Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(166)ティトゥアン(モロッコ)

2011-11-17 23:55:55 | モロッコ
 Chefchaouen (シャウエン)を発った後、すぐにスペインに入国せずにモロッコでもう1泊することにした。

 なるべくなら、早い時間帯でスペインに入国した方がいい。入国審査や情報収集、両替・・・やることはたくさんある。しかも国境を越えるとシステムが変わる。それを考慮した上でもいろいろと制限の多い夕方以降の時間帯で入国するのをは避けたい。その為に、入国前日はなるべく国境に近い位置で迎えたかった。

 ジブラルタル海峡を渡るには、西の Tanger (タンジェ)からのルートと、東の Ceuta (セウタ)(スペイン)からのルートがある。
 タンジェはとにかく旅行者の中で評判が悪かった。物価も高いし、人もすれているらしい。その情報を元にセウタからスペイン入りすることに決めたのだが、セウタも宿代等の物価が高いと考え、結局セウタの南にある Tetouan (テ(ィ)トゥアン)に宿をとった。

 シャウエンからティトゥアンまでバスで約2時間。バスターミナルから近い HOTEL TREBOL に宿泊している。



 この街の歴史は紀元前3世紀頃から始まっているらしい。
 もともとベルベル人の国マウレタニアに属する町であったが、その後ローマ帝国の属州となっている。
 現在のティトゥアンの街がマリーン朝(1196年~1465年)によって築かれたのは1305年頃。
 15世紀末にはレコンキスタ(キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動)イベリア半島を追われた難民が押し寄せてテトゥアンを再建した(特に1492年のグラナダ陥落で)。その為、ティトゥアンの街は【グラナダの娘】とも呼ばれている。

※グラナダ陥落・・・イベリア半島における最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国(1232年~1492年)がカスティ(ー)リャ王国(1035年~1715年)とアラゴン王国(1035年~1715年)の連合王国によって滅ぼされた。

 また、ティトゥアンは、1913年から1956年に独立国モロッコが誕生するまでの間、スペイン領モロッコの首都でもあった。



 この街の旧市街世界遺産に認定されているが、当時そのことを知らなかったように思う。街をブラブラ散策した位で特に観光はしていない。

※地図はこちら

(165)シャウエン(モロッコ)

2011-11-10 23:55:55 | モロッコ
 Asilah (アシラ)に3泊したが、滞在中夕陽を見ることはできなかった。
 滞在最終日に、子供達と砂浜でサッカーをした。夕陽の代わりではないが、それで踏ん切りをつけて先に進むことにした。

 次の目的地は、【青い街】(旧市街が美しい青に染められた街) Chefchaouen (シャウエン)(正式名称シェフシャウエン)だ。バスで移動した。
 アシラから Ksar-el-Kebir (クサール・エル・ケビール)まで南下。そこから西に行けばシャウエンなのだが、乗り換えのバスが無かったのか北西へ向かって Tetouan (ティトゥアン)へ。そこから南下してシャウエンへ辿り着いた(乗り換え時間含め5~6時間位かかったと思う)。

 道中、百日紅(さるすべり)の木が辺り一面に植えられている地域があった。果樹園のような感じだ。葉が全く無かった。
 そのたくさんの百日紅の木々を見ていると、まるで木が立ちながらダンスしているかのようだった
 そうだ、木も踊っている。その動きが緩やかすぎて気付かないだけだ。長い年月をかけて自分を表現しているのだ。

 その姿を見て、自分も自分の人生を生きたい、自分を表現したいと強く感じた。そしてそれが世の中の役に立つことなら最高だと思う。



 シャウエンでは、Ketama Hotel に宿泊した。

 シャウエンとは、アラビア語【角(つの)を意味する。街がリフ山脈ティスーカ山(2050m)とメッグ山(1616m)の麓にあり、この二つの山が角のように見えることからこの名前がついたらしい。
 この街は、1471年にムーレイ・アリ・ベン・ラシッドによって建設された。彼の部族は後にワッタース朝(1472年~1554年)を建国している。
 1492年以降、スペインから逃れてきたイスラム教徒の流入によって人口が増大した。
 その後、1561年にサア(ー)ド朝(サーディ(ン)朝)(1509年~1659年)の支配下に置かれている。
 1920年にスペイン領に組み込まれ、その後30年間スペインの支配下にあったが、イスラム教徒の聖地として長い間異教徒に閉ざされていた為、秘境的な雰囲気を残している。



