Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(142)カイロ(後編)(エジプト)

2011-04-21 23:56:20 | エジプト
 ローマ帝国の属州だった頃まで、Cairo (カイロ)の街は未開地域だった。
 カイロの街が栄えるのはアイユーブ朝(1171年~1342年)の時代になってからだ。

 アイユーブ朝の創始者サラディン(サラーフッディーン、サラーフ=アッディーン)(1137年または1138年~1193年)は政府機能の一切をカイロに集約させた。
 更にアイユーブ朝に続くマムルーク朝(1250年~1517年)の時代になると、交易によって最盛期を迎えた。

 しかし15世紀になると、ペストの流行などが原因で衰えを見せ始める。
 1516年にオスマン帝国に征服され一地方都市に過ぎなくなってしまい、政治的・文化的には停滞期に入るが、交易の要衝としての役割は失われず、再び繁栄を極めることになる。

 19世紀後半には Paris (パリ)(フランス)の都市計画に倣った新市街が建設されるなど、近代化への道を歩んだ。



 前回はエジプト考古学博物館を観光したが、今回観光したのは下記の通り。



シタデル(イスラム地区)  1176年にサラディンが対十字軍の拠点として建設した城塞。市内を一望できる場所にあり、19世紀に至るまで政治的中枢としての役割を果たした。  

 (写真は、シタデルからの眺望)



ガーマ・ムハンマド・アリ(ムハンマド・アリ・モスク)(イスラム地区)(世界遺産)   シタデル内部にある。【近代エジプトの父】と呼ばれたオスマン帝国のエジプト総督ムハンマド・アリー・パシャ(1769年?~1849年)の命により1857年に完成した。ムハンマド・アリーは実質的な独立政権(ムハンマド・アリー朝(1805年~1953年))の創始者であり、ここはその墓所でもある。



 (下記はモスクの天井の写真)



 イスラム地区はもちろんのこと、オールド・カイロや市内の各所にいろいろ見所がある。
 しかし、観光には出掛けなかった。
 正直、ピラミッドを見れただけで満足していたのかもしれない。

 

 他には高級ホテルのカジノにも出かけている。

 カジノに出掛けた目的は、T/C(トラベラーズ・チェック)の両替だった。
 T/Cの発行会社にもよるが、カイロの銀行では両替出来なかったような記憶がある(或いはレートが良くなかったのかもしれない)(現在の状況は不明)。

 500ドル分のT/Cをチップに両替し、カジノで少し遊んだ(あくまで両替が目的なのでほどほどに)。
 最初に遊んだスロットマシンで少し勝ち分があったので、それを使って1時間程賭けに興じてから残金を米ドルのキャッシュ(現金)に両替した。
 ラッキーなことに500ドル分のキャッシュがまるまる残った。
 高級ホテルで少しリッチな気分を味わいつつ両替も行う。ドリンクも無料だったので楽しい1時間となった。

 旅仲間の中には、カジノで稼いでいる人もいたし、逆に大損をしている人もいた。
 自分にはそのどちらにもなれるだけの度胸が無かったと思う。だが結果的にそれで良かったと思っている。

 

 そして再びスーフィーダンスを見に行った。
 
※スーフィーダンスとは、回転舞踊(旋舞)を踊るスーフィズム(イスラム神秘主義)の修行の一つ。

 この時初めてスーフィーの達人パチパチおじさんの踊りを見ることが出来て感激したのを覚えている(旅仲間からも絶大な人気だった)。



 それまでの踊り手からは必死さばかり伝わってくる感じだったが、このパチパチおじさんの恍惚の表情に本物のスーフィーダンスを【観】させてもらった気がした




 
 パチパチおじさん、クワイエス( Good )!!



※パチパチおじさん(スーフィーダンス)のおまけ記事はこちら



 他に覚えていることと言えば、TVで UEFA チャンピオンズリーグの決勝を見たこと。
 レアル・マドリードバレンシアを3-0で下した試合だった。

 この試合をTV観戦した後、何が何でも Casablanca (カサブランカ)(モロッコ)で開催されるハッサン2世国王杯を見に行きたくなった。

 この後の訪問予定地イスラエルから、モロッコ行きの飛行機があるのか分からないが、とにかく行く方法を探すしかない。

 ちなみに、旅人にモロッコ情報を聞くと、結構評判が良かった。
 中には「イエメンがいいよ。」と、目移りする情報をくれる人もいたが、とにかくまずイスラエルに行くと決めた。
 なぜならミレニアムの年(西暦2000年)に Jerusalem (エルサレム)(イスラエル)に行くというのが、この旅の目的の一つだったからだ。

