々の歴史の前に確かめておきたかったためです。

 それでは、入ヶ池・北山集落の話をはじめしょう。

 *印南野台地の三筋の流れ

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入ヶ池物語(7) 少ない雨

2015-01-20 07:59:37 |  ・稲美町 入ヶ池物語

  印南野台地は、水を貯めにくいジャリまじりの土からできています。

 それに、水を集める範囲が狭く、雨が少ない地域で、農業にとってまさに、三重苦を背負ったような地域です。

 そのため、印南野台地の開発は、ずいぶん遅れました。

 印南野台地に降る雨についてみておきます。

     印南野台地の降水量

 図は、兵庫県の年間降水量を示しています。

 平均降水量は、日本海側で多く2.000~2.250mmで、印南野台地付近は1.250mm前後で、1.000mmの開きがあります。

 印南野は、きわめて雨の少ない地域です。

 一月にいたっては、北部が250mmの降水量に対して、50mmと日本海側の1/4~1/5の程度の降水量しかありません。

 兵庫県北部の冬の降水量は、もちろん雪です。

 積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、地下の水源となります。

 この地下水が、灌漑用水として稲を育ててきました。

 雪が、交通の妨げになり邪魔者扱いされるようになったのは最近のことです。

 夏の降水量は、北部も瀬戸内地方もあまり大きな差はありません。

    苦難に立ち向かった人々

 印南野台地には多くの溜池がありますが、水利権のために、水源からの水は、農閑期にしか溜池に引き、貯めることができませんでした。

 雨が少ないことは、台地の農業にとって決定的な不利な条件でした。

 さらに「水利権」という社会的な条件が加わったのです。

 

 *図:兵庫県の降水量(県気象年報・S45‐54年)

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入ヶ池物語(6) 印南野台地は南西に低い地形

2015-01-19 11:06:46 |  ・稲美町 入ヶ池物語

      印南野台地は南西に低い地形

 前号で「(印南野台地の)一段高い地形は、かつて海底であったため、積もった砂や小石まじりの地層でできており、水は復流水(地下水)となり地表には大きな川はなかった」と紹介しました。

 もう一つ、印南野台地の特徴をあげておきましょう。

  『兵庫探検・続歴史風土編』(神戸新聞社)に説明があるので、お借りします。

 ・・・神戸市垂水区神出町の雌岡山(めっこうさん)に立つと、印南野が一望の下に見渡せる。

 標高241メートルの低い山だが、周囲には高い山がなく、視界はぐんぐん開けている。

 ・・・加古川や高砂の市街地が霞んでいる。

 播磨灘からだんだんに高まってきた海岸段丘の、頂点にあるのが雌岡山だった。

 いいかえると、目の下の台地は雌岡山から南西にかけて漸次低くなり、そしてここに数えきれないほどの溜池が散在していた。・・・

 以上が『兵庫探検』の説明の一部です。

 蛇足です。現在、雌岡山の山頂部から西は、木が生い茂り印南台地は一望できません。

 印南野台地は、大まかに言えば、雌岡山あたりを頂点に西に、そして南に低くなる地形となっています。

 これは、六甲山の変動(六甲変動)に伴う現象です。

 雌岡山辺りに十分な水源さえあれば、水は印南野台地を自然と南西に流れ下り、池に水を貯め、豊かな稔りの大地に変えることができるのです。

 

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入ヶ池物語(5)  印南野台地は海の底(50~60万年前ごろ)

2015-01-19 10:48:40 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   印南野台地は海の底(50~60万年前ごろ)

  右の図をご覧ください。

  印南野台地は、どのようにできたのでしょう。

  この図は50~60万年前ごろの海岸線・水際線(推定)です。

 現在の印南野台地は見あたりません。

 そのはずです。そこは海の底でした。

 この海に周辺から土砂が猛烈に流れ込みました。

 土砂は、海底では比較的平らに堆積します。

 今度は、地球の大変動が起こりました。

 印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまりました。

 比較的平らな海底は、徐々に地上に姿を現しました。

 そして、一段高い平らな土地をつくりました。

 このような地球の営みは、何回も繰り返され、できあがったのが現代の印南野台地です。

 いまでも印南野台地の隆起は続いています。

 隆起の速度は、平岡町辺りでは年間0.125mmです。

 この一段高い地形は、海底であったため、積もった砂や小石まじりの地層でできており、水はたちまち復流水(地下水)となり地表に大きな川をつくりません。

 そのため、印南野台地は、水が得にくい土地で、長い間住む人を遠ざけてきました。

 *図:50~60万年前ごろの海岸線・水際線(推定)(『加古川市史(第一巻)』より)

