Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(49)テヘラン(後編)(イラン)

2009-09-24 23:59:03 | イラン
 Tehran (テヘラン)で観光したのは下記の通り。



イラン考古学博物館  イラン最大の博物館。古くは紀元前6000年頃からの歴史的美術品を展示。

アーブギーネ博物館(ガラス&陶器博物館)  ペルシャ文化の芸術性の高さを実感出来た。ここでイラン人画家 Abbas Katouzian (1923年~2008年)の絵画集を販売していたが、値段($17)と重量(荷物が重くなる)を考えて購入を諦めてしまった。結果的に一期一会となってしまったので、購入しておけばよかったと後悔した。

※ Abbas Katouzian のHPはこちら

宝石博物館  当時の見学可能な時間帯は日曜と火曜の14時~16時のみ。警備が厳重な為、落ち着いて見れなかった。映画『ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督)のテーマ曲だった『炎のたからもの』を(心の中で)口ずさみながら見学したのを覚えている。

※『炎のたからもの』のおまけ記事はこちら

サブシバザール(日本食バザール)  観光というより日本食を購入する為に訪問レトルトのカレーや、携帯用の醤油ボトルを購入した。その晩旅人達とカレーパーティーを開き、久しぶりの日本食に涙した。



 他にも用事をいろいろ済ませている。首都テヘランは大都会だった。

 ビザは結局ジョージア(旧グルジア)ビザ(一ヶ月有効、約$40)を取得した。ジョージアビザを持っていると、イラン・アルメニア国境でアルメニアのトランジットビザ(三日間有効)を取得出来るらしいのだ。
 ルート的には、イラン→アルメニア→ジョージア→トルコの順になる。

 このジョージアビザを持ってイランビザの再延長の申請を行っている。アルメニアの Yerevan (イェレヴァン)(エレヴァン)行きのバスが週に一便(金曜発)しかないというのが延長理由だった。
 当時2度の延長を出来るケースは稀だったと思う。計3週間イランに滞在できたのはラッキーだった。
 宿( Hotel Mashad )の横柄な従業員達の中でただ一人だけ好青年がいたのだが、その彼がペルシャ語(ファルシ語)でビザ再延長依頼の通訳文を書いていてくれたおかげかもしれない。

 また、日本の新聞を読む為日本大使館を訪問している。宗教的な理由から、女性の写真(スポーツ欄や広告など)の首から下は黒く塗りつぶされていた。首から下の肌の露出が禁止されているからだろう。
 ここにはイラン人男性に嫁いだ日本人女性からの家庭招待の手紙が多数掲示板に貼られていた。
 一度嫁いでしまうとなかなか祖国に帰れないらしいので、日本語の会話がしたいのだろう。旅人の中には、実際家に泊めてもらった人もいたようだ。

 他には皮のコートを購入したりしている。北京で購入した靴は一週間しないうちにボロボロになったが、ヨーロッパを旅する身なりを整えるのにイラン製品は役立ってくれたし、長持ちしたと思う。

 ここでイラン映画も観ている。イランは文化・芸術的にレベルが高い国だと思う。
 ちなみにここで観た映画は『 The Color of God (邦題『太陽は、ぼくの瞳』)( Majid Majidi (マジッド・マジディ)監督)。盲目の少年の話。
 言葉は分からなくてもいい映画だというのは分かった。



 観光するなら地方の名所・旧跡の方が面白いのかもしれないが、都市部には他の楽しみ方もあるということを実感した街だった。

※地図はこちら

(48)テヘラン(前編)(イラン)

2009-09-17 00:07:48 | イラン
 Tehran (テヘラン)ではバック・パッカーの溜まり場と化していた Hotel Mashad に滞在している。

 まず最初にテヘランで撮影した写真を紹介したい。

 1枚目の写真は、旧アメリカ大使館のもの(当時もそして現在もイランとアメリカは国交が回復していない)。
 外壁に描かれた自由の女神にアメリカに対する悪意を感じる。
 悪意のこもったものをネットで広めたくはないが、これがありのままの姿であり現実だ



