Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(191)ルクセンブルグ(ルクセンブルグ)

2012-05-24 07:07:40 | 小さな国々
 Brussels ( Bruxelles )(ブリュッセル)を半日観光した後、Luxembourg (ルクセンブルク)(ルクセンブルク(大公国))まで列車で出掛けた(片道約3時間位)。


 当時、ルクセンブルクという国名から連想出来たのは【ベネルクス3国】ということ位。ベネルクス3国とは、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを併せて呼ぶ名称だ。
 面積は神奈川県と同程度の大きさで人口は約50万人。
 農業国から工業国へ、そして現在では第三次産業を中心としており、金融大国でもある(国民の所得は世界トップレベル)。
 税率が低いことから他国の企業を誘致しやすく、事実上のタックスヘイブン(租税回避地)となっている。
 【北のジブラルタル】の異名を持つ城砦都市で、城砦に囲まれた旧市街世界遺産に認定されている。



 ローマ帝国時代から、この地は2つのローマ街道が交差する交通の要衝だった。
 963年にアルデンヌ家(ベルギー南東部、ルクセンブルク、フランスの一部を含む地域を領有)のジークフリート伯爵(922年~998年)がこの地を手に入れた。
 ジークフリートは西フランク王国(843年~987年)のルイ2世(ルートヴィヒ2世)(846年~879年)(在位877年~879年)の孫で、神聖ローマ帝国(962年~1806年)初代皇帝オットー1世(912年~973年)(在位962年~973年)の姻戚だった。
 この地はアルゼット川に囲まれた岩だらけの崖地だったが、地理的に重要な戦略拠点ということもあり、ジークフリートによって堅固なボック城が建設された。
 当時、砦を“ lucilinburhuc ”(小さな城) と呼んでおり、それが変化して“ Luxemburg ”となった。

 その後要塞は強化されて街は拡大していったが、1443年にヴァロワ=ブルゴーニュ家フィリップ善良公(フィリップ3世)(1396年~1467年)によって征服され、ブルゴーニュ公爵領ネーデルラントの一部に組み込まれた。
 更にネーデルラント一帯はハプスブルク家領となり、ルクセンブルクはハプスブルク領ネーデルラントの一州としてスペインオーストリアの支配を受けた。
 フランス革命期にはフランスの支配を受けたが、1815年のウィーン会議の結果、ドイツ連邦に加盟しながらもオランダ国王大公とするルクセンブルク大公国となった。
 1830年のベルギー独立革命後、首都ルクセンブルクを除いて、ベルギーの統治下に置かれたが、翌年のロンドン会議によって領土の西半分をベルギー、東半分をオランダ国王の統治下へと帰属することが決められた(実現されたのは1839年以降)。
 1867年にはロンドン条約によって永世中立国となる。
 1890年、ルクセンブルク大公を兼任していたオランダ国王ウィレム3世(1817年~1890年)が亡くなる。
 ウィレム3世には嫡子がいなかった為、元ナッサウ公(ドイツ西部のライン地方を発祥としたナッサウ=ヴァイルブルク家の ナッサウ公国(1806年~1866年)の領主)のアドルフ(1817年~1905年)がルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消。完全な独立を果たした。

 その後、二つの世界大戦においては、ドイツの占領下に置かれた。
 戦後、ベネルクス間で関税同盟を結成。1949年にはNATO(北大西洋条約機構)に加盟し永世中立を放棄した。
 その後もEEC(欧州経済共同体)(1957年)、EU(欧州連合)(1967年)、ユーロ圏(1999年)へといずれも原加盟国として参加している。



 移動に時間がかかってしまった為、ルクセンブルクでの滞在はわずか数時間だった。
 首都といえども落ち着いた雰囲気だったのを覚えている。とてもお洒落な感じの街だった。
 観光したのは下記の通り。

ノートルダム寺院  17世紀に建てられたイエズス会の教会。20世紀に再建された。ルネッサンスバロックの建築様式を取り入れている。先代大公ジャン(1921年~)(在位1964年~2000年)とベルギー王女ジョセフィーヌ・シャルロット(1927年~2005年)の結婚式も行われた。

大公宮  かつては市庁舎だった建物が1895年から大公宮として使用されている。



ぺトリュックスの砲台  砲台が置かれていた要塞跡地としてはこちらよりもボックの砲台の方が有名だ。

 また、街の広場でマルク・シャガール(1887年~1985年)の版画展が開かれていた。
 その優しい感じの画風が街の雰囲気に調和していた(記念にポストカードを数枚購入した)。