 この街に2泊している。
 特に観光スポットがあるわけではないが、街をブラブラ散策した。

 本来なら、アシラを発ってすぐに北上しスペインに入国しても良かったのだが、ちょっと躊躇していたところがあった。
 これから物価の高いヨーロッパに入るにあたり、更に倹約をしなければならなくなる。
 食費や宿代を節約する必要が出てくるだろう。その為にいろいろと気合をいれる必要があった。

※地図はこちら

(164)アシラー(モロッコ)

2011-11-03 23:55:55 | モロッコ
 Meknes (メクネス)に滞在した時期、街は祭りの期間だったらしいのだが、あまり盛り上がっているようには見えなかった。聞くところによると、自分は祭りの終わりのタイミングで到着したらしい。まさしく後の祭りだった。
 祭りでは是非ファンタジア(馬上でバロウドと呼ばれる銃を撃つ、昔の騎馬戦術を再現した祭り)を見たかったのだが仕方ない、諦めることにした。



 メクネスに3泊した後、大西洋を望む小さな街 Asilah (アシラー)に向かった(列車で所要3時間半)。
 この街は Casablanca (カサブランカ)で出会った旅人から勧められた静かな街だが、紀元前1500年頃から人が住んでいたらしく歴史のある街でもある。
 フェニキア人の交易拠点の一つとして栄え、15世紀にポルトガルの支配下に置かれた。
 1692年にはアラウィー朝モロッコ(1660年~)の支配下になった。
 19世紀から20世紀にかけては海賊の基地となり、その後スペイン領モロッコに属していたが(1912年~1956年)、1956年に再びモロッコ王国領となり現在に至る。
 街にはポルトガル人の造った Kasba (カスバ)(白い城壁)が残り、青い海とのコントラストが美しい。


 街に到着したのが夕方だった為、すぐに宿を探さなくてはならなかった。
 街を歩いていると、地元のおじさんが声をかけてきた。名前を Mr.アドナンというらしい。
 親切なおじさんで、宿を一緒になって探してくれた。しかし、この街の宿代は今までの街よりも相場が高かった。
 どうしようか迷っていると、家に泊めてくれるという。彼はプライベートルーム(民宿)も手掛けているらしい。

 アドナンの家に着くと、そこには可愛い娘さんのアミナちゃん(5歳位)、そして預かっているという女の子アミナ(高校生)がいた。奥さんとは別居しているらしい。アドナンがどういう経緯で彼女を預かることになったのか覚えていないが、とにかく同居していた。
 女子高生のアミナは、人に対して心を閉ざしていた。両親の不和が思春期の彼女に大きな影響を与え、登校拒否になっているそうだ。大人の価値観の中で子供が生きなければならないのは悲しいことだと感じた。
 
 この街に3泊したが、アミナ(女子高生)とはほとんど交流していない。彼女は英語を話せなかったし、人との交流を求めているように見えなかったからだ。
 旅をしていると、傍観者のスタンスが身についてしまうのだろうか。他の人ならもっと積極的に彼女の心を開かせようとしたかもしれない。

 アミナと話す時間が取れなかったのは他にも理由があった。アドナンが話好きだったからだ。哲学者のような雰囲気のアドナンが家にいる間はずっと話を聞いていなければならなかった。奥さんもいない、アミナは会話しない、そうなると彼の話し相手が務まるのは自分しかいないということもあったのだろう。いつもそうなのか、それともようやく話し相手が見つかったからなのか、真相は分からないが。

 彼の話によると、アシラは芸術の街であり、夏には大きな芸術祭が開かれるらしい。この祭りは世界的に有名だそうだ。
 彼の父親は半年前に98歳で亡くなったそうだが、アートが好きで芸術家の友人がたくさんいて、この街を訪れる芸術家達と交流があったそうだ。
 アドナンは父親のことをとても尊敬していた。人の悪口を決して言わず、妻以外の女性を見なかったそうだ。