 カイロの街はバックパッカーにとって滞在しやすい街だったが、長居することを諦め次の目的地エルサレムに向かうことにした。

※地図はこちら

(141)ギザ(エジプト)

2011-04-14 06:12:24 | エジプト
 Alexandria (アレクサンドリア(アレキサンドリア))に2泊した後、首都 Cairo (カイロ)へ戻った(所要3時間)。

 アフリカ最大の都市(現在の人口は約1700万人)だけあって、せわしない感じがするし喧騒もひどい。

 しかし、まだ見ぬピラミッドスフィンクス(共に世界遺産)を見るのを楽しみにしていたのは確かだ。

【中東の3P】と言えば、Petra (ペトラ)(ヨルダン)、Palmyra (パルミラ)(シリア)、Persepolis (ペルセポリス)(イラン)だが、ここに Pyramid (ピラミッド)を加えて【中東の4P】 と呼ぶ旅人もいた。



 カイロ到着翌日、近郊の Giza (ギザ)の台地へと向かった(バスで所要30分)。



 ギザに近づくにつれ、ピラミッドが見えてくる。久しぶりにテンションが高まった。

 ピラミッドを目前にして改めて思った。【百聞は一見に如かず】と。

 建造物でここまで圧倒されたのはほとんど記憶にない。インドのタージ・マハール( Taj Mahal )以来かもしれない。



 スフィンクス(アラビア語で【アブル・ホール】(畏怖の父の意))(全長73.5m、高さ20m)も圧巻だ(しかしピラミッドに比べると小さく感じられた)。



 (下記の写真は、手前からクフ王のピラミッド(高さ146.6m(現在の高さ138.8m))、カフラー王のピラミッド(高さ143m(現在の高さ136m))、メンカウラー王のピラミッド(高さ65.5m))





 ピラミッドの登頂は当時も禁止されていた(監視員が見張っていた)。
 かつては頂上から朝陽を見れたそうだ(それにしても登るのは結構ハードだと思う)。



 クフ王のピラミッド内を見学している。
 まず感じたのはその湿気と、道の狭さだ。

 日本の梅雨程ではないが、外部の乾燥した気候に比べ、汗が出てくるような湿気を感じた。
 それでも内部の湿度は一定に保たれているのだろう。

 通路は非常に狭く、人と人とがすれ違うことさえ出来ないような細く長い階段が続く(閉所恐怖症の人は入れないかもしれない)。
 内部の観光客が少ないのが幸いだった(昼過ぎに行ったのだが、涼しい午前中は混んでいるかもしれない)。



 現在は内部の撮影禁止らしいが、当時は撮影OKだった(しかし、湿気の為レンズが曇ってしまい、綺麗な写真は撮れなかった)。

 (下記の写真は玄室)



 写真には写っていないが、ここで瞑想する白人女性がいたのを覚えている。
 密閉された暑い部屋にいるにもかかわらず、そんなことはいっこうに気になっていないようだった。ピラミッド・パワーを感じていたのだろうか。



 いろいろ周囲を散策しようと思っていたが、砂嵐がひどくなってきたので諦めた。

 (写真手前の小さなピラミッドは王妃のピラミッド)



 ギザの三大ピラミッドが建てられたのは【エジプト古王国時代(第3~第6王朝)】(紀元前2686年頃~紀元前2185年前後)だ。
 この時代のピラミッドがピラミッド建築史上最高の技術・規模を示すことから、別名【ピラミッド時代】とも言われている。



※地図はこちら

(140)アレクサンドリア(エジプト)

2011-03-31 22:24:24 | エジプト
 Siwa Oasis (シーワ(スィーワ)・オアシス)に3泊した後、バスで Alexandria (アレクサンドリア(アレキサンドリア))へ戻った(所要8時間半)。長時間の移動がきつくなっている。



 【地中海の真珠】と評されるアレクサンドリアは、カイロに次ぐエジプト第2の都市だ。
 紀元前332年に、マケドニア王アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世)(紀元前356年?~紀元前323年)(在位、紀元前336年~紀元前323年)によって建設された。街の名前は【アレクサンドロス(イスカンダル)の街】という意味だ。

 アレクサンダーの死後、プトレマイオス1世(紀元前367年~紀元前282年)(在位、紀元前305年~紀元前282年)が興したプトレマイオス朝(紀元前306年~紀元前30年)の首都となった。
 プトレマイオスは、アレクサンダーの部下であり、共に哲学者アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年)の元で学んだ学友だったらしい。
 プトレマイオスは、アレクサンダーの遺体をアレクサンドリア近郊に埋めたそうだ(アレクサンダーの墓は現在も見つかっていない)。