 1979年、親米派のパフラヴィー国王(モハンマド・レザー・パフラヴィー国王)に代わり、ホメイニ師(ルーホッラー・ホメイニー)(1902年~1989年)を指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)が政権についた(イラン(・イスラム)革命)
 国外退去となった前国王が癌を理由に渡米した事に激怒した革命軍の学生メンバーが、アメリカ大使館を襲撃し占拠する(大使館員とその家族ら53人が人質)という事態になった。
 アメリカ側は人質救出の為様々な作戦を展開するが失敗に終わっている。
 結局、引渡しを要求されていた前国王が死去し、対抗措置としてのイランへの資金凍結も解除された事から、人質は占拠から444日後に解放された。

 この後、アメリカが肩入れしたイラクとイランは泥沼の戦争へと突入していく(イラン・イラク戦争(1980~1988))。



 2枚目の写真もむき出しの憎悪とも言えるものかもしれない。
 
 【 DOWN WITH THE U.S.A. 】と壁面に描かれたこのビルも観光名所になっていた。



※ down with ~(~をぶっつぶせ、~を追放せよ、~を倒せ)

 これらの壁画を見て自分は何を思ったのだろうか。
 旅日記を読み返したが見たという事実以外感想を書いていない。
 書けなかったのかもしれない。

※地図はこちら

(47)イスファハン(イラン)

2009-09-10 22:25:38 | イラン
 翌日、Shiraz (シラーズ、シーラーズ)の街を発ち Esfahan (イスファハン)へと向かった。
 昼に出発したバスが9時間かかってイスファハンの街へ着いた頃はすでにすっかり暗くなっていた。

 バックパッカーの溜まり場と化していた Amir Kabir Hotel に宿泊すると、旅人から耳よりな情報を聞いた。

 アジア横断を志す旅人は、通常イランの後トルコに入国するのだが、イランからアルメニア、ジョージア(旧グルジア)(コーカサスカフカスの国々)を 経由してからトルコに行くというルートもあるらしいのだ。

 決まりきったルートをなぞるのにも飽きていたし、何よりコーカサス地方は美人が多いという噂が興味深かった(中には世界で最も美女の多い地域だと言う人までいた)。

 イスラム圏では若い女性と接する機会が極端に少なく、来る日も来る日も野郎とばかりコミュニケーションを取っていた記憶がある。
 もちろん女性と会話することもある。しかし、女性とは言ってもお店のおばちゃんだったり、チビッ子だったりと心ときめく相手ではなかった

 女性は人の心に潤いを与えてくれる存在だと思うのだが、この国の乾燥した気候もカフカス行きを決意させた要因かもしれない。



 この街でビザを延長している。
 ビザ延長の言い訳をいろいろ考えたが、結局アルメニアビザを発給してもらうという理由にした(ビザ発給には時間がかかる)。



 イスファハンにはいろいろ見どころがあり、観光も楽しかった(見どころ全てを周りきれていない)。

Meydan-e Emam (イマーム広場)(旧【王の広場】)(世界遺産)  【世界の半分】と称えられただけあって、広場(510m×163m)全体が博物館のよう。精密なアラベスク模様のモスクや宮殿によって囲まれている。

 (昼の写真)



 (夜の写真)



Masjed-e Emam (イマームのモスク)(旧【王のモスク】)   創立者であるサファヴィー朝シャー・アッバース1世(1571年~1629年)を記念してイスラム革命前までは王のモスクと呼ばれていた。

Masjed-e Sheykh Lotf-ol-lah (マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー)  元王族専用のモスク。

Masjed-e Sheykh Lotf-ol-lah (チェヘル・ソトゥーン宮殿)  【40の柱】という名の美しい宮殿。柱20本が正面の池に映り40本に見えることから名付けられた。

Si-o-se Pol (スィー・オ・セ橋)  【33】という名の橋。橋上部のアーチが33あることから名付けられた。

Kelisa-ye Vang (ヴァーンク教会)  ジョルファ地区(アルメニア人居住区)にある教会。ここ最近モスクばかり見ていたので新鮮だった。併設のアルメニア博物館には、トルコ人によるアルメニア人虐殺の説明があるとのことだったが見つからなかった。