 ちなみに、アドナン宅に滞在中UFOの夢を見たので、Jerusalem(エルサレム)(イスラエル)でUFOを見たことをアドナンに話したのを覚えている。
 こういう類(たぐい)の話は誰にでもするわけではないが、彼なら理解を示してくれるような気がした。
 しかし、彼は全く信じようとしなかった。彼の宗教観、世界観の枠の外にある話なのだろう。



 この街には観光スポットのようなところは特に無かったと思う。街を散策するだけで十分だった。曇りの為夕陽が見れなかったのが残念だが。

 日中はほとんどアドナンの話し相手をしていたと思う(彼は失業中のようだった)。
 夜にはアドナンにファンタジアのビデオを見せてもらったり、ユーロ2000(サッカー欧州選手権)のTV中継を見たりして過ごした。



 この街で旅日記に詩を書き記している。
 拙(つたない)い英語と日本語で書いてあるが、日本語の方だけ記録の意味で書いておきたい。



俺はここにいる

空には星が見える

俺もいつか星になる

たくさんの魂(命)が星になった

身体は砂になった

月がそれを教えてくれた


俺はここにいる

陽が大地(砂)を照らす

彼らもそれに応える

熱い風が吹く


そしてまた夜になる

空には星が見える

俺はここにいる


※地図はこちら

(163)ヴォルビリス(モロッコ)

2011-10-27 23:55:55 | モロッコ
 Meknes (メクネス)滞在2日目、まず近郊の古都 Moulay Idriss (ムーレイ・イドリス)に向かった。

 メクネスの北22kmにある聖者の街ムーレイ・イドリスは、イドリース朝(788年~985年)の創始者ムーレイ・イドリス1世(イドリス・イブン・アブドゥーッラー)にちなんで名付けられた(【ムーレイ】とは聖者の意)。
 アッバース朝(750年~1258年)の勢力争いに敗れたイドリス1世はローマ都市 Volbilis (ヴォルビリス)近郊のベルベル族に受け入れられた。その後、彼らをイスラム教に改宗させ、この地にモロッコ初のイスラム王朝イードリス朝を打ち立てた。
 この街の中心にある Horm (ホルム)は彼の霊廟でムスリム以外中に入ることはできない。



 街の雰囲気を味わった後、ローマ時代の古代都市遺跡 Volubilis (ヴォルビリス)へと向かった。
 ムーレイ・イドリスから約4kmの道のりを歩いた記憶がある。



 ヴォルビリスは、その保存状態の良さから世界遺産に登録されている。



 もともと紀元前3世紀頃、カルタゴの施設群の上に築かれたとされているが、都市が建造されたのは西暦40年頃かららしい。
 かつては、マウレタニア・ティンギタナと呼ばれ、ローマ属州の州都として栄えた。
 この街の名前は、ベルべル語夾竹桃(きょうちくとう)に因(ちな)んでいる。 

 ローマ帝国が撤退した後、7世紀にアッバース朝の支配下に入った。
 789年には、イドリース1世が、アッバース朝の迫害から逃れてこの地に落ち着いたが、ムーレイ・イドリス2世(791年~828年)によって Fez (フェズ)の都市が建設されると、ヴォルビリスの重要性は失われていき、1755年のリスボン大地震で崩壊した。



 カラカラ帝の凱旋門(277年建造)(上記写真)をくぐると、一面にひまわりが咲き乱れていた。
 今、この遺跡に存在するのは、自分と古(いにしえ)の記憶を宿した建造物と、そしてひまわりだけだ(なんともぜいたくな話だ)。


 
 他に誰もいないこの廃墟で詩を書いている。

 

 風と砂が一時触れ合う。

 それによって砂は美しさを増す。
 
 風はまたどこかに行ってしまう。

※地図はこちら

(162)メクネス(モロッコ)

2011-10-20 23:55:55 | モロッコ
 Fez (フェズ、フェス)から Meknes (メクネス)まではとても近い。バスで1時間位だった。

 メクネスの街は別名【メクネッサ・ザイトゥーン】(オリーブのメクネッサ)と言う。10世紀頃に、メクネッサ族(ベルベル人)が建設し、周辺にオリーブなどの広大な畑を作ったことに由来するらしい。水の美味しいことでも有名な街だ。

 その後アラウィー朝モロッコ(1660年~)の時代に首都となり(1675年~1728年)、最盛期を迎えたが、首都としての役割が終わると共に衰退の一歩を辿った。
 現在旧市街世界遺産に登録されている。



