Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(226)エピローグ(後編)

2020-12-31 23:24:28 | アメリカ・エピローグ
 前回の投稿((225)エピローグ(前編))を投稿してから2年以上も放置していたが、ようやく写真のアップロードと地図の作成、及び目次の作成が完了した(コロナが流行しなかったら、そのまま放置していたかもしれない)。

 このブログを書き始めたのが2009年。本来であれば2013年に完結するはずだった。
 ブログを放置している間に(自分の想像以上に)世界は大きく変わった(これからも変わって行くのだろう)。

 例を挙げると、かつて旅したシリアの地域はその後内戦状態となり、多くの人命が失われた(亡くなられた方々のご冥福をお祈りします)。

 今年に入ってからは、コロナウィルスの流行に伴い、今までのライフスタイルが通用しなくなり、旅行にも行きづらくなってしまった。
 認めたくはないが、もはや元の世界には戻らないかもしれないと思うことがある。

 そんな中で、自分の身にいつ何が起きてもいいように、断捨離をした。
 このブログもあと少しで完成というところまで来ていたので、今日の投稿で無事終了となる(生きている間に完成することが出来て良かったと思う)。



 このブログについて、(どうでもいい内容だが)補足しておきたいことを幾つか書き記しておきたい。



ブログタイトルについて

 " Go straight till the end !! "というタイトルだが、(文法的に)正しくは" Go straight until the end !! "なのではないかと当初思った。
 しかし、当時フランスW杯の影響でフランス語を勉強しており、フランス語のリエゾンを意識したものと思われる。

※リエゾン:フランス語における(外)連声の一種で、語を単独では読む場合には発音されない語末の子音字が、直後に母音が続く場合に発音される現象を言う。
 従って、上記の場合は【語末の子音+直後の子音】ということで当てはまらないかもしれない。



ハンドル名について

 【いーぶん】には二つの意味を込めている。

(1)いい文章を書けるようになりたい
(2) even:人生プラスマイナス0

※特に(2)については、因果応報人にしたことが自分に返るという意味合いが強い。



ブログの記述内容について

 前半と比べ、後半になると訪れた都市の歴史や観光名所の説明等の記述が増える。
 これは、正直申し上げて書くネタが無い為である。
 後半は旅に疲れたのか、または先を急いでいたのか、旅日記に書く情報量が減っている。
 当時の写真を見て情景を思い出せればよい方で、写真を撮っていない街などは訪れた観光名所の記述だけで終わってしまうが、ご容赦頂きたい。

※個人差があると思うが、純粋に旅を楽しめるのは2、3ヶ月位ではないだろうか。
 それ以上旅が長くなると、旅というより生活になってしまい、心の輝きが失われてしまう気がする。
 自分の場合、敦煌(とんこう)近郊の街柳園(りゅうえん)で、働く人の姿に感動して旅に満足してからが大変だった。
 今振り返ると不思議な話だが、その光景を見る少し前に、敦煌の街で出会った旅人より1冊のガイドブック(『アジア横断(旅行人ノート)』(旅行人刊))と共に思いを託されている。



自分の歩んで来た人生を肯定する方法

 幾つか選択肢がある中から一つを選んだ後に、デジャヴを見ることが稀にある(残念ながら、子供の頃に比べるとデジャヴを見る機会が格段に減ってしまったが)。
 そんな時は、この道を選んで良かったのだと思うようにしている。

 また、道を渡ろうとした時に歩行者信号がちょうど青になるというような時は、宇宙と調和していると思うようにしている。

 だが、そういったことが全く起きない場合にどうするか。
 結論から言うと、美しいものを見る

(例1)(旅先でと言いたいところだが)近場で絶景が見えるなら、(コロナ対策をして、密を避けて)絶景を見る。
(例2)近場に絶景ポイントが無い場合は、朝陽を拝む。

 美しいものを見た後に、自分は思う。
 これだけ美しいものを見ることが出来たのは、ここまで生きてこれたからだと。

 コロナ流行後、例年以上に朝陽を拝む機会が増えた。

※朝陽はどこからでも拝むことが出来るのでお勧めです(夕陽も美しいですが、朝陽の太陽光線を浴びることをお勧めします)。



 最後になりますが、今までご訪問頂いた皆様に心より感謝申し上げます。
 ご愛読ありがとうございました。

 よいお年をお迎え下さい。



 (追記)

 コロナ流行前までの旅(聖地巡礼、参拝、登拝中心)の記録をまとめる為、新規ブログを立ち上げています。
 ご興味のある方はご訪問頂ければ幸いです。

※ブログはこちら

(225)エピローグ(前編)

2018-03-15 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 この旅を終えた数年後、沖縄滞在中に知人より一人の女性を紹介された。
 この後インドを旅するらしく、インドの情報が欲しいらしい。
 その場で自分が持っている情報を伝えたのだが、その後彼女と二度と会うことはなかった(連絡先も聞いていない)。

 それから数年後、その女性がインドで肝炎に罹患(りかん)し、現地で亡くなったことを知人から聞き、何ともやるせない気持ちになった。

 もし自分と会わなかったとしても、彼女はインドに行ったかもしれない。インドに行きたいという強い意志を持っていたから。
 だが、自分の情報が彼女の背中を押すことにならなかったか。そう考えずにはいられなかった。



