Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(195)パリ③(フランス)

2012-06-28 21:41:50 | フランス
 Paris (パリ)には多くの美術館があり、観光時間の大部分を美術館巡りに充(あ)てている。
 現在も日曜日は美術館割引デーになっているようだが、当時は無料だったと思う。その為、日曜日は一日美術館巡りをした。
 また、ルーブル美術館オルセー美術館は2回訪問している。



 訪問した美術館は下記の通り。

ルーヴル美術館(世界遺産)  世界最大の美術館の一つ。またパリ三大美術館の一つでもある。歴代国王の宮殿だったルーブル宮フランス革命後の1793年に美術館として一般公開された。じっくり見学しようとすると一日かかる。『ミロのヴィーナス』『民衆を導く自由の女神』((ウジェーヌ・)ドラクロワ(1798年~1863年)作を見た時は感動した。『モナ・リザ』(レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)作)を見た時は、感動よりも観覧客のマナーの悪さに呆(あき)れてしまった。フラッシュ禁止の立て看板などお構いなしにフラッシュをたきまくっていたからだ(スタッフは諦めて何も言わなかった。自分は馬鹿正直にフラッシュ無しで撮影したが、帰国後現像してみると残念ながらピンボケだった)。外にはガラスのピラミッドもある。

オルセー美術館  パリ三大美術館の一つで19世紀美術専門の美術館。印象派の作品が多い。1900年の第5回万国博覧会開催に合わせて、建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルだった建物が現在美術館になっている(1986年開館)。2月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品を展示しており、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品は国立近代美術館という役割分担がなされている。(ジャン・フランソワ・)ミレー(1814年~1875年)の『晩鐘』を間近に見た時には感動のあまり鳥肌が立ち、閉館まで立ちつくしていた。

ポンピドゥー芸術文化センター  1977年に完成した建物自体が現代アートそのものというべき外観の文化センター。訪問時はリニューアル直後だった。内部には、国立近代美術館もある。

・国立近代美術館  パリ三大美術館の一つ。(アンリ・)マティス(1869年~1954年)を中心としたフォービスムパブロ(・ピカソ)(1881年~1973年)を中止としたキュビスム(ワシリー・)カンディンスキー(1866年~1944年)等の抽象派シュールレアリスムと続き、現代アートに至る作品を紹介している。

国立ピカソ美術館  ピカソの作品だけでなく、直筆の書簡や写真など収蔵数は約5,000点に及ぶ。また、ピカソが収集した他の画家の作品も展示されている。所蔵品はピカソの遺族が相続税としてフランス政府に物納したもの。建物は、もともと塩税徴収官の邸宅であったことから、【サレ館(塩の館)】と呼ばれている。

市立近代美術館  パレ・ド・トーキョー(美術館)の東棟にある。国立近代美術館だけでなくこちらもお勧めだ。(ジョルジュ・)ルオー(1871年~1958年)の絵が印象に残っている。

ロダン美術館  (オーギュスト・)ロダン(1840年~1917年)が亡くなる前の約10年間を過ごした館が美術館になっており、有名な『考える人』などロダンの作品やロダンの収集したコレクションが展示されている。



 (クロード・)モネ(1840年~1926年)の『睡蓮』で有名なオランジュリー美術館はこの時改修中の為閉館中だった(2006年開館)。
 また予算の問題で、バルビゾン村(ミレーやテオドール・ルソー(1812年~1867年)らバルビゾン派の暮らした村)やヴェルサイユ宮殿(世界遺産)など郊外への観光は断念した。



 観光以外で旅日記に書いていることを記録の意味で書き記しておきたい。

Budapest (ブダペスト)(ハンガリー)以来革サンダルを修理した。移動は徒歩メインの為、傷(いた)むのは仕方ないが、ハンガリーでかかった修理代2ドルに対し、ここでは7ドルと物価の違いを痛感した。