 この街で観光したのは下記の通り。

(エル・)マンスール門  北アフリカで最も美しいことで有名な門の一つ。最盛期を迎えたアラウィー朝のムーレイ・イスマイル(1672年~1727年)の死後に完成した。別名【マンスール・エルアージュ門】(改宗者の勝利の門)。



・ムーレイ・イスマイル廟  栄華を誇ったメクネスの主の墓。イスラム文化の最高傑作とも言われている。

風の道  王宮の壁沿いにある通り。強い風が吹き抜けることに由来する。王宮横の庭園ゴルフ場になっていて、当時のお金で約2千円でプレー出来ると聞いた。



 本来ならじっくり観光する価値がある街なのだが、夕方になると早めに観光を切り上げて、サッカーユーロ2000の放送をTVに釘付けになって観ていた(毎日の日課になっていた)。

 他にはこの地でパンツを購入している。ジッパーで膝下の部分が取り外し可能というもので、ボロボロになったGパンの代わりに、帰国するまでお世話になった。

 

 この時の旅日記に書いてあるアラビア語の単語を一部紹介させて頂く。

HAMDULILLAH (ハンドゥリッラー)  (神のおかげで)

INSHALLAH (インシャアッラー)  (神が望むならば)



 滞在3日目に、メクネス近郊に観光に出かけた。

※地図はこちら

(161)フェズ(モロッコ)

2011-10-06 23:55:55 | モロッコ
 Merzouga (メルズーガ)から Rissani (リッサニ)に戻り、そこから夜行バスで Fez (フェズ、フェス)へ向かった。
 夜行バスにしたのは正解だったと思う。夜の移動は涼しくて快適だった(昼間のバス移動は暑さとの戦いでもある)。



 フェズはアラビア語ではファースまたはファスとも呼ぶ。

 この街は、789年、アッバース朝(750年~1258年)の勢力争いに敗れたムーレイ・イドリス1世(イドリース・イブン・アブドゥッラー)(?年~791年)よって建設され、息子のムーレイ・イドリス2世(791年~828年)によってたてられたイドリース朝(788年~985年)の首都となった。

 イドリース朝は、西マグリブにおける最初のイスラム王朝(モロッコではウマイヤ朝(661年~750年)に次ぐ2番目のイスラム王朝)である。

 フェズの街はマリーン朝(1196年~1465年)の支配下にあった13~14世紀に発展した。この時に造られた地区をフェズ・エル・ジェディドといい、昔ながらの街をフェズ・エル・バリと呼んで区別しているらしい。これらフェズの旧市街世界遺産に登録されている。
 この地はかつてスペインからの移民ユダヤ人、また近隣のチュニジア人の出会いにより発展し、モロッコの宗教、文化の中心だった。



 フェズで有名なのは、迷宮と表現される複雑なメディナ(旧市街)(アラビア語で【街】の意)だ。迷子にならないように観光しなければならないが、モロッコの伝統と文化を感じるには一番の場所かもしれない。

 フェズのメディナをいろいろ観光したと思うのだが、旅日記に書き記してあるのはブー・ジュルード庭園のみ(王宮にも行ったが入れなかった)。
 一息つく為に立ち寄ったのだが、この庭園を綺麗だと思った。



 フェズの街に1泊して、次の目的地 Meknes (メクネス)に向かった。

※フェズの街並みのおまけ記事はこちら

※地図はこちら

(160)メルズーガ(モロッコ)

2011-09-29 23:55:55 | モロッコ
 Erfoud ( Arfoud )(エルフード)で1泊した後、エルフードの南20kmの街、Rissani (リッサニ)へと向かった(バスで1時間)。
 サハラ砂漠に向かう前の最後のオアシスだ。

 ここで、二人の日本人旅行者(男女)に出会った。自分を含め皆バラバラに行動していたのだが、偶然に一緒になった。前世で縁のあった人達なのかもしれない(笑)。

 この街も客引きはしつこく、嫌な気持ちになったが、一人だけ物静かな初老の客引き(ベルベル人)がいた。名前を Mr.アリと言う。



 彼が言うには、ベルベル人とは【バルバルス】(野蛮人)という意味の蔑称だから Amazigh (アマズィール)と呼んで欲しいそうだ。

 リッサニからサハラ砂漠の村 Merzouga (メルズーガ)までは35km。現在は道路が舗装されているそうだが、当時はデコボコ道をミニバスで2~3時間かけて走ったような気がする。
 行きのミニバスでは、車中は暑いと判断し、ルーフ(屋根の上)に乗車した。風を受けていけば涼しいと思ったからだ。
 ところがこれが大きな間違いだった。砂漠の風は熱く、鼻が焼けるようだった(信じてもらえないかもしれないが)。



