Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(114)アンタクヤ(トルコ)

2010-10-07 00:17:24 | トルコ
 Goreme (ギョレメ)の街に3泊した後、バスで Antakya (アンタクヤ、アンタキヤ)へと向かった。
 Aksaray (アクサライ)、Adana (アダナ)とバスを乗り継いでアンタクヤに着くまで8時間かかっている。

 トルコ東部にはいろいろ見どころがあり、興味もあったのだが、結果的に中東の国々を南下するべく先を急いだ。
 これから行くことになる中東の国々は暑さが厳しいのではないかという先入観があったので、なるべくなら涼しいうちに行っておきたかったのだ。
 


 アンタクヤはかつてアレクサンドロス大王後継者の一人、セレウコス1世ニカトール(紀元前358年~紀元前281年)が築いたセレウコス朝シリア(セレウコス帝国)(紀元前312年~紀元前63年)の首都だった(当時の名称はアンティオキア)。
 ここは中国からのシルクロードの終点とされている。
 かつて聖パウロ異邦人布教の拠点だったこの地は、キリスト教の5本山の一つとされている。
 シリアとの国境が近いせいか、軍人を多く見かけたのを覚えている。



 観光したのは、下記の通り。

モザイク博物館  近辺で発掘されたモザイク(画)の数々を展示している。予想以上の見ごたえだった。世界的にも評価が高いらしい。

聖ペテロの洞窟教会  聖ペテロ初期キリスト教徒が迫害から逃れる為この洞窟にやって来たらしい。



 散策していると、家具を作る作業場で働いている子供達に出会った。
 10歳位から彼らは働いている。
 こういう光景を今まで何度も見て来た。その度に自責の念に襲われながら。



 ここで日本人の旅人に出会っている。旅の経験豊富な中田さん(仮名)はこの後中東を旅するそうだ。 またどこかで会いましょうと別れたが、実際何度となく再会している(参考記事はこちら→ Damascus (ダマスカス)(シリア))、死海( Dead Sea )(ヨルダン)。

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(113)ギョレメ(トルコ)

2010-09-30 23:58:00 | トルコ
 Ankara (アンカラ)に3泊した後、Goreme (ギョレメ)へと向かった(バスで5時間)。

 ギョレメのあるカッパドキア地方大奇岩地帯であり、ギョレメ国立公園世界遺産にも登録されている。
 火山灰の地層が風雨の浸食によって削り取られ、固い部分だけが残って不思議な形の岩となったらしい。
 キノコのような形をした岩が数多く存在するほか、この地に住み着いた人々の地下都市跡岩窟(がんくつ)教会などが見どころになっている。



 到着2日目にツアーに参加した。

 カイマクルの地下都市ウフララ渓谷ケルヴァンサライ陶芸館

・カイマクルの地下都市  紀元前400年頃にはすでに人々が地下都市に生活していたらしく、多い時には約2万人もの人々がいたそうだ。蟻の巣のような構造をしている。

・ウフララ渓谷  川沿いに歩いた記憶がある。カッパドキア地方はかつてキリスト教徒が住んでいたらしく、礼拝堂も残っている。

・(スルタンハン・)ケルヴァンサライ  かつての隊商宿。当時の雰囲気を伝えている。

・陶芸館  ツアーの最後にはお決まりのようにショッピングの時間が設けられているが、ここトルコでもそれは同じだった。



 3日目にはレンタサイクルウチヒサル(【尖(とが)った岩】という意)まで行った。
 道中子供達とサッカーをしたりとのんびりしていたせいか、着いた頃には陽(ひ)が沈みかけていた。
 巨大な岩の城塞ともいうべきウチヒサルの展望台からは、辺りが一望できた。
 一帯が夕陽の色に赤く染まっている。とても印象的な光景だった。



 この地では夜も楽しかった。

 UEFAカップ(UEFAヨーロッパリーグの前身の大会)準決勝を地元の人々と共にTV観戦している。
 この試合はガラタサライ(トルコ)VSリーズ・ユナイテッドAFC(イングランド)で、ガラタサライが2-0で勝利した為、街中が大騒ぎになった。
 当時のガラタサライは史上最強ともいうべき戦力を誇っていたのではないだろうか。