 船は港にいる時、最も安全であるが、それは船が作られた目的ではない。
 -『アルケミスト―夢を旅した少年』(パウロ・コエーリョ著)(角川文庫)-

 勇気を与えてくれるこの言葉は、自分が旅に出る前に出会った本に書かれていた。自分の背中を押してくれた言葉でもある。

 だが、もしあなたがこれから旅に出るのならば、いつか無事に帰ってきて欲しい。家族がいるなら猶更だ(世界の情勢は変わり、私が旅した土地で治安が悪化しているところも多々ある)。



 次に、このブログを書いている間に思いついたことを都度メモしておいたのだが、残念ながらデータを消去してしまった為、今思いつくことを書き記しておきたい。



昔は字が綺麗だった。

 旅日記の字を見ると一字一字丁寧に書いてある(今よりも人生に対して真摯だったからか(笑))。
 字が汚くなったのは、PCで文書作成するようになった弊害かもしれない。無意識に手書きにもスピードを求めている気がするし、そもそも字を書く機会自体が減っているからだ。



過去に意識を向けること。

 投稿を中途半端な状態で放置している間も、頭の片隅にこのブログのことは常にあった。
 今目の前のことに意識を集中させることが理想ならば、自分は常に漏電した状態だったと思う。
 (ちなみに、記事を書いている当時の状態と似たような出来事が、シンクロのように起きることもあった。人間の意識の力だろうか。)



人間は磁石だ。

 類友の法則。
 ユーラシア大陸横断の旅の中で、何度も再会する旅人もいれば、噂は聞くが一度も会わなかった旅人もいる(旅をしている時期が同じだったにもかかわらず)。
 同じ時代を生きているというだけで運命共同体的な縁があると思うが、同じ場所で共に過ごす時間を持つだけでもかなり縁が深いと言えるのではないだろうか。



 たった今思い出した話を一つ追記しておきたい。
 
 昔、飛行機の中でたまたま席が隣になった異国の女性が、こんな話をしてくれた。
 
 旅先で出会った男性が、同じ国の方だったらしく、帰国してから会う約束をしたらしい。
 帰国後再会して驚いたことに、二人の住んでいる場所は500m位しか離れていなかったそうだ。

 「そして、私達は結婚したの」

 嘘のような本当の話。
 


長期旅行に代わるもの。

 チベットを旅行した際、カイラス山巡礼者の姿に心を打たれ、その後四国の地を歩いた(四国遍路)



 それから神聖な気を肌で感じることが出来る神社仏閣巡りが好きになり、神社仏閣の奥宮がある山に興味をもつようになった。

 今一番の楽しみは、休暇に神社仏閣巡りと登山(登拝)をセットで行う旅行をすること。
 (個人的には、修験道に興味があるせいか、霊山と呼ばれる信仰の山を登拝することが多い。)

 登山に費やす時間は、わずか半日~数日だが、旅の醍醐味が凝縮されているように思う。
 天候の変化等何が起こるか分からない環境の中、自分の判断が試されるし、肉体的・精神的に辛い部分もあるが美しい景色等そこに行かないと得られないものがある。何よりも僅かな時間の中で得られる達成感が大きい(以下に写真を一部紹介したい)。

 (富士山)


 (立山)


 (白山)


 (男体山)


 (七面山)


 最後に、2009年から始まったこのブログに、今まで訪問して頂いた皆様へ。

 時間がかかってしまいましたが、なんとか日本に帰って来るまでの旅の記録を書き記すことが出来ました。
 ご愛読ありがとうございました。心より感謝申し上げます。
 
※いつの日か、写真のアップロード、地図の作成、目次の編集が完了し、ブログが完成しましたら、エピローグ(後編)と題して追加記事を書くかもしれません。

(224)サンフランシスコ~ロサンゼルス(アメリカ)~成田

2013-04-11 22:45:31 | アメリカ・エピローグ
 San Francisco (サンフランシスコ)(カリフォルニア州)を発つ夜、さん(仮名)がバスターミナルまで見送りに来てくれた。

 城さんは近視だったせいか、私の乗車したバスが出発してすぐにこちらを見失ったらしく(たくさんのバスが発着していたのである意味仕方ないと思う)、全く違う方向に向かって手を振り続けていた。

 その光景を見ながら、自分が当事者であることを忘れ猛烈に感動したのを覚えている。
 勝手な解釈だが、彼は手を振り続けながら私に投影していたのではないだろうか。郷愁を覚え日本に帰りたく思う自分自身を。

 そして、この別れの光景はこの旅で幾度となく繰り返されてきたものだ。
 出会いの数だけ別れがあるというが、本当に多くの人達に支えてもらってここまで来れた。改めて心から感謝したいと思う。



 バスを下車した後、(名前は忘れたが)あるホテルの前で空港への送迎車を待った(この旅初めての経験だが、送迎サービスも飛行機のチケット代金に含まれていた)。
 しばらくしてやって来た送迎車はなんとリムジンだった。リムジンに乗るのは初めての経験だ。
 しかも、貧乏旅行をしてきた自分が旅の最後にリムジンに乗っているという事実がなんとも可笑(おか)しかった。ご褒美と思うことにしよう。



 その後サンフランシスコ国際空港で夜を明かし、早朝の便で Los Angeles (ロサンゼルス)(カリフォルニア州)へ。
 そしてロサンゼルス国際空港にて日本行きの便に乗り換えた。



 最後の移動に関しては、詳細に記録を残していない(安堵して長旅の疲れが出たのかもしれない)。

 ただ、モロッコの Chefchaouen (シャウエン)で見た百日紅(さるすべり)の木について詩を書き記している。
 (今読み返すと恥ずかしいレベルのものだが、これもまた思い出の一つだ。)



 【モロッコのバスの車窓にて】

 道端の木々が踊っているように見えた

 実際彼らは踊っていたのだ

 長い年月をかけて

 木々だけではない

 俺が通り過ぎた 何十という国々の人々も

 地に足をつけて踊っていた

 働いて生活をしていた

 さあ 俺も働こうと思う 踊ろうと思う

 そして自分の人生を 自分というものを 表現しよう

 I shall dance!!