 この街は当時癒しを感じる街だったが、あれから10年以上経ち街はどう変わっただろうか。



 帰りの列車において、(車窓から)過ぎゆく木々を見て旅日記に一言書き記している。

 「今まで見て来たものは、この木と同じようにその地に踏みとどまって立っていた人達だった。」

 旅の終わりが近づきつつある中、一体何を感じていたのだろう。

※地図はこちら

(186)ファドゥーツ(リヒテンシュタイン)

2012-04-19 23:55:55 | 小さな国々
 Wien (ウィーン)( Vienna (ヴィエナ)から夜行列車に乗り、翌早朝に Buches (ブックス)(スイス)に到着した。

 そこからバスで20分ほどで Vaduz (ファドゥーツ)(リヒテンシュタイン(公国))に着いた。

 リヒテンシュタインの首都ファドゥーツは、ライン川上流右岸にあり、スイスとの国境に近い。住民のほとんどがドイツ系アレマン人である。公用語もドイツ語だ。

 リヒテンシュタインは永世中立国である。同じく永世中立国家であるスイスやオーストリアと違うのは非武装という点だ。
 またこの国は、アンドラモナコサン・マリノ同様、タックスヘイブン(租税回避地)でもある(小国の知恵なのだろう)。
 世界で6番目に小さい国であり(南北に25km、東西に6km)、面積は小豆島(香川県)とほぼ同じである。しかし、リヒテンシュタイン家が国外に持つ所有地は公国の何倍もの面積にもなる。

 リヒテンシュタイン家の名前が歴史上に登場するのは12世紀。ウィーン近郊のリヒテンシュタイン城の城主フーゴが、居城の名をとって家名としたことがその始まり。リヒテンシュタイン家は14世紀からハプスブルク家に仕えた。
 1719年、神聖ローマ皇帝カール6世(1685年~1740年)(在位1711年~1740年)(ハプスブルク家)によって、リヒテンシュタイン家が買収したファドゥーツ伯爵領シェレンベルク男爵領とを併せてリヒテンシュタイン公(侯)領とすることを認可された(この地はかつて古代ローマの領土だった)。これがリヒテンシュタイン公国の始まりである。



 ファドゥーツに到着したのは午前7時半頃だったと思う。観光するにもどこもまだ開いていない。
 結局ファドゥーツ城の周囲を散策しただけ(約2時間の滞在)で、リヒテンシュタインを後にした。

 (写真は、政府庁舎。奥に見えるのはファドゥーツ大聖堂(聖フローリン大聖堂)(ネオゴシック様式))



※地図はこちら

(181)サン・マリノ(サン・マリノ)

2012-03-08 23:40:35 | 小さな国々
 Firenze (フィレンツェ)に1泊した翌早朝、Limini (リミニ)までバスで移動した。
 アドリア海に面するこの街は、San Marino (サン・マリノ)(サン・マリノ(共和国))への玄関口になっており、ここからサン・マリノへのバスが出ている。

 リミニ到着後、帽子( CAP )を紛失したことに気付いた。眠っている間に被っていた帽子を落としてしまったらしく、目覚めてから座席の周囲を探したが見当たらなかった。
 周囲の乗客は全て下車しており、運転手に聞いてみても落し物の届け出はないと言う。
 イタリア入国後ちょっとしたミスが増えており、その度に自分の不注意にブルーになった。気持ちが緩んでいたのだと思う。次から座席で眠くなったら帽子を脱ぐのを忘れないようにしよう。



 リミニでバスを乗り換えて、サン・マリノまで約1時間。午前中に到着した。
 旧市街(世界遺産)は山の上にある(標高750m)。街の雰囲気から映画『ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督)を思い出した。

 サン・マリノの国は世界で5番目に小さいそうだ。また、現存する世界最古の共和国である。
 4世紀にイタリア半島の対岸ダルマツィア地方(現在のクロアチア)出身の石工マリヌス(聖マリノ)が、ローマ44代皇帝(ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・)ディオクレティアヌス帝(244年~311年)(在位284年~305年)によるキリスト教迫害を逃れ、チタン山(現ティターノ山)に潜伏。 この地域を拠点とした。
 文献上に【サン・マリノ】の名前が登場するのは951年。
 1631年に235代ローマ教皇ウルバヌス8世(1568年~1644年)より独立を承認された。
 その後何度か共和国の存亡の危機を迎えたが、現在まで独立国家として存続している(1992年に国連に加盟)。