 また、学生の旅行者達と夕食を共にしている。非常に優秀な大学の学生達で、純粋で素直な心を持っていた。旅慣れていないせいもあったかもしれないが、その謙虚さが素晴らしいと感じた。
 彼らは明日帰国の途に着くらしい。別れ際にインスタントのお味噌汁をくれた。この味噌汁は、長い間日本の味に飢えていた自分にとって、とても嬉しい贈り物だった(もったいなくてすぐに食べる気にはならなかった)。



 Istanbul (イスタンブール)にいた頃とは対照的に、この地では精力的に活動していた。
 旅が長くなるにつれ好奇心が摩耗していると感じていたが、自分の知らない世界を知ることで刺激を受け、テンションが高くなったのかもしれない。



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(112)アンカラ(トルコ)

2010-09-23 08:51:29 | トルコ
 旅仲間に見送られ、慣れ親しんだ Istanbul (イスタンブール)の街を去り、夜行列車揺られること約9時間半、早朝にトルコの首都 Ankara (アンカラ)に着いた。

 アンカラの街は都会だったが、イスタンブールに比べると見劣りする気がする。内陸にあるせいか気候も乾燥していた。
 実はトルコの首都がイスタンブールではなくアンカラだということをこの旅の間に知ったのだった。
 訪問した国の首都を見るという自分なりのこだわりがなければ、正直ここには来ていなかったと思う。見所が特にあるわけではないからだ。

 ここアンカラは、初代大統領ケマル・アタテュルク(1881年~1938年)によって首都に制定された都市で、現在は人口376万人の大都市だが首都と定められた頃は人口6万人だったそうだ。

 ここで観光したのはアタテュルク廟のみ。

 ここにはアタテュルクの墓と博物館があった。
 トルコ共和国建国の父と評されるアタテュルクの写真からは、崇高な理想・堅固な意志を感じ取れる。



 第一次世界大戦後、トルコは革命によってオスマン帝国からトルコ共和国へと生まれ変わった。その革命の中心人物がアタテュルク(当時の呼び名はケマル・パシャ)だった。
 アタテュルクは初代大統領就任後、独裁政治を敷き脱イスラム国家路線を推し進めた。
 独裁者でありながら、今でも成功した(正しい)独裁者としてトルコ国内で絶大な名声を誇っている。

 ここで衛兵の交替式を見たが、衛兵達の視線は、アタテュルク同様、鋭く厳しいものだった。人と交わす為の視線ではなかったと思う。



 また、日本大使館へ日本からの手紙を取りに行っている。友人達や家族からの手紙が旅先ではこの上なく嬉しかった。
 特にイスタンブールを発ってから、再び一人になって心細さを感じていた自分にとってこの手紙からもらった勇気というのは計り知れないと思う。

 ここ日本大使館の職員の方にお願いして一冊の冊子を頂いている。

 『現地理解教育資料集 トルコのすがた』(在トルコ日本国大使館付属アンカラ日本人学校発行)

 大使館の方にとっては、得体の知れない旅人に貴重な冊子をあげたくなかったのかもしれないが、結果的に譲って下さった(この冊子は今も大事に保管している)。この場を借りて再度御礼申し上げたい。



 この時読んでいた本の文章を旅日記に書き写している(誰の言葉か不明)。

 「勇気とは批判のまっただ中に飛び込むこと、 自分を信頼すること、自分の選択の結果を受け入れ、 そこから何かを学びとることである。また、自分自身を信じ、自分で決定を下した人生を送ることに価値があるのだと信じ、他人が一方の端をもって逆の方向に引っ張ろうとする糸を、断ち切ってしまうことである。」



 日本にいた時は、旅に出るという自分に反対する家族がいた。

 しかし、ここでは誰も自分のことに干渉しない。
 たまに「日本人の旅行者は無宗教の奴が多いが、なぜ神(アッラー)を信じないんだ?」という議論好きな地元のおじちゃんに説教される位だ。

 を断ち切った後、自分で自分をしっかり律しないことには、楽な方へと流されていくだけだと実感した。ネジを締め直す必要がある。

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(111)イスタンブール④(トルコ)