 ロサンゼルスからのフライトにて無事成田国際空港に到着した際、サンフランシスコと対照的な湿度の高さに日本を感じた。

 自分の実家のある街は大きく変わってはいなかったが、それでも新しい道や店が出来ていた。
 自分一人いなくなったところで誰も困りはしないし、地球は廻り、世界は進化していくのだということを痛感した。

 それでもやはり、家族は私が無事帰って来たことを喜んでくれた。帰る家があるということはとても幸せなことだと思う。
 そして、無事に帰って来れたことはとてもラッキーだったと改めて思う。



 特に大きなトラブルもなく無事帰国・帰宅したことと直接関係があるか分からないが、旅を通じて一つ心がけていたことがある。

 何の為に始めたのかは覚えていないが、滞在していた土地を去る時に、必ずその土地に感謝の念を捧げていた。

 恐らく自然発生的に始めたのだと思う(旅の最初の頃は何もかもが新鮮で感動が多かった。

※【追記】初期の記事を読み返したところ、無理矢理感謝していたことを思い出した。

 長い旅の中で腹の立つ出来事ももちろんあったが、それでもその地を離れる時には感謝をしてから次の目的地に向かうようにしていた。そうしないと、嫌な思い出の地として記憶に残ってしまいそうな気がしたからだ。

 この心がけがあったおかげなのか、自分が旅をしてきた土地に対して思いを馳(は)せるとポジティブな気持ちが湧き上がってくる。

 自分の滞在した時空間に感謝の念を置いていくということは、(長い目で見ると)幸運を呼ぶ秘訣ではないかと思う。

※地図はこちら

(223)サンフランシスコ(アメリカ)(後編)

2013-03-28 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 San Francisco (サンフランシスコ)(カリフォルニア州)を発つ前日、さん(仮名)が秘密の場所(お気に入りの場所)を案内してくれた(自分の住む街にお気に入りの場所があるのが素晴らしい)。
 旅日記には、Seal Rocks (シール・ロックス)についての記述がある。確かロボス岬( Point Lobos )からランズ・エンド( Land's End )の辺りを散策したと思う。

 到着したのは夕暮れ時だった。座禅を組んで瞑想をしていた人達の姿が印象に残っている。自然と一体となれる場所だった。

 (下記写真の左側に見えるのがシール・ロックス)



 太平洋夕陽が沈んでいった。

 その沈みゆく太陽の先にあるのは日本だ。

 

 最初の予定では、Syracuse (シラキュース)(ニューヨーク州)にてイロコイ族に会った後、New York (ニューヨーク)から帰国する予定だった。
 しかし、大都会ニューヨークでは旅を終える気になれなかった。旅の情感・風情というものを感じることが出来なかったからだ。

 今回、城さんのご好意に甘えさせて頂き、美しい街サンフランシスコに滞在することが出来た。
 そして、太平洋に沈む夕陽を眺めながら、ようやく旅を終える気持ちになれた。
 現実的には所持金が無いので旅を終えなければならなかったが、無理やり自分を納得させるのではなく、自然な形で旅の終わりを感じることが出来た。

 城さんには心から感謝したいと思う。どうもありがとう。

 さあ、日本へ帰ろう。



※おまけ記事はこちら

※地図はこちら

(222)サンフランシスコ(アメリカ)(前編)

2013-03-14 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 San Francisco (サンフランシスコ)(カリフォルニア州)は、アメリカ西海岸のサンフランシスコ半島の先端に位置するとても美しい街だった。
 ヨーロッパの街の雰囲気に近く、この旅で訪れた近代都市の中で、最も印象的な街の一つだ。
 数日間の滞在中、空は毎日晴れ渡り、気温も摂氏20度前後と過ごしやすかった。



 18世紀後半、かつては先住民達の村落があったこの地に、スペイン人入植者達が住み着いた。この地に入植したキリスト教フランシスコ会の修道士が、創設者の聖フランチェスコ(1182年~1226年)を街の名に付けたことが街の名前の由来らしい。
 1821年にメキシコ独立革命が起こり、スペインから独立しメキシコ領となったが、その後の米墨戦争(アメリカ・メキシコ間の戦争)(1846年~1848年)中にアメリカ領となった。
 その直後に起こったカリフォルニア・ゴールドラッシュにより街の人口が増大すると共に、街も発展し、交易地・金融センターとしての役割が増していった。
 街には多種多様な文化が入り交じり、第二次大戦後にはアメリカのカウンターカルチャーの中心地としての立場を築いた。



 この街では旅先で出会ったさん(仮名)宅に厄介になった(旅の縁に感謝)。
 城さんにいろいろと街を案内してもらった。観光したのは以下の通り。

グレース大聖堂  ゴールドラッシュの時代にグレース教会として建てられたが、1906年のサンフランシスコ大地震で焼失。その後1964年に再建された(ゴシック建築)。

チャイナタウン  ゴールドラッシュの時代に移民が押し寄せた。一時期移民法により移民が制限された時代もあったが、今やアメリカ最大のチャイナタウンだそうだ。

ロンバード・ストリート  この通りの一区画は【世界一曲がりくねった坂道】と呼ばれている。坂道の多いサンフランシスコの街でもここは別格で、急勾配の中、8つのヘアピンカーブが続く。

