Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(99)ベオグラード⑤(セルビア)

2010-06-24 01:13:05 | 旧ユーゴの国々
 前回不気味すぎて写真を撮る気になれなかったが、今回写真を撮ることにした。

 こういう写真をネット上にUPするのはどうかと思ったが、自分が見たありのままの世界の姿なので紹介させて頂く。





 転がっているのは初めガスボンベかと思ったが、爆弾の空容器(あるいは不発弾?)かもしれない。





 何とも不気味な姿のまま放置されていた。



 3日間の滞在後、夜行列車で次の目的地 Sofia (ソフィア)(ブルガリア)へ向かった。

※地図はこちら

(98)ベオグラード④(セルビア)

2010-06-23 20:16:28 | 旧ユーゴの国々
 Belgrad ( Beograd )(ベオグラード)にはこの時3泊している。
 次の目的地 Sofia (ソフィア)(ブルガリア)へすぐ向かっても良かったのだが、ベオグラードの街が好きになっていたのだろう。なるべくゆっくりしたかった。
 


 この滞在の間軍事博物館を再訪している。前回いろいろ親切にしてくれた職員の若者達に Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))(イタリア)のポストカードをお土産に渡した。
 また、民俗学博物館にも行っている。展示されている民族衣装や民芸品を見ていると、この国に悲惨な戦争が起こってしまったことが不思議でならなかった。土と共に生き、素朴な生活をする民は、戦争を起こそうなんて決して思わないのではないだろうか。

 

 ここから荷物を日本に送っている。
 ベオグラードでは、銀行で両替する場合の公定レートと、街の両替商で両替する場合の闇レートに開きがあった。戦争でインフレが起こり、それに対応したレートを両替商は採用していたのだろう。闇レートは公定レートの2.5倍の比率だったので、人々はみな両替商で両替していた。
 しかし、公定レートはインフレに対応せず、そのまま据え置きになっていたのではないだろうか。公共料金は公定レートを基準に決められていたので、郵便料金も割安になるのだった。単純に考えると、40%の費用で済むことになる。これはお得だった。

 また、日本大使館に新聞を読みに行っている。街にはネットカフェがあるのだが、日本語サイト文字化けしてしまい読めなかった(日本語を読めるようにする方法を知らなかった)。その為、新聞は貴重な情報源だった。

 他には学生のデモを見たと旅日記に書き記している。1000人以上の学生が、警察官に囲まれながら行進していた。現在の政府に不満があるのだろう。若者達は外国に行きたがっているが、ビザが取れないと聞いたことを思い出した。



 そして、誤爆された中国大使館を再訪している。廃墟となった建物を見ていると、誤爆というのはちょっと信じがたいという気持ちが再び湧き出て来た。
 爆破された建物をそのまま残すという中国側の無言の抗議(個人的にそう解釈した)は、まだ続いていた。

※地図はこちら

(97)ブダペスト(ハンガリー)~ベオグラード(セルビア)

2010-06-19 02:02:02 | 旧ユーゴの国々
 予定としては、Sofia (ソフィア)(ブルガリア)で3月3日の解放記念日の式典を見るつもりでいた。5年前に旅した時に見たこの式典の印象が鮮烈に脳裏に残っており、また見たいと思ったからだ。

 ルート的にはルーマニア経由で行くよりも、セルビア(当時の国名はユーゴスラビア)経由で行く方が楽だった(当時ルーマニア入国にはビザが必要だったので)。



 Budapest (ブダペスト)14時発のバスに乗り込み、次の目的地 Belgrad ( Beograd )(ベオグラード)へと向かった。
 
 ここで一つ問題が起こった。国境での話だ。
 ハンガリーの出国は何ら問題なかった。しかし、セルビア側の入国審査ではなかなかOKが出なかった。
 ボスニア(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)の独立記念日(3月1日)前だったのも、何か影響していたのかもしれない。



 事務所の奥の部屋に通されると、映画に出てくるロシアの上級将校みたいな人物に引き合わされた。
 貫禄威厳、そして冷酷そうな目が印象に残っている(こちらの勝手な印象だが)。
 おそらく彼がここで一番偉い人物なのだろう。疑いの目で見られているからかもしれないが、随分冷たい対応をされたのは確かだ。

