Brussels ( Bruxelles )(ブリュッセル)を半日観光した後、Luxembourg (ルクセンブルク)(ルクセンブルク(大公国))まで列車で出掛けた(片道約3時間位)。
当時、ルクセンブルクという国名から連想出来たのは【ベネルクス3国】ということ位。ベネルクス3国とは、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを併せて呼ぶ名称だ。
面積は神奈川県と同程度の大きさで人口は約50万人。
農業国から工業国へ、そして現在では第三次産業を中心としており、金融大国でもある(国民の所得は世界トップレベル)。
税率が低いことから他国の企業を誘致しやすく、事実上のタックスヘイブン(租税回避地)となっている。
【北のジブラルタル】の異名を持つ城砦都市で、城砦に囲まれた旧市街は世界遺産に認定されている。
ローマ帝国時代から、この地は2つのローマ街道が交差する交通の要衝だった。
963年にアルデンヌ家(ベルギー南東部、ルクセンブルク、フランスの一部を含む地域を領有)のジークフリート伯爵(922年~998年)がこの地を手に入れた。
ジークフリートは西フランク王国(843年~987年)のルイ2世(ルートヴィヒ2世)(846年~879年)(在位877年~879年)の孫で、神聖ローマ帝国(962年~1806年)初代皇帝オットー1世(912年~973年)(在位962年~973年)の姻戚だった。
この地はアルゼット川に囲まれた岩だらけの崖地だったが、地理的に重要な戦略拠点ということもあり、ジークフリートによって堅固なボック城が建設された。
当時、砦を“ lucilinburhuc ”(小さな城) と呼んでおり、それが変化して“ Luxemburg ”となった。
その後要塞は強化されて街は拡大していったが、1443年にヴァロワ=ブルゴーニュ家のフィリップ善良公(フィリップ3世)(1396年~1467年)によって征服され、ブルゴーニュ公爵領ネーデルラントの一部に組み込まれた。
更にネーデルラント一帯はハプスブルク家領となり、ルクセンブルクはハプスブルク領ネーデルラントの一州としてスペインやオーストリアの支配を受けた。
フランス革命期にはフランスの支配を受けたが、1815年のウィーン会議の結果、ドイツ連邦に加盟しながらもオランダ国王を大公とするルクセンブルク大公国となった。
1830年のベルギー独立革命後、首都ルクセンブルクを除いて、ベルギーの統治下に置かれたが、翌年のロンドン会議によって領土の西半分をベルギー、東半分をオランダ国王の統治下へと帰属することが決められた(実現されたのは1839年以降)。
1867年にはロンドン条約によって永世中立国となる。
1890年、ルクセンブルク大公を兼任していたオランダ国王ウィレム3世(1817年~1890年)が亡くなる。
ウィレム3世には嫡子がいなかった為、元ナッサウ公(ドイツ西部のライン地方を発祥としたナッサウ=ヴァイルブルク家の ナッサウ公国(1806年~1866年)の領主)のアドルフ(1817年~1905年)がルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消。完全な独立を果たした。
その後、二つの世界大戦においては、ドイツの占領下に置かれた。
戦後、ベネルクス間で関税同盟を結成。1949年にはNATO(北大西洋条約機構)に加盟し永世中立を放棄した。
その後もEEC(欧州経済共同体)(1957年)、EU(欧州連合)(1967年)、ユーロ圏(1999年)へといずれも原加盟国として参加している。
移動に時間がかかってしまった為、ルクセンブルクでの滞在はわずか数時間だった。
首都といえども落ち着いた雰囲気だったのを覚えている。とてもお洒落な感じの街だった。
観光したのは下記の通り。
・ノートルダム寺院 17世紀に建てられたイエズス会の教会。20世紀に再建された。ルネッサンスとバロックの建築様式を取り入れている。先代大公ジャン(1921年~)(在位1964年~2000年)とベルギー王女ジョセフィーヌ・シャルロット(1927年~2005年)の結婚式も行われた。
・大公宮 かつては市庁舎だった建物が1895年から大公宮として使用されている。
・ぺトリュックスの砲台 砲台が置かれていた要塞跡地としてはこちらよりもボックの砲台の方が有名だ。
また、街の広場でマルク・シャガール(1887年~1985年)の版画展が開かれていた。
その優しい感じの画風が街の雰囲気に調和していた(記念にポストカードを数枚購入した)。
この街は当時癒しを感じる街だったが、あれから10年以上経ち街はどう変わっただろうか。
帰りの列車において、(車窓から)過ぎゆく木々を見て旅日記に一言書き記している。
「今まで見て来たものは、この木と同じようにその地に踏みとどまって立っていた人達だった。」
