Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(108)プロヴディフ(後編)(ブルガリア)

2010-08-26 23:58:58 | ブルガリア・ルーマニア
 彫刻家のトニーと別れ、列車で Plovdiv (プロヴディフ)に戻った。
 次の目的地 Istanbul (イスタンブール)(トルコ)へ向かうには逆方向になってしまうが、国際列車に乗るならこの方が早く着くらしい。



 プロヴディフに着いてから、夜行列車の発車時刻(22時)までこの街を観光している。

 この街はかつてローマ帝国支配下にあった時代、その地形からトリモンティウム(3つの丘)と呼ばれた。
 「トリモンティウムで画家は夢を見、地図職人は悪夢を見る」という格言がある位、この街の地形は複雑らしい。

 観光したのは下記の通り。



聖コンスタンティン・エレナ教会  1832年に古代キリスト教会跡地に建設された。教会の隣にはイコン・ギャラリーも併設されている。

ボヤジエフ・ハウス  プロヴディフ旧市街にいくつかある古い屋敷は、博物館や美術館として公開されている。ここボヤジエフ・ハウスは、ブルガリアの画家 Zlatio Boyadjiev (ズラトュ・ボヤジエフ)( 1903年~1976年)(ウィキペディア記事(英語版)はこちら)のギャラリーになっている。印象的な絵が多かった。

バラバノフ・ハウス  美しい建物の中はギャラリーになっている。かつては民族復興期の富豪ルカ・バラバノフの屋敷だった。

 ちなみに上記3つの建物は、前日トニーと来た時には閉鎖中だった。(ストヤノフ大統領(プロヴディフ出身)が来ていた為)。Sofia (ソフィア)、そしてプロヴディフと縁を感じる方だった。

民族博物館  ブルガリアの民族衣装や楽器を展示。イスタンブールの豪商ハジ・ゲオルギが建てた建物は、バロック様式民族復興様式がミックスされている。

ネベ(ット)・テペの遺跡  紀元前4世紀にトラキア人の一部族が要塞を築いた場所。見晴らしがよく、ロドピ山脈に沈む夕陽が見れる。



 最後にヨーグルトを食べて、ブルガリアを去ることにした。

 ここから再びアジアへ向かうことになる。

※地図はこちら

(107)プロヴディフ(前編)(ブルガリア)

2010-08-19 23:58:50 | ブルガリア・ルーマニア
 バチコヴォ僧院で親子の男性達が話しかけてきた。
 父親の名はトニー、息子はアレクサンドルという。

 どこから来たのかという話になり、遠い国日本からよく来てくれたと歓迎してくれた。
 職業は何かと聞かれたので学生と答えた。美術大学で彫刻を専攻していると。
 そして Budapest (ブダペスト)(ハンガリー)で作った国際学生証を見せた。

 これは前回書いたように、長い説明や相手からの嫉妬を避ける為の方便だ。
 ところがいつもならああそうかで終わるのだが、今回は少し勝手が違った。

 「おお、これはまさしく神の思(おぼ)し召しだ。」

 そう言いながら、トニーがハグをしてきた。なんと彼は本物の彫刻家だったのだ。
 息子のアレクサンドルは弁護士で、他に美術大学に通う娘がいるらしい。

 澄んだ瞳をしたトニーの喜ぶ姿を見ると心が痛んだ。
 かと言って、いや実は・・・と前言を撤回するだけの勇気もなかった。

 実はこの日、離れて住む親子が久々に再会した日らしい。アレクサンドルはこれから更なる飛躍を迎えるにあたり父と再会したかったそうだ。
 


 そんなタイミングで出会った自分が彫刻専攻の学生ということで、偶然の一致とばかりトニーのテンションは高まったのだった。
 


 アレクサンドルと別れた後、トニーが私の友人を紹介したいと言った。
 ブルガリア第二の都市 Plovdiv (プロヴディフ)に彼の友人がいるらしい。

 どちらにせよプロヴディフに戻らなくてはならないので、彼に任せることにした。



 トニーから紹介された友人はごっつい体格をした男性だった。
 職業は警察官で、元オリンピック代表のボート選手だったらしい。

 トニーと三人で食事をしたのだが、正直この男性(元五輪選手)はかなり自分本位なところがあったように思える。
 
 たとえば、電話番号を教えてくれと言われたので紙に書いて渡すと、彼はいきなり携帯電話でその番号に電話をかけた。そして、話してみろと言う。
 電話に出た家族は眠そうな声で突然の電話に応対していた。時差があるので日本は夜中だったのだ。

 また、トニーが持参したイコンを見せると、1枚くれと強引に自分のものにしていたし、2軒目のレストラン(こちらはすでに満腹だったが、彼が行きたがった)では、若い女性グループを凝視していた。
 どうやら日本人の青年をダシにしてナンパしたいらしい。
 妻子持ちのこの男性、完全な肉食系だった。