 ここで鞄の中身のチェックをされ、幾つか質問された。
 問題になったのは、今回でセルビア入国が3回目だということ。しかも旧ユーゴの国々をまわっているのも問題視された。
 「お前はジャーナリストだろう?」というのが先方の言い分だった(見られてはまずいものでもあるのだろうか)。

 仕事を辞めて貯金で旅をしているなんて言ったら、即刻出て行けと言われかねない。
 「違う、私は学生だ。」と、ブダペストで作ったばかりの国際学生証を見せた。この1枚のカードにすがるしかない。

 「専攻は?」
 「彫刻」(彫刻にしておいて良かった)

 実はこの時、鞄の中にはマリウスにもらった彫刻が入っていた。
 今気付いたのだが、おそらくこの彫刻作品が自分の証言を裏付けてくれたのだと思う。
 当時は必死でそこまで頭がまわらなかったのだが、本当にいろいろな人に助けられてこの旅が続けられたのだ。マリウスを含めみんなに感謝したいと思う。

 取り調べは30分以上にも及んだ。押し問答が続いたがこちらはただひたすら「私は学生だ。」と言うしかない(ドラガン・ストイコビッチ氏(現名古屋グランパスエイト監督)のファンだとも伝えた)。

 結果的に向こうが折れる形で入国を許可された。
 嬉しかったのだが、自分一人の為に長時間待たせてしまった他の乗客の手前、神妙にしていた。バスに乗り込む際、他の乗客たちに待たせてしまったことを謝った。



 バスは21時過ぎにベオグラードに到着した。

※地図はこちら

おまけ(その9)『ビフォア・ザ・レイン』

2010-06-18 12:21:00 | おまけ
(96)ブダペスト③(ハンガリー)のおまけ記事



 映画『ビフォア・ザ・レイン( BEFORE THE RAIN )』(ミルチョ・マンチェフスキー監督の初の長編作品)を紹介したい。



 物語は、第一部【言葉】、第二部【顔】、第三部【写真】と三つに分かれるが、全編がつながった一つの物語になる。
 それはメビウスの輪のように終わりのない無限ループになっている。
 人々の憎悪は途切れることなく連鎖してしまうのだろうか。

 映画の冒頭に「時は死なず、巡ることなし。( Time never dies.The circle is never round.)」という言葉が出てくるが、そこに同じ過ちを繰り返してはならないという想いがこめられている気がする。
 雨は憎しみを洗い流してくれる。この雨こそが祈りなのだろう。

※映画の最後に出てくる言葉も紹介したい

 Time doesn't wait.The circle is never round.(時は待たず、巡ることなし。)



・映画の予告動画はこちら

※英語字幕付き



・映画本編はこちら

※日本語・英語の字幕付きの動画は見つからなかった。

(96)ブダペスト③(ハンガリー)

2010-06-17 23:33:28 | ハンガリー
 Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))から夜行列車で約14時間かかり Budapest (ブダペスト)(ハンガリー)に到着した。



 このタイミングで戻って来たのは、オペラハウス(国立オペラ劇場)オペラを観る為だった。3週間前に前売券(約1500円)を購入していたのだ。
 劇のタイトルは『 Leonce es Lena ( Leonce and Lena ) 』。内容は喜劇に近いようだが、言葉が分からないので雰囲気を味わっただけだ。
 日本で言うならば、ここは歌舞伎座にあたるのではないだろうか(歌舞伎の方が庶民的な感じがするが)。
 現在建替え中の歌舞伎座だが、昔一度だけ観劇に行ったことがある。屋号を呼ぶ掛け声が飛び交う雰囲気の中で気楽に観劇出来る方が自分には合っている気がする。



 他には、旅人達とトカイワインを飲んだり、温泉チャイナ・マーケットに行ったりしている。

 トカイワインは、スロバキア国境に近いハンガリー北部の Tokaj (トカイ)地方(世界遺産)で生産される白ワインで、世界三大貴腐ワインの一つとされている。フランスブルボン朝の君主ルイ14世(1638年~1715年)が「王者のワインにしてワインの王者」と絶賛したらしい。
 とにかく甘くて、お酒と言うより高級なジュースのような感じだ。お酒の飲めない自分でもこのワインなら楽しんで飲める。

※世界三大貴腐ワインの産地は、他に Sauternes (ソーテルヌ)(仏)と Trockenbeerenauslese (TBA)(トロッケンベーレンアウスレーゼ)(独)