ノースビーチ(リトルイタリー)  かつては海岸線だったエリア。イタリア系の移民が多いことから、リトルイタリーとも呼ばれている。
 ここは、ビート・ジェネレーション発祥の地と呼ばれている。ジャック・ケルアック(1922年~1969年)やアレン・ギンズバーグ(1926年~1997年)等の詩人・小説家達の思想が若者達に影響を与え、後にヒッピー・ムーブメントへとつながっていった。
 (ちなみにこの旅の前にケルアックの小説『 On the road (路上)』を読んでいたが、サンフランシスコに来るまでそのことをすっかり忘れていた。)

フィッシャーマンズワーフ  漁師の波止場の意。イタリア人漁師の船着場として栄えたエリア。

Pier 39(ピア39)  フィッシャーマンズワーフの中でも最も集客のあるショッピングエリア。元々は桟橋だった場所。野生のアシカが住み着いていた。



 付近の寿司屋にて城さんにカリフォルニア巻をご馳走になった。
 (このエリアだったか記憶が定かではないが、)本屋の中にカフェが併設されており、購入していない本でもカフェでお茶を飲みながら閲覧可能だった。当時こういったサービスを日本では見かけなかった為、その発想に驚いたのを覚えている。

サンフランシスコ海洋国立歴史公園  フィッシャーマンズワーフから【世界一美しい吊り橋】ゴールデン・ゲート・ブリッジ方面に向かって海沿いに歩いて行くとこのエリアに辿り着く。
 第二次大戦時の潜水艦パンパニト( USS Pampanito, SS-383 )が停泊し、公開されている(内部を見学した)。

アルカトラズ島  通称【ザ・ロック(監獄島)】。フィィッシャーマンズワーフの沖3km程に位置する島。脱獄不可能と形容された刑務所として使用された。マフィアの帝王アル・カポネ(1899年~1947年)も服役している。見学の為、フェリーツアーに参加した。



ジャパンタウン  サンフランシスコ大地震の後、荒れ地に日本系移民が住み始め、日本人街となった。ジャパンセンターにて書籍を購入している。

※購入した書籍『 enduring spirit 』のおまけ記事はこちら

ヘイトアシュベリー  1960年代のヒッピー発祥の地。お洒落なお店が多く、街の雰囲気に感化され、ここでTシャツを購入した。
 恐らくこのエリアだったと思うが、神秘的な雰囲気を醸(かも)し出す専門書の書店に入ったところ、そこには当時の日本ではあまりお目にかかれない書籍が並んでいた(ニューエイジ精神世界関連の本)。

カストロストリート  虹色の旗(レインボーフラッグ)で彩(いろど)られたエリアがあったので、不思議に思い城さんに尋ねたところ、サンフランシスコはゲイ・カルチャーの街でもあるということだった。6色のレインボーは多様性を意味する。
 (今でこそ LGBT と言う言葉を日本でも聞くようになったが、当時は何のことか分からなかった。)

※LGBT:女性同性愛者(レズビアン、Lesbian )、男性同性愛者(ゲイ、Gay )、両性愛者(バイセクシュアル、Bisexual )、トランスジェンダー( Transgender )の各単語の頭文字を組み合わせた表現。



 当時、アメリカは日本の10年後の姿と言われていたが、この街を観光した時のことを思い出すと、確かにその通りだと思う(今はタイムラグが短くなったように感じる)。

※地図はこちら

(221)シラキュース~シカゴ~シャイアン~サンフランシスコ(アメリカ)

2013-02-28 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 この日は、Syracuse (シラキュース)(ニューヨーク州)の Downing International Hostel (ユースホステル)に宿泊した。

 宿には数人のアメリカ人国内旅行者が宿泊しているだけで、とても静かだった。
 夕食後、地図とにらめっこをしながら、これからどうするかを考えた。

 五つあった旅の目的地は全て巡った。
 ここで旅を終わりにするか。それとも先に進むか。

※五つの旅の目的地・・・ Hunza (フンザ)(パキスタン)、Maramures (マラムレシュ地方)(ルーマニア)、Jerusalem (エルサレム)(イスラエル)、アイルランドイロコイ族の居留地(アメリカ)

 当初の予定では、イロコイ族に会った後、New York (ニューヨーク)から飛行機で日本に帰るつもりだった。
 だが実際に目的を達した時に、ニューヨークに戻る気にはなれなかった。大都会ニューヨークには旅の情感というものを感じることが出来なかったからだ。
 所持金は底を尽きかけていたが、旅の終わりという実感がまだ湧かなかった。
 あと少し、旅を終えるにあたって何か背中を一押しするきっかけが欲しいと感じていた矢先、旅先で会った旅人(さん(仮名))と連絡が取れた。
 彼は San Francisco (サンフランシスコ)(カリフォルニア州)に住んでおり、行けば家に泊めてくれるという。早速、彼の好意に甘えさせてもらうことにした。



 シラキュースからバスに乗車し、Buffalo (バッファロー)(ニューヨーク州)、Cleveland (クリーブランド)(オハイオ州)を経由して Chicago (シカゴ)(イリノイ州)へ。
 シラキュースからシカゴまでは1泊2日のバスの旅だった(シラキュースとシカゴでは時差が1時間ある)。
 バスはほとんど空席だった為、夜間は横になって寝ていた。
 今となってはその光景を思い出せないが、朝、目覚めると美しい2本の虹が見えたと旅日記に書き記している。