 アリの宿に到着した後、アリの案内で近所を散策した。メルズーガはシェビ大砂丘の近くにある。
 ちなみに【サハラ】の語源は、アラビア語【サーラ】(荒れ果てた)から来ているらしい。

 この地はちょっとしたオアシスのようだった。僅かばかりの畑には作物が植えられていた。
 水汲み場には数km先の村から女性や子供達が水を汲みに来ていた(水汲みは女性と子供の仕事らしい)。
 すると突然、目の前にフランス人団体旅行者達が現れた。ツアーの客達らしい。
 ガイドが水汲み場の説明を終えると、ツアー客達が一斉に写真を撮り出した。
 カメラを向けられた小さな女の子がムッとした表情を見せた。
 そんなのお構いなしに一方的に写真を撮りまくる団体客達。一通り写真を撮り終えた後、彼らは去って行った。

 所要5分にも満たないであろうわずかの時間に、非常に暴力的な何かを感じた。
 おそらく、それはこの水汲み場で幾度となく繰り返されてきた光景なのだろう。 
 蛇口をひねれば水が出る国から来た団体客と、水を汲む為に数km先から砂漠の道を歩いて来る女の子達。 

 もしツアー客達が「写真を撮らせてもらえないか」と女の子に尋ねたら、彼女は何と答えただろう。

 実は自分も写真を撮らせてもらいたかったのだが、この後頼む気にはなれなかった。



 砂漠の暑さは半端ではない。室内でも日中50℃近くまで温度(気温)が上がる。
 宿でじっとしていても玉のような汗が流れてくる。水シャワーを浴びれば一時気持ち良くなるが、すぐに汗だくになるのであまり意味はない。しかもここでは、水は貴重なので何度もシャワーを浴びるわけにはいかない。

 夕方涼しくなるまで待ってから再び周辺を散策した。
 村の外れで男達がサッカーをしていた。足場の悪いグランドだが、ボールコントロールが上手かった。

 夜になると楽しい時間が始まる。
 みんなで食事をしながら、会話を楽しんだ。
 ここの主役はアリだった。時にジョークやクイズで場を盛り上げ、時に哲学的な話をして皆を惹(ひ)き込んだ。
 砂漠の民たちは、昔からこうやって夜の食事をしながら語り合ったのだろう。砂漠の中で火を囲みながら。

 せっかくなのでアリの話を紹介させて頂く。

 (アリの言葉)

心から働け

バランスが大切

感謝・満足できないことはするな

その人にとっての愛は一つだ

誰かを好きになって、その為に「~しなければならない」というのではいけない

 (アリのクイズ)

あるところに砂丘を上る蟻(あり)がいた。昼に5m上るが、夜休んでいる間に砂が崩れて4m下がってしまう。この蟻が20mの高さの砂丘を上るのに何日かかる?(解答はこの記事の最後に記載)

 他にもいろいろあるが、とりあえず一部を紹介させて頂いた。



 そんなこんなで、眠くなるとみんなで屋上に行って横になった。
 満月だったが、それでも星が綺麗に見えた。太古の昔、人類は皆この美しい星空を見ることが出来たのだ。

 眠りにつこうとした時、厄介な存在に気がついた。だ ‼
 ブランケットをかけていたが、さすがに顔にかける気にはならなかった。するとその顔めがけて蠅がやって来るのだ。
 手で追い払うと他の旅行者の顔めがけて飛んでいく。するとその旅行者に追い払われて他の旅行者の顔に移動する・・・
 これを繰り返す間に、眠気が勝って寝てしまうのだった。