 温泉は Rudas (ルダシュ)温泉に行っている(入浴料約300円)。
 ちなみにブダペストには幾つか温泉があり、Kiraly (キラーイ)温泉は、同性愛者の集まる温泉として有名だった。
 怖いもの見たさで行った旅行者がいろいろボディータッチをされたことを武勇伝として語っていた。

 チャイナ・マーケットはブダペスト郊外にある。トラムを使用して行ってみた。
 そこは広大な市場で数多くの中国人がいた。正直これだけの人がどうやって入国出来たのか不思議だった。ハンガリーは旧共産圏の国なのでビザが不要なのかもしれない(真相は不明)。
 ここでウィンドブレーカーを購入している(約千円)。



 また、料金が約200円と安かったので映画も幾つか観ている。
 中でもマケドニア(と London (ロンドン)(イギリス))を舞台にした映画『ビフォア・ザ・レイン』( Skopje (スコピエ)(マケドニア)出身のミルチョ・マンチェフスキー監督の作品) は旅仲間から是非観るべきと勧められた作品だ。

※ミルチョ・マンチェフスキー監督のHP(英語)はこちら

※映画『ビフォア・ザ・レイン』のおまけ記事はこちら



 最後に書いておきたいことは、ここで国際学生証を購入したこと。他の国ではニセモノしか作れない場合がほとんどだが、ブダペストではなぜか本物が作れた。

 この旅の間、現地の人と仲良くなると必ずといっていいほど職業を聞かれた。最初のうちは「仕事を辞めて、貯金で旅をしている。」と正直に答えていたのだが、この答えは相手の反感を買うことが多かった。自分が旅して来た国の人々は、毎日生きていくのに精一杯だったからだ。
 「いいな日本人は。俺なんか一生旅なんて出来ないさ。」と嫉妬され、変な空気になってしまうのだった。その度に申し訳ない気持ちになるので、嘘も方便ということでいつからか職業を学生と名乗るようになっていた。
 というわけで、これで一応学生の身分証を手に入れたことになる(幸い日本人は童顔なので学生に見える)。
 専攻を建築美術としておくのが、旅行するのにもっともらしいように思えた。自分は絵を描けないので芸術系大学の彫刻専攻ということにした。絵を描けると思われると絵を描いてくれと言われる危険性はあるが、彫刻専攻でも彫刻作品を作ってくれとは言われないだろうと判断したからだ。

 結論から言うと、この学生証には何度も助けられた(記事はこちらこちら)。そして、心を痛める出会いもあった(記事はこちら)。

※地図はこちら

(95)ヴェネツィア④(イタリア)

2010-06-13 02:30:16 | イタリア
 Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))滞在三日目。

 今日のメインイベントは、ACヴェネツィア(現在の FBCユニオーネ・ヴェネツィア)とユヴェントスF.C.の試合だ。
 当日券は売り切れの為、ダフ屋を探して手に入れるしか方法はない。何とかダフ屋を探し出して当日券を手に入れた(ゴール裏の席で約3000円)。



 スタジアムの選手入場口で大野さん(仮名)と選手が到着するのを待っていると、モトスカーフィ(水上タクシー)に乗って選手が続々やって来た。まず最初にユヴェントスの選手達が到着した。

 (写真中央の人物は、ジネディーヌ・ジダン氏(元フランス代表))



 選手達は目と鼻の先だ(5~10m位)。そばにいた日本人の若い女性達が黄色い声で叫ぶ。キャーという声が響いた。

 「インザギー!!」(フィリッポ・インザーギ選手(現 ACミラン)(元イタリア代表))
 「デルピエロー!!」(アレッサンドロ・デル・ピエロ選手)(元イタリア代表))

 次に到着したのはヴェネツィアの選手達だ。

 名波浩さん(元日本代表)はチームメイトと一緒ではなく、一人で登場した(チームスタッフと一緒だったかもしれない)。
 Sarajevo (サラエヴォ)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)の日本大使館で読んだ新聞に名波さんのセリエA初ゴールの記事があったが、言葉も文化も違う異国の地で活躍するのは本当に大変なことだと思う。
 