2010-09-16 23:58:55 | トルコ
 長期旅行者の中で使われている用語に【沈没】というのがあった。
 沈没とは特に観光もせず一ヶ所に長期滞在することを言う。沈没している旅人の多くは、旅に疲れた人達だった。旅の目的をどこかで忘れてしまったのかもしれない。
 中にはドラッグ目的で沈没する旅人もいた。



 ここ Istanbul (イスタンブール)は多くの旅人が行き交う土地だった。

 アジアからヨーロッパへ、そしてヨーロッパからアジアへ。

 自分が滞在した3週間の間に多くの旅人がここイスタン(ブール)を通過していった。

 この3週間の滞在を沈没と呼べるのかは分からない。何年もかけて旅をしている長期旅行者にしてみれば3週間はほんの一時だからだ。



 この時期、春休みということで大学生の旅行者も多かった。また目的意識を持った旅人が多く、彼らは日々ハードなスケジュールを組んで観光し、ほんの数日滞在して宿を出て行った。
 しっかりと目的意識を持った人達を横目に見ながら、観光もせずにダラダラと日々過ごしている自分が情けなくもあった。

 ここで足踏みしていたのは、イスタンの居心地が良く先へ進む決意が出来なかったからだと思う。
 この先シリア方面に向かう予定だったが、食事の質も落ちるし、乾燥した気候の中に身を置くことになる。
 正直今までの旅で疲れきっていたのだろう。
 残金=残りの旅の日数ということもあり、日々倹約を心がけていたのだが、現地の人々と同じ価格で物を買うには非常に面倒な交渉を要する。僅(わず)かな金額でもぼられたと分かれば腹を立て、時に喧嘩腰になることさえあった。
 しかし、またあの生活に戻らなくてはならない。



 この時読んでいたディケンズ(英)の『クリスマス・キャロル』の文章を旅日記に書き記している。



 (精霊(幽霊)が語った言葉(その1))

 「誰しも人間となれば、その中の霊魂が、同胞の間を歩きまわり、あちこちとあまねく旅行しなければならないように定まっているのだ。もし生きているうちに出て歩かなければ、死んでからそうしなければならないのが運命なのだ。世界中をさまよい歩いて―ああ、なさけないことだ―そして今はもうどうすることもできないで、生前に自分が助けてやることもできた人たちを眺めていなければならないとは!」

 (その2)

 「これは生きている時に自分で作った鎖なんだ。それに今つながれているんだ。」



 先へ進もう。生きていることは自由そのものだ。

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(110)イスタンブール③(トルコ)

2010-09-09 23:16:10 | トルコ
 Istanbul (イスタンブール)で観光したのは下記の通り。



トプカプ宮殿(世界遺産)  かつてのオスマン帝国支配者の居城。イスタンブールを陥落させビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼした【ファーティフ(Fatih)(征服者)オスマン朝第7代皇帝メフメ(ッ)ト2世(1432年~1481年)によって建てられた。現在は博物館になっている。世界有数の大きさのダイヤ【スプーン屋のダイヤモンド】や預言者ムハンマド(570年頃~632年)の剣や歯、筆跡などが展示されていた。

スルタンアフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)(世界遺産)  その名の通り美しいブルーのモスク。イスタンブールのシンボルとなっている。スルタン・アフメ(ッ)ト1世(1590年~1617年)の命により建てられた。6本のミナレット(ミナーレ)を持つモスクは世界的にも珍しい。

 (昼に撮影)



 (夜に撮影)



アヤソフィア(博物館)(世界遺産)  ビザンツ建築の最高傑作。もともとはビザンツ帝国時代にコンスタンティヌス2世(317年~361年)によって教会として建てられた(360年)。その後オスマン朝時代にモスクとして使われることになる。ビザンツ様式の大聖堂が完成したのはオスマン朝時代の537年。もともと教会だったこともあり、キリスト教のモザイク(画)も残っている。  