 プトレマイオス朝の最後の女王クレオパトラ(紀元前70(69)年~紀元前30年)の物語もこの街と共にある。



 この地にはプトレマイオス1世によって建てられた70万もの蔵書(巻物)を誇る古代最大・最高の図書館(アレクサンドリア図書館)があった。ここはヘレニズムの知の巨匠たちが世界各地から集まった一大アカデミーとして知られている。
 名前を挙げると、古代における最高の科学者と評されたアルキメデスや幾何学のエウクレイデス、地球の直径を計測したエラトステネス、天動説のプトレマイオスなど。

 人口百万人を越え、文化と商業の中心地として繁栄したアレクサンドリアは【世界の結び目】と評されたという。



 この地も過去に大地震の影響で巨大な津波に襲われたことがあったらしい(365年7月21日、1303年8月8日)。古代世界7不思議の一つに数えられたファロス灯台は、1303年と1323年の地震で崩壊している。



 この街で観光したのは下記の通り。

ポンペイの柱(アームードゥッサワーリー)  ローマ皇帝ディオクレティアヌス(244年~311年)(在位284年~305年) によって建築された寺院の一部だと言われている。当時は400本あったとされる柱も今ではこの1本を残すのみとなってしまった。

ローマ円形劇場  2世紀(ローマ帝国時代)に建てられた。敷地内に当時の大浴場跡も残っている。



 カーイトゥベーイの要塞(ファロス灯台の跡地に建てられた要塞)や、博物館(グレコローマン博物館アレクサンドリア国立博物館)には行かなかった。
 歴史の勉強不足もあり興味が湧かなかったからか、それとも疲れ切っていたからだろうか。

 また、当時の旅日記には海上自衛隊の練習艦かしまがアレクサンドリアに寄港していたと書いてある(見学出来たらしいのだが行かなかった)。



 なお現在、この街にはアレクサンドリア図書館(新アレクサンドリア図書館)が復活している(2001年8月1日開館)。


 
 余談になるが、現在この街を舞台にした映画『アレクサンドリア』が公開中だ。 
 この映画を見て、この街の歴史を少し知ることが出来たと思う。

※映画『アレクサンドリア』のおまけ記事はこちら

※地図はこちら

(139)シーワ・オアシス(エジプト)

2011-03-10 23:32:00 | エジプト
 Lukor (ルクソール)から南下して Abu Simbel (アブ・シンベル)へ行くことも検討したが、結局 Siwa Oasis (シーワ(スィーワ)・オアシス)へ向かうことにした。

 アブ・シンベルに行き、そのままアフリカ大陸を南下する旅人もいたが、自分にはそこまでのお金も気力も無かったし、ガイドブックも持たない状況でただ漠然と遺跡を見るならそのお金を他のことに遣(つか)った方がいいような気がしたからだ(まだ先は長い)。
 しかし、結果的にはアブ・シンベルに行った方が良かったかもしれない(シーワ・オアシスではダラダラ過ごしていたので)。



 まず、ルクソールから23時半発の夜行列車で首都 Cairo (カイロ)へ(所要9時間半)。
 そこから列車で Alexandria (アレクサンドリア(アレキサンドリア))へ(所要3時間)。
 ここでバスに乗り換え、Mersa Matrouh (マルサ・マトルーフ)へ(所要4時間)。
 更にバスを乗り換え、シーワに到着したのは22時半だった(所要4時間)。
 乗り換え時に1時間ずつ待ち時間が生じたので、移動に丸1日かかっている。



 【偉大なる砂の海】と形容されるシーワには紀元前10世紀頃から人が住んでいたという記録が残っている。かつては Sekht-am (セケト・アム)(椰子(ヤシ)の土地)と呼ばれていた。
 リビア国境にも近いこの地には、シウィ語を話すベルベル人(先住民)が多く住んでいる。



 到着翌日は一日ホテルでゴロゴロしていた。前日の移動で疲れたからかもしれないが、とにかくここは静かで休養にはもってこいの場所だった。
 手持ちの本を読み切ってしまったらしく、何回か読み返したという記録が旅日記に残っている。



 シーワ滞在3日目に自転車を借りて観光している。観光したのは下記の通り。

アメン(アムン)神殿  紀元前331年砂漠で見た鳥を追ってやって来たアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)(紀元前356年?~紀元前323年)が、この地でアメン神の子である という神託を受けた。