※アリの話では、こちらの蝿は血を吸うこともあるらしい。



 朝は陽の光によって目覚める。
 「神は光なり」と旅日記に書いてある。あの時と同じだ。



 午前中に周辺を散策し、昼間は宿で暑さをじっと耐える。夕方に近所のサッカーを見に行って、夜にアリと談笑する。この繰り返しだった。



 メルズーガに3泊した後、先へと進むことにした。
 砂漠の村とアリの話は非常に魅力的だったが、とにかく暑さに耐えられなかったというのが本音だと思う。

※地図はこちら



※アリのクイズの答え→16日

(159)エルフード(モロッコ)

2011-09-22 23:55:55 | モロッコ
  Ouarzazate (ワルザザート)を発ったバスはオアシスの街 Er Rachidia (エルラシディア)へと向かった(所要5時間半)。
 多くのサハラ民族が住む街らしいが、食事したこと以外の記憶はない。自分の中ではあくまでバスの乗り換え地点というイメージだ。

 そこからバスを乗り換えて Erfoud ( Arfoud )(エルフード)までは所要1時間半(ワルザザートからの距離は315km)。
 この地域の人々は観光地のせいか人ずれしていた。客引きはしつこく、休憩で立ち寄ったお店ではトイレを貸してくれと頼んでも貸してくれなかった。しかし、旅日記には、「物乞いのバクシーシに応えてあげないのだから自分も彼らと同じだ」と書き記してある。【情けは人の為ならず】だ。



 エルフードはもともと砂漠のオアシスだった。
 1917年にフランス軍の駐屯地として開発され、サハラ砂漠への拠点の街として賑わったが、砂漠まで舗装道が延びた現在、街はさびれつつある。
 かつては、【パリ・ダカール】ラリーのルート上にあった。その他のラリーもこの地域を通過する。



 この地で見た夕陽は美しかった。
 そして、満月が近づいていることも気持ちを昂(たかぶ)らせた。砂漠の夜はさぞ神秘的だろう。

※地図はこちら

(158)ワルザザート(モロッコ)

2011-09-15 23:55:55 | モロッコ
 Marrakech (マラケシュ)からバスで約5時間かけて Ouarzazate (ワルザザート)へ到着した。

 ワルザザートはアトラス山脈の南側に位置する(標高1151m)。かつては小さな村だったが、1920年代にフランス軍によってサハラ砂漠への最前線基地として建設された。現在もモロッコ軍が駐屯している。
 かつてはマラケシュからアトラス山脈を越えてサハラ砂漠に抜けるルート上に位置しており、交通の要衝となっている。


 この街で観光したのは下記の通り。

アトラス・コーポレーション・スタジオ  映画『アラビアのロレンス』『スター・ウォーズ』『007 リビング・デイライツ』『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』『グラディエーター』『クンドゥン』など、名作の数々がここで撮影された。訪問当時は立ち入り禁止だった。

タウリルトのカスバ  かつてこの地はタウリルトのカスバだけの小さな村だったらしい。20世紀初めのグラウイ氏(マラケシュ司令官)の居住地だった場所でもある。映画『シェルタリング・スカイ』の舞台となっている。



 ワルザザートの西33kmにあるカスバ、アイット・ベン・ハ(ッ)ドゥ(世界遺産)にも行きたかったのだが、バスの便が少なかったので諦めた。お金に余裕があればタクシーをチャーターできたのだが、先のことを考えるとためらわれた。



 北アフリカのモロッコや、アルジェリア、チェニジアといった国々は【マグレブ】(西方、陽の没する大地)と呼ばれている。
 実際、この街で見た夕陽・夕焼けの印象が強く残っている。
 逆にいえば、午前中に活動をしていなかったからだろう(アイット・ベン・ハッドゥ行きのバスに乗り遅れたのも寝坊したから)。
 エジプト、イスラエル、モロッコとハイテンションで旅してきた疲れがここに来て出たのかもしれないし、この街の静けさが疲れを癒してくれたのかもしれない。とにかく一息つきたい頃だったのは確かだ。
 タジン(6~7割)とクスクス(3~4割)のモロッコ料理の繰り返しの食事にも少し飽きてきた頃だったと思う。



 この街に滞在していた時、インターネットのニュースでシリアのアサド大統領(ハーフェズ・アル・アサド)(1930年~2000年)が亡くなったことを知った。後継者は次男のバッシャール・アル・アサド氏らしい。かつて滞在した国のニュースを聞くと、他人事とは思えない気がした(あれから10年以上が過ぎた現在、中東の民主化の波がシリアにも押し寄せている)。