 彼のその背中が全てを物語っていた。さっきまでユヴェントスのイケメン選手達に黄色い声で声援を送っていた女の子達も何も言葉を発しなかった。
 もうちょっと離れたところにいれば、遠くから何か声援を送れたかもしれない。
 だが正直言って、必死に戦っている人を目の前にしてかけられる言葉は何もなかった。
 もし自分が普段から名波さんの熱烈な大ファンで、いつも一生懸命応援していたならば、声援を贈る権利があったかもしれない。同じ苦しみを分かちあえる同志として。

 サッカー後進国から来た日本人選手が、チームメイトに受け入れてもらう為には、レベル2つ位の実力差を見せるか、抜群のコミュニケーション力で打ち解けるしかないと思う。それ位ハードルが高いのではないだろうか。

※名波さんはこの経験をバネにして、日本代表が優勝した2000年のアジアカップ(レバノン大会)で大会MVPを獲得している。



 スタジアムに入ると、席は仮設スタンドだった。設備的にも十分ではないと感じた。
 余談になるが、このクラブは昨年経営が破綻(はたん)してしまい、2009-10シーズンセリエDからの再スタートとなっている。



 練習風景で覚えていること。

 まず、エドガー・スティーヴン・ダーヴィッツ氏(元オランダ代表)の体のキレが凄かったのを覚えている。ゴールポストにひたすら張り手をしていた。相撲でいう鉄砲だ。

 ジダンとデルピエロがパス交換をしていたのも覚えている。
 ジダンはどんなボールでもピタリとトラップしていたが、デルピエロは3回ほどトラップミスをして後ろにボールを取りに行っていた。
 おそらく、ジダンの吸いつくようなトラップに対抗心を燃やしていたのではないかと思う。完璧さを求めなければ、普通にトラップできるようなパスだったからだ。
 
 (写真中央やや下の位置に写っているのがジダン)



 試合が始まると、戦前の予想通りユヴェントスの一方的な試合となった。選手のレベルが違う。
 ヴェネツィアでは、名波さんが一番上手い。キープ力があるのでボールを取られないが、味方のサポートが少ない為、結果的に相手のファールを誘うプレーが多かった。

 試合は4-0でユヴェントスが勝利した。インザーギがハットトリックを達成したゲームだ。



 試合後、ユヴェントスファンがスタジアムに残って「セリエB」と大合唱していた。
 拳(こぶし)を突き出して親指を下に向けている。完全にヴェネツィアを小馬鹿にしていた。
 近くに美しいイタリア人女性がいたのだが、その綺麗なお姉さんまでも子供みたいに「セリエB」と連呼しているのを見て、興ざめしたのを覚えている。

※結局1999-2000シーズンで18チーム中16位だったヴェネツィアは、セリエBに降格になってしまった。



 滞在四日目。この日は、大野さんと街を散策しており、たまたま見かけたドイツの写真家 Jan Kobel の写真展を見学している( Jan Kobel のHP(ドイツ語)はこちら)。

 そしてこの日の夜行列車で Budapest (ブダペスト)(ハンガリー)へ向かうことになっていた。楽しい時間はあっという間に過ぎるものだ。

 本当に大野さんにはお世話になったと思う。そして何よりもその人間性に感銘を受けた。
 年齢は自分の方が上だったが、人間的には彼の方がずっと大人だと感じた。

 駅まで見送ってくれた大野さんに心からお礼を言って、夜行列車に乗り込んだ(大野さんは現在も異国の地で頑張っておられる)。



※地図はこちら

(94)ヴェネツィア③(イタリア)

2010-06-12 20:14:45 | イタリア


 Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))滞在二日目に道に迷った際、一人の旅人に出会った。
 
 前述の BONO (U2)も道に迷ったそうだが、ヴェネツィアは道が複雑に入り組んでおり、突然進路を断たれることがよくあった。運河(水路)が行く手を阻(はば)むのだ。



 特にガイドブックの類(たぐい)を持っていたわけではなく、頼りになるのはツーリスト・インフォメーションでもらった地図だけだった。 とは言うものの、いちいち地図を見ながら歩くのは面倒くさかったし、今まで自分の勘で切り抜けてきたという自負みたいなものがあった。
 しかしこの街では自分の勘は頼りにならず、結果的に自分が今どこにいるのかさえ分からなくなってしまった。