 また、滞在中【ニーメイェ・シャアバーン】(イスラム暦シャアバーン月(8月)15日)のお祭りがあり夜には人々が大騒ぎをしていた。

 この祭りは、第12代イマーム・マフディー(隠れイマームの誕生祭らしい。

 第12代イマーム・マフディーはシーア派において人類の最終的な救世主として現れるとされる者でシーア派の一派である12イマーム派においてムハンマド・ムンタザル)(実在したか不明、868?~?)とされている(ムンタザルとは【待望される者】の意)。



翌日、イランの首都 Tehran (テヘラン)へ向かった(バスで所要7時間)。

※地図はこちら

(46)ペルセポリス(イラン)

2009-09-03 22:13:36 | イラン
 Shiraz (シラーズ、シーラーズ)の北東60kmにある Persepolis (ペルセポリス遺跡)(世界遺産)はかつてアケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~紀元前330年)の都で、紀元前520年にダレイオス1世(ダーラヤーウ1世)(紀元前558年?~紀元前486年)が建設に着手した。
 行政上の首都は Susa スーサ(シューシュ)だったが、重要な儀式は全てここで行われた。

 イランでは、【タフテ・ジャムシード】(ジャムシード王の玉座)の名で知られている。

 紀元前331年、アレクサンドダー大王(紀元前356年?~紀元前323年)の攻撃によって破壊された。

 ヨルダンの Petra (ペトラ遺跡)、シリアの Palmyra (パルミラ遺跡)(ともに世界遺産)とともに中東の3Pと呼ばれている(旅人の間ではこれにエジプトのピラミッドを加えて中東の4Pと呼ぶ人もいた)。



 遺跡に行くとよく見かける光景だが、ここもやはり修復中だった。
 それでも興味深い遺跡であることに変わりはない。
 午後に訪問したのだが、逆光になってしまうので写真を撮るには午前中の方がいいと思う。



※地図はこちら

(45)シラーズ(イラン)

2009-08-27 23:36:49 | イラン
 次の目的地 Shiraz (シラーズ、シーラーズ)までの直通のバスは無かった。
 仕方ないのでまず Bam (バム) から Kerman (ケルマン、ケルマーン)に向かった(バスで所要3時間半)。
 ここで出会ったイランの軍人2人組が家に招待してくれたのだが、先を急いでいたこともあり、誘いを断ってそのままシラーズ行きの夜行バスに乗った(所要10時間)。

 実はこの時ゾロアスター教の聖地 Yazd (ヤズド)に立ち寄るか迷っていたのだが、結局先を急ぐことにした。Delhi (デリー)で取得したイランのビザ(トランジット)の有効期間が1週間しかなかったからだ。
 何度か延長出来るとガイドブックに書いてあったが、実際出会った旅人の情報では1回(1週間延長)しかしてくれないという意見が多かった。



 シラーズのあるファールス州は標高1600mの高地にあり、紀元前700年ごろから栄えた強大な帝国アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~紀元前330年)の中心地で、ここから60kmほど離れた Persepolis (ペルセポリス遺跡)(世界遺産)は世界的に有名。
 また、シラーズの街は1750年から1794年まで、ザンド朝ペルシャの首都だったそうだ。

 この街はイラン四大詩人のうち、Sa’di (サアディー(1185年?~1291年?))と Hafez (ハーフェズ( Hafiz (ハーフィズとも))(1325年~1389年))を輩出したことでも有名だ。



 街に早朝到着した後、宿で仮眠を取ってから、Aramgah-e Hafez (ハーフェズ廟)と Aramgah-e Sa’di (サーディー廟)を巡った。

(写真は、ハーフェズ廟)



 イランの庭園はとても美しい。街の周囲が乾燥地帯なので、緑というものがいかに大切なのかがよく分かる。



 後日、シャー・チェラグ聖廟も訪問した。シーア派の重要な巡礼地だそうだ。



 余談になるが、この時香港から来たバックパッカーと一緒に行動していた。
 彼はとてもユーモアがあり、心が広かった。

 当時の社会状況にいろいろ不満があったのか、アジア人旅行者に対するイランの若者の対応は決して良いと言えなかった。
 仕事で日本に滞在したことのある年輩者達は日本人は素晴らしい人ばかりだったと親切にしてくれたが、若者たちの態度は好意的なものばかりではなかったと思う。