 シカゴで Salt Lake City (ソルトレイクシティ)(ユタ州)行きのバスに乗り換えた。
 シカゴからソルトレイクシティまで Cheyenne (シャイアン)(ワイオミング州)経由で2泊3日かかった。
 バスには自分を含め計三名の乗客がいて、うち一名は北海道から来た女子高生だった。
 彼女はホームステイで3ヶ月間滞在してアメリカの農業を学んだらしく、これから帰国するらしい。
 お互いにこのバスに乗っている理由を話した後、ふと全く会話が噛み合わないことに気が付いた。お互い日本についての最新情報は無く、関心のある物事も違う為、相手が必要としている情報をほとんど持ち合わせていない。
 しばらくすると沈黙の時間が増え、いつしかお互いに自分の世界に戻っていった。



 さて今回のバス旅で二つ困ったことがあった。
 一つは、冷房が効きすぎていること。もう一つは休憩時の食事だった。

 冷房については満席だったとしても寒い位の温度設定で、三人しか乗客がいないバスでは拷問としか考えられなかった。
 何度か巨漢の運転手に交渉をしたのだが、一時的に温度を下げてもらえるものの、しばらくすると再び設定温度を戻してしまう。
 結局諦めて持っている服を重ね着して凌(しの)ぐことにした。
 
 そして二つ目。バス旅の楽しみと言えば食事だが、残念ながら休憩に立ち寄るバスターミナルにあるレストランはファーストフードの店ばかり。当時そのほとんどがマクドナルドダンキンドーナツだった(現在の状況は不明)。
 どちらも美味しいと思うし、嫌いではないのだが、ドーナツを主食として食べる気にはならず、毎食マクドナルドを選択した結果食べ飽きてしまい、食事を抜くこともあった。

 そんなことがあったが、それでも車窓からの景色は美しく、特にロッキー山脈の朝焼けは荘厳だった。

※関連記事はこちら



 この時読んでいた本の言葉を旅日記に書き記している。

 「今、自分が何かをしたいと思っても、それは何代も前から受け継がれた願望であったかもしれません」平山美知子(『私たちのシルクロード』(中公文庫))-



 ソルトレイクの街はソルトレイクシティ五輪(2002年冬)を1年半後に控えていたが、特に五輪に関する掲示物を見た記憶が無い。到着日は休日ということで閉まっている店も多かった。
 風光明媚な街で滞在したかったが、残念ながら所持金を考えると先を急がねばならない。
 数時間滞在した後、すぐにサンフランシスコ行きの夜行バス(1泊2日)に乗った。


 
 そして、ついに翌朝サンフランシスコの街に到着した。
 車中4連泊で駆け抜けたアメリカ横断だった為、残念ながら達成感は少なかった。

 この後、Los Angeles (ロサンゼルス)(カリフォルニア州)の空港に立ち寄っているが、実質的にこの地が旅の終焉の地となった。

※地図はこちら

(220)シラキュース(アメリカ)

2013-02-14 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)に約1週間滞在した後、向かったのは Syracuse (シラキュース)(セラキュース)だ(バスで所要1.5時間)。

 シラキュースは、五大湖の一つオンタリオ湖の南東、ニューヨーク州中央部に位置する商工業都市でオノンダガ郡郡庁所在地となっている(オノンダガ郡の名称はイロコイ連邦オノンダ(ー)ガ族に敬意を表して付けられた)。

 バスターミナルに荷物を預け、路線バスで Nedrow (ネドロウ)のオノンダーガ族リザベーション(居留地)(保留地)へ。下車した後、二人のイロコイ族のおばちゃんに道案内をしてもらい、イロコイ族の小学校まで連れて行ってもらった。

※五大湖周辺に住むイロコイ連邦の六部族

セネカ族( Onodowohgah (オノドワーガ)(丘の上の人々の意))・・・【西の扉を守るもの】であり、【六兄弟の長兄】
モホーク族( Kanienkehaka (カニエンケハカ)(火打石の人々の意))・・・【東の扉を守るもの】
・オノンダガ族(Onundagaono (オヌンダガオノ)(丘の人々の意))・・・【炎とワムパムを守るもの】であり、【六兄弟の兄】
オナイダ族(Onayotekaono (オナヨテカオノ)(直立した石の人々の意))・・・【中央の炎を守るもの】であり、【六兄弟の弟】
カユーガ族( Guyohkohnyo (グヨーコーニョ)(大沼沢地の人々の意))・・・【聖なるパイプを守るもの】であり、【六兄弟の弟】
タスカローラ(テスカレーラ)族( Ska Ru ren (スカルレン)(麻を採る人々の意))・・・18世紀初めに加わった【六兄弟の弟】

 子供達の姿は無かったが、小学校の先生が教室を案内してくれた。
 一番驚いたことは、教室にパソコンが多数置かれていたことだ(当時日本でパソコンを導入している小学校は少なかったと思う)。居留地で暮らしているアメリカ先住民は貧しいという先入観があったが、どうやらイロコイ族は経済的に豊かなようだ。

 他に印象に残っていることを書き記しておきたい。

・掛け算の暗算は12×12まで(覚える)
 日本でいうところの九九。ヨーロッパなどでは十二進法の名残で12×12までの掛け算の表を学ぶらしい(ちなみにインドでは99×99まで学ぶ地域もあるようだ)。



ラクロスの大会の優勝カップを多数展示
 現在のラクロスはイロコイ族の競技が発祥となっているらしい。もともとは北米先住民達の間で儀式の一環として行われたり、部族間の争いの平和的解決手段として催されていたもののようだ。