 他に旅日記に書き記していることは、旅仲間から送られてきたメールに書かれていた言葉だ。Istanbul (イスタンブール)で出会った若者(当時大学生)の言葉を紹介させて頂く。

 「僕は優しくなりたい。そして人として可能な限り尊い魂でありたい。」

 彼は今でもその時の志を持ち続けているだろうか。

 

 4日目の朝午前5時、宿の隣の部屋の目覚まし時計が鳴る音で目が覚めた。
 普通なら安眠を妨げられて怒るかもしれないが、この時はとてもラッキーだと思った。朝早くから移動できるからだ。自分の目覚まし時計は故障していたので自力では起きれなかったと思う。

 朝食を済ませた後、東へと向かうことにした。サハラ砂漠はすぐそこだ。

※地図はこちら



 【追記】

 後に上記の大学生が民族音楽の演奏者となり、TV番組に出演したのを知って驚いたが、志(こころざし)は大事だと思う。

(157)マラケシュ(モロッコ)

2011-09-08 23:55:55 | モロッコ
 Casablanca (カサブランカ)から Marrakech (マラケシュ)まではバスで所要3時間半。
 マラケシュは、【南方産の真珠】と呼ばれ、アトラス山脈の麓の丘陵地帯(標高450m)にある。マラケシュとはベルベル語【神の国】の意。モロッコ第三の都市であり、モロッコ有数の観光地でもある。

 その歴史はモロッコで二番目に古い。1070年頃にベルベル人による最初のイスラム国家ムラービト朝(アルモラビト朝)(1040年~1147年)のユースフ・ブン・ターシュフィン(1061年~1106年)によって都市化された。
 その後、ムワヒッド朝(1130年~1269年)もこの地を首都とした為、学問・交易・商工業の中心地として発展した。
 マリーン朝(1196年~1465年)になると首都が Fez (フェズ)に移転(1296年)、衰退の時期を迎えるが、15世紀半ばにサア(ー)ド朝(サーディ(ン)朝)(1509年~1659年)が再びこの地を首都に定めた。
 アラウィー朝モロッコ(1660年~)の時代になると、サアド朝以前の建造物はほとんど壊されてしまったが、バヒア(バイーヤ)宮殿などが造られた。1985年に、マラケシュの旧市街は、世界遺産に登録されている。



 この街で観光したのは下記の通り。

ジャマ・エル・フナ広場  アラビア語【死人の集会場】の意。別名【ジャマ】【ラ・プラス(広場)。現在は【ジャマ・エル・ファーナヌ(芸術家達の広場)とも。夕方の屋台や大道芸人は必見。 

・バヒア宮殿  国王の宿泊する宮殿。ムーア式アラビア式など様々な建築様式で造られている。

伝統工芸館  モロッコ伝統工芸を展示。カーペットを作る女性達が印象に残っている。

メナラ庭園  新市街にある12世紀のムワヒッド朝時代に造られた庭園。オリーブに囲まれた貯水池がある。



エル・バディ宮殿  サアド朝のアフメド(アフマド)・アル・マンスール王(1549年~1603年)が25年の歳月をかけて建造したが、後のアラウィー朝の時代に破壊され廃墟となった。実はこの宮殿の観光をしていないのだが、ここで紹介したのはここで民族際【マラケシュ・フェスティバル】が行われることを後日知ったから。モロッコ最大とも言われる祭りがちょうど始まる時期に滞在していたのだが、その存在すら知ることもなく街を立ち去ってしまった。今回含め今までの旅を通じて言えることだが、ちょうど祭りが開催されるタイミングで祭りの開催地を訪問することが多い。事前に知っている場合だけでなく、到着してから初めて知ることも結構ある。祭りは生きている人間だけでなく、その土地の精霊も参加していて、その精霊から呼ばれたのかもしれない。あるいは自分が無意識に何かを感知してその地を訪れたのかもしれない。そう考えでもしないと片付けられない程の偶然の数々を今までの旅の経験として持っている。



※2011年4月28日、ジャマ・エル・フナ広場で自爆テロがあり、多数の死傷者が出てしまった。大変悲しいことであり、亡くなられた方々のご冥福を祈りたい。いつになったら平和な世の中が来るのだろうか。