 その隣で、こちらに対しトニーが申し訳なさそうな顔をしている。
 その意味を理解しながら、こちらは更に心を痛めていた。
 この時トニーと自分はお互いに相手に負い目を感じているという不思議な関係だったと思う。

 結局トニーが説得してナンパを断念させ、この男性との食事会はお開きになった。
 正直なところ2軒目を想定していなかったので、2軒目の店では満腹でほとんど口に出来なかった。
 それでも食事をおごってもらい、その後泊めてもらったのだから感謝したい。ここで言いたかったのは、この男性への非難ではなく、それよりもひどいことをしているという罪悪感が自分にあったことだ。
 


 翌日トニーが、ここから列車で2時間半離れた Simeonovegrad (シメオノヴグラッド)へ立ち寄って行けと言う。彼の家がそこにあるらしい。

 お詫びの言葉を言わなければならないという思いもあり、彼の誘いに従うことにした。
 どこかのタイミングでお詫びをしなければならない。



 トニーの家に着くと、昔娘さんが使っていた部屋を貸してくれた。そこには壁に直接描いた絵があった。娘さんはトニーから芸術的才能を受け継いだのだろう。
 トニーの奥さんはすでに亡くなっているらしく、二人の子供達は親元を離れて暮らしている。トニーは一人で寂しく暮らしているらしかった。それだけに突然の来訪者が嬉しかったのだと思う。



 翌朝、車で20分位離れた街に住むトニーの母親の元を訪れた。彼女の作ってくれたパンケーキが美味しかったのを覚えている。



 ちなみにこの街に住む人々の平均月収は約$50らしい。仕事が少ないようだ。



 その後、トニーの仕事場に案内された。正直現在仕事をしているようには見えなかった。不況で売れないのかもしれない。
 彼の作品を見せてもらった後、彼からビジネスの話を持ちかけられた。イコン1枚$30で50枚ほど買わないかと言う。
 学生だからお金が無いとここでも学生を名乗ってしまった。学生という立場は言い訳に便利なのだ。もう実は学生ではないと言えなくなってしまった。

 その後、彫刻刀を渡され君も彫ってみてくれと言われた。一番恐れていた瞬間だった。
 彫る真似だけして彫刻刀を返したのだが、手つきを見れば素人だと分かるだろう。

 今までの自分の態度(自分は嘘が下手なのでずっと心苦しそうにしていたと思う)と、この時の手つきから、トニーは真相が分かったのだと思う。とても優しい慈愛の眼差しになった。



 そこから駅まで送ってもらい、トニーとハグをして別れた。

 プロヴディフ行きの列車でトニーの眼差しは赦しの眼差しだったことに気付いた。
 心の中で詫び続けた自分に対し、彼は無言で許してくれたのだと思う。

 嘘をつくならつき通せと誰かが言っていたが、結局今までトニーにきちんと懺悔(ざんげ)をしていない。
 彼は今どうしているだろう。



 トニー、どうもありがとう。そして、ごめんなさい。



 この嘘は一生本人につき通す嘘になるだろう。どんな嘘であれ、嘘というのは墓場まで持っていく位の覚悟が必要だと感じた出来事だった。



 (追記)

 2011年3月18日、実家から連絡があった。「ブルガリアのトニーさんから電話が来た」とのことだった。
 東北地方太平洋沖地震とその後の福島第一原発事故のニュースを知って心配してくれたのだろう。
 十年以上音信不通だったにもかかわらず、昔出会った旅人のことをきちんと覚えてくれていて心配の電話をかけてくれたのだ。
 たくさんの元気をもらったと思う。

 こちらから電話をかけてみたが、教わった電話番号は通じなかった。メールや手紙も送ってみたが返事は来ていない。

 しかし彼に届いて欲しい。心から感謝していると。



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(106)バチコヴォ僧院(ブルガリア)

2010-08-12 23:52:00 | ブルガリア・ルーマニア
 Sofia (ソフィア)の次の目的地はバチコヴォ僧院だった。
 まず電車でブルガリア第二の都市 Plovdiv (プロヴディフ)へと向かい(所要2時間強)、そこからバスで約40分かかって僧院へ到着した。

 
 
 バチコヴォ僧院はリラの僧院に次ぐブルガリア第二の僧院という位置づけをされている。
 1083年にグルジア人の僧侶バクリアニ兄弟によって創建された。

 第二次ブルガリア帝国(12世紀後半~14世紀末)の皇帝の庇護のもと繁栄を極めたが、オスマン帝国支配下の16世紀にうち捨てられ、その後再興したという歴史がある。
 
 中には3つの教会堂があり、美しいイコンが飾られていた。



 ここでは不思議な出会いを体験している。

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(105)リラの僧院(ブルガリア)

