Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(208)アーマー(北アイルランド)

2012-10-25 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Belfast (ベルファスト) を去り、Portadown (ポータダウン)経由で次に向かったのは古都 Armagh (アーマー)だった(バスで所要約1時間位)。

 この地に向かった理由は、「アーマーは、イギリス統治前のアイルランドの首都だった」という不正確な情報をベルファストの宿で出会った旅人から得ていたからだ(最近この街について調べるまでずっと信じていた)。



 アーマーは、とても小さな街だった。アーマー市は北アイルランドで一番人口が少ない市だそうだ(アイルランド島では二番目)。
 この街の名前は、紀元前600年頃にこの地を治めたマーハ女王に由来している。
 彼女が埋葬された丘は、【アード・マーハ】(マーハ女王の丘)と呼ばれていたが、徐々にアーマーに変化したらしい。

 5世紀には、聖パトリック(パトリキウス)(387年?~461年)(アイルランドの守護聖人) が、この地に布教活動拠点となる教会(聖パトリック大聖堂)(アイルランド教会)を設立した。彼はキリスト教ケルトの宗教観を融和させる形で布教を行っている。
 この地に聖パトリックの布教活動の拠点があったことから、アーマーはアイルランドで宗教上重要な都市とみなされているようだ。

 この地もまた北アイルランド紛争で多くの犠牲者を出している。



 街に到着後、一人の若者と知り合い車で街を案内してもらった。
 二つの聖パトリック大聖堂(アイルランド教会とカトリック)を訪れている。

・聖パトリック聖堂(アイルランド教会)  455年に聖パトリックが石造りの教会を建てた場所に現在はゴシック様式の教会が建設されている(13世紀に設立)。



・聖パトリック聖堂(カトリック)  19世紀から20世紀にかけて建てられた教会(ゴシック様式)。



 また旅日記を見ると、近くに英軍基地があったことを書き記している(IRAのテロ対策で置かれたものなのか詳細は分からない)。
 小さな街だった為、観光は半日もかからずに終わってしまった。

※地図はこちら

(207)ジャイアンツ・コーズウェイ(北アイルランド)

2012-10-18 23:55:55 | アイルランド・北アイルランド
 Belfast (ベルファスト) 滞在3日目。
 この日の目的地は、Giant’s Causeway (ジャイアンツ・コーズウェイ)(世界遺産)だった。
 ジャイアンツ・コーズウェイは世界的にも十指に入る奇景として知られ、六角形の石柱群の数はおよそ4万柱あるという。



 ベルファストから Portrush (ポートラッシュ)まで列車で移動し(所要2時間)、そこからバスでジャイアンツ・コーズウェイへ向かった。

 アイルランド島北部の海岸沿いにこの奇景は存在する。



 今からおよそ6100年前、新生代古第三紀に、火山活動によって溶解した玄武岩が、チョーク質の地層に溶け込み、広大な溶岩台地を形成した。
 その後溶岩は急速に冷却し、収縮作用が起こった。収縮により水平方向にひび割れが生じ、現在見られる奇観を形成したとされている。
 柱はほとんどが六角柱だが、四~八角まで様々な形状が混在する。最も高い柱は12m。崖で凝固した溶岩には厚さ28mになるものもある。



 ジャイアンツ・コーズウェィとは【巨人の石道】を意味し、アイルランドの伝説の巨人フィン・マックールに因(ちな)んでいる。伝説では、フィン・マックールがスコットランドの巨人ベナンドナーと戦いに行くためにコーズウェィを作ったとされている。



 道中、メアリーエミリーと名乗る老女二人に出会った。メアリーは煙草好きでエミリーは淑女だったと旅日記に書き記している。
 この二人、こちらが英語を少し話せると分かるや否や普通に話しかけてきた。しかし、正直申し上げて、話す速さと訛(なま)りのせいでほとんど理解出来なかった。
 不思議な形の岩を観光したことと、老人二人に出会ったことがジャイアンツ・コーズウェイの思い出として旅日記に記されている。
 他に旅日記に書き記しているのは、帰りに立ち寄った Coleraine (コーレイン)の街で床屋に行ったこと位だ(約700円、顔を剃(そ)ったが合計30分かからなかった)。