オンムル・イバイダ  エジプト末期王朝時代(紀元前1090年~紀元前525年)に建てられたアメン神殿の一部が残っている。

クレオパトラ鉱泉  プールのような造りになっていた。見た感じ衛生的にどうかと思ったが、水着を着用して泳いでいる。

 他にシーワ湖アグルミ湖を観光している。
 少し離れたところに砂漠(ステップではなく、砂丘のある砂漠)があると聞いていたが、一人で行って道に迷ったら面倒なので行かなかった。

 サイクリングの途中どこかで夕陽を見ようと思っていたのだが、子供達とのサッカーに夢中になるあまり、夕陽を見るのを忘れてしまった(しかし子供達から元気をもらった)。

 旅先で出会った子供達はいつもエネルギーに満ち溢れていたように思う(日本の子供達はどうだろうか)。

 

 実を言うと、休養しても回復したとは言い難かった。なぜなら気力が湧き上がってこなかったから。
 子供達にもらった元気も長続きしなかった。それはまるで砂に水がしみ込むような感覚だった。
 無気力になったのは、この街がとても静かだったことと関係しているかもしれない(現在はもっと賑やかになっているかもしれない)。
 あまりここに長居すると、本当に【沈没】状態になってしまいそうだったので、ここを立ち去ることにした。

※沈没とは特に観光もせず一ヶ所に長期滞在することを言う。

※地図はこちら

(138)デンデラ(エジプト)

2011-02-24 23:55:00 | エジプト
 Lukor (ルクソール)滞在3日目に近郊の街 Dendera (デンデラ)へと出かけた。
 ここには有名なハトホル神殿がある。



 まずバスで Quna (ケナ)(エナ)の街へ(所要1.5時間)。
 そこからタクシーでデンデラまでは約30分。このタクシーの運転手たちは人懐っこかった(英語は通じなかったが)。
 

 
 デンデラのハトホル神殿は、古代エジプトローマ帝国の支配下に置かれる前(プトレマイオス朝(紀元前306年~紀元前30年)末期)に建造され、その後ローマ時代にも増築された。



 もともとはハトホル神殿以外にもこの地にはイシス神殿ホルス神殿があったのだが、ほとんど破壊されてしまった。しかしハトホル神殿だけはほぼ完璧な状態で保存されている。そのせいかとても神秘的な雰囲気に包まれていた。
 また、ルクソールの街に比べ観光客が少なかったこともあり、静かに神殿を見学出来た。

 ここで一番有名なのは神殿南側の壁に描かれたクレオパトラのレリーフだ。
 しかし、残念ながら写真も撮影していないし、旅日記にも記録していない。おそらく、ここに壁画があることを知らなかったのだろう。

 ガイドブックを持っていなかった為、事前の情報収集がきちんと出来ていないと貴重な遺跡を見逃すことがたまにあった。後で気付いて見学しなかったことを後悔した。

 ハトホル神殿で印象に残っているのは、ハトホル柱と呼ばれる柱だ(ハトホル柱とは、雄牛の頭部をもつ姿で表されることの多いハトホルを模した柱のこと)。

 

 ハトホルは、古代エジプト神話愛と幸運の女神で、ホルス(天空と太陽の神)の母(妻ともされる)。イシス(母なる女神)に次いで広く崇拝されており、ギリシャではアプロディーテ(愛と美と性を司る神)と同一視された。

 そのハトホル柱を見上げると、天井には太陽航行の図等の天井画が描かれていた。



 他にも色鮮やかなレリーフを見ることが出来た。



 この日の旅日記に聖書の言葉を書き記している。おそらく当時読んでいた本からの引用の為、聖書のどこに書かれた言葉なのか分からないが、ここに転記させて頂く。

 「なんぢの目の前には千年もすでにすぐる昨日のごとく、また夜の間のひとときに同じ。」


 日中の暑さにやられた昨日の教訓を活かして早めに出発していたせいか、午前中に遺跡の内外を観光し終わってしまった。
 午後の予定を決めていなかったのでとりあえずケナの街に戻った。

 ケナの街のモスクに入ると、大の大人達が昼間から横になって寝ていた。日中は暑過ぎて仕事にならないのだろう。

 ここで腰を下ろしてしばらく黙想することにした。神に祈りを捧げたのでもなく、瞑想したのでもない。黙想という表現がぴったりだと思う。

 扇風機の風が気持ち良かったせいかいつの間にか寝ていたらしい。気付いた時には扇風機は消され汗だくになっていた。異教徒が眠りこけていたので扇風機を消したのかもしれない。

 と、こんな感じで時間を使ってしまったが、ここの近郊にあるアドビス遺跡(観光客の自由行動禁止地区、ツアーのみ訪問可)にはフラワー・オブ・ライフ( Flower of Life )の壁画があるらしい。ちゃんとツアーに参加していればもっと有意義な時間を過ごせたかもしれない。