 また、この国はアンドラモナコ同様、タックス・ヘイブン(租税回避地)である。



 サン・マリノの滞在は数時間だった。観光したのは下記の通り。

チェスタの塔  街にある3つの要塞の中で一番高い塔。周囲を見渡せる。他には、ロッカ・グアイタ(グアイタ城砦)(第2位)、ロッカ・モンターレ(モンターレ城砦)(第3位)がある。



 サン・マリノの街は山の上にある為坂道が多く、移動は楽ではなかった(体力が落ちていたのだろう)。



 リベルタ広場政庁前で行われる衛兵交替式や、切手博物館等が有名だが、どちらも見に行かず旧市街をブラブラ散策しただけで観光を終えてしまっている。
 
 今振り返ると、世界的に有名なサン・マリノの切手等もっと興味深く見ておけばよかったと思う。
 


 帰りのバスの車窓から、美しいアドリア海が見えた。そして振り返れば美しいサン・マリノの城(要塞)が見える。
 行きのバスではこの美しさに気付かなかった。旅日記にこう書き記している。

 「何でもみな美しい。その美しさに気づかないだけだ。」

 実は行きのバスで寝ていただけなのだが・・・。

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(178)ヴァチカン(ヴァチカン)

2012-02-09 22:44:20 | 小さな国々
 Roma (ローマ)滞在中に Vatican (ヴァチカン)(ヴァチカン)を訪問している。
 ヴァチカンの正式名称はヴァチカン市国。世界で最も小さい国だ。国土全域が世界遺産になっている。

 この地はキリスト教以前から一種の聖地だったと考えられている。
 4世紀に46・50代皇帝コンスタンティヌス1世(ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス)(272年~337年)(在位306年~337年)により、サン・ピエトロ(聖ペテロ)(初代ローマ教皇)の墓所とされたこの地に最初の教会が建てられた。
 その後、この地に住んだローマ司教教皇として全カトリック教会に対して強い影響力を及ぼすようになると、ヴァチカンはカトリック教会の本拠地として発展していった。
 ローマ教皇庁の勢力が拡大していくにつれ、ローマ教皇庁とイタリア政府との関係が悪化していったが、20世紀になって関係は改善された(1929年ラテラノ条約締結)。



 ローマ観光の合間を縫っての訪問だった為、滞在時間は短かった。観光したのは下記の通り。

サン・ピエトロ広場  バロックの巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598年~1680年)によって設計された(1667年に完成)。左右に2列、284本の柱が並ぶ。中心に立つオベリスクはエジプトから運ばれたもので、聖ペテロが逆さ十字架にかけられた場所に置かれている。ローマ教皇(法王)に謁見できる日は、この広場が人で埋め尽くされる。

サン・ピエトロ大聖堂  カトリック教会の総本山。バロック様式の代表的な建築物。64年に5代皇帝ネロ(・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス)(37年~68年)(在位54年~68年)の迫害により殉教した聖ペトロの墓所の上に、コンスタンティヌス1世の命で建築されたといわれている(324年)。1502年に新聖堂の建築が始まり、1514年にラファエロ・サンティ(1483年~1520年)、1546年にミケランジェロ・ブオナローティ(1475年~1564年)が主任建築家となり、1626年に完成した。6万人以上収容可能といわれている。



 (下記写真は、ファサード(サン・ピエトロ広場に面する建物の正面部分)上部に飾られた13人の聖人像の一部)



 (サン・ピエトロ大聖堂内部)



 ヴァチカン博物館にも行きたかったのだが、見学にかなりの時間を要するので結局諦めた。



 あれから月日は流れ、ローマ法王も264代ヨハネ・パウロ2世(1920年~2005年)(在位1978年~2005年)から265代ベネディクト16世(1927年~)(在位2005年~)に代わられた。
 ここもいつか再訪したいと思う。

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(175)モナコ(モナコ)

2012-01-19 23:55:55 | 小さな国々
 Barcelona (バルセロナ)に約一週間滞在した後、次に向かったのは Monaco (モナコ)(モナコ(公国))だ。

 まず列車で国境を越えたところにあるフランス南部の Cerbere (セルベール)へ向かった(約3時間)。そこで列車を乗り換えて Nice (ニース)まで(約7時間)、ニースからモナコまでは列車で30分かからない位の距離だった。