旅の終わりが近づきつつある中、一体何を感じていたのだろう。
※地図はこちら
当時、ルクセンブルクという国名から連想出来たのは【ベネルクス3国】ということ位。ベネルクス3国とは、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを併せて呼ぶ名称だ。
面積は神奈川県と同程度の大きさで人口は約50万人。
農業国から工業国へ、そして現在では第三次産業を中心としており、金融大国でもある(国民の所得は世界トップレベル)。
税率が低いことから他国の企業を誘致しやすく、事実上のタックスヘイブン(租税回避地)となっている。
【北のジブラルタル】の異名を持つ城砦都市で、城砦に囲まれた旧市街は世界遺産に認定されている。
ローマ帝国時代から、この地は2つのローマ街道が交差する交通の要衝だった。
963年にアルデンヌ家(ベルギー南東部、ルクセンブルク、フランスの一部を含む地域を領有)のジークフリート伯爵(922年~998年)がこの地を手に入れた。
ジークフリートは西フランク王国(843年~987年)のルイ2世(ルートヴィヒ2世)(846年~879年)(在位877年~879年)の孫で、神聖ローマ帝国(962年~1806年)初代皇帝オットー1世(912年~973年)(在位962年~973年)の姻戚だった。
この地はアルゼット川に囲まれた岩だらけの崖地だったが、地理的に重要な戦略拠点ということもあり、ジークフリートによって堅固なボック城が建設された。
当時、砦を“ lucilinburhuc ”(小さな城) と呼んでおり、それが変化して“ Luxemburg ”となった。
その後要塞は強化されて街は拡大していったが、1443年にヴァロワ=ブルゴーニュ家のフィリップ善良公(フィリップ3世)(1396年~1467年)によって征服され、ブルゴーニュ公爵領ネーデルラントの一部に組み込まれた。
更にネーデルラント一帯はハプスブルク家領となり、ルクセンブルクはハプスブルク領ネーデルラントの一州としてスペインやオーストリアの支配を受けた。
フランス革命期にはフランスの支配を受けたが、1815年のウィーン会議の結果、ドイツ連邦に加盟しながらもオランダ国王を大公とするルクセンブルク大公国となった。
1830年のベルギー独立革命後、首都ルクセンブルクを除いて、ベルギーの統治下に置かれたが、翌年のロンドン会議によって領土の西半分をベルギー、東半分をオランダ国王の統治下へと帰属することが決められた(実現されたのは1839年以降)。
1867年にはロンドン条約によって永世中立国となる。
1890年、ルクセンブルク大公を兼任していたオランダ国王ウィレム3世(1817年~1890年)が亡くなる。
ウィレム3世には嫡子がいなかった為、元ナッサウ公(ドイツ西部のライン地方を発祥としたナッサウ=ヴァイルブルク家の ナッサウ公国(1806年~1866年)の領主)のアドルフ(1817年~1905年)がルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消。完全な独立を果たした。
その後、二つの世界大戦においては、ドイツの占領下に置かれた。
戦後、ベネルクス間で関税同盟を結成。1949年にはNATO(北大西洋条約機構)に加盟し永世中立を放棄した。
その後もEEC(欧州経済共同体)(1957年)、EU(欧州連合)(1967年)、ユーロ圏(1999年)へといずれも原加盟国として参加している。
移動に時間がかかってしまった為、ルクセンブルクでの滞在はわずか数時間だった。
首都といえども落ち着いた雰囲気だったのを覚えている。とてもお洒落な感じの街だった。
観光したのは下記の通り。
・ノートルダム寺院 17世紀に建てられたイエズス会の教会。20世紀に再建された。ルネッサンスとバロックの建築様式を取り入れている。先代大公ジャン(1921年~)(在位1964年~2000年)とベルギー王女ジョセフィーヌ・シャルロット(1927年~2005年)の結婚式も行われた。
・大公宮 かつては市庁舎だった建物が1895年から大公宮として使用されている。
・ぺトリュックスの砲台 砲台が置かれていた要塞跡地としてはこちらよりもボックの砲台の方が有名だ。
また、街の広場でマルク・シャガール(1887年~1985年)の版画展が開かれていた。
その優しい感じの画風が街の雰囲気に調和していた(記念にポストカードを数枚購入した)。
この街は当時癒しを感じる街だったが、あれから10年以上経ち街はどう変わっただろうか。
帰りの列車において、(車窓から)過ぎゆく木々を見て旅日記に一言書き記している。
「今まで見て来たものは、この木と同じようにその地に踏みとどまって立っていた人達だった。」
旅の終わりが近づきつつある中、一体何を感じていたのだろう。
※地図はこちら