※フラワー・オブ・ライフのおまけ記事はこちら

※地図はこちら

(137)ルクソール(エジプト)

2011-02-17 23:56:40 | エジプト
 首都 Cairo (カイロ)から Lukor (ルクソール)までは夜行列車(寝台車)を利用した。

 ルクソールまでは9時間半。エアコンが効いていて快適だと思ったのは最初だけで、その寒さに震えることとなった。窓が開かないのでとにかく毛布にくるまって寒さをしのいだ。

 ルクソールに着くと、客引きが寄って来る。客引きにしつこくされたのが久しぶりなら、冷たい態度で追っ払らうのも久しぶりだった。
 正直この街もお金に関してはあまりいい思いをしなかった。物を買う際には必ずふっかけてくるので、いちいち値段交渉をしなければならなかった。



 ここにはかつて太陽神アメン(アムン)・ラーを祀った古代エジプトの都テーベがあった。街はナイル川によって分断されており、ナイル川の東岸(太陽が昇る側)には、カルナック神殿ルクソール神殿など生を象徴する建物が、西岸(太陽が沈む側)には死を象徴する、王家の谷王妃の谷などがある。
 現在、この街一帯の遺跡は、【古代都市テーベとその墓地遺跡】として世界文化遺産に登録されている。



 街に到着してすぐに観光に出かけている。
 観光したのは下記の通り(この日はナイル川東岸を観光している)。

・ルクソール神殿  アメン大神殿の付属神殿として建立され、かつてスフィンクス街道(スフィンクスが並ぶ参道)によってカルナック神殿と結ばれていた。

 (写真は、ラムセス2世像。ラムセス2世(紀元前1314(1302)年頃~紀元前1224(1212)年頃)は、古代エジプト第19王朝のファラオ(在位は紀元前1279(1290)年~紀元前1212(1224)年)。)



・カルナック神殿  アメン大神殿のみ、ムート大神殿には行かず。アメン大神殿はエジプトで最大規模の神殿。太陽神アメン・ラーを祀(まつ)っている。もともとアメン神は地方都市テーベの神だったのだが、テーベの発展と共に太陽神ラーと統合され国家の最高神となった。歴代のファラオがこの地に様々な建造物を寄進した為、カルナック神殿は巨大な神殿となった。夜になるとライトアップされ、とても幻想的だ。

 (写真は、ピネジェムの像)



 (大列柱室の列柱群は圧巻)





 翌日は涼しい早朝から動く予定だったが、暑さの為よく眠れず、寝坊してしまった。
 それでも午前中から自転車を借りて精力的に観光している。

 まず、フェリーでナイル川西岸に渡った。

 川を見つめる老人を見て、何故かかなわないと思ったと旅日記に書き記している。
 その老人の瞳に生きてきた人生の重みを感じたようだ。

 西岸で観光したのは下記の通り。

メムノンの巨像  2体の巨像は、古代エジプト第18王朝のファラオだったアメンホテプ3世(在位は紀元前1388年(?) ~紀元前1351年(?))のもの(高さ18m)。呼び名はギリシアの伝説、メムノン王に由来。

ラムセウム(ラムセス2世葬祭殿)  ラメセス2世は多くの葬祭殿を建築しており、ここもその一つ。現在は塔門と列柱室の一部が残るのみ。

ハトシェプスト女王葬祭殿  ハトシェプスト女王は、古代エジプト第18王朝5代目のファラオ(在位は、紀元前1479年頃~紀元前1458年頃)。今ではルクソール事件が起こった場所として有名になっている。1997年に起こったルクソール事件では、イスラム原理主義過激派によるテロにより日本人10名を含む63名の方が亡くなっている。ご冥福をお祈りした。



王家の谷 



 自転車で山を越えるのはきつかったが、そこはピラミッド(?)(上記の写真)が見下ろす谷にある岩窟墓群。古代エジプトの新王国時代(紀元前1570年~紀元前1070年)の王たちの墓が集中していることからこの名が名付けられた。24の王墓を含む64の墓が発見されている(東の谷に60、西の谷に4の墓がある)。多くの墓が盗掘されてしまったが、ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)(紀元前1342年頃~紀元前1324年頃)(古代エジプト第18王朝のファラオ(在位は紀元前1333年頃~紀元前1324年頃)の墓は未盗掘で副葬品が完全な形で発見されている(1922年)。人気のツタンカーメンの墓を見学した。帰り道、道に迷って立ち入り禁止区域に行ってしまいポリスに追い返された。