 そんな時前方にいる一人の旅行者が目に留(と)まった。手には『地球の歩き方』を持っている。これは渡りに船とばかり、早速声をかけた。
 しかし、何と彼もまた道に迷っていたのだった。

 彼の名は大野さん(仮名)といい、スイスでフレンチのシェフをされているらしい。休暇を利用して小旅行に来たらしいのだが、異国を旅するのは初めてだそうだ。

 長期旅行者に初めて出会ったらしく、こちらに興味を持たれたようだった。
 いろいろ話をしているうちに意気投合して、一緒にムラーノ島へ観光に行ったりしている。



 夕方になり、夕食の時間が近づいてきた。
 「どこかで食事をしませんか。」と言うと、「是非私の作った食事を食べて下さい。」とのこと。こんなに嬉しい提案はない。早速食材を買出しに行くことにした。

 八百屋に着くと、大野さんはフランス語で会話を始めた。イタリア語とフランス語はもともとラテン語から派生した言語なので、通じる部分もあるようだ。
 とそこに、近所のおじさんが入ってきた。
 「 Buongiorno (ボンジョールノ)(こんにちは)と元気よい挨拶をするこのおじさんは、とてもダンディーだった。
 この時、イタリアのファッションのレベルの高さを肌で感じたように思う。この位のお洒落は一般的なのだ。観光地ということを差し引いても、そこに文化の深さを感じた。

 八百屋で野菜を買い、他のお店で肉とワインを購入した。
 しかも、代金は全て大野さんが払ってくれた。「お金を払います。」と言っても彼は聞き入れなかった。
 「そのお金で旅を長く続けて下さい。」と彼は言う。
 結局大野さんの好意に甘えさせてもらった。



 ペンションに戻り、食事を作ることになったのだが、何も手伝わなくていいとのこと(もし手伝ったとしてもかえって足手まといになるだけだっただろう)。
 それにしても手際(てぎわ)がいい。普段作っている量に比べれば2人分など朝飯前なのだろう。

 今となっては料理の写真を残しておかなかったことが悔やまれる
 サラダから始まりメインディッシュまで、この旅で一番美味しい食事を頂いたと思う。
 実はこの時食べたトマトのサラダがとても美味しかったおかげで、嫌いだったトマトが食べられるようになった。トマトがこんなにも美味しい食べ物だとこの時初めて知ったような気がする。

 買出しの帰りの光景として覚えている場面がある。
 とあるレストランの前を通り過ぎた時、中に日本人男性と思われる旅行者がいた。食事が出されるのを待っているらしい。特に何もすることなく寂しそうにしていた。
 それはまるで昨日の自分の姿だった。

 食事は単なる栄養補給ではなく、人生を楽しくするものなのだろう。
 楽しい食事が出来た時は本当に幸せを感じる。

 そして、美味しい料理を作る根底にあるのは、食べてもらう人に喜んでもらいたいという気持ちだと思う。大野さんは謙虚な方だがサービス精神旺盛で、料理は愛情だということを身を持って体現されている方だ。



 食事を終え、ワインを飲んでほろ酔い加減になった大野さんが、突然持って来たギターで流したいと言い出した。
 こちらはギターを弾けないのであまり役には立てないが、とにかくやってみることになった。
 しかし、いざ街中に出ると、結構恥ずかしいようだ。人の多いところではなく、静かな公園で落ち着くことになった。
 持って来たギターケースに少額の小銭を入れ、大野さんはギターを弾き始めた。

 彼はクラシックギターを習っていたらしく、弾き始めたのは『愛のロマンス』(スペイン民謡、映画『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督)の主題歌)だった。他には、『スタンド・バイ・ミー』ビートルズの楽曲など。
 観客はいない。たまに通行人がいる位だ。酔っ払った若者がニルヴァーナの曲を弾いてくれと言ってきたりしたが、出来ないと断った。
 それでもコインを投げ入れてくれる人はいた。大野さんはとても気分よい時間を過ごせたようだ。



 その後宿に戻り、大野さんも同じペンションに泊まることになった。すでに他のホテルの部屋を借りていたが、こちらのペンションに空き部屋があったので借りることにしたのだ。



 翌日、一緒に ACヴェネツィア(現在の FBCユニオーネ・ヴェネツィア)とユヴェントスF.C.の試合を見に行くことになった。縁とは不思議なものだとつくづく思う。



 (写真は、ペンションで撮影したトイレ(外は運河)。下水がどこに流れるのか気になった。)



