Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(160)メルズーガ(モロッコ)

2011-09-29 23:55:55 | モロッコ
 Erfoud ( Arfoud )(エルフード)で1泊した後、エルフードの南20kmの街、Rissani (リッサニ)へと向かった(バスで1時間)。
 サハラ砂漠に向かう前の最後のオアシスだ。

 ここで、二人の日本人旅行者(男女)に出会った。自分を含め皆バラバラに行動していたのだが、偶然に一緒になった。前世で縁のあった人達なのかもしれない(笑)。

 この街も客引きはしつこく、嫌な気持ちになったが、一人だけ物静かな初老の客引き(ベルベル人)がいた。名前を Mr.アリと言う。



 彼が言うには、ベルベル人とは【バルバルス】(野蛮人)という意味の蔑称だから Amazigh (アマズィール)と呼んで欲しいそうだ。

 リッサニからサハラ砂漠の村 Merzouga (メルズーガ)までは35km。現在は道路が舗装されているそうだが、当時はデコボコ道をミニバスで2~3時間かけて走ったような気がする。
 行きのミニバスでは、車中は暑いと判断し、ルーフ(屋根の上)に乗車した。風を受けていけば涼しいと思ったからだ。
 ところがこれが大きな間違いだった。砂漠の風は熱く、鼻が焼けるようだった(信じてもらえないかもしれないが)。



 アリの宿に到着した後、アリの案内で近所を散策した。メルズーガはシェビ大砂丘の近くにある。
 ちなみに【サハラ】の語源は、アラビア語【サーラ】(荒れ果てた)から来ているらしい。

 この地はちょっとしたオアシスのようだった。僅かばかりの畑には作物が植えられていた。
 水汲み場には数km先の村から女性や子供達が水を汲みに来ていた(水汲みは女性と子供の仕事らしい)。
 すると突然、目の前にフランス人団体旅行者達が現れた。ツアーの客達らしい。
 ガイドが水汲み場の説明を終えると、ツアー客達が一斉に写真を撮り出した。
 カメラを向けられた小さな女の子がムッとした表情を見せた。
 そんなのお構いなしに一方的に写真を撮りまくる団体客達。一通り写真を撮り終えた後、彼らは去って行った。

 所要5分にも満たないであろうわずかの時間に、非常に暴力的な何かを感じた。
 おそらく、それはこの水汲み場で幾度となく繰り返されてきた光景なのだろう。 
 蛇口をひねれば水が出る国から来た団体客と、水を汲む為に数km先から砂漠の道を歩いて来る女の子達。 

 もしツアー客達が「写真を撮らせてもらえないか」と女の子に尋ねたら、彼女は何と答えただろう。

 実は自分も写真を撮らせてもらいたかったのだが、この後頼む気にはなれなかった。



 砂漠の暑さは半端ではない。室内でも日中50℃近くまで温度(気温)が上がる。
 宿でじっとしていても玉のような汗が流れてくる。水シャワーを浴びれば一時気持ち良くなるが、すぐに汗だくになるのであまり意味はない。しかもここでは、水は貴重なので何度もシャワーを浴びるわけにはいかない。

 夕方涼しくなるまで待ってから再び周辺を散策した。
 村の外れで男達がサッカーをしていた。足場の悪いグランドだが、ボールコントロールが上手かった。

 夜になると楽しい時間が始まる。
 みんなで食事をしながら、会話を楽しんだ。
 ここの主役はアリだった。時にジョークやクイズで場を盛り上げ、時に哲学的な話をして皆を惹(ひ)き込んだ。
 砂漠の民たちは、昔からこうやって夜の食事をしながら語り合ったのだろう。砂漠の中で火を囲みながら。

 せっかくなのでアリの話を紹介させて頂く。

 (アリの言葉)

心から働け

バランスが大切

感謝・満足できないことはするな

その人にとっての愛は一つだ

誰かを好きになって、その為に「~しなければならない」というのではいけない

 (アリのクイズ)

あるところに砂丘を上る蟻(あり)がいた。昼に5m上るが、夜休んでいる間に砂が崩れて4m下がってしまう。この蟻が20mの高さの砂丘を上るのに何日かかる?(解答はこの記事の最後に記載)