貴族の墓  壁画が有名。数多くの墓があり、チケットは幾つかの墓がセットになっている。番人が鏡を使って中を明るくしてくれるがバクシーシを要求してくる(写真撮影に対しても)。墓の中には蝙蝠(こうもり)もいた。観光した墓はラモーゼ(宰相)(泣き女の壁画が有名)、ウセルヘト(書記)、カ(ー)エムヘト(書記)、ケルエフ(宰相)。
 
ラムセス3世葬祭殿  ラムセス3世は古代エジプト第20王朝のファラオ(在位は紀元前1186年~紀元前1155年)。この葬祭殿は、ラムセウム(ラムセス2世葬祭殿)を模倣して造られている。紀元後にはコプト教徒の街になっていたらしい。ここで横になって古代に想いを馳せているうちに寝てしまった(一日中自転車をこいでいて相当疲れたのだろう。ルクソール観光はバスツアーをお勧めする)。 



 この日、用意した水分はペットボトル3本のミネラルウォーターと果物(メロン、みかん)だったが、それでも足りず最後は現地の人に水をもらっている。
 水をくれたのは Ahmed (アハメッド、アフメッド)という好青年で、家に招待してくれた。
 彼の家は山の斜面を掘り抜いた洞窟のようなところにあり、その中はとても涼しかった。
 子供達(彼の兄弟姉妹達)がとても可愛かったのを覚えている。
 Ahmed は言う。

 「ちょうど今晩友人の結婚パーティーがあるので、よかったら君も来ないか?」

 しかし、暑い日差しの中一日中自転車で観光していた為、正直疲労困憊(こんぱい)の状態だった。
 宿に帰ってから返事をすることにして彼と別れた。



 宿に帰り、ちょっと休憩を取ることにした。
 しかし、少し休んだくらいでは回復出来ない程疲れ切っていた。

 せっかくのお誘いだったが断ることにして、宿の従業員に電話を貸してくれと頼むと、彼がその理由を聞いてきた。説明を聞いた彼が言う。
 
 「電話する必要はない。そんな話は嘘だ。」

 彼の意見では、それはよくある話で人のいい日本人はよく騙されるということだった。
 この地で昔日本人観光客も犠牲になったルクソール事件が起こったことが頭によぎった。
 結局断定的な彼の意見に従い、(悪いと思ったが)電話せずに約束をドタキャンしてしまった。
 個人的には Ahmed が嘘を言っているようには思えなかったのだが、この地に長年住んでいる従業員の意見を覆(くつがえ)すだけの根拠もなかったし、どちらにせよ断るつもりだったのだ。



 この日最後に旅日記に書き記した言葉を転記させて頂く。書名は書いていないが、おそらく読んでいた本から書き写したものと思われる。

 光は宇宙の信号 風は宇宙の愛撫 心は宇宙の言葉

 感覚的には、この地に合っている言葉のような気がする。

※地図はこちら

(136)カイロ(前編)(エジプト)

2011-02-10 00:21:40 | エジプト
 Dahab (ダハブ)から首都 Cairo (カイロ)までは夜行のセルビス(ミニバス)で約9時間半。
 すし詰めに近い状態でよく眠れなかった。

 カイロに到着して宿を取り、朝食を食べるべく外出した。
 カイロは久しぶりの大都会で騒々しかった。寝不足の状態には堪えたし、注意力が散漫になっていると迷子になってしまう。人の往来も多く、ぶつからないように注意して歩かなければならなかった。
 
 
 
 その日の夜、旅仲間に連れられてスーフィーダンスを見に行った(入場無料)。
 スーフィーダンスとは、回転舞踊(旋舞)を踊るスーフィズム(イスラム神秘主義)の修行の一つ。スカート状の服を穿(は)き、音楽に併せて回転することで陶酔感を得て神に近づくらしい。演者は20分近く回っていたと思う。

※スーフィズムとは、アラビア語【タサッウフ】と呼ばれる。スーフ(羊毛)で出来た粗末な衣装を身にまとった者という意。

 なかなか見ごたえがあったが、「まだまだこんなものじゃない」という声もあったので再度見に来ることにした。何度見てもただ(無料)なのだ。



 他にはエジプト考古学博物館(新市街)へ見学に行っている。エジプトと言えば考古学だ。
 昔吉村作治教授の講演を聞いたことを思い出した。考古学にはロマンがある。

 考古学博物館は入場料が1000円以上かかり、今までの中東の国の博物館の値段より高く感じられた。しかもミイラ室に入るには更に料金がかかる。しかしどうしても見たかったので追加料金を支払った。ここでラムセス2世(紀元前1314(1302)年頃~紀元前1224(1212)年頃)(古代エジプト第19王朝のファラオ)のミイラを見学している。
 