・13枚の甲羅の亀の絵
 床に13枚の甲羅を持つ亀の絵が描かれていた(確か二階から見下ろせるようになっていたと思う)。
 13枚の甲羅は13の月、つまり一年を表すらしい。
 先住民族達は北米大陸を亀の背に乗っている【亀の島】と考えていたらしい。地図が無かった時代にどうやって北米大陸の形を認識していたのか気になるところだ。



・男性不在
 小学校だけでなく、居留地では男性や子供達の姿を見かけなかった。その理由を問うと、男連中や子供達は皆 POWWOW (パウワウ)(先住民族達の祭り)に出かけているということだった(開催されている場所についてはニューヨーク州ということ以外不明)。
 POWPOWを見てみたかったが、行くとなると予算の問題がある。残念だが所持金を考えて行くのを諦めた。

 もう少し居留地を散策したい気持ちもあったが、住人不在では仕方がない。イロコイ族の話を聞けたことで良しとして居留地を去ることにした。

※イロコイ族のおまけ記事はこちら

※地図はこちら

(219)ニューヨーク③(アメリカ)

2013-01-24 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)滞在中にリバティ島にある自由の女神像(世界遺産)(正式名称は【世界を照らす自由】( Liberty Enlightening the World ))も見学している。

 ロウアー・マンハッタンからリバティ島に立ち寄り見学できるフェリーは当時早朝8:30出発のものしかなかった(現在見学可能か状況は不明)。
 期待に胸を膨らませながらフェリーに乗ってリバティ島へ。



 自由の女神像は、高さ93m(台座部分含む)、総重量225トン、1886年に完成。アメリカ合衆国の独立100周年を記念し、フランス人の募金によって贈呈されたものであり、自由の国アメリカの象徴となっている(自由の女神のモデルとなったのはフランス共和国を象徴する女性像マリアンヌ)。



 旅日記には、王冠部分までは行かなかったが、途中まで階段を昇ったという記述がある(どこまで上がったかは覚えていない)。予算的な関係で断念したと思われるが、今となっては多少無理をしてでも行っておけば良かったと思う。

 この後、フェリーはエリス島へ寄港しているが、エリス島移民博物館の見学も断念している。

 また次の機会に・・・そう自分に言い聞かせてそれっきり再訪していない場所が結構な数で存在する。
 【一期一会】とは人だけでなく、場所にも通じる言葉のような気がする。

 

 訪問から約1年後の2001年9月11日、NY同時多発テロが発生。多くの方々が亡くなられた。

 自分が訪問した地が想像も出来ないような大惨事に見舞われた時、ブラウン管に映る光景を信じることが出来なかった。

 今でも時々思う。あの時もしかしたら自分がそこにいたかもしれないのだと。

 亡くなられた方々の御冥福をお祈り申し上げます。



※関連する記事はこちらこちら

※地図はこちら

(218)ニューヨーク②(アメリカ)

2013-01-10 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)に滞在中にジョージ・グスタフ・ヘイ・センター(国立アメリカン・インディアン博物館の別館)を訪問している(2004年に Washington, D.C.(ワシントンD.C.)に国立アメリカン・インディアン博物館が開館してから別館と呼ばれるようになったと思われ、当時はここが本館だった)。
 この建物はかつて税関として利用されていた重要文化財らしく、立派な建物の中にアラスカから南米までのアメリカ大陸の先住民の文化が紹介されていた。

 この旅最後の目的地イロコイ族の居留地について職員(高齢の女性で風貌から彼女もまた先住民の血を引くと思われた)に尋ねてみた。
 どこにいけばイロコイ族に会えるか情報が欲しかったのだが、彼女は一言「彼らは訪問を歓迎しない」と言う。理由について尋ねても歓迎しないと繰り返すのみで教えてくれなかった。



 この博物館で印象に残っているのはケヴィン・コスナー(俳優・映画監督)の協力によって提供されていた資料(先住民達の生活を記録した映像)だ。
 チェロキー族の血を引く彼は、自身が監督した映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』で、アカデミー賞最優秀作品賞最優秀監督賞を受賞している。

 また、ここで1枚のCDを購入している。ANIMA というバンドの“ ancient voices ”だ。先住民の音楽を現代風に表現したアルバムだった。

※ ANIMA のおまけ記事はこちら

 

 イロコイ族の居留地については、五大湖のほとりにあるという漠然とした情報以外、詳細が分からぬまま旅に出ていた(行けば分かるだろうという楽観的な考えだった)。
 不思議なことに、ニューヨーク滞在中に書店で手に入れた一冊の本によって目的地がはっきりと決まったのだった。
 その本のタイトルは『聖なる魂―現代アメリカ・インディアン指導者の半生』(朝日文庫)(デニス・バンクス森田ゆり共著)。この中にデニス・バンクスが Syracuse (シラキュース)(ニューヨーク州)郊外のオノンダガ国イロコイ族居留地(ネーション)に匿(かくま)ってもらったという記述がある。
 イロコイ族の居住地はアメリカ合衆国建国時の盟約により、現在も治外法権が認められている例外的な土地だそうだ。

※地図はこちら

(217)ワシントンD.C.(アメリカ)

2013-01-03 22:32:24 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)に滞在中に首都 Washington, D.C.(ワシントンD.C.)に出かけている。
 往復の移動手段には夜行バスを利用。グレイハウンド社バスパス(乗り放題チケット)(有効期間2週間のものを購入したと思う)を使用した。グレイハウンドのバスは低所得者層が利用するバスで、乗客はアフリカ系ヒスパニック系の人々が多い。バスはほぼ満席で熟睡は出来なかった。