2010-08-05 23:12:00 | ブルガリア・ルーマニア
 Sofia (ソフィア)を拠点にしてリラの僧院(リラ修道院)(世界遺産)へ行っている。



 ソフィアからリラの僧院までは、距離的には約65kmなのだが、乗り継ぎ含めバスで片道3時間以上かかる。

 帰りのバスまでの時間があまりなく、見学は急ぎ足になってしまった。ツアーで参加すればもう少しゆとりがあると思う。



 ブルガリアの歴代統治者によって庇護されてきたこの僧院は、10世紀にリラの聖イオアン(イヴァン・リルスキ)が設立したと考えられている。14世紀に現在の位置に移された。
 最盛期には360の房に修業僧が生活していたらしい。オスマン帝国支配下において、僧院が襲撃・破壊されることもあったが、ブルガリアの伝統文化を現在に伝え残す役割を果たしている。

 見学したのは下記の通り。

聖母誕生教会  フレスコ画で彩(いろど)られた僧院の中心的建物。昔の生活の様子も描かれている。内部にあるイコンは幅10mもある。1833年の火災後再建された。

フレリョの塔  1833年の火災を免れた唯一の建物。塔内に鐘楼(しょうろう)がある。

歴史博物館(・民族博物館)  イコンや当時の聖書などが展示されている。リラの僧院は昔からブルガリア文化の博物館の役割を果たしていたのだろう。



 正直なところ、もうちょっとゆっくり見学したかった。往復6時間以上かかったのに、滞在時間が1時間位しかなかったのを覚えている。昼食さえきちんと食べられなかった(昼食代わりにバスの中でパンを食べた)。
 この時はツアーに参加しなかったが、次の機会があればツアーでゆっくり見学したいと思う。

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(104)ソフィア⑤(ブルガリア)

2010-07-29 23:28:40 | ブルガリア・ルーマニア
 Sofia (ソフィア)は5年前に訪れた街だが、この時再度観光している。
 観光したのは下記の通り。 

セルディカの遺跡  旧共産党本部の地下道で発見された城塞都市セルディカの遺跡。

国立文化宮殿  1981年に建てられた総合文化センター、通称NDK(エンデカ)。テレビ・ラジオのスタジオや劇場といった文化施設の他にも、銀行、郵便局、レストラン、娯楽施設など様々な施設がある。ショッピングも出来る。

アレクサンドル・ネフスキー寺院  バルカン半島最大と言われる美しい寺院(ネオ・ビザンツ様式)。1878年3月3日、ロシアが露土戦争に勝利したことによって、当時オスマン帝国支配下にあったブルガリアは自治権を回復したのだが、戦死した20万人のロシア兵の慰霊の為にこの寺院が建てられた。1882年の着工から40年かかって完成したらしい。

イコン博物館  アレクサンドル・ネフスキー寺院内にある。ブルガリアではイコンの製作が盛んだったらしい。

国立美術館  オスマン帝国統治下で市庁舎として建てられ、独立後は王宮として使われてきた建物。

キリル&メソディウス国際基金ギャラリー  現存するか不明。位置的には現在の海外アート国立ギャラリーの近辺にあたる。名称を変えたのかもしれない。ここには日本の作品も紹介されていた(三理塚闘争を題材とした作品)。



 他にも街を散策している中でいろいろ観光名所に立ち寄っていたと思うのだが、旅日記に書き記していない。
 当時の記憶とその5年前の記憶がごちゃごちゃになっている。あれから長い年月が経ってしまったせいだろう。
 もしブログを書いていなかったら、一生思い出さなかったかもしれない。

 ソフィアの観光名所の印象が薄いのは、独立記念日のセレモニーのインパクトが強すぎたからだと思う。

※地図はこちら

(103)ソフィア④(ブルガリア)

2010-07-22 23:58:10 | ブルガリア・ルーマニア
 前回訪問時から5年経ったこの日、Sofia (ソフィア)の街で行われる解放記念日(3月3日)の式典を見るつもりでいた。
 5年前のセレモニーと比べてみたかったし、再び当時の感動を味わいたかった。

 当時一緒に旅をしていた大学生の青年も誘ってみた。
 卒業旅行で来ていた彼は、この後就職して社会に出ることになる。
 そんな彼に旅の種を植え付ける行為になるようで一瞬誘うのを躊躇(ちゅうちょ)したが、今後長期旅行は無理だとしても旅に出られないわけではない。

 彼はいつか今日のことを思い出し、再びバックパッカーとして長期の旅に出たくなるだろう。
 そこで踏みとどまるか、飛び出してしまうか、それは本人次第。そしてどちらの選択が better とも言えない。個人的にはどちらも正しいのだと思う。宇宙に無駄はない