イエレバタン・サルヌジュ(地下宮殿)(世界遺産)  地下にあるローマ時代の貯水池。1984年の大改修の際にメドゥーサの顔が彫られた柱が発見された。

カーリエ(・モザイク)博物館(世界遺産)  ビザンツ美術の最高傑作と言われる。ビザンツ帝国の大宮殿にあったモザイク(画)を復元。

グランドバザール  ちょっと近代的な感じもするバザール。

ヴァレンス水道橋  ビザンツ時代の378年に完成した水道橋。現在は使われていない。

ガラタ塔  新市街にある高さ67mの塔。周囲を一望出来る。

軍事博物館  所蔵品5万点のうち約9千点を展示。世界でも有数の規模を誇る。軍楽隊が【トルコ行進曲】等の演奏を披露してくれた。衛兵が人形のように微動だにしなかったので、人間か人形か確認するべく近づいたところ、ニヤッと笑われた。

ボスポラス海峡クルージング  クルージング船に乗り込むと給仕の青年がジュースを差し出した。「これは無料か?」と英語で聞くとそうだと言う。喉が渇いていなかったがサービスならもらおうということでジュースを飲んだ。するとお金を要求してきた。実は彼は英語を話せないらしい(仲裁に入った人が教えてくれた)。ひと悶着あった後、お金を払わないということで決着したのだが、クルージングを楽しむ気が薄れ途中で下船してしまった。今となってはもったいないことだと思う。

 (写真は、クルーズ船から見たガラタ橋とガラタ塔)



 また、たまたま海辺を散歩していた時に、岸辺に乗り上げた船(座礁船)を発見した。
 おそらく昨年(1999年)のイズミット地震(別名トルコ北西部地震)のせいと思われた。



 他には、シリア領事館にビザを申請に行ったりしている。

 あと印象に残っているのは、サッカー・トルコリーグ(トルコ・シュペルリガ)ガラタサライVSフェネルバフチェSKの試合を見に行ったこと。
 両チームともイスタンブールを拠点とする強豪チームだ(ガラタサライは後年稲本潤一選手(現川崎フロンターレ)が所属し、フェネルバフチェは後年ジーコ氏を監督として迎えたことで日本でも話題になった)。

 当時のガラタサライには、【東欧(バルカン)のマラドーナ】と呼ばれたハジ(ゲオルゲ・ハジ)氏(元ルーマニア代表)や、GKのタファレル(クラウディオ・タファレル)氏(元ブラジル代表)、ハカン・シュキュル氏(元トルコ代表)等のスター・プレーヤーがいた。

 試合は、0-1でガラタサライの負け。35歳のハジが元気に動き回っていたのを覚えている。彼は血気盛んで年長者には思えなかった。なんだか子供のまま大人になったようだ。

 (写真はコーナーキックを蹴りに来たハジ)



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(109)イスタンブール②(トルコ)

2010-09-02 21:28:50 | トルコ
 Plovdiv (プロヴディフ)を22時に発った夜行列車は、14時間半かかって Istanbul (イスタンブール)(トルコ)に着いた。

 イスタンブールの街はブルガリアよりもずっと都会に感じられた。そして洗練されている。
 前回この街に来た時は、先を急いでいてトランジットにすぎなかったのだが、今回はゆっくり観光しようと思う。



 宿に落ち着くと、今までの旅の疲れがどっと出たのか、この街でのんびりしたいと思うようになった(実際この街に3週間滞在している)。

 食事も美味しいし、日本と比べて物価も安いので観光をしなければ一日千円位で十分生活出来たからだ。
 ブランチとしてバケット(日本で言うフランスパン)や(さば)サンドを食べ、夜はちょっと豪勢にレストランでトルコ料理を堪能した。豪勢と言っても200~300円で結構お腹いっぱいになれたのだが。

 (写真は、サバサンドを販売する屋台船)



 毎日旅仲間とワイワイ楽しんだ時期でもあった。イスタンブールは長期旅行者にとってしばし羽を休める街になっていたような気がする。

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(61)イスタンブール①(トルコ)

2009-12-17 00:12:27 | トルコ
 Trabzon (トラブゾン)から Istanbul (イスタンブール)へと向かうバスの同乗者の中に、浮浪者のようなお爺(じい)さんが一人乗っていた。風呂に入っていないのか体臭がきつく、周りの乗客が嫌がっていた。
 そのせいか車掌の彼に対する態度はきつく、なぜか彼は950万TL(トルコリラ、当時の通貨単位)(約2千円)を支払わされていた(自分は700万TLを支払った。正規の値段は不明)。
 お爺さんも何か言い返しているのだが、うまく通じていないようだ。言葉が違うのだろうか。もしかしたらクルド人かもしれない。