 モナコの玄関口、モナコ・モンテカルロ駅を出て、まっすぐにビーチへ向かった。
 時刻が朝の8時半頃だった為、他に行くところがなかったのと、夜行列車で眠れなかったというのがその理由だ(昨晩は2等席での移動だった)。

 ビーチに着くとすでに寝そべっているセレブ達(?)がいた。
 身なりには気を付けていたが、それでも醸(かも)し出す雰囲気が明らかに場違いな気がしたので、隅の方で横になった。そのまま数時間眠ってしまった。



 【モナコ】という地名は6世紀にこの地方に存在したポカイア人の入植地“ Monoikos ”(ギリシャ語【一軒家】の意)に由来する。
 英雄ヘラクレスがこの地の土着の神々を退散させた後、一つの宮殿を建設したギリシア神話に描かれており、その【一つの宮殿】が転じて【一軒家】“ Monoikos ”となった。

 世界で2番目に小さく皇居の2倍程の面積しかないモナコだが、その歴史は700年以上にも及ぶ。

 ジェノヴァ共和国(1096年~1797年)の要塞がこの地に造られたのが1228年。
 1297年に現在のモナコ公家グリマルディ家の始祖フランソワ・グリマルディフランシスコ会の修道士姿に変装し、要塞の占拠に成功した。
 何もない荒地だったモナコが観光立国として名を馳せたのは、モナコ大公シャルル3世(1818年~1889年)(在位 1856年~1889年)がカジノ高級ホテルを次々と建設したことによるものらしい。
 彼の功績を讃え、カジノや高級ホテルが立ち並ぶリゾート地域は【モンテカルロ】(イタリア語【シャルルの山】の意)と呼ばれている。

※この地はアンドラ同様、タックス・ヘイブン(租税回避地)である。



 ビーチで気持ちよく眠っていたが、だんだんと日差しが強くなってきた為、街を観光することにした。
 とはいうものの、この街で普通に観光をすると結構な出費となってしまいそうだったので、モナコ大公宮殿前の衛兵交替(午前11時55分から30分間)を見た後、ポストカードを購入してモナコ観光を終了した(正直、一攫千金を夢見てカジノに行くことも考えたが、堅実に先に進むことにした)。

 (写真は、外から眺めたカジノ・ド・モンテカルロ)



 モナコで覚えていることといえば、坂が多かったこと。
 この起伏の激しい道がF1(モナコグランプリ)のレース展開を盛り上げるのだろうか。

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(174)アンドラ・ラ・ベリャ(アンドラ)

2012-01-12 22:48:24 | 小さな国々
 Barcelona (バルセロナ)から日帰りで Andorra la Vella (アンドラ・ラ・ベリャ)(アンドラ)にも出掛けている(バスで片道3時間位だったと思う)。

 アンドラは正式名称アンドラ公国。その起源は8世紀に遡(さかのぼ)る。フランク王国(481年~987年)のカール大帝(742年~814年)(在位768年~814年)がピレネー山中においたウルヘル伯領(スペイン辺境領の一つ)を起源とする。
 その歴史的背景より、ウルヘル司教(カタルーニャ州カトリック教会ウルヘル司教区の司教)とフランス大統領共同元首としている。

 首都アンドラ・ラ・ベリャは標高1409mで、ヨーロッパの首都としては最高地点らしい。冬にはスキー・リゾート地として人気だそうだ。
 人口の4割以上がスペイン人アンドラ人(3割)よりも多いらしいが、正直見分けがつかなかった。

 (写真は、サン・エステバン教会(ロマネスク様式))



 なぜこの地に出掛けたかと言うと、正直申し上げて大した理由ではない。
 スタンプラリーのように訪問国数を増やしたかったというのが一番の理由だった(どういう国なのか興味があったというのもある)。



 この国はタックス・ヘイブン(租税回避地)ということで外国から免税品を買いに来る人で賑わっていた。タックス・ヘイブンは小国が外貨収入を得る為に用いる制度のようだ。

 しかし、貧乏旅行者にとって、ショッピングは最も慎まなくてはならない行動だ。
 ウィンドウ・ショッピングで我慢しようと思ったが、商品を見ていると欲しくなってしまう(日本円と比べるととても安く感じられた為)。
 仕方なく、帰りのバスの時間まで昼寝をした。澄んだ空気がとても気持ち良かったのを覚えている。

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