 前回と同じ、解放者記念像前で待機していると、今回の式典はここでは行われないと告げられた。僅(わず)かに離れたアレクサンドル・ネフスキー寺院前で行われるらしい。



 慌てて駆け付けると、ちょうどストヤノフ( Petar Stoyanov )大統領が到着したところだった。前回見たジェレフ大統領の後任者だ。



 SPも付いていたが、自分の目の前2~3mのところに大統領がいて、TVクルーのインタビューに答えていた。
 ここで勝手に写真を撮らせてもらうことにした。大統領を目の前にするチャンスなどめったにない。

 しかし、目の前でフラッシュをたくのが躊躇(ためら)われた(夜間だったので撮影にはフラッシュが必要)。
 ストヤノフ氏にとっては慣れっこかもしれないが、断りもせずにいきなり眩(まぶ)しい光を浴びせることが失礼に思えたからだ。
 結局、フラッシュを使用せずに撮影した大統領の写真は全てピンボケだった。
 大学生の青年がフラッシュを使用していたので自分一人我慢しても意味が無かったかもしれないが仕方ない。



 余談になるが、旅先で今この瞬間にシャッターを切ればいい写真が撮れるという瞬間が何度かあった(当時写真には興味なかったのだが、そんな自分にも分かる瞬間があった)。
 しかし、相手の意向を尋ねずに写真を撮ることが失礼に思えてしまい、相手に確認してから写真を撮っていた。
 断られることもあったし、許可してもらって写真を撮ってもカメラを意識した状態での撮影になってしまい、瞬間を切り取った写真には程遠いものになってしまうのだった。



 そんなこんなで国歌の演奏やパレードが終わりに近づいた瞬間、5年前と変わらぬ光景が繰り広げられた。

 上空には花火が上がり、ラディソン・サス・ホテルの最上階では機関銃の空砲掃射の閃光が見えた。ダダダダダダダダ・・・・という機関銃の音も聞こえてくる。

 再び解放者記念像前まで駆け戻ったが、掃射は終わってしまった。

 この場で式典を見ていた国民が感慨に浸っている。5年前と同じだ。

 

 再度この式典を見れて良かったと思う。
 現在でもこのイベントは続いていると思うが、国民の捉え方はどうなっているのだろう。

※地図はこちら

(102)ソフィア③(ブルガリア)

2010-07-15 23:13:03 | ブルガリア・ルーマニア
 当時の5年前に Sofia (ソフィア)を旅した時のこと。

 携行していたガイドブックには3月3日が独立記念日と書いてあったので、その日が民主化した記念日だと勘違いしていた(今のガイドブックには解放記念日と書いてある)。

 1878年3月3日、ロシア露土戦争に勝利したことによって、当時オスマン帝国支配下にあったブルガリア自治権を回復した。
 現在、ブルガリアでは3月3日を解放記念日として祝日にしている。



 5年前の3月3日、その日が独立記念日(解放記念日)であるということ以外何の情報もなかったのだが、夜に解放者記念像前で式典が行われると聞いて行ってみたのだった。

 国会議事堂の隣りに建つ解放者記念像は、ブルガリアを解放したロシア皇帝アレクサンドル2世(1818年~1881年)の騎馬像(高さ約14m)で、その周囲を人々が囲んでいた。

 式典開始を告げる軍隊の演奏パレードが始まると、人々が片膝をついて腰を落とした(自分も一緒に片膝をついた)。
 国歌が演奏され、美しいブルガリアン・ヴォイスの女性達が歌っている。

 その後、ブルガリアのジェレフ大統領が現れ、目の前で演説を始めると、場の空気が高揚した。
 すると、背後のホテル(おそらくラディソン・サス・ホテル)の最上階のテラスに並んでいた兵士達が機関銃を空に向け、一斉に空砲を撃ち始めた。時を同じくして花火も上がった。

 銃と花火の音が広場に鳴り響いている間、人々と共に空を見上げながら、民主化した喜びを共有出来たと勘違いして感動していたのだった。



 この光景とマラムレシュの人々に出会っていなかったら、そして中村さん(仮名)の偶然の出会いはないという言葉を聞いていなかったら、今とは違った人生を歩んでいたかもしれない。少なくとも旅にのめり込むことはなかったような気がする。

 この時の思い出があったからこそ再びこの地を再訪したのだ。

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(101)ソフィア②(ブルガリア)

2010-07-08 22:57:00 | ブルガリア・ルーマニア
 5年前に出会った中村さん(仮名)の言葉を実感したのが、ここ Sofia (ソフィア)とマラムレシュ地方だと書いたが、ソフィアでは感動のイベントを経験し、マラムレシュでは不思議な出会い(みやこうせい氏の友人(マラムレシュの新聞記者)に片言の日本語で話しかけられ、地元の新聞に自分の似顔絵が掲載された)があった。