 ワシントンD.C.は、アメリカ合衆国の東海岸、メリーランド州ヴァージニア州に挟まれたポトマック川の北岸に位置する(【ワシントンD.C.】とは、【ワシントン・コロンビア特別区】( Washington, District of Columbia )の省略形)。



 約4000年前からアナコスティア川(ポトマック川の支流)周辺の地域には先住民族が住んでいた。

 1608年、ジョン・スミス(1580年~1631年)(イギリスの軍人、船長、作家)がヨーロッパ人として初めてこの地域を探検した当時、ポトマック川北岸にはピスカタウェイ族(アルゴンキン語族)、南岸にはポウハタン族(アルゴンキン語族)が住んでいたが、その後次々とヨーロッパ人開拓者がやって来て、先住民達を西方に追いやってしまった。

 1790年に制定された合衆国首都設置法により、首都がポトマック川河畔に設置されることになった(詳細は合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(1732年~1799年)(任期1784年~1797年)が選定し、首都名は初代大統領にちなんで【ワシントン】と名付けられた)。

 1801年、コロンビア特別区基本法によりコロンビア特別区が編制された(【コロンビア】の名前は探検家クリストファー・コロンブス(1451年頃~1506年)に由来している)。

 米英戦争(1812年~1814年)の際、イギリス軍によってワシントンD.C.の街は焼け野原になったが、その後見事な復興を遂げた。

 現在は自国だけでなく世界の政治を牽引する都市であり、また多くの観光客が訪れる観光名所にもなっている。



 ワシントンD.C.で観光したのは下記の通り。

ホワイトハウス  言わずと知れたアメリカ合衆国首相官邸。ツアーに参加して内部見学が出来るはずだったが、訪問時には敷地内に入れなかった。ちなみにワシントンD.C.には、アメリカ合衆国三権機関(ホワイトハウス、連邦議会(議会議事堂)連邦最高裁判所が所在し連邦機関が集まっている。



フォード劇場  合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーン(1809年~1865年)(任期1861年~1865年)が暗殺された場所。フォード劇場博物館ではリンカーンの大統領就任から暗殺までを展示・解説している。

ペンタゴン(国防総省)  米国国防総省の本部。建物の形が五角形( Pentagon )をしている為ペンタゴンと呼ばれる。建物の構造上、どの場所からも徒歩7分以内に最も遠い地点に行くことが出来る。9.11アメリカ同時多発テロの際、建物の一部が破壊された。以後内部見学ツアーは廃止されてしまったようだが、訪問当時(2000年)にはツアーに参加することが出来た。印象に残った展示物として旅日記にメモしているのはB2爆撃機(ステルス戦闘機)と、Maxine McCaffrey が描いた絵画だ。

国立航空宇宙博物館  全米屈指の人気博物館。日本の零銭(零式艦上戦闘機)(【A6M5 ZERO】と表示)も展示されていた。

ナショナルギャラリー(国立絵画館)  13世紀から現代までの絵画や彫刻を中心に展示。市民の寄贈や寄付金で購入されたコレクションの総数は11万6000点に達する。時間が足りず全てを鑑賞することは出来なかった。


ホロコースト記念博物館  ホロコースト(ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺)をテーマにした博物館。ここで初めて杉原千畝(ちうね)(1900年~1986年)(【日本のシンドラーと呼ばれている)・幸子(ゆきこ)(1914年~2008年)夫妻のことを知った。第二次大戦中、リトアニアに外交官として赴任していた杉原千畝氏の手書きのビザ(約6000通)(【命のビザ】と呼ばれた)によって、多くのユダヤ人達がシベリア鉄道ユーラシア大陸を横断し、Vladivostok (ウラジオストク)(ロシア(当時はソビエト連邦))から日本を経由しアメリカなどの諸外国へと向かった。日本のビザ発給は日本国政府の命令に背いた彼の独断であるが、杉原千畝氏の信念により多くのユダヤ人達の命が救われた。

NASA(アメリカ航空宇宙局)  本部がワシントンD.C.にある。建物の前で記念撮影をしただけ。



 ワシントンD.C.に滞在したのは、残念ながら1日のみ。もっとじっくり見たかった場所だ。

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(216)ニューヨーク①(アメリカ)

2012-12-27 23:44:44 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)には約1週間滞在している(杉山さん宅お世話になった)。

 【眠らない街】ニューヨークは、アメリカ合衆国北東部にある都市で大西洋に面し、アメリカのみならず世界でも最大規模の都市である(市域人口800万人以上、都市圏人口では2000万人以上になる)。
 元々約五千人の先住民(レナペ族)が住んでいた土地だったが、1624年にオランダ人入植者達によって交易場として築かれ、ニューアムステルダムと呼ばれていた。
 1664年にイギリス人が町を征服した際、ステュアート朝(1371年~1714年)イングランド王ジェームズ2世(ヨーク・アルバニー公)(1633年~1701年)(在位1685年~1688年)にちなんで【ニューヨーク】と名付けられ、その後貿易港として発展していく。
 独立戦争(1775年~1783年)後に合衆国の首都となった期間がある(1790年まで)。ちなみにニューヨークがアメリカ最大の都市になったのは1790年だそうだ。
 19世紀になると、ニューヨークは開発によって更に変貌を遂げ、19世紀末にはブルックリン市ニューヨーク郡リッチモンド郡クイーンズ郡西部が合併し、現在のニューヨーク市が形成された。
 1920年代には、London (ロンドン)を抜き世界最大の人口を擁する都市となり、1930年代になると都市圏の人口が1000万人を突破した。



