Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(146)エルサレム②(イスラエル)

2011-05-26 06:00:00 | イスラエル
 Jerusalem (エルサレム)滞在二日目。
 Bethlehem (ベツレヘム)から戻ってから、シオンの丘付近に観光に出かけた。
 観光したのは下記の通り。

オスカー・シンドラーの墓  映画『シンドラーのリスト』の主人公オスカー・シンドラー(1908年~1974年)(第二次大戦中、自身が経営する工場で雇用していたユダヤ人約1200人を虐殺から救った)の墓。墓地は閉まっており中に入れなかった。



ダビデ王の墓  本当にここがダビデ王の墓なのか諸説ある。石棺はダビデの星が刺繍されたビロード布に覆われている。また、22のシルバーの聖書を収めた経筒で装飾されている。この22という数字はダビデの後継者である22人の王を指している。

最後の晩餐の部屋  十字軍によって建てられたゴシック式の建物の中にある。他にもイエスが弟子の足を洗った部屋もある。この部屋は【ペンテコステ(五旬節)の部屋】とも呼ばれ、イエスの死後五旬目の日に弟子たちに聖霊が降りた場所とも言われている。

オリーブ山  丘の上から美しい夕陽を見た。今回の旅の目的地の一つであるエルサレムに来れたこと、そして素晴らしい人達と巡り会えたことに感謝した。



 夜に Cairo (カイロ)(エジプト)発エルサレム行きのバスで仲良くなった旅人達と一緒に食事をした。
 出会ってからたいして時間が経っていないが、はるか遠い昔からの知り合いのような感覚だ。たまにこういう人達に出会うことがある。



 (この日旅日記にメモしているAKOさんの教え)

・肉には殺されたくない動物達の想いが付着している→負のパワーを体に入れることになる。

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(145)ベツレヘム(イスラエル)

2011-05-19 23:55:55 | イスラエル
 Jerusalem (エルサレム)滞在二日目に Bethlehem (ベツレヘム)に出かけている。
 イエス・キリスト(紀元前4年頃~紀元後28年頃)が生まれた街べツレヘムは、エルサレムの南10kmにあり、パレスチナ自治区の中にある為、アラブ人が多い。
 ヘブライ語【パンの家】(ベト・ヘレム)アラビア語【肉の家】(ベート・ラフム)という意味らしい。

 旧約聖書に登場するダビデ王(紀元前1000年~紀元前961年頃)の出身地であり、イエス生誕前からこの地に救世主が出現すると預言されていた。



 ここでは聖誕教会(降誕教会)(世界遺産)を見学している。



 ガリラヤ地方Nazareth (ナザレ(ス))から夫ヨセフの故郷にやって来たマリアはこの地でイエスを生んだ。

 教会の地下洞窟にある小さな祭壇がイエスが生まれたとされる場所だ。銀で星形に装飾が施されている。



 聖書には東方の3博士が星に導かれ生まれたばかりのイエスに出会ったという記述があるが、この装飾はその時の星を模(かたど)ったもので、ここにてイエス・キリストは生まれたまえり」ラテン語で刻まれている。

 この教会もローマ皇帝コンスタンティヌス帝(272年~337年)の母ヘレナによって建てられた。ここにはミケランジェ作のモーセ像がある。



 聖誕教会を見学した後、周辺を散策した。アラブ人の店が多かったのが印象に残っている。

 その後、再びエルサレムに戻り、エルサレム観光の続きをすることにした。

※地図はこちら

(144)エルサレム①(イスラエル)

2011-05-12 23:45:16 | イスラエル
 Jerusalem (エルサレム)はイスラエルの首都であるとイスラエル政府は主張しているが、国連では認められていない。

 ここは、ユダヤ教キリスト教イスラム教聖地であるがゆえに、長年にわたってイデオロギーの対立の場となってきた。現在もその火種がくすぶっていると言える。



 エルサレム2日目に観光したのは下記の通り。

ゲッセマネの園  オリーブ山の近くにある。ゲッセマネとはヘブライ語【油絞り】の意。有名な最後の晩餐の後、イエス・キリスト(紀元前4年頃~紀元後28年頃)はここで父なる神に祈りを捧げた (ゲッセマネの祈り)。   

※ゲッセマネの祈り(ゲッセマネでメモした言葉(『マタイによる福音書』第26章39節))