 そのどちらにも共通していたことがある。

 当時(この旅の5年前)わずか3週間の間に東欧を縦断する計画を立てていた為、先を急ぐ旅をしていた。
 ソフィアでも Sighetu Marmatiei (シゲット・マルマツィエィ)でもそれは変わらなかったのだが、悩んだ挙句、滞在を伸ばしたのだった。
 もしあの時に先を急いで街を去っていたら、素晴らしい出会い(出来事・人)を経験していなかったことになる。

 中村さんは偶然の出会いはないと言っておられた。自分も出会いは運命だと思う。
 しかし、出会いの前には必ず選択が存在するのだ。

 先を急げば出会っていなかった。ならば、その選択の責任は自分にあるはずだ。
 進むのか、立ち止まるのか、それとも道を変えるのか。

 結果は運命、しかしその前にある選択の責任は自分にある。
 その選択は自分で行うもの。だから運命は変えられると思う。



 ソフィアで感動したイベント、それは独立記念日(解放記念日)の式典だった。

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(100)ソフィア①(ブルガリア)

2010-07-01 23:58:16 | ブルガリア・ルーマニア
 Belgrad ( Beograd )(ベオグラード)を22時に発った夜行列車は、1時間以上遅れて翌朝10時半に Sofia (ソフィア)(ブルガリア)に到着した。
 この時、ベオグラードで出会った大学生の青年と一緒に旅をしている。

 5年前にこの街を訪れた時と比べ、明るくなった印象を受けた。経済的に豊かになりつつあるようだ。今はもっと変わっていることだろう。



 5年前、当時学生だった自分にとって、それは初めての海外旅行だった。
 民主化した旧共産圏の国々は、日本の明治維新ともいうべき時を迎えているのではないか、 そんな活気溢れる国々を直に見たいと思い東欧を旅することにした。
 当時東欧の国々を旅するにはビザが必要で、東京の街をあちこち大使館巡りしなければならなかったのを覚えている。

 飛行機に乗るのも初めてで緊張していた自分に対し、隣の席の日本人男性(中村さん(仮名))が話しかけてきた。
 職業はお医者さんらしい。スペインに住んでいて西洋医学の見地から気功について研究されているそうだ。
 「作家の遠藤周作さんも私のことを支持してくれていたんですよ。」と言っておられた。
 残念ながら、その方の名前を伺(うかが)うのを忘れてしまった。正直なところ、その話を聞いた後に名前を伺うのがミーハーな行為に思えたのだった。

 以前にも紹介したが、その方からこんな言葉を頂いている。

 「君と僕が飛行機の席が隣りになったということで会話をしているけど、これは偶然じゃない。これから旅先で出会う人とも偶然に出会っている訳ではない。旅先の出会いを大切にしなさい。」

 当時の旅(東欧旅行)で、その言葉を実感として感じたのがマラムレシュ地方(ルーマニア)であり、ここソフィアだった。

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(75)オラデア(ルーマニア)

2010-03-25 22:41:08 | ブルガリア・ルーマニア
 Sighetu Marmatiei (シゲット・マルマツィエイ)を朝6時半に発ったバスは、13時に Oradea (オラデア)に着いた。

 バスの車内は空調も無くとても寒かった。そのせいか、オラデアに着いた頃は風邪気味になっていた。
 実は前の晩から吐き気がひどく、体調がすぐれない中での移動だった。

 この日は熱のせいか頭がフラフラしており、買い物で釣銭をちょろまかされたり、部屋で体温計を落として壊したりと失敗が多かった。

 この街では、ほとんど観光もせずに宿で休息を取っている。
 外出もしたが、食事とネットカフェでメールをチェックした位だ。

 メールチェックは1ヶ月ぶりなので結構メールがたまっていた。
 体調がすぐれず心細かった為、友人達からのメールで随分と励まされたのを覚えている。



 この日は早めに就寝して、翌朝7時半発の列車で Budapest (ブダペスト)(ハンガリー)へと向かうことにした。



 ルーマニアビザの有効期間(1ヶ月)の大部分をマラムレシュ地方で過ごしたのだが、いろいろな面を垣間(かいま)見た気がする。

 みやこうせい氏の紹介した【魂の美しい人々】は確かに存在したし、今も存在する。
 そして、これからも清らかな魂を持ち続けて欲しいと切に願いながらルーマニアを後にした。

※地図はこちら

(74)シゲット・マルマツィエイ③(ルーマニア)