 ごく一部の血気盛んなイランの若者とトラブルになった話は幾つか聞いていた。
 
 一番多いのは、遠くから人を小馬鹿にしたような言い方で「チーノ(中国人)!!」と野次を飛ばすケースだ。
 実際喧嘩になる場合もあるようだ。

 しかし、この心の広い旅人は笑顔でこう答えていた。

 「ハーイ、僕中国人。君はどこの国の人?」

 見た目は同い年位なのに人間が出来ているなとその時思ったのだが、後で判明した彼の年齢は30代後半の大先輩だった。きっと社会経験が豊富なのだろう。



 後日、日本人と中国人の血を引く青年と出会った時にこんな話を聞いた。
 イランの若者の野次に対して「俺は日本人だ!!」と怒鳴り返している旅人を見て、そこに中国人を下に見ている意識があると感じて複雑な気持ちになったそうだ。

 【天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず】というわけにはいかないのだろうか。
 今の世の中、国の枠を超えた視点が必要な時代だと思う。



 疲れもあったがビザの関係上ゆっくりしているわけにもいかないので、翌朝、ペルセポリスへと向かった。

※地図はこちら

(44)バム(イラン)

2009-08-20 07:11:15 | イラン
 Quetta (クエッタ)を出発した夜行バスは14時間半かかって国境の街 Taftan (タフタン)に着いた。
 乗ったのはオンボロバスで窓の閉まりが悪かった
 走行中に振動で少しずつ窓が開いていって冷たい風が入り込んで来る
 眠っていてもその寒さで起きてしまう。道中幾度となく窓を閉めた。
 自分は筒状の携帯ブランケットの中に身を埋(うず)めていたのだが、隣のパキスタン人は防寒具を何も持っていなかった。
 彼はこちらにしがみつくようにじっと身を寄せていた。この寒さなら仕方ない。



 イミグレを越えイランに入国した。イラン側の街の名前は Meer Jawe (ミルジャワ)という。
 ここから長距離バスのターミナルがある Zahedan (ザヘダン)までは、ミニバスかタクシーを使うことになる。

 この時他国の旅行者が何人かいたのでタクシーをシェアすることにした。
 運よくすぐにタクシーが見つかったのだが、一緒にいたチェコ人が値段交渉をせずに相手の言い値で乗ることに決めてしまった。
 とは言っても僅(わず)か百円にも満たない金額の差だが、倹約生活が身についてしまっている自分にとっては交渉しないことがもったいないことに思えた(大阪人の感覚が分かる気がする)。



 1時間程でザヘダンに付き、バス待ちの間食事を取ることにした。噂のザムザム・コーラを飲んだ。味はコカ・コーラと変わらない。
 イラン滞在中はこの飲み物を愛飲している。

 ザヘダンから Bam (バム)までは所要5.5時間。パキスタンのバスに比べ、イランのバスは近代的で快適だった。



 到着翌日、Arg-e Bam (アルゲ・バム、【バムの城】の意)に向かった。
 ササーン朝(サーサーン朝)ペルシャ(224~637年)の頃から建築が始まったとされるこの城塞都市を初めて見た時は、久々にテンションが高くなった
 旅に満足感を得てしまってから(関連記事はこちら)、好奇心が摩耗し、旅が日常の生活となってしまっていたのだが、ここでは異空間に来た感覚を得られたのだと思う。





 残念ながら、2003年末にこの地を大地震(M6.5)が襲い、4万人以上の方が亡くなっている。ご冥福を祈りたい。
 この地震で遺跡も破壊されてしまった(地震の半年後世界遺産(危機遺産)に登録されている)。

 実はこの街で、この旅初めて地元の子供たちとサッカーをしている。
 彼らの無事を祈りたい。

 何らかの形で自分と関わりがあると、全く無関係とは言えなくなる。
 旅に出た後は、自分の中にそういった変化が生まれた気がする。

※地図はこちら