※地図はこちら

(93)ヴェネツィア②(イタリア)

2010-06-10 23:11:20 | イタリア
 【水の都】 Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))は、街全体が世界遺産に登録されている(登録物件名は【ヴェネツィアとその潟(かた))。
 ヴェネツィア共和国(697年~1797年)の首都として盛えたこの街は、他にも【アドリア海の女王】【アドリア海の真珠】など、様々な呼び方をされている。
 


 この街で観光したのは下記の通り。

サン・マルコ広場  ヴェネツィアといえばまずここを思い浮かべる。しばし水没する為、地球温暖化の影響が懸念されている。ここから運河へ向かう途中にある小広場の名称はサン・マルコ小広場となる。

サン・マルコ寺院  サン・マルコ広場に面した寺院でヴェネツィアのシンボル。街の守護聖人である聖マルコ(新約聖書マルコ伝の著者)の遺体を祀(まつ)る為、9世紀に建てられた(ロマネスク・ビザンチン建築)



ドゥカーレ宮殿  サン・マルコ寺院の隣にあり、かつてのヴェネツィア共和国の総督の居城。3階には世界最大の油絵と言われる『天国』(ティントレット( Tintoretto )( 1518年~1594年)作)がある。  

 (写真はドゥカーレ宮殿の門、羽の生えたライオンは聖マルコのシンボル=ヴェネチアのシンボルとなっている)



鐘楼  サン・マルコ小広場に面しており、高さは96.8mある。 エレベーターで上まで昇れる。1912年に再建された。



嘆き(溜息)の橋  ドゥカーレ宮殿から新牢獄へとかかる橋(16世紀に造られた)。外観は大理石で造られている。



コッレール博物館  サン・マルコ寺院の対面にある。14~18世紀のヴェネツィアの調度品や美術品を展示している。

アカデミア美術館  14~18世紀のヴェネツィア派絵画を数多く展示している。本来なら、大きな見どころの一つなのだが、中世の宗教画にあまり興味が無い為、さらっと見ただけで済ませてしまった。

アカデミア橋  大運河にかかる3つの橋の中で唯一の木製橋。ここからサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会が見える(著名な画家の絵の構図にもなっていたと思うが作者を忘れてしまった)。



・サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会  ヴェネツィアの建築家バルダッサーレ・ロンゲーナ( Baldassarre Longhena )(1598年~1682年)により建てられた教会(ヴェネツィアン・バロック様式)。当時流行していたペストが終焉したことを聖母マリアに感謝する為に建立されたらしい。

リアルト橋  大運河にかかる3つの橋の中で最大(長さ48m、幅22.1m)。最初の木造製の橋は壊れてしまい、アントニオ・ダ・ポンテの設計により大理石製にかけ替えられた(1592年完成)。橋の上にはみやげ物屋が並ぶ。

ムラーノ島  ガラス博物館があった。古代の異国のガラス製品も展示していた。ヴェネチアングラスの製造が始まったのは13世紀で、マエストロ(グラス職人)は島外に出られなかったらしい(技術の流出防止と火事対策の為)。

サン・ミケーレ島  広大な墓地があった。



 他にもいろいろ街を散策したと思うが、旅日記にメモしてあるのはこれ位だ。

 当時は世界三大カーニバルの一つと言われるヴェネツィアのカーニバルの開催前で、少しずつ盛り上がりを見せ始めたところだった。
 街にはカーニバルで被る仮面を販売しているお店をよく見かけた。





(写真は仮装した地元の若者たち)



 この街には大勢の観光客が訪れており、みな楽しそうだ。正直自分も誰かとその楽しみを分かち合いたかった。
 夜レストランに入ると特にそれを強く感じた。今まで幾度となく一人の食事をしてきても寂しいと思ったことはなかったが、ここでは堪(こた)えた。
 
 食事を待ちながら旅日記を書いていると、ウェイターの若者が話しかけてきた。どうやら日本の女の子に話しかける口説き文句を教えて欲しいらしい。I LOVE YOU.を日本語で何と言うのか等いろいろ聞かれた。
 