2010-03-18 00:23:49 | ブルガリア・ルーマニア
 Botiza (ボティザ)に4泊した後、Sighetu Marmatiei (シゲット・マルマツィエイ)に戻ることにした。
 宿代は4泊で$60だった。Poienile Izei (ポイエニレ・イゼイ)(通称ポイエニ)で出会った先生の1ヶ月分の給料と同額だ。

 帰りは宿の主ジョージが車で送ってくれた。彼にとって冬の収入源がいなくなるのは辛いことかもしれない。車中ずっと黙りっぱなしだった。
 そうは言ってもこれ以上長居は出来ない。ルーマニアビザ(有効期間1ヶ月)がもうすぐ切れてしまうからだ。
 


 シゲットに戻りジョージと別れた後、Hotel TISA (現存するか不明)に行くと、宿代が値上がりしていた(約200円の値上がり)。しかも食事も粗末になっていた。
 文句を言ったが何も変わらなかった。オフ・シーズンで観光客は他にいない。サービスの質が下がるのは仕方ないと諦めた。このホテルと女主人の口うるさい民宿しか選択肢が無かったからだ。



 シゲットはマラムレシュ地方の中心都市であり、この地は歴史的にも列強の交易、戦略上の重要な土地だった。
 かつてはオーストリア=ハンガリー帝国の領土であったこともある。
シゲットの北はウクライナだ。
 マラムレシュ地方にはルーマニア人の村だけでなく、ハンガリー人や、ウクライナ人の村もあるそうだ。また三民族が共存している村も多いらしい。



 この街で出国の準備をしつつ、青年マリウスの家に遊びに行っている。
 マリウスの両親、兄、弟、妹の6人家族だ。
 彼の家族は豊かな暮らしをしているようには見えなかったが、心からもてなしてくれたと思う。

 マリウスは軍隊に行くと言っていた。そうでもしないと職が無いのだ。
 彼は強い瞳の光を持っていた。孤独が好きだと言い切る強さがあった。
 彼を見ていると、瀘沽湖(ルーグーフー)(中国)で出会った詩人を思い出した。
 自分は孤独が好きだと言い切れるだろうか。そこまでの強さがあるだろうか。



 マリウス宅ではトランプや折り紙をしたり、歌を歌い合ったりといろいろ遊んでいる。

 ページワン(トランプゲームの一種)のことをルーマニアではウルティマというのが興味深かったらしく、旅日記にメモしてあった。

 旅先で何度か「日本の歌を聞かせてくれ」と言われることがあった。そんな時はたいてい君が代を歌っていたのだが、ここで初めておどるポンポコリンを歌ったら非常にウケが良かった。
 明るい調子の歌をいくつか歌えると、旅先で喜ばれるかもしれない。

(写真は、マリウスの母とマリウス)



 シゲット最後の晩、マリウス一家からプレゼントをもらった。
 マリウスは自ら彫った彫刻をくれた(この彫刻作品には後日助けられた→記事はこちら)。家族の面々もいろいろプレゼントをくれたのだが、驚いたのはマリウスのお母さんがくれたキリストの絵だ。
 それはマリウスのお父さんと初めて出会った日に購入したというものだった。
 そんなに大切なものをもらうわけにはいかないと断ったのだが、彼女は聞き入れなかった。
 こちらからもお礼の品をあげたのだが、何故こんなに大事なものを一介の旅人にくれたのだろう。今でもこの絵は大事に持っている。



 シゲットに2泊した後、早朝のバスで Oradea (オラデア)に向けて出発した。

 旅日記にはこう書いてある。



 もう二度とマラムレシュへは行かない。

 何故なら、これ以上人の変わるのを見たくないから。

 もし行くとすれば、人々のホスピタリティを期待せずに行く。単なる観光として。

 (こう書いているが、今はまたマラムレシュに行きたいと思う(季節は夏に行きたい)。)



 みやこうせい氏の愛した【魂の美しい人々】
 400年以上もの間、誇りと伝統を守り続けてきた民の生活は、今大きく変わろうとしていた。
 その原因は TV 、そして先進国からの観光客だと思う(自分自身もその一人なのだが)。

 マラムレシュに住む魂の美しい人々は、貧しく質素であっても自らの暮らしに誇りを持っていた。

 その心はいつまでも変わらないで欲しい。そう思うのはエゴだろうか。

※マラムレシュを紹介するサイトはこちら(英語)

※地図はこちら

(73)ポイエニレ・イゼイ(ルーマニア)

2010-03-11 22:50:00 | ブルガリア・ルーマニア
 Poienile Izei (ポイエニレ・イゼイ)(通称ポイエニ)は Botiza (ボティザ)から6kmほど離れたところにある村だ。革命前までボティザの一部という扱いだった。