「手紙・メールにしんどいと書かないこと→自分だけの問題だから」(倹約生活に疲れ果てていたのだろう)

・(地下鉄にて乗客の顔を見て)「みんな考えながら座っている。いったい何を考えているのだろうか。自分の人生だけなら一つ。人の人生も知っていれば、その分人生が楽しくなる。」



 後年、映画『アメリ』(ジャン・ピエール・ジュネ監督)を観た時、その映像の中に幾つも自分の知っている光景があった。しかしどこなのか場所の名前は思い出せなかった。
 今回パリの記事を書くにあたり、久しぶりにこの映画を観てみたが、更に記憶が薄れていることを実感した。

 またいつの日かパリの街を歩いてみたいと思う。パリの街の記憶がなくなる前に。

※映画『アメリ』のおまけ記事はこちら

※地図はこちら

(194)パリ②(フランス)

2012-06-14 00:31:50 | フランス
 Mont Saint Michel (モン・サン・ミッシェル)(世界遺産)から首都 Paris (パリ)に戻った後、パリの街に5泊している。

 パリの街は、【芸術の都】【華の都】という名に相応(ふさわ)しく、歴史と文化を感じる街だった。特にモンマルトルの丘から見る景色と周辺の雰囲気がとても好きで滞在中何度も出掛けている。



 パリの名前の語源は、紀元前4世紀以前からこの地に居住していた、【 Parisii 】(パリシィ)(【 Parisius 】(田舎者、乱暴者)の複数形)(先住民であるケルト民族ローマ側からの呼称)である。この地は河川(セーヌ川)の航行や交易上の拠点として栄えた。
 紀元前52年にローマの支配下になり、ローマ化が進んで発展したが、ローマ帝国による北ガリアの支配は、5世紀に崩壊した。

 5世紀末にフランク族の王クロヴィス1世(466年~511年)(在位481年~511年)がパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国(481年~751年)の首都とした。
 751年、メロヴィング朝がカロリング朝(751年~987年)に替わると、国王カール大帝(742年~814年)(在位768年-814年)は西ローマ皇帝を兼ね(在位800年~814年)、ローマ帝国の首都をパリから Aachen (アーヘン)(ドイツ)に移した。このことにより、パリの街は衰退していく。
 843年、フランク王国は王位後継を巡る争いの後、東・中・西の3王国に分割された(西フランク王国が現在のフランス地域にあたる)。

 この頃、度重なるヴァイキングの襲撃を受けていたが、パリ伯(パリ周辺を統治していた支配者)の力を借りて撃退した。
 後に西フランク王国が断絶すると、パリ伯ユーグ・カペー(940年頃~996年)がフランス王へと推挙され(カペー朝(987年~1328年)の始まり)、パリが王国の首都になり、その後発展していった。

 カペー朝の後、ヴァロワ朝(1328年~1589年)の時代(この間イギリスとの百年戦争あり)、ブルボン朝(1589年~1792年)の時代を経て、フランス革命(1789年~1799年)を迎える。
 革命により、王政と旧体制が崩壊し、近代的所有権が確立した。革命の理念(自由・平等・友愛)と諸制度は、世界的に多大な影響を残している。
 この時期に活躍した軍人・政治家が有名なナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)(1769年~1821年)(フランス第一帝政(1804年~1815年)の皇帝だ。

 19~20世紀にかけてフランスは隣国ドイツとの戦争を経験しており、第二次世界大戦中にパリの街は、一時ナチス・ドイツの支配下に置かれた。

 現在、世界的な大都市としての機能を果たす一方、移民や失業、貧困の問題など様々な問題を抱えており、パリの街は【世界の縮図】とも言うことができるのではないだろうか。



 パリの街で観光したのは下記の通り。

エトワールの凱旋門  凱旋門は世界各地にあるが、おそらく世界で最も有名な凱旋門の一つだろう。この門の建設を命じたのはナポレオン1世だが、彼はこの門の完成を待たずして亡くなった。夜はライトアップされてとても綺麗だった。