 他にもいろいろあるが、とりあえず一部を紹介させて頂いた。



 そんなこんなで、眠くなるとみんなで屋上に行って横になった。
 満月だったが、それでも星が綺麗に見えた。太古の昔、人類は皆この美しい星空を見ることが出来たのだ。

 眠りにつこうとした時、厄介な存在に気がついた。だ ‼
 ブランケットをかけていたが、さすがに顔にかける気にはならなかった。するとその顔めがけて蠅がやって来るのだ。
 手で追い払うと他の旅行者の顔めがけて飛んでいく。するとその旅行者に追い払われて他の旅行者の顔に移動する・・・
 これを繰り返す間に、眠気が勝って寝てしまうのだった。

※アリの話では、こちらの蝿は血を吸うこともあるらしい。



 朝は陽の光によって目覚める。
 「神は光なり」と旅日記に書いてある。あの時と同じだ。



 午前中に周辺を散策し、昼間は宿で暑さをじっと耐える。夕方に近所のサッカーを見に行って、夜にアリと談笑する。この繰り返しだった。



 メルズーガに3泊した後、先へと進むことにした。
 砂漠の村とアリの話は非常に魅力的だったが、とにかく暑さに耐えられなかったというのが本音だと思う。

※地図はこちら



※アリのクイズの答え→16日

(159)エルフード(モロッコ)

2011-09-22 23:55:55 | モロッコ
  Ouarzazate (ワルザザート)を発ったバスはオアシスの街 Er Rachidia (エルラシディア)へと向かった(所要5時間半)。
 多くのサハラ民族が住む街らしいが、食事したこと以外の記憶はない。自分の中ではあくまでバスの乗り換え地点というイメージだ。

 そこからバスを乗り換えて Erfoud ( Arfoud )(エルフード)までは所要1時間半(ワルザザートからの距離は315km)。
 この地域の人々は観光地のせいか人ずれしていた。客引きはしつこく、休憩で立ち寄ったお店ではトイレを貸してくれと頼んでも貸してくれなかった。しかし、旅日記には、「物乞いのバクシーシに応えてあげないのだから自分も彼らと同じだ」と書き記してある。【情けは人の為ならず】だ。



 エルフードはもともと砂漠のオアシスだった。
 1917年にフランス軍の駐屯地として開発され、サハラ砂漠への拠点の街として賑わったが、砂漠まで舗装道が延びた現在、街はさびれつつある。
 かつては、【パリ・ダカール】ラリーのルート上にあった。その他のラリーもこの地域を通過する。



 この地で見た夕陽は美しかった。
 そして、満月が近づいていることも気持ちを昂(たかぶ)らせた。砂漠の夜はさぞ神秘的だろう。

※地図はこちら

(158)ワルザザート(モロッコ)

2011-09-15 23:55:55 | モロッコ
 Marrakech (マラケシュ)からバスで約5時間かけて Ouarzazate (ワルザザート)へ到着した。

 ワルザザートはアトラス山脈の南側に位置する(標高1151m)。かつては小さな村だったが、1920年代にフランス軍によってサハラ砂漠への最前線基地として建設された。現在もモロッコ軍が駐屯している。
 かつてはマラケシュからアトラス山脈を越えてサハラ砂漠に抜けるルート上に位置しており、交通の要衝となっている。


 この街で観光したのは下記の通り。

アトラス・コーポレーション・スタジオ  映画『アラビアのロレンス』『スター・ウォーズ』『007 リビング・デイライツ』『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』『グラディエーター』『クンドゥン』など、名作の数々がここで撮影された。訪問当時は立ち入り禁止だった。

タウリルトのカスバ  かつてこの地はタウリルトのカスバだけの小さな村だったらしい。20世紀初めのグラウイ氏(マラケシュ司令官)の居住地だった場所でもある。映画『シェルタリング・スカイ』の舞台となっている。



 ワルザザートの西33kmにあるカスバ、アイット・ベン・ハ(ッ)ドゥ(世界遺産)にも行きたかったのだが、バスの便が少なかったので諦めた。お金に余裕があればタクシーをチャーターできたのだが、先のことを考えるとためらわれた。