 ポイエニレ・イゼイとは、【イザ川流域のポイエニ】という意らしい。
 その昔、1400年代の初めに、イザ川沿いの Bogdan Voda (ボグダン・ヴォーダ)から、罪人イリシェという男が逃げてきて生活を始めたのがポイエニの集落の始まりとされている。



 この地をこよなく愛したみやこうせい氏は、ポイエニについていろいろ書き記している。
 しかし、当時と比べてかなり変わってしまった部分もあるようだ。
 資本主義経済の波は、辺境の地(マラムレシュ地方)の人々の生活を変え、人の心をも変えてしまったのかもしれない。
 そうは言っても、我々よりはるかに素朴でピュアな心を持っているのだが。



 ここには2回ほどボティザから歩いて訪問している。道中の景色がとても美しかった。
 美しい山が見えたと旅日記に書いてある(バラテック山というらしい)。



 ポイエニでは、先生をしているというおじさんに学校を案内してもらった。
 彼の月給は約$60(税引き前)。日本なら1日アルバイトすれば稼げる金額だ。
 という強い通貨の恩恵を受けて旅をしている身ではあるが、何とも申し訳ない気持ちになった。



 マラムレシュ地方の村では、毎週日曜日に教会前のメインストリートを散歩するという習慣があると聞いていた。休日のおしゃべりを楽しむそうだ。
 若い男女にとっては、意中の異性と会話するチャンスでもある。

 実際今でもこの風習が残っているということだったので、日曜日(結婚式の翌日)に再訪した。



 暖かい季節には老若男女問わず語り合う姿が見られるそうだ。そして16時頃からみんなでダンスを踊るらしい。
 この時は、寒さが厳しい為若者しかいなかった。雪の為ダンスも見られなかった。



 だが、伝統を守り伝える若者達がいるということが嬉しかった。
 伝統を誇りに思っているからこそ、風習を守っているのだと思う。 

※地図はこちら

(72)ボティザ(後編)(ルーマニア)

2010-03-04 01:03:24 | ブルガリア・ルーマニア
  Botiza (ボティザ)滞在3日目。その日は土曜日で、夜に結婚式が行われると聞いた。

 マラムレシュ地方において、結婚式のパーティーは誰でもウェルカムだと聞いていたが、実際そうらしい。



 確か夜だったと思うが、花嫁行列が街のメインストリートを進んでいった。

 宿の主ジョージも参加することを勧めてくれたので、結婚パーティーに行ってみることにした。場所は、ジョージの宿からすぐのところだった。



 裏口のようなところから入ると、すでに村人たちが飲んで踊って盛り上がっていた。

 料理を作っていたおばちゃんが、よくぞ来たという感じでこちらの手を取り踊りだした。
 ルーマニア人はラテン系の血が流れているというが、マラムレシュの人々は本当にオープンマインドだと思う。



 会場では、新郎新婦を中心に村人たちが踊っていた。演奏する音楽に合わせてとても楽しそうに踊っている。



 上手く踊れなくてもかまわない。楽しいから踊る。それが踊り本来のあるべき姿なのかもしれない。



 他の村人たちは、楽しそうに食事をしていた。ツィカ(プラム酒)を飲みながら。
 一緒に飲もうと声をかけてくれたのはいいが、お酒は勘弁願いたい。
 言葉がうまく通じないが、とにかく歓迎してくれているのは分かった。
 マラムレシュでは、ツィカを勧められたら二度目までは断れるが、三度目は飲まなくてはならないらしい。仕方ないのでツィカを一口飲んだ。

 「ノロック(乾杯)!!」

 ものすごい強いお酒だ(アルコール度数40度)。むせこんでいる自分の姿を見て村人たちが大笑いしている。「どうだ、マラムウのお酒はうまいだろう。」とか何とか言っていたのだろう。

 この後酔っ払ってしまったので途中で宿に帰った。彼らは朝まで飲んで歌って踊りまくるらしい。

 新郎新婦の名前も聞かずに帰ってきてしまったが、この時撮った写真を帰国後ジョージに送って、彼らに渡してもらうよう頼んだ。



 マラムレシュの冬は厳しい。農業主体で生きている彼らにとって、この時期は農閑期にあたり結婚式が多いようだ。

 冬の厳しい寒さの中で結ばれた愛は、とても強固なものに思えた。

 あれから10年、今や彼らの子供達が元気に村を駆け回っていることだろう。



 末永くお幸せに。

※地図はこちら

(71)ボティザ(前編)(ルーマニア)

2010-02-25 00:43:59 | ブルガリア・ルーマニア
 Botiza (ボティザ)の村は、Sighetu Marmatiei (シゲット・マルマツィエイ)の南約40kmのところにある。