 

 

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入ヶ池物語(4) 印南野台地(1)・水の少ない台地

2015-01-18 09:09:21 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   印南野台地(1)・水の少ない台地

 印南野台地の話です。

 「入ヶ池」は、印南野台地の真ん中に位置しています。

 印南野台地はどんな性格の台地でしょうか。

 印南野台地を歩いてみましょう。

最初に、印南野台地の広がりを確かめておきます。

 西は加古川市野口あたりから東は明石川、北は美の川、南は瀬戸内海にかこまれた台地が印南野台地です。

 ほぼ平坦な台地ですが、東が高く、西に行くにつれ徐々に低い地形を形成しています。

 印南野は、万葉集にも数多く登場し、「枕草子」にも登場し、ロマンチックな響きさえ持っています。

 しかし、一部を除いて生活の舞台としては、極端に水が少なく、開拓が進むのは、やっと江戸時代になってからで、人をよせつけませんでした。

 古代においての印南野は、荒涼とした風景が広がる地域でした。

 *地図:印南野台地

 

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入ヶ池物語(3) 真楽寺(薬師堂)

2015-01-18 08:48:01 |  ・稲美町 入ヶ池物語

 真楽寺(しんぎょうじ・写真)の話です。真楽寺は、「人柱になったお入さん」を祀った寺です。

   真楽寺(薬師堂)

 「川上真楽寺」は人柱となった「お入さん」を祀る堂です。

 本尊は、薬師如来で、創建は天平十一年(739)と伝えています。

 北山では「入」が人柱とされた4月12日(旧暦)をその命日とし、年1回法要を営んでいます。(*現在では、新暦に合わせ5月12日に法要を営んでいます)

 今年の法要は、お入さんの1300廻忌に当たります。

   真楽寺の歴史

 『稲美町史』から真楽寺の沿革(伝承)をたどることにします。

一、入ヶ池の堤の人柱となった「お入」の霊を祀るために建立した堂に、旅僧が来て薬師如来像一体を作って帰って行きました。

 その僧は、行基(ぎょうぎ)であったといいます。

二、元禄五年(1692)、北山の井上作右衛門が願主となり、奉加帳を近郷近在に回して銅銭三銭ずつを募り、元禄六年本尊を再興しました。

三、弘化四年(1847)大風で倒壊したが、明治初年に再建しました。

   薬師如来の台座の裏書

 薬師如来の台座に、次のような裏書があります。

 播州加古郡下沢庄の川上真楽寺の薬師如来は、四十五代の聖武天皇の御代、天平十一年行基により作られた。

 しかし、長い年月の間に御尊体がすっかりいたんでしまいました。

 そのため、天平十一年(739)から950年に当たる元禄六年、御本尊を作り、脇の二体の仏もつくり立て法会をしました。

 *『稲美町史』参照

 *写真:川上山真楽寺

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入ヶ池物語(2) お入(おにゅう)さん

2015-01-17 08:32:32 |  ・稲美町 入ヶ池物語

  北山の川上真楽寺(しんぎょうじ)に、次のような「入ヶ池」の伝承があります。

   入ヶ池の伝承

 都が明日香(あすか)にあった644年、藤原弥吉四郎が天皇の命令を受けて西国に行く途中「蛸草村」で、一人の老人に出会いました。

 その老人は「この野を開けば必ず末代まで繁盛するだろう。お前がここを開墾するがよい・・」と言い残して姿を消しました。

 弥吉四郎は、天皇にそのことを申し上げ、この地の開拓にとりかかりました。

 ある年でした。きびしい夏の日照が続き、水が乏しくなりました。

 毎年、水が足りなくなるので、前年から上流の広い谷に水を貯める池の築造にかかっていました。

 しかし、せっかく築いた堤は、その度に大水で流されてしまいました。

 村人はそうとう工事をあきらめてしまいました。

 ある日、藤原弥吉四郎の孫にあたる光太衛(こうだいえ)が夢で不思議な僧に出会いました。

 その僧は「お前のおじいさんは、川の上流をせき止め、池を築いたがうまくいかなかった。

 これは上流の水が強いためである。だから、特別な工夫が必要である。

 堤を六枚の屏風の形にし、北側の堤のところから越水(うてみ・洪水吐)を造って、水を越えさせるがよい。

 そして、工事中に美しい女が通りかかるだろうから、捕らえて人柱にすると堤は完成するであろう・・・」

村人を集めて池の築造がはじまりました。

 (注)