 ニューヨークで観光したのは下記の通り。

エンパイア・ステート・ビル  【エンパイア・ステート】(帝国州の意)はニューヨーク州の異名。1931年完成。1972年にワールドトレードセンターノースタワーが竣工するまで40年以上の間世界一の高さを誇るビルだった。86階(高さ320m)の第二展望台まで上った。

ロックフェラーセンター  5番街と6番街、48丁目と51丁目に囲まれたエリア。19のビルが林立している。

タイムズスクエア  マンハッタンの中心地。ブロードウェイから7番街、42丁目から47丁目が交差する辺り。映画で何度も見た光景そのままだった。

セント・パトリック大聖堂  1858年に建設着工されたゴシック様式カトリック教会(全米最大)。

ニューヨーク市立図書館  建築や蔵書数(6500万点以上)で有名。一息つく為に立ち寄った。

国連(国際連合)本部  42丁目から48丁目までのエリアに立地。ツアーで見学も出来るようだが外から見ただけだ。 

マディソン・スクエア・ガーデン  7番街と33丁目の角に建つ大きな円柱形の白い建物。地下に地下鉄駅とアリーナ、劇場がある。

ニューヨーク証券取引所(NYSE)  ウォール街にあるアメリカ最大の株式取引所。当時はツアー(確か無料だったと思う)で内部を見学できた。



メトロポリタン美術館  通称メット( The Met )。この世界最大級の美術館の開館は1870年。絵画・彫刻・写真・工芸品ほか家具・楽器・装飾品など約300万点の美術品を所蔵。規模が巨大過ぎて一日で巡るのは難しい(かなり急ぎ足で見ることになってしまった)。

USTAナショナル・テニス・センター  クイーンズにあるフラッシング・メドウ・コロナ・パークにある全米オープンが開かれる会場。確か大会開催直前の時期で、世界のトップを狙うテニスプレーヤー達が練習をしていた。サイン待ちのファンに囲まれている選手もいたが、誰だったか確認していない。

シェイ・スタジアム  MLBニューヨーク・メッツのかつての本拠地(2009年以降シティ・フィールドが本拠地になり取り壊された)。アリゾナ・ダイヤモンドバックスとの試合を観戦した。



 観光というわけではないが、他に旅日記に書き記しているのは、杉山さんの職場のメキシコ人達とメキシカンレストランでディナーを食べたこと(大音量で音楽が流れており、曲がうるさくて会話にならなかった)。
 その他には当時読んでいた書籍の言葉など書き記している。

「時は神が平等に与え給うもの」

「自分の胸をからっぽにして心に何ごとも止めないでおけば、どんなことでもやって来たそのことに応じてうまく処置することができる。前から用意しておくと、その用意したことが心をふさぎとってやって来たことを完全にうけ入れることができない」


 (以下は、『アンネの日記 完全版』(文春文庫)より)

「この日光、この晴れた空、これらがあるうちは、けっして不幸にはならない」

「愛情とは、相手を理解すること、相手を気づかうこと、良きにつけ悪(あ)しきにつけ、それを相手と分かちあうこと」

「外へ出るのよ。野原へ出て、自然と、日光の恵みとを楽しむのよ。自分自身のなかにある幸福を、もう一度つかまえるように努めるのよ。あなたのなかとあなたの周囲とにまだ残っている、あらゆる美しいもののことを考えるのよ。そうすれば幸せになれるわ!」

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(215)ダブリン~シャノン(アイルランド)~ニューアーク(アメリカ)~ニューヨーク

2012-12-20 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 Dublin (ダブリン)の中心地から北に約12kmにあるダブリン国際空港までバスで移動し、Newark (ニューアーク)(ニューアーク州)(アメリカ)行きの飛行機に搭乗した。

 飛行機はクレア州Shannon (シャノン)にあるシャノン空港に立ち寄り、ここでアメリカに入国する前の事前審査(入国審査)を受けた。
 他の乗客はすんなり審査が終わったが、自分の番になるといろいろ質問を受け審査時間も長く感じられた。セルビアイスラエルでの出入国審査の嫌な記憶が頭をよぎった。
 時間にして15分位だろうか、ようやく入国が認められた。ダブリン~ニューアーク間の往復航空券を持っていたこともあり、米国に不法滞在しないと判断されたのだろう。
 
 飛行機で隣の席になった米国人とトランプをしたりして時間を潰しながらニューアーク・リバティー国際空港に着いた頃には夕方になっていた。所要7時間以上のフライトだ。

※ニューヨーク市域の主要3大空港・・・ニューアーク・リバティー国際空港、ジョン・F・ケネディ国際空港ラガーディア空港

 空港からバスと地下鉄を乗り継いでアメリカ最大の都市 New York (ニューヨーク)(ニューヨーク州)へ移動。交通量や人の数を比べてもダブリンとは桁違いの感じがした。そして何より忙(せわ)しない。
 最初の計画では最後の目的地(5つあった旅の目的地の1つ)を訪問後、ニューヨークから帰国する予定だったが、実際に来てみると旅の風情を全く感じることが出来ない(結果的に、この後の旅のスケジュールを変更することになった)。



 この日、旅先で出会った杉山さん宅に泊めて頂いた(杉山さん宅には約1週間泊めて頂いた)。人の縁に感謝したい。

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