 クルド人は、かつてオスマン帝国の領内にその居住地があったが、第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れたことにより、その居住区がトルコやイラク、イラン、シリア、アルメニアなどに分断されてしまった。いまだに彼らは国を持たない生活が続いている。



 17時間半かかり、翌朝イスタンブールに着いた。
 着いたのはおそらく、エセンレル・オトガル(長距離バスターミナル)と思われる。そこからメトロを使って Sultanahmet (スルタンアフメット)地区方面の安宿街へと向かった。 



 イスタンブールは長期滞在しやすい土地で、多くの旅人がその疲れを癒す場所になっていた。
 見どころも多いし、食事も美味しい。インド・パキスタン・イランと通過してきた旅人にとっては物価が高いと感じるかもしれないが、それでもヨーロッパよりは安い。



 イスタンブールには4泊しているが、観光はあまりしていない(ルーマニアへ行った後再び戻って来るつもりでいた)。
 ここでルーマニアビザ($1)(1ヶ月有効)を取得している。

 観光したのは下記の通り。

ガラタ橋  旧市街新市街のかけ橋。旧市街側の Eminonu (エミノニュ)では、有名な(さば)サンド(その名の通り焼き鯖のサンドイッチ)を売るスタンドが並んでいる。1個100円位だったが、美味しかった。

ベリーダンス見学  夜のイベントとしてベリーダンスショーを見学できるレストランが幾つかあった。ダンスに誘われ参加すると服を脱がされることがあるのでその覚悟が必要。

ラマダン(ラマダーン)期間中ということもあり、近くの広場では夜にお祭り騒ぎになっていた(あるいは、ちょうどラマダン明けだったのかもしれない)。ラマダンの期間イスラム教徒は日中断食をしなくてはならず、夜の食事はちょっとしたイベントのようだ。




 イスタンブールにはブロンド・イケメンのジゴロのような輩(やから)が多く、日本人女性がよく引っかかっていた。
 朝一人で到着したと思われる若い女性(旅人)が、夕方には地元のイケメンと手をつないで嬉しそうに歩いていた。
 その後どうなったか知らないが、後日ジゴロの一人から小馬鹿にされた口調でこんなことを言われたのを覚えている。

 「日本の女性はすぐ体を許すし、お金をくれるぜ。」

 中には、日本に帰ってからも送金する人がいるそうだ。
 全ての日本人女性がそうだと思うなと反論したが、彼らがそれで生計を立てているのは事実のようだ。

 また、こういう格言(?)を旅人から聞いた。

 「日本でもてない女性はイタリアに行け。それでももてなかったらイスタンブールに行け。」



 話変わって、急な坂を歩いていた時のこと。幼稚園児位の小さな女の子が水を汲んだタンクを両手で運んでいた。これが毎日の彼女の日課なのだろう。
 一時の情けなどかえって良くないのかもしれないが、黙って通り過ぎることが出来ずに思わず手伝った。
 坂を上り終えたところで、「 Tamam (タマーム)( OK )と言われ、タンクを返した。

 たとえどんなに小さな年齢でも、生きていく為には働かなくてはならないのだろう(かと思えば、簡単にお金を得る前述のジゴロのような輩(やから)もいるが)。

 自分が旅をして見て来たもの、それは働く人々の姿だった。



 イランの Tehran (テヘラン)から共に旅をしてきた二宮さん(仮名)とここで別れ、一人夜行列車で Bucharest (ブカレスト)(ルーマニア)へと向かった。

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(60)トラブゾン(トルコ)

2009-12-10 22:58:01 | トルコ
 Trabzon (トラブゾン)に着いた翌日にまずしたかったこと。それは友人へメールを送ることだった。
 当時は今よりインターネット普及率が低く、日本のインフラ整備は先進国水準より遅れていると言われていた(2000年問題で騒いでいた頃の話だ)。

 フリーメール((例) Hotmail )という便利なものを教えてもらい、旅仲間とアドレス交換をしては、その後の旅の報告をしていた。
 旅先で一人の寂しさが身にしみることもある。そんな時の一通のメールに何度となく救ってもらった気がする。
 人は一人では生きられない。