 *「蛸草村」は、現在の蛸草(稲美町)ではなく、天満大池の水を共有していた蛸草六ヶ村(中村・森安村・六分一村・国安村・北山村・岡村)を含む地域で、蛸草郷とよばれていた地域のことです。

     人柱になったお入(おにゅう)

 池づくりを始めて間もなく、夢のお告げどおりの美しい女が通りかかりました。

 村人は捕らえて切り伏せて、人柱にしてしまいました。

 その後、池は立派に完成し、どんな大雨にもびくともしなくなりました。

 この美しい女は「お入(おにゅう)」といったので、この池は「入ヶ池」と呼ばれるようになりました。

 しかし、いつしかこのことはすっかり村人に忘れられていきました。

 ある日、村の若者が、入ヶ池のそばを通り帰る途中、女に出会いました。

 姿は大きく、目が丸く髪が赤い女でした。

 若者は、驚き逃げ帰ろうとした時、その女は「私は鬼ではない。私は、この池の人柱にされた、もとは山中に住んでいた蛇の「お入(おにゅう)」である。

 たまたま、人がたくさんいるので女に姿を変えて来てみると、思いもかけず切り殺され、人柱にされてしまった。

 村人は、立派な池ができて喜んでいるが、私の魂はうかばれません・・・。それに、誰も私のことを覚えていないのが寂しい・・・

 いま、このような姿で現れたのである。おまえは、これから村人に伝え、私の菩提(ぼだい)を弔ってくれ。そうそうすれば、いつまでもこの池を守り続けるであろう」

 そういうと、姿がなくなりました。

 村人は、お寺を建てて「お入さん」を祭りました。それが川上真楽寺(しんぎょうじ)です。

 以後、村人は幸せに暮らしたということです。

 *挿絵:「光太衛を祀る藤原霊社」

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入ヶ池物語(1) 入ヶ池物語を始めます

2015-01-16 09:22:19 |  ・稲美町 入ヶ池物語

  いま、ブログは、高砂市を歩いています。それも、米田町で、漂い続けています。

 このあたりで、シリーズ「高砂市を歩く」は2ヶ月ほどお休みし、稲美町北山にある「入ヶ池」を散策してみます。

 というのは、次の急な話が舞い込んだためです。

    『入ヶ池物語』を始めます

 稲美町の北山に「入ヶ池」という池があります。「にゅうがいけ」と読みます。

 北山(稲美町)とはいいながら北山の集落から、鶴が首を東の方向に、精いっぱい伸ばしたような場所ある池です。地図で確かめてください。

 この池は、とてつもない昔に造られています。

 1300年前のことです。

 入ヶ池には、人柱になった「不思議な、お入(おにゅう)の伝承」があります。

 後に詳しく説明します。

   5月12日は

    「お入さん」の1300回の命日

 先日、「入ヶ池郷土地改良区」から、お電話をいただきました。

 ことしの5月12日は、「お入さん」が亡くなってから1300年に当たります。供養を兼ねて記念行事をしたい。

 その時に、入ヶ池について、冊子にまとめたいので協力していただきたい・・・」という内容でした。

 以前、北山のとなりの『国岡の歴史(開村350年史)』書いた時、しばしば北山との水争いの話題が登場しました。

 生来、軽はずみな私です。「なんとかなるだろう」と原稿のたたき台を引き受けてしましました。

 そのため、次号からブログの話題を変えて、しばらく『入ヶ池物語』を書くことにしました。

 この原稿をもとに冊子を作ります。 もちろん、内容は、まとまりのないものになると思います。

 5月12日の「お入さんの命日」に発行予定の冊子では少し、時代・話題・文体等を整理してみます。

 *挿絵:人柱になった「お入さん」

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