 昔インドを旅した時に、自称ガイドを名乗る胡散(うさん)臭い男が「俺は評判のいいガイドだ」と言って日本語で書かれた紙を見せてくれたことがある。
 そこにはお礼の言葉ではなく「この人危険です。騙されないで下さい。怪しまれないようにさりげなく断って下さい。」と書かれていた。

 思わずそのことを思い出して、日本人女性に嫌がられる言葉を教えようと一瞬思ったが、結局ちゃんと教えてあげた。この街で日本人女性に声をかけるのは彼一人ではないだろうし、女性の方も出会いを求めて来ているかもしれないからだ。

 前述の鐘楼のエレベーターに乗った時の話に戻るが、そこには自分と卒業旅行で来たと思われる日本人女性3人とエレベーターボーイしかいなかった。
 3人の女の子達は小柄で童顔だった(正直高校生位にしか見えなかった)。彼女達はみなエレベーターボーイを見上げてニコニコしていた。見つめられたその青年はシャイなのか顔を真っ赤にしていたのだが、彼女達にしてみればその青年と友達になりたかったのかもしれない。
 
 自分もそうだったが、日本人はみな童顔に見える。環境が恵まれているからかもしれない。



 結論から言うと、初日の夜は寂しい食事となってしまったが、翌日以降は楽しい食事が出来た。出会いとは不思議なものだ。 
 
※地図はこちら

(92)ヴェネツィア①(イタリア)

2010-06-03 06:00:00 | イタリア
 Belgrad ( Beograd )(ベオグラード)から Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))(イタリア)行きの客車にどれだけの乗客がいたのかよく覚えていないが、旅日記に書き残していることがある。

 それは深夜のことだった。
 クロアチアからスロベニアに入国する際、国境で入国拒否されたルーマニア人カップルがいた。彼らはスロベニアのビザが無かった為、真冬の寒さの中、国境で降ろされたのだった。ヴェネチアまでの切符を持っていたのでスロベニアはトランジットのはずなのだが、それでも許可が下りなかった。
 確かにヴェネツィアに観光に行くようには見えず、寄り添うように座っていた姿からはどちらかと言えば駆け落ちして二人だけの世界にいるような雰囲気にも思えた。貧しい国を出て新天地で二人の人生を始めたかったのかもしれない。
 ベオグラードからヴェネチアまでの切符の値段は、正確な金額を記録していないが確か数千円だった。教師の月給が$100位の国から来た彼らにしてみれば、決して安い金額ではなかったと思う。

 もしかしたらセルビア(当時のユーゴスラビア)、そしてクロアチアはルーマニア人にとってビザが無くても入国できる国なのかもしれない。そして分裂前のユーゴスラビアなら問題なかったのかもしれない。皮肉にも、分裂後のスロベニアは遠い国になってしまった。

 どちらにせよ、イタリア入国時に拒否される可能性もあったわけだが、観光で行く自分がすんなり通され、(真相は違うかもしれないが)人生をかけて異国に向かう彼らが降ろされたのではないかと思うと、なんとも遣り切れない気持ちになってしまった。職を求めて国外で不法入国で捕まったことがあると語った青年マリウスのことを思い出した。
 自分は本当に恵まれていると感じた。そして彼らに申し訳なく思った。



 そんなことがあったのだが、翌朝目を覚ますともうすぐヴェネツィアへ着くという時間だった。左手に美しいアドリア海が広がり、その先にヴェネツィアの街が見えた。まさしく【水の都】の名にふさわしいその光景の美しさにすっかりテンションが高くなり、何か楽しいことが始まりそうな予感は十分あった。



 18時間以上の列車の旅を終え終点ヴェネツィアに着いた後、最初にしたのは宿探しだ。これは意外とすんなりいい宿が見つかった。案内された場所はペンシオーネ(ペンション)だった。
 部屋にはキッチンも付いていて自炊も出来る。しかもカーニバル前の時期で予約が入っていないということで少し値段もまけてくれた(1泊約3500円)。



 ヴェネツィアの宿ということで思い出したが、この1年半後、U2BONO がこの街を休暇で訪れている。

 ヴェネツィアは路地が複雑に入り組んでおり道に迷いやすい。裏道で道に迷った彼は、方角を確認する為に付近にあったアメリカン・ホテルに入った。その時、ホテルのロビーにあったTVではニュース速報が流れていた。
 彼はその日を境に何もかもが変わってしまったと言っている。