シャンゼリゼ大通り(世界遺産)  凱旋門からコンコルド広場まで2km近くある大通り。シャンゼリゼとは【エリュシオンの野】という意味。ギリシャ神話極楽浄土(楽園)が名前の由来になっている。17世紀に庭園師ル・ノートル(1613年~1700年)(ヴェルサイユ宮殿の造園を手掛けた人物)によって整備された。『オー・シャンゼリゼ』の歌を頭の中で再生しながら歩いたのを覚えている。

・コンコルド広場(世界遺産)  18世紀に造られた広場。当初ブルボン朝の国王ルイ15世(1710年~1774年)(在位1715年~1774年)の騎馬像が設置されていた為、【ルイ15世広場】と呼ばれていた。フランス革命が起こると騎馬像は取り払われ、名前も【革命広場】に改められた。ここでルイ16世(ルイ15世の孫)(1754年~1793年)(在位1774年~1792年)やマリー・アントワネット(ルイ16世の王妃)(1755年~1793年)の処刑が行われている。1795年以降、【コンコルド(調和・協調)広場】という名前で呼ばれ始めた。エジプトから贈られたオベリスクが中央に建っている。

ノートルダム大聖堂(世界遺産)  1804年にナポレオン1世の戴冠式行われた、シテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂(ゴシック様式)。ノートルダムとは【我らが貴婦人】の意味で、すなわち【聖母マリア】を指す。1163年にパリ司教モーリス・ド・シュリーによって着工された。最終的な竣工は1345年。とても美しい大聖堂だった。



パリ市庁舎(世界遺産)  セーヌ川を挟んでノートルダム大聖堂の反対側にあるルネッサンス様式の建物。攻め込んできたプロイセン軍に対し、パリ市民が蜂起したパリ・コミューン事件(1871年)の際、火災で焼失したが後に再建された。正面の時計の下には「自由・平等・博愛」の文字が刻まれている。

バスティーユ広場  かつてここにはバスティーユ監獄があり、1789年7月14日、フランス革命の発端と言われるバスティーユ襲撃が起こった。監獄は元々パリの東側を守る要塞として1370年に建設されたもの。現在この地に監獄はなく、7月革命記念柱が建っている。

パンテオン  パリの守護聖人、聖ジュヌヴィエーヴを祀った教会を18世紀にルイ15世が再建したもの。大きなドーム(重さ約1万トン)をコリント式の円柱が支えている(新古典主義様式)。フランス革命以後、フランスの偉人達を祀る墓所として使われるようになった。正面上部には「フランスに尽くした人々の為に」と書かれている。ジャン・ジャック・ルソー(哲学者)(1712年~1778年)やヴィクトール・マリー・ユゴー(小説家)(1802年~1885年)、キューリー夫妻(ピエール・キュリー(物理学者)(1859年~1906年)とマリ・キュリー(物理学者・化学者)(1867年~1934年)を始め、偉大な人物達がこの地に眠っている。また、1851年に(レオン・)フーコー(1819年~1868年)の振り子の実験(地球の自転を証明)が行われた場所でもあり、現在も天井からつるされた振り子が展示されている。

(写真は、パリで生まれパリで亡くなったピエール・キュリー)



※ピエール・キュリーのおまけ記事はこちら

エッフェル塔(世界遺産)



パリのシンボルとも言える高さ324mの鉄塔。1889年にフランス革命100周年を記念して開催された第4回万国博覧会の為に建造された。塔の名前の由来は、コンペティションで採用にされたエッフェル社の代表、(アレクサンドル・ギュスターヴ・)エッフェル(1832年~1923年)にちなんでいる。2階部分(高さ115m)まで階段で上った(3階(276m)まではエレベーターで更に料金がかかる為断念した)。夜にはライトアップされてきれいだった。

 (写真は、エッフェル塔の展望台から見た景色)