 “ My father , if it be possible , let this cup pass from me ; nevertheless not as I will , but as thou wilt . ”( thou wilt → (古語) you will の意)(「父よ、出来ることなら、この杯(さかずき)を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」 )

 (写真は、オリーブ山)


 
万国民の教会  ゲッセマネにある。別名苦悶(くもん)の教会。4世紀に建てられ、1919年に再建された。ビザンツ様式のモザイク画がある。



マリアの墓の教会  オリーブ山近くにある。4世紀にローマ皇帝テオドシウス1世(347年~395年)によって建てられた。イエスの母マリアと父ヨセフ、マリアの両親ヨアヒムアンナの墓がある。

Via Dolorosa (ヴィア・ドロローサ)  ラテン語【苦難の道】の意。別名 Via Crucis (ヴィア・クルシス)(【十字架の道】)。イエスが裁判で有罪とされ十字架を背負って歩いた道。

鞭打ちの教会  イエスが十字架を背負わされた場所。

エッケ・ホモ教会  Ecce Homo (エッケ・ホモ)とはラテン語で【この人を見よ】の意。ローマ総督ピラトがイエスを指して言った言葉。



『ヨハネによる福音書』(第19章1~17節)

 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

・ ヴェロニカ教会(ヴェロニカのヴェール)  イエスがゴルゴダの丘へと歩いていく様子を見ていたヴェロニカ(女性)が、十字架を背負うイエスの額の汗を拭くよう自身の身につけていたヴェールを差し出した場所。イエスが顔を拭(ぬぐ)って彼女に返したヴェールには、イエスの顔が浮かび上がっていた。

 このヴィア・ドロローサの途中、イエスが十字架の重さに耐えかねて倒れた場所が幾つかある。この道はとても悲しい道だ。歩いていると背中がビリビリした。

 この道を歩きながらU2 “ ONE ”の歌詞を思い出していた。
 
 We're one, but we're not the same
 We get to
 Carry each other
 Carry each other
 One...

 「もしイエスの十字架をみんなで背負っていたら・・・イエス一人に背負わせるのではなく」(旅日記に書き記した言葉)

聖墳墓教会  ヴィア・ドロローサの終点でありキリスト教最大の巡礼地。かつてゴルゴダの丘と呼ばれた地に立つ教会。ローマ皇帝コンスタンティヌス帝(272年~337年)の母ヘレナによって建てられた。ヘレナは敬虔なキリスト教徒で、Bethlehem (ベツレヘム)の聖誕教会など多くの教会を建てているらしい。聖墳墓教会の内部は宗派別に区分けされている。



 (写真は終油の石。十字架から降ろされたイエスの遺体は、埋葬の準備の為この石の上で香油で清められた亜麻布に包まれたと言われている。)



イエスの監獄  聖墳墓教会内部にある。閉まっていた。

イエスの墓  聖墳墓教会内部にある。アダムの墓もここにあるという説もある。ここがイエスの墓であるということを知る前に意味も分からぬまま祈りを捧げていた。直感的に何かを感じ取っていたのかもしれない。

嘆きの壁  旧市街ユダヤ人地区にある。多くのユダヤ教徒が祈りを捧げる姿を目にしたが、かつてはユダヤ教の神殿がこの神殿の丘の上にあったらしい。その神殿は西暦70年にローマのティトス将軍によって破壊されてしまったが、その神殿を囲んだ西側の外壁は破壊を免(まぬが)れ、現在嘆きの壁と呼ばれている。



岩のドーム  神殿の丘にある。イスラム教徒の聖地(現在はイスラム教徒以外立ち入り不可らしい)。イスラム教の教祖である預言者ムハンマド(570年頃~632年)が天使を従え天馬に乗って昇天したという聖なる岩を抱え込むようにして建っている。この岩はアブラハムが息子のイサクを神のために捧げようとした台(モリヤの丘)であり、ダビデが神の契約の箱を祀(まつ)った場所であるとも言われている。ユダヤ教徒にとっての世界の中心だ。ちなみにこのドームを建てたのはウマイヤ朝(661年~750年)の第5代カリフアブド・アルマリク(647年~705年)。