 アルメニア・ジョージア(旧グルジア)とネットが出来なかったので、10日以上チェックしていなかったメールを見たかった。
 しかし、ここのネットの接続は遅かった。ネットカフェはゲームセンターみたいな役割らしく、インターネットをする人は少ないようだ。
 延々待たされた挙句、ほとんど何も出来ずに料金だけが加算されていった。
 結局、1時間位粘ったが、メールを見ることが出来なかった。料金をまけてもらって外へ出た。


 
 トラブゾンは黒海沿岸にあり、トルコ東北部における経済活動の中心となっている。
 紀元前7世紀にギリシア人によって交易都市として建設され、古くは Trapezous (トラペズス)、Trebizond (トレビゾンド)とも呼ばれた。
 1204年~1461年の間、トレビゾンド帝国の首都として、またその交易港として栄えた。
 

 トラブゾンの街はそれほど大きくはないので観光もほとんどしていない。

 メイダン公園の周辺や海辺を散策したりした。
 ここから臨(のぞ)んだ黒海は、冬の曇天(どんてん)と相まって暗い印象が強い。

 他にはバザール(市場)にも行っている。
 ここではロシア人の姿をよく見かけた。フェリーでロシアからやって来るのだろう。
 ちなみにこのバザールで電動式ひげそりを購入した。



 トルコ東部を観光するか迷ったが、夜行バスで Istanbul (イスタンブール)へと直行することにした。
 どうしても2000年の幕開けをルーマニアで迎えたかったのだ。先へ急がねばならない。

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(59)クタイシ(ジョージア)~トラブゾン(トルコ)

2009-12-03 06:34:08 | トルコ
 Kutaisi (クタイシ)で1泊した後、夜行バスで Trabzon (トラブゾン)へ向かった。
 Istanbul (イスタンブール)行きのバスを途中下車する形になる。

 ジョージア(旧グルジア)の国境越えは、あまりいい噂を聞いていなかった。賄賂を要求されることもざらにあるという。
 イミグレでは、緊張しながら審査の順番を待っていたと思う。
 
 その時の審査官は若い女性だったが、非常に高圧的な態度を取っていた。まさしく権力を振りかざしていたと言える。
 国境を越える人々は皆縮こまって申し訳なさそうにしていた。そうしないと、この高圧的な審査官にどんないちゃもんをつけられるか分からない。

 さて、どうしたものかと自分の番が近づくにつれいろいろ思案していたのだが、それは杞憂(きゆう)に終わった。
 救ってくれたのは一人の小さな子供だった(それもまだ1~2歳位)。

 実は、自分の前に若いパパの Mr.Artur Gerts とその息子 Alex 親子がいたのだが、父親に抱きかかえられた Alex がとてもキュートで、見る者を和やかな気持ちにさせてくれたのだった。

 先程までこわい顔をしていた審査官の表情がほころんだ。子供の笑顔の力はすごい!Alex さまさまだ。
 おかげで、国境を問題なく通過することが出来た。

 ちなみに Artur の奥さんはドイツにいるらしかった。彼自身は無職のようだったが、複雑な事情があるようにも思えたので、深くは聞かなかった。
 国境を無事越えられただけで十分だ。どうもありがとう。



 クタイシを17時に発ったバスは、10時間近くかかってトラブゾンに着いた。時差が2時間あるので、着いたのは午前1時だった。

 まず宿を決めて食事に行った。
 初めて食べるトルコ料理は美味(おい)しかった。しかし、物価は高く感じられた。イランでは1食100円で足りたが、トルコはその3倍くらいかかる。
 バケット(フランスパン)は食べ放題だったので、スープに浸したバケットばかりを食べた気がする。特にこの街では物価の高さが気になって仕方がなかった。

 いよいよアジアからヨーロッパへとステージが変わるのだ。
 


 ホテルに戻って感じたこと、それはささやかなことで幸せを感じれるということ。

 温水シャワーで温まってベッドでゆっくり眠れるだけで幸せだ。
 ちょっと風邪気味だが、ここで2泊すれば治るだろう。
 ジョージアで出会った人々に比べれば、自分ははるかに恵まれている
 
 緊張から解放されたのか、ほっとして深い眠りについた。

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