アンヴァリッド(世界遺産)  ルイ14世が負傷兵の収容設備として建設。ナポレオン1世の墓所として有名。近くには軍事博物館もあるが訪問時は入れなかった。

サクレ・クール聖堂  モンマルトルの丘の上にそびえる美しい教会(ビザンチン様式・ロマネスク様式)。1919年に完成した。ここからの景色は壮観だ。



自由の女神像



 セーヌ川のグルネル橋のたもとに位置する小型の女神像(高さ11.5m)。フランスがアメリカに自由の女神像を贈ったことの返礼として、パリに住むアメリカ人たちがフランス革命100周年を記念して贈ったもので New York (ニューヨーク)(アメリカ)のものに比べると約4分の1の大きさだ。



文化堂  どこにあったか忘れてしまったが、日本の漫画本の蔵書量が多い。久しぶりに見る日本の文化(漫画)は面白く、パリ観光の予定をキャンセルして長時間滞在してしまった。

※地図はこちら

(193)モン・サン・ミッシェル(フランス)

2012-06-07 05:55:55 | フランス
 Paris (パリ)から Mont Saint Michel (モン・サン・ミッシェル)(世界遺産)へ行く場合、通常はTGV(テジェヴェ)(フランス国鉄が運行する高速鉄道の車両)を使用するのが一般的だ。
 しかし、ここは敢えて普通列車で行くことにした。しかも夜の移動だ。
 理由は二つ。まず第一に朝一番に着きたかったこと(人の少ない時間帯に観光したかった)。そして第二に宿代の節約だ。

 最寄の街である Pontorson (ポントルソン)までどういう経路で行ったのか、記録していなかった為思い出せないが、列車5本を乗り継いでいる。
 しかも、最終列車が終わる午前1~2時以降、どこかの駅で始発(朝5時頃)まで夜を明かしたのを覚えている(ブラブラと駅の周りを散策したが、回送列車の車庫のようなものがあるだけで店はなく、ひっそりとしていた)。

 ポントルソンの駅からモン・サン・ミッシェル修道院のそばまで、バスが出ていたのでこれを利用した。
 そこから修道院に向かって歩き出したのだが、午前8時頃だったにもかかわらず大勢の観光客が歩いていた。遠方に美しい修道院が見える。まるでおとぎ話の中に出てくるような外観だ。



 修道院までの堤防道路は1km以上続くのだが、歩くのは苦にならなかった。修道院が近づくにつれ期待感が高まっていった。



 【西洋の驚異】と称されるモン・サン・ミッシェル修道院は、サン・マロ湾の小島に築かれた修道院である。
 この島はもともと【モン・トンブ(墓の山)】と呼ばれ、先住民のケルト人が信仰する聖地だった。

 708年、アヴランシュ地方の司教だった聖オベールが夢の中で大天使ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けた。オベールが悪魔のいたずらだと思い信じなかった為、3度目に大天使はしびれを切らし、オベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。
 翌朝、オベールは自身の脳天に穴が開いていることに気づいて愕然(がくぜん)とし、お告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりとされている。
 その為、修道院の名前は【聖ミカエルの山】の意で、大天使ミカエルのフランス語読みに由来する。

 966年にはノルマンディー公リシャール1世(942(943)年~996年)がベネディクト会(カトリック教会最古の修道会)の修道院を島に建てた。以降増改築を重ね、13世紀にほぼ現在のような形になった。
 その為、主要部はゴシック様式だが、内部はさまざまな中世の建築方式(カロリング様式ノルマン様式ロマネスク様式など)が混ざり合って構成されている。

 14世紀~15世紀にかけての百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた(実際、修道院と言うより要塞という表現の方が似合う)。
 18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで監獄として使用された。
 1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。

 サン・マロ湾は潮の干満の差が激しく(15m以上)、修道院が築かれた島は満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋(つな)がっていた。
 満潮時には潮が猛烈な速度で押し寄せた為、多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたといい、「モン・サン・ミッシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあったそうだ。