 北アフリカのモロッコや、アルジェリア、チェニジアといった国々は【マグレブ】(西方、陽の没する大地)と呼ばれている。
 実際、この街で見た夕陽・夕焼けの印象が強く残っている。
 逆にいえば、午前中に活動をしていなかったからだろう(アイット・ベン・ハッドゥ行きのバスに乗り遅れたのも寝坊したから)。
 エジプト、イスラエル、モロッコとハイテンションで旅してきた疲れがここに来て出たのかもしれないし、この街の静けさが疲れを癒してくれたのかもしれない。とにかく一息つきたい頃だったのは確かだ。
 タジン(6~7割)とクスクス(3~4割)のモロッコ料理の繰り返しの食事にも少し飽きてきた頃だったと思う。



 この街に滞在していた時、インターネットのニュースでシリアのアサド大統領(ハーフェズ・アル・アサド)(1930年~2000年)が亡くなったことを知った。後継者は次男のバッシャール・アル・アサド氏らしい。かつて滞在した国のニュースを聞くと、他人事とは思えない気がした(あれから10年以上が過ぎた現在、中東の民主化の波がシリアにも押し寄せている)。

 他に旅日記に書き記していることは、旅仲間から送られてきたメールに書かれていた言葉だ。Istanbul (イスタンブール)で出会った若者(当時大学生)の言葉を紹介させて頂く。

 「僕は優しくなりたい。そして人として可能な限り尊い魂でありたい。」

 彼は今でもその時の志を持ち続けているだろうか。

 

 4日目の朝午前5時、宿の隣の部屋の目覚まし時計が鳴る音で目が覚めた。
 普通なら安眠を妨げられて怒るかもしれないが、この時はとてもラッキーだと思った。朝早くから移動できるからだ。自分の目覚まし時計は故障していたので自力では起きれなかったと思う。

 朝食を済ませた後、東へと向かうことにした。サハラ砂漠はすぐそこだ。

※地図はこちら



 【追記】

 後に上記の大学生が民族音楽の演奏者となり、TV番組に出演したのを知って驚いたが、志(こころざし)は大事だと思う。

(157)マラケシュ(モロッコ)

2011-09-08 23:55:55 | モロッコ
 Casablanca (カサブランカ)から Marrakech (マラケシュ)まではバスで所要3時間半。
 マラケシュは、【南方産の真珠】と呼ばれ、アトラス山脈の麓の丘陵地帯(標高450m)にある。マラケシュとはベルベル語【神の国】の意。モロッコ第三の都市であり、モロッコ有数の観光地でもある。

 その歴史はモロッコで二番目に古い。1070年頃にベルベル人による最初のイスラム国家ムラービト朝(アルモラビト朝)(1040年~1147年)のユースフ・ブン・ターシュフィン(1061年~1106年)によって都市化された。
 その後、ムワヒッド朝(1130年~1269年)もこの地を首都とした為、学問・交易・商工業の中心地として発展した。
 マリーン朝(1196年~1465年)になると首都が Fez (フェズ)に移転(1296年)、衰退の時期を迎えるが、15世紀半ばにサア(ー)ド朝(サーディ(ン)朝)(1509年~1659年)が再びこの地を首都に定めた。
 アラウィー朝モロッコ(1660年~)の時代になると、サアド朝以前の建造物はほとんど壊されてしまったが、バヒア(バイーヤ)宮殿などが造られた。1985年に、マラケシュの旧市街は、世界遺産に登録されている。



 この街で観光したのは下記の通り。

ジャマ・エル・フナ広場  アラビア語【死人の集会場】の意。別名【ジャマ】【ラ・プラス(広場)。現在は【ジャマ・エル・ファーナヌ(芸術家達の広場)とも。夕方の屋台や大道芸人は必見。 