 なぜこの村に向かったのか旅日記を読み返しても分からなかった。
 マラムレシュ地方を紹介したジャーナリスト、みやこうせい氏が Poienile Izei (ポイエニレ・イゼイ)(通称ポイエニ、ボティザ近郊の村)を紹介しているので行きたくなったのかもしれないし、あるいは他に何かの情報を得たのかもしれない。



 シゲットからのバスは、途中爆発音を立てて黒い煙を上げ故障してしまった。
 その修理を待つ間、山の向こうに夕陽が消えていった。マラムレシュは周りを山に囲まれている為、昼が短く感じられる。



 ボティザ村の入り口でバスを降りた(雪が深いせいか確かここが終点だったと思う)。
 宿を探さなくてはと思い、一緒に降りた乗客たちに聞いてみると、一軒のプライベート・ルームを紹介してくれた。それはバス亭のすぐそばにあった。
 ジョージ&ミレア夫妻、そして娘のイオアナの3人家族で暮らしているそうだ(2食付で1泊$15)。

 宿に着き一息つく間もなく、一人の村人がやってきた。ケガをしている。
 ジョージが簡単な手当て(応急処置)をしてあげるとお礼を言って去っていった。小さな村なので医者がいないのかもしれない。
 ジョージはかつて教師をしていたらしく、村人の信望も厚いようだ。しかし、教師の職を辞した後は、観光客からの収入が頼りのようだった。

 夕食を取りながら、彼といろいろ話をした。
 
 シゲットでイベント最中に爆竹騒ぎがあったことが残念だと伝えると、爆竹が入ってきたのは最近のことだと言う。
 
 時代の変化の中で、マラムレシュも変わってしまったそうだ。
 その一番の原因はTVだと言う。
 マラムレシュにおいて子供は村全体の子供という感覚で、よその家に行って、さもその家族の一員として食事を御馳走になるなんてことは当たり前だったらしい。
 村の中での結び付きは強く、子供だけでなく大人も自他の垣根は低かったようだ。
 そして各々(おのおの)が確固たる自分の考え方を持ち、議論を戦わせていたらしいのだが、TVの影響か、人々は自分の家から出なくなり近所づきあいも減ってしまった。
 更には、TV番組で述べられることを鵜呑みにするようになってしまったらしい。結果的に皆同じ考え方になってしまったそうだ。

 

 ボティザに滞在中、近所を散策した。
 
 村人からは、とても温かいもてなしを受けたのを覚えている。食事を御馳走になったり、「泊まっていかないか」と言われたりもした。



 温度計を見ると外は-17℃という未体験の寒さだ。寒いとは思っていたが、脳で理解すると更に寒く感じた。
 しかし、そんな寒さの中でも子供たちは元気に遊んでいた。
 そして、「写真を撮ってくれ」とよくせがまれた(当時、インスタントカメラで撮影していたのだが、帰国後律儀に写真を送ったりもした)。



 また、ジョージが屠畜(とちく)師を呼んだので、豚の(とさつ)を見学している。

 我々は他の生物から生命を頂いて生きているのだということを改めて知った。

 豚一匹で約半年分の食料になるそうだ。

 ちなみに、この後手作りのクルナッツ(ソーセージ)をご馳走してくれたが、あまり食が進まなかった。厳しい自然の中で暮らしていく為には、精神的にもタフでないと生きていけない気がする。
 
(写真左側がジョージ。豚の毛をガスバーナーで焼いているところ。)



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(70)サプンツァ(ルーマニア)

2010-02-18 22:58:10 | ブルガリア・ルーマニア
 Sapanta (サプンツァ)の村は、Sighetu Marmatiei (シゲット・マルマツィエイ)から西へ18kmのところにある。

 ここは、マラムレシュ地方の中でも有名な観光名所になっている。
 当時この村に宿は無かったと思うが、現在はペンションが何軒かあるらしい。

 5年前にマラムレシュに来た際には、時間が無くてサプンツァに行くのを諦めたのだが、この時はゆっくり観光出来た。



 サプンツァで有名なのは、何と言っても Cimitirul Vesel (陽気な墓)と呼ばれる墓地だ。

 スタン・イオン・パトラシュ氏が建てた墓には、故人の生前の様子が描かれている(現在、スタン氏の家はスタン・イオン・パトラシュ記念館として一般公開されている)。





 Lazu Baciului (ラズ・バチューリィ)の村で会った青年がこんな説明をしていたのを思い出した。

 「たとえば、96歳まで生きた人の墓にはこう彫られている。『私は96まで生きた。君もそれくらい長生きしてくれ。』と。」



 実際のところ、ルーマニア語が分からず何と書いてあるのか分からなかった。
 だから、想像するしかない。通訳してくれる人がいればもっと楽しいと思う。

 下記の写真のお墓は、車の事故で亡くなった方のものではないかと勝手に想像した。あるいは、車好きの方だったのかもしれない。



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