 19世紀に陸との間に堤防を造成して鉄道・道路ができ陸続きになった(鉄道は後に廃止)が、堤防の影響により、島の周囲が砂洲化しつつある為(100年間に2mもの砂が堆積したらしい)、かつてのように島に戻すプロジェクトが進んでいる(2015年完成予定)。

 中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めたこの地は、現在世界遺産にも登録されている。
 またラムサール条約登録地として自然の生態系が守られている。

※修道院の西側テラスで、アザラシの生態調査をしていた大学院生達がいた。



 修道院内部は観光客で溢れていた。
 内部の一番見どころは【 La Merveille (驚異)】と称される北面の3階建て2棟を含む部分で、ゴシック建築における傑作と評されている。
 また路地に立ち並ぶ店を見ているだけでも楽しかった。

 しかし、内部にいると修道院の美しさよりも、人(観光客)の多さが目についた(狭い路地に人が溢れていた為、移動が大変だった)。
 長居したい場所だったが、これから更に観光客が増えることを考えて早めに退散することにした(午前中だけの滞在だった)。

 帰り際、歩きながら何度も後ろを振り返った。
 修道院から離れて全景が見えてくるにつれ、改めてその美しさに感動した。
 内部にいたときは人混みに辟易(へきえき)していたというのに(いつか死んで魂だけになった時、地球に対して同じようなことを思うかもしれない(笑))。



 バスターミナルまで歩くとそこにバスの姿は無かった。
 潮の関係でターミナルが変更になったらしい。こんなこともあるのだ(事前に調べておくべきだった)。
 今調べてみたところ、この日は大潮だった。押し寄せる潮の脅威を一番感じる日だ。
 しかし、モン・サン・ミッシェルに押し寄せる人の波も決して負けてはいないと思う。

※地図はこちら

(192)パリ①(フランス)

2012-05-31 06:01:40 | フランス
 Brussels ( Bruxelles )(ブリュッセル)に2泊した後、Paris (パリ)(フランス)へ向かった。

 ベルギー・フランスは隣国同士だったが、直通の列車となるとTGV(テジェヴェ)(フランス国鉄が運行する高速鉄道の車両)しか見つからなかった(トーマス・クック時刻表(冊子)しか見ずに判断したのか、駅で確認しても他に手段がなかったのか、その辺りの記憶がないので分からない)。

 TGVの座席は全席指定(1等)だった為、インターレイル・パスが使えない。自由席(2等)は存在しないらしく、仕方なくチケットを購入した(約60ドル)。

 しかし、発車してしばらくしてから気が付いたのだが、車両間の出口付近で立ちっぱなしのバックパッカーが数名いた。どうやらあの位置ならインターレイル・パスで乗れたようだ。1時間半の列車の移動で1等料金60ドル。出費は痛かったが勉強代と思うことにした。



 フランスの首都パリの北駅に到着し、ホームに降りた途端に、いきなりポリス・チェックを受けた。
 パスポートを見せると「行ってよし」とのこと。
 しかし、歩き出してわずか10m位で再び別の警官にチェックを受けた。

 「見てなかったのか。そこでポリスチェックを受けたばかりだ!」

 と文句を言うと、すまないと言いつつもパスポートを見せろと言う。ここでもめても面倒なのでパスポートを提示した。
 どうやら黒髪のアジア人ということで目立つらしく、不法入国・不法就労の疑いの目で見られたようだ(ヨーロッパの人達はスルーされていた)。



 しょっぱなから嫌な目にあってしまったが、パリの街に来たということでテンションが上がったのを覚えている。

 この日は宿をとらずに、コインロッカーに荷物を預けた。
 パリの街の概要をつかむべく夜まであちこち散策した後、Mont Saint Michel (モン・サン・ミッシェル)(世界遺産)へ向かった。

※地図はこちら