※地図はこちら

おまけ(その29)“ Sunday Bloody Sunday ”( U2 )

2012-10-11 23:55:55 | おまけ
(206)ロンドンデリー(北アイルランド)のおまけ記事



 U2“ Sunday Bloody Sunday ”は、コンサートで毎回必ず歌われる名曲だ。
 そのメッセージ性の強さで彼らを世界的に有名にした曲だと言ってもいいと思う。



 U2のボノ( BONO )について書き記しておきたい。

 ボノの本名は、Paul David Hewson 。今や云わずと知れた世界最大ともいえるロックバンドU2のヴォーカリスト。音楽だけに止まらないその社会貢献活動から、ノーベル平和賞に何度もノミネートされている。
 
 南北に分断されたアイルランドDublin (ダブリン)にて、カトリックの父とプロテスタントの母との間に生まれる(1960年5月10日生)。
 北アイルランドイギリス連邦に属しており、プロテスタントが大多数を占める。逆にイギリスから独立した(南)アイルランドはカトリックが大多数である。
 アイルランドでは宗教の異なるカップルは通常、結婚を認められなかった。ボノの両親も周りの反対を押し切って結婚している。

 しかし、その母がボノ14歳の時に亡くなってしまう。

 ボノの祖父母(母の父母)の結婚50周年パーティーの日に悪夢は始まった。ハイになって酔いつぶれた祖父アレック・ランキンがその晩、心臓発作で死亡。
 失意の中、長女として葬儀を取り仕切る立場にあったボノの母、アイリス・ヒューソンも祖父の埋葬中に倒れ、4日後脳卒中で死去する。
 ボノの父ボブ・ヒューソンは亡くなった妻のことを一切語らなくなり、家の中から明るさが消えた。

 ボノは教会でよく祈ったらしい。

 「絶望の中で、僕は神に祈った。すると、沈黙の中でさえ時として神は答えてくださることを知った。耳をふさぎたくなるような答えであるかもしれないけど、真剣で身を任せる覚悟があれば、とにかく答えは必ずある」(『 U2 By U2 』(シンコーミュージックエンタテイメント刊))

 物心つく頃に母が亡くなったボノはこの頃の記憶が欠けているという。

 ボノの心にあったのは、異なる宗教同士が憎しみあっていた街で、異なる宗教の両親が愛し合って自分が生まれたということ。その愛の形が自分であるという強い理想である。

 だからこそ「ロックは死んだ」とシラケムードが漂った80年代に、アイルランドという田舎から生まれたバンドは、ロックを歌い続けて世界最大のバンドになったのだ。



※“ Sunday Bloody Sunday ”の動画を古い順に紹介させて頂く。

(1)アルバム『魂の叫び( Rattle and Hum )』より(動画はこちら)

(2)スレーン城(アイルランド)でのライブ映像中心の動画はこちら

(3)グラストンベリー・フェスティバル(イギリス)でのライブ映像はこちら

(追加)

(4)総集編的なもの→動画はこちら



 “ How long, how long must we sing this song? ”(いったいいつまでこの歌を歌い続けなければならないのだろう?)という歌詞には熱いメッセージが込められている。

 残念ながら、彼らがこの歌を置く日はまだ来ていない。

(206)ロンドンデリー(北アイルランド)

2012-10-04 23:57:11 | アイルランド・北アイルランド
 Belfast (ベルファスト)を拠点にして何ヶ所か訪問している。
 まず滞在2日目に向かったのは、ベルファストの北西にある Londonderry (ロンドンデリー)( Derry )(デリー)だ(電車で所要2時間強)。