 その日は2001年9月11日だった。
 
※地図はこちら

おまけ(その8)“ Balkan 2000 ”( Balkanika )と Sinéad O'Connor

2010-06-02 00:12:24 | おまけ
(91)ベオグラード③(セルビア)のおまけ記事



 Balkanika“ Balkan 2000 ”を紹介したい。

 Balkanika は、バルカン半島出身者たちで結成されたオーケストラバンド。
 世界各国で公演を行っているが、日本ではまだのようだ。

・“ Balkan 2000 ”のパフォーマンス映像はこちら



 興味を持たれた方は下記のHPもどうぞ。

・“ Balkan 2000 ”のHP(英語)はこちら

※残念ながらリンク先は削除された模様



 合わせて、アイルランドの生んだ孤高のシンガー Sinéad O'Connor (シネイド(シ(ン)ニード)・オコナー)の曲も紹介したい。

“ Thank You For Hearing Me ”の映像はこちら

" Petit Poulet "の映像はこちら

・こちらは比較的最近の映像と思われる。“ Silent Night ”こちら



 (2022年3月2日追記)

 ロシアがウクライナに侵攻している状況だからかもしれないが、久しぶりに聞いたこの曲が耳から離れなかった。

" 4 My Love "のYouTubeリンクはこちら

(91)ベオグラード③(セルビア)

2010-06-01 19:08:08 | 旧ユーゴの国々
 結局、Skopje (スコピエ)には1泊しかせず、夜行列車でBelgrad ( Beograd )(ベオグラード)(セルビア)へと戻った。
 所要時間は約9時間と、スコピエに向かった時より1時間短縮された。国境での審査時間の差と思われる。



 ベオグラードでは、かつてアジア横断時に会った旅人と再会している。インド Benares (ベナレス)(ベナリース)(バナーラス)( Varanasi (ヴァーラーナスィー))にあるマザー・ハウス(マザー・テレサの家)に行って来たそうだ。
 以前紹介させて頂いたマザー・テレサの言葉は、Calcutta (カルカッタ)(正式名称 Kolkata (コルカタ))のマザー・ハウスの壁に書かれたものだったが、ベナレスにもあるらしい。その壁に書かれた言葉を教えてくれた。

 Bloom where you are planted. (植えられた場所で花を咲かせなさい。)

 それはつまり、生まれ育ったところで懸命に生きなさいということであり、今いるその地で頑張りなさいということなのだろう。
 答えを外に求めるなという意味の言葉のような気がしてならなかった。



 ここベオグラードの街では、NATO (北大西洋条約機構)空爆(アライド・フォース作戦)(1999年)を題材にしたポストカードを購入している。様々な種類のポストカードが売られていた。



 また、ミュージック・テープが300円位で購入出来たので、 Sinéad ( Marie Bernadette ) O'Connor (シ(ン)ニード・オコナー(現在はシネイド・オコナーと表記されることが多い))のテープを購入している。
 シンニード・オコナーはアイルランド出身のシンガーであり、魂に響く歌唱力の持ち主だ。その魂に沁み入る歌声をユーゴの地で聞きたくなったのだろう。

 今は経済的にも豊かな国になりつつあるが、20世紀のアイルランドは IRA のテロ活動などいろいろ問題を抱えていた。
 メッセージ性の強い曲を作るミュージシャンたちが登場したのは、こういう時代背景があったからだろう。
 

 
 今でも後悔しているのは、Balkanika のテープ・CDを購入しなかったこと。
 Balkanika とは、バルカン半島出身者たちで結成されたオーケストラバンドだ。当時“ Balkan 2000 ”というアルバムが発売されていたが、どうせならCDで買いたいクオリティだった。しかし、CDになると値段が少し高くなる上に、Delhi (デリー)で購入したウォークマンでは聞くことが出来ない。
 結局、この後も何度か購入のチャンスはあったのだが、帰国してから買うことにした。
 しかし日本国内版は発売されておらず、探しても手に入らなかった(今ならネットで海外から取り寄せられるかもしれない)。

※ Balkanika の“ Balkan 2000 ”と Sinéad O'Connor のおまけ記事はこちら

 ベオグラードに1泊した翌日、旅仲間に駅まで見送ってもらって Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))(イタリア)へと向かった。

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