 「ここよりもっとすごいものを見たかったら大英博物館(イギリス)に行け」というのが、エジプト人のジョークだとか。

 ここで何枚か写真を撮影したが残念ながらほとんどピンボケだった。館内が暗いのでフラッシュを使用しないと厳しい(フラッシュ禁止だったのか、敢えてフラッシュをたかなかったのか忘れてしまったが)。



 他に覚えていることといえば、日本人カップルが多かったことだろうか。
 ここは新婚旅行で人気の地なのだろう。

※今回のエジプトの政治的混乱の中、金箔(きんぱく)が張られた木造のツタンカーメン像などが盗まれてしまったらしい。



 この時はカイロに数日滞在しただけで Lukor (ルクソール)に向かっている。



 最後に書いておきたいのは、この時聞いた訃報について。

 当時の内閣総理大臣小渕恵三氏が脳梗塞で逝去されたと聞いた。

 この旅の最中、小渕さんがかつてバックパッカーだったと聞いて親近感が湧いていたので、病気で倒れられてからずっと回復を願っていたが、天に召されてしまった。

【青年オブチの世界紀行 38カ国ひとり旅】(首相官邸ホームページ)はこちら

※小渕氏のウィキペディア記事はこちら



 翌年の9.11.の後、世界は大きく変わることとなった。
 疑問符の付く大国の行動に賛同し共に突き進んだ日本。

 もし、【人柄の小渕】と呼ばれた程の人格者である小渕氏の政権が続いていたならば、日本は違う姿勢を見せていたかもしれないと思うと残念でならない

※地図はこちら

(135)ダハブ(後編)(エジプト)

2011-02-05 23:55:00 | エジプト
 シナイ山( Gabal Muusa )(ガバル・ムーサ)から Dahab (ダハブ)に戻った。
 宿で熱いシャワーを浴びて温かい布団の中で眠りについた。これだけのことだが山頂の寒さと比べるととても贅沢な感じがする。
 しかし、あの過酷な状況で見た朝陽を忘れることはないだろう。



 午後になり、ダハブの街(村という表現の方が近い)を散策した。
 ダハブとはアラビア語【黄金】の意。朝陽に照らされたアカバ湾や砂浜が光り輝く様子から名付けられたそうだ。

 滞在していたのは Mashraba (マシュラバ)(マスバト)という安宿街で、目の前には Mashraba Reef (マシュラバ・リーフ)という遠浅のビーチがある。

 街をブラブラ歩いてしていると、CDショップから耳に残る音楽が流れてきた。
 店に入って店員に聞くと、それは Tracy Chapman (トレーシー・チャップマン)の曲だそうだ。
 この店は他のアーティストの曲をかけていなかったと思う(自分の知る限りにおいて)。
 結局ウォークマン用に彼女のベスト盤(カセット・テープ)を購入した(この旅で購入したカセット・テープと電池代は結構な出費になっている)。
 彼女と書いたが、つい最近までトレーシー・チャップマンは男性だと思っていた。



 とにかくダハブと言えば、トレーシー・チャップマンの曲を思い出す。

※トレーシー・チャップマンのおまけ記事はこちら



 滞在3日目にダイビングではなくてシュノーケリング(スノーケリング)をしている。
 日本と比較して安いとはいえ、ダイビングをするには2万円近くかかるので諦めた。

 波は穏やかで泳いでいると気持ち良かった(水温はそれほど高くなかった)。
 ウツボウニ、名前の分からない色鮮やかな魚達を見ることが出来たので満足した。



 この日の夜行バスで首都 Cairo (カイロ)へ向かった。

※地図はこちら

(134)シナイ山(エジプト)

2011-02-04 23:55:00 | エジプト
 Dahab (ダハブ)から2時間半位でシナイ山( Gabal Muusa )(ガバル・ムーサ)の麓に到着した。

 シナイ山と言えば、モーセが十戒を授かった場所として有名だ。
 ガバル・ムーサとは【モーセ山】という意味らしい。

 十戒についてネットで調べてみたところ、宗派によって多少解釈が異なるようだ(参考にしたウィキペディアの記事はこちら)。



 シナイ山に行くことを決めたのは、旅先で会った人からの推薦があったからだと思うが、もっと下準備は必要だったと思う(当時ガイドブックもなく、シナイ山についての情報も持っていなかった)。
 モーセが十戒を授かったことしか知らない状態でこの山を登ろうとしたのは無謀だったかもしれない(インターネットで調べることさえしていなかった)。