 ロンドンデリーは、北アイルランド第2の都市だ(デリーの語源は、ゲール語で【樫の木】)。
 アイルランド島で最も古い都市の一つであり、6世紀に聖コロンバ(521年~597年)によって修道院が建てられ発展した。
 17世紀になり、この地がロンドン市領となってからロンドンデリーと呼ばれるようになったが、アイルランドではこの名は嫌われ、単にデリーと称する。

 17世紀後半のスチュアート朝(1371年~1714年)の時代、イングランドで誕生した名誉革命体制をめぐってウィリアム3世(1650年~1702年)支持派(ウィリアマイト)ジェームズ2世(1633年~1701年)支持派(ジャコバイト)が対立。
 1689年に始まったウィリアマイト戦争の際、この地は3ヶ月以上の間ジャコバイトに包囲された。この戦争にウィリアム3世支持派が勝利した後、アイルランドにおけるイングランドの支配力が強まった。

 20世紀後半に悲しい事件がこの街で起こっている。血の日曜日事件( Bloody Sunday )(ボグサイドの虐殺)と呼ばれる痛ましい事件だ。



 IRA暫定派 は、1970年からイギリス統治に対する反対運動を行っていた。
 1972年1月30日、公民権を要求するカトリックのデモをイギリス陸軍落下傘連隊第1大隊が襲撃。
 非武装のデリー市民27名が銃撃され、14名死亡、13名負傷。
 その後、北アイルランド紛争は泥沼の様相を呈した。

 1988年イギリスとアイルランド間で結ばれた和平合意(ベルファスト合意)によって、アイルランド共和国は国民投票により北アイルランド6州の領有権を放棄することになった。
 2005年にIRA軍事協議会から全面的な武装解除と平和的手段への転換が発表されたが、その後も散発的な事件が起こっており、北アイルランド問題が完全に解決したとは言い難い。



 この街を知ったのは、U2の曲“ Sunday Bloody Sunday ”を通じてだった。
 何年も前から、アイルランドを訪問したら必ず訪問したいと思っていた。

※“ Sunday Bloody Sunday ”のおまけ記事はこちら

※他にもジョン・レノンポール・マッカートニー達がこの事件をモチーフに作曲している。

※下記画像は旅日記にメモしてあったもの(城壁の内外で住み分けがあったことを記述している。おそらく現地インフォメーションをメモしたものだと思うが、ソースが分からないので正しいかは不明)



 街を歩くと、フリー・デリー・コーナー( Free Derry Corner ) という区画があった。



 家の壁に文字や絵が描かれている(“ You are now entering free Derry. ”という言葉や、血の日曜日事件で亡くなられた方々の似顔絵など)。



 また、事件のモニュメントもあった。モニュメントの前で追悼の祈りを捧げながら、平和の有難さに改めて感謝した。



※2006年にこの地に、フリー・デリー博物館が建設されたらしい。ここで事件の詳細などを知ることが出来るようだ。



 他に印象に残っている場所は、美しい教会 St.Eugene's Cathedral (カトリック)(プロテスタント聖コロンバ大聖堂の方が有名)と公衆トイレだ。

 ツーリスト・インフォメーションの青年に0.1ポンド(約20~30円)硬貨をカンパしてもらい入った公衆トイレ(有料)は、今まで見たことがないようなシステムだった。

 用を済ませてトイレ(個室が一つだけ)から出ると、建物内部を全て水で洗浄するのだ(天井・壁・床・便器を全て自動洗浄していた)。
 毎回このような清掃をしている理由が分からなかった(青年に聞けば良かったと思う)。
 そこまでしてでも洗い流したいものがこの街にあるのかもしれないなどと、当時思っていたが、もしかしたら発火物などの対策なのかもしれない。

 (写真は、ハンズ・アクロス・ザ・ディバイド( Hands Across the Divide )の像)



※divide:分裂、分割、見解の相違、分水嶺

※地図はこちら