・バヒア宮殿  国王の宿泊する宮殿。ムーア式アラビア式など様々な建築様式で造られている。

伝統工芸館  モロッコ伝統工芸を展示。カーペットを作る女性達が印象に残っている。

メナラ庭園  新市街にある12世紀のムワヒッド朝時代に造られた庭園。オリーブに囲まれた貯水池がある。



エル・バディ宮殿  サアド朝のアフメド(アフマド)・アル・マンスール王(1549年~1603年)が25年の歳月をかけて建造したが、後のアラウィー朝の時代に破壊され廃墟となった。実はこの宮殿の観光をしていないのだが、ここで紹介したのはここで民族際【マラケシュ・フェスティバル】が行われることを後日知ったから。モロッコ最大とも言われる祭りがちょうど始まる時期に滞在していたのだが、その存在すら知ることもなく街を立ち去ってしまった。今回含め今までの旅を通じて言えることだが、ちょうど祭りが開催されるタイミングで祭りの開催地を訪問することが多い。事前に知っている場合だけでなく、到着してから初めて知ることも結構ある。祭りは生きている人間だけでなく、その土地の精霊も参加していて、その精霊から呼ばれたのかもしれない。あるいは自分が無意識に何かを感知してその地を訪れたのかもしれない。そう考えでもしないと片付けられない程の偶然の数々を今までの旅の経験として持っている。



※2011年4月28日、ジャマ・エル・フナ広場で自爆テロがあり、多数の死傷者が出てしまった。大変悲しいことであり、亡くなられた方々のご冥福を祈りたい。いつになったら平和な世の中が来るのだろうか。



 マラケシュに3泊した後、Ouarzazate (ワルザザート)へと向かった。

※地図はこちら

(156)カサブランカ⑤(モロッコ)

2011-09-01 23:55:55 | モロッコ
 Casablanca (カサブランカ)滞在六日目。

 祭りの後のような寂しさと共に朝を迎えた。

 宿(ユース・ホステル)のほとんどの旅人達が今日この街を去る。観るべきものはすでに観た。
 朝食を済ませてすぐに発つ者、午後に発つ者、中にはこれから観光するという者もいた(実は自分もその一人なのだが)。


 
 フランスの俳優 Jean Reno (ジャン・レノ)が生まれた地でもあるカサブランカは、アフリカ有数の都市であり、モロッコ国内では最大の都市だ。
 カサブランカとはスペイン語ポルトガル語【白い家】を意味する。かつてはアンファ(【丘】の意)と呼ばれていた。
 この地に人が住み始めたのは紀元前10世紀頃、当初はベルベル人の街だった。その後、フェニキア人(紀元前7世紀頃)、ローマ人(紀元前5世紀頃)と交易が行われた。
 12世後半からムワヒッド朝(1130年~1269年)、14世紀にはマリーン朝(1196年~1465年)の支配下にあり、イスラムへの改宗も行われた。その後15世紀にアラブ人の海賊の拠点となっていたらしい。1468年に海賊行為に怒ったポルトガル人によって焼き払われている。
 その後1515年に、ポルトガル人によって街は再建され、【 Casa Blanca 】(カサブランカ)(【白い家】)と名付けられたが、リスボン大地震(1755)で被害を受けたカサブランカからポルトガル人達が去ると、街はアラウィー朝モロッコ(1660年~)に統合され、1770年からムハンマド3世(シディ・ムハンマド・イブン・アブダラー)(1710年~1790年)によって要塞化された。
 18世紀からはスペイン、19世紀に入ると他のヨーロッパの列強諸国との間で交易が始まり、街は発展を遂げた。
 1912年にフランスの植民地になり、独立を遂げたのは第二次世界大戦後の1956年。その後はモロッコ最大の都市として繁栄し、世界各国から観光客が訪れている。



 この街を去る前にハッサン2世モスクを観光した。世界で5番目に大きいモスクだ(フランス人ミッシェル・パンソーによる設計)。
 コーラン「神の座は大水の上にある」という一節より、ハッサン2世(1929年~1999年)が「海の上にモスクを創りたい」という願いを叶える形で、大西洋に突き出るように建てられている。海側から見るとあたかも海の上にモスクが建っているように見えるらしい。



 ハッサン2世モスクを観光した後、旅仲間と別れ次の目的地 Marrakech (マラケシュ)へと向かった。

※地図はこちら