魂の井戸  岩のドームの下の洞窟。何も知らずに直感的に祈った。後で聞いた話だがアブラハム、ダビデ、ソロモン、ムハンマドの聖人達が祈ったところらしい。

アル・アクサーモスク  アル・マスジド・アル・アクサー【遥かなる礼拝堂】(コーラン)と記されている。岩のドームを建てたアブド・アルマリクの息子ワリード1世(ウマイヤ朝第6代カリフ)(674(675)年~715年))によって建てられた。   

イスラミック博物館  神殿の丘の西にあった(現存するか不明)。アル・アクサーモスクの改装時に所蔵品を移したらしい。



 夜になると、ユダヤ人地区の道は封鎖された。
 また、夜中に爆発音が響いた。最初は花火かと思ったが、地理的状況を考えると空襲の爆撃音かテロかもしれない。



 この日、AKOさんに教わったことを旅日記に書き記している。

・肉食から菜食(ベジタリアン)へ→性格も穏やかになる

※AKOさんは、肉を食べなかったので自分もしばらく真似してみた。不思議と肉を食べたいと思わなかったし、久しぶりに肉を食べようとした時は肉の臭いが鼻について少ししか食べられなかった。

・お金→どうやって得たのかが大事

・働(はたら)く→傍(はた)楽(らく)→はた(の人々)を楽しませる

・忙しい→心が亡(ほろ)ぶ

・野草や虫を農家の人がどう見るか

①敵と思って農薬をまく→出来た野菜は不味(まず)い

②「先生」と呼ぶ→美味しい野菜が出来る

※虫は野菜の病気の部分を食べるので、虫を殺してしまうと我々が病気の野菜を食べることになる。

・遺伝子組み換え栽培→出来た野菜は体に良くない(特に体の弱っている人には)

※地図はこちら

(143)カイロ(エジプト)~ニツァナ~エルサレム(イスラエル)

2011-05-05 22:10:50 | イスラエル
 旅の者は、行く先々で、その土地によって描き出される自己を見出すものである。

 この言葉は、当時読んでいた本からの引用だろうか。Cairo (カイロ)を発つ前の旅日記に書き記してある。



 早朝6時前に宿の人々に見送られ(早起きしてくれたことに感謝!!)、後ろ髪を引かれる思いだったが、バスの発着所へと向かった。 

 そこにはこれから Jerusalem (エルサレム)(イスラエル)へと向かう人々が待機していた。
 中には自分と同じようなバックパッカーもおり、何人かと仲良くなったが、バス会社が違うらしく別れてしまった。
 韓国人の青年 Mun さん一人だけが同じバスのようだ。
 彼は南アフリカに留学して映画の勉強をしていたらしい。今回帰国前にエジプトとイスラエルを旅行するのだそうだ(現在連絡を取っていないが、夢を叶(かな)えて映画を製作しているかもしれない)。

 バスはカイロの街を早朝6時過ぎに発った。



 現在、エジプトからイスラエルに入国するルートが幾つあるかは分からない。
 ガイドブックには、シナイ半島北部を抜け Nitsana (ニツァナ)(イスラエル)を通るルート(エジプト側の国境の街の名前は不明)と、南下して紅海(アカバ湾)沿岸の Taba (ターバー)(エジプト)を抜けるルートがあると書かれている。
 当時通ったルートは、北のルートだと思う(きちんと確認したわけではないが)。



 とにかく検問が多く、6、7回はバスから降ろされチェックを受けた記憶がある。
 バス会社が違う旅人達とも検問で何度も顔を会わすうちにすっかり仲良くなってしまった。

 「やれやれだ」という点において、皆の意見は一致していたと思う。

 イスラエルに入国すると、別々のバス会社だった旅人達は皆同じバスに乗車させられた。



 結局エルサレムに到着したのは夕方18時だった。
 Mun さんは宿が決まっていないというので、同じ宿に泊まることになった。
 他の旅人達はすでに予約済みの宿があるということだったのでここで一旦さよならだ。

 

 宿に着くと、長髪のサドゥー(インドの行者)みたいな風貌の男性と出会った。
 日本人でAKOさんと名乗る旅行者だ。

 ここは今回の五つあったこの旅の目的地の一つだったし、何か楽しいことが起こりそうな予感はあった。
 その予感がAKOさんと出会って確信へと変わった。



※地図はこちら