 現地に到着すると、ガイドと思われた人物(車の運転手)は、翌朝迎えに来る時刻を告げただけで帰ってしまった。
 ツアーの参加者(6、7名)も別々の宿からの寄せ集め状態だったので、各々が勝手に登り出した。
 岩肌が露出している山なので見通しもよく、迷子になることもない。しかしそれゆえに相手のことを気にかける気配りが欠けることとなってしまった(結局離れ離れになってしまった)。

 ここでアクシデント発生。持参した懐中電灯の電池が切れそうだ。
 替えの電池はなく、購入する場所もない。仕方ないので前方を歩くツアー客の姿を追うことにした(幸い視界を遮るものはない)。

 どうやらルートはなだらかなラクダ道コースだったようだ(疲れてラクダに乗ったツアー客がいた)。
 階段コースは計3750段の急な階段を上るコースで、ラクダ道コースはそのうち3000段近い数の階段を上る代わりに遠回りする形になる。



 山頂に着いてしばらくすると、汗が乾いて寒くなって来た。
 ここは標高2285m、気温も低い。

 防寒具はウィンドブレーカーだけという無謀な状態でこのまま朝まで待たなくてはならない。岩の上で待つ人々は皆寄り添うようにしていた。風よけの為だったが、心理的な一体感があったかもしれない。

 結局は寒さに耐えかねて毛布を借りた(200円位)。
 毛布にくるまっていると寒さが和らいだ。しかしダニだかノミのせいだか、とにかく体じゅうが痒くなってきた(それでも眠ってしまったが)。

 目が覚めると、ツアー客の数が膨れ上がっていた。どうやら自分は到着するのが早かったらしい。
 大勢の人がいたが、そのほとんどが欧米人で、アジア人は自分の他に日本人夫妻韓国人青年しかいなかった(ここはユダヤ教キリスト教イスラム教聖地)。



 とにかく冷えた。毛布にくるまっていても寒い。日中の気温とかなり温度差がある(昼間が暑いので甘く見ていた)。

 朝陽が待ち遠しかった。日の出を見たい気持ちもあったが、とにかく寒かったのだ。

 そして午前5時45分、ついに御来光を拝むことが出来た。



 朝陽は美しかった。

 「神は光だ!」と旅日記に書き記してある。



 この後、階段コースを使って下りたが、階段が固いせいか足に堪(こた)えた。
 麓には聖カトリーナ修道院があるのだが、早朝のこの時間は入ることができないようだ。
 このままここで待つことも出来たが、とにかく宿に帰って熱いシャワーを浴びたかった(体は冷え切っていたし、とにかく痒い)。

 今度は帰りのバスが待ち遠しかった。


 もしいつかシナイ山へ再訪する機会があるとするならば、その時はきっちり装備を整えて行きたい。

 だが、モーセは自分よりもはるかに過酷な状況だったのだ。

 彼を支えたのは一体何だろう。それを信仰と言うのだろうか。



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(133)ダハブ(前編)(エジプト)

2011-02-03 23:55:00 | エジプト
 Aqaba (アカバ)(ヨルダン)からフェリーで3時間、紅海を横断した対岸は Nuweiba (ヌエバ(ア))(エジプト)だ。

 フェリーに乗船したのが夕方だった為、紅海の美しさを堪能することは出来なかった。
 エジプト側での入国審査もスムーズとはいかず、自由の身になった頃にはすでに暗くなっていた。

 多くの旅人はここから首都 Cairo (カイロ)行きの直行バスに乗車していたが、自分には寄り道したいところがあった。
 それは紅海沿岸の街 Dahab (ダハブ)だ。

 ダハブに向かう旅行者(アイスランド人)達を見つけ、セルビス(ミニバス)をチャーターしてダハブに向かった(所要1.5時間)。



 この旅の途中、紅海の美しさ(世界でも3本の指に入る程の美しさだとか)、ダイビングの素晴らしさを説いている旅人に出会っている。
 ここダハブでは格安でダイビング・ライセンス(Cカード)を取得出来るらしい(当時の価格で2万円位)。

 しかし、自分の目的はダイビングではなく他にあった。
 それはシナイ山( Gabal Muusa )(ガバル・ムーサ)に行くことだ。

 到着してすぐに、宿のオーナーから「ガバル・ムーサ山頂から朝陽(日の出)を見るツアーがある」と話を持ちかけられ、すぐに行くことを決断した。

 夕食を済ませてからベットに横になって1時間位、宿のオーナーが迎えに来た。
 出発の時間らしい。

 ツアーのミニバスに乗り、シナイ山へと向かった。

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