 マラケシュに3泊した後、Ouarzazate (ワルザザート)へと向かった。

※地図はこちら

(156)カサブランカ⑤(モロッコ)

2011-09-01 23:55:55 | モロッコ
 Casablanca (カサブランカ)滞在六日目。

 祭りの後のような寂しさと共に朝を迎えた。

 宿(ユース・ホステル)のほとんどの旅人達が今日この街を去る。観るべきものはすでに観た。
 朝食を済ませてすぐに発つ者、午後に発つ者、中にはこれから観光するという者もいた(実は自分もその一人なのだが)。


 
 フランスの俳優 Jean Reno (ジャン・レノ)が生まれた地でもあるカサブランカは、アフリカ有数の都市であり、モロッコ国内では最大の都市だ。
 カサブランカとはスペイン語ポルトガル語【白い家】を意味する。かつてはアンファ(【丘】の意)と呼ばれていた。
 この地に人が住み始めたのは紀元前10世紀頃、当初はベルベル人の街だった。その後、フェニキア人(紀元前7世紀頃)、ローマ人(紀元前5世紀頃)と交易が行われた。
 12世後半からムワヒッド朝(1130年~1269年)、14世紀にはマリーン朝(1196年~1465年)の支配下にあり、イスラムへの改宗も行われた。その後15世紀にアラブ人の海賊の拠点となっていたらしい。1468年に海賊行為に怒ったポルトガル人によって焼き払われている。
 その後1515年に、ポルトガル人によって街は再建され、【 Casa Blanca 】(カサブランカ)(【白い家】)と名付けられたが、リスボン大地震(1755)で被害を受けたカサブランカからポルトガル人達が去ると、街はアラウィー朝モロッコ(1660年~)に統合され、1770年からムハンマド3世(シディ・ムハンマド・イブン・アブダラー)(1710年~1790年)によって要塞化された。
 18世紀からはスペイン、19世紀に入ると他のヨーロッパの列強諸国との間で交易が始まり、街は発展を遂げた。
 1912年にフランスの植民地になり、独立を遂げたのは第二次世界大戦後の1956年。その後はモロッコ最大の都市として繁栄し、世界各国から観光客が訪れている。



 この街を去る前にハッサン2世モスクを観光した。世界で5番目に大きいモスクだ(フランス人ミッシェル・パンソーによる設計)。
 コーラン「神の座は大水の上にある」という一節より、ハッサン2世(1929年~1999年)が「海の上にモスクを創りたい」という願いを叶える形で、大西洋に突き出るように建てられている。海側から見るとあたかも海の上にモスクが建っているように見えるらしい。



 ハッサン2世モスクを観光した後、旅仲間と別れ次の目的地 Marrakech (マラケシュ)へと向かった。

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(155)カサブランカ④(モロッコ)

2011-08-25 23:55:55 | モロッコ
 首都 Rabat (ラバト)から Casablanca (カサブランカ)に戻り、宿の友人達と夕食を食べに行った。

 この時、日本代表応援団ウルトラス・ニッポン(通称ウルトラス)の方と食事を共にしている。
 弾丸ツアー(機内泊)で来られたそうで、観光せずにサッカーの試合だけ観て帰るらしい。日本代表にかけるあまりの熱さに会社では浮いた存在だそうだ(一流企業に勤務されている方だった)。世の中にはいろいろな人がいるものだ。
 


 翌日(カサブランカ滞在五日目)。

 朝食を済ませた後、ジャマイカ代表の選手たちが滞在するホテルに向かった。どうせならこの機会に一緒に記念写真を撮ってもらおうと思ったのだ。
 ホテルのロビーでジャマイカ代表の6番の選手と一緒に記念撮影をしたのだが、この選手が誰だったのか未だに分からずじまいだ。

 午後になってから試合会場に向かうと、会場の周辺で日本人サポーター(ツアー客)を見かけた(日本代表のユニフォームを着ているのですぐ分かる)。皆さん仕事を休んでこの試合の為だけにはるばるモロッコまで来られたそうだ。
 しばらくすると、日本代表のバスが到着した。と弥(いや)が上にもテンションが上がった。



 会場入りすると、前日ラバトで交渉した Mr.ALOVANI の姿が。彼の案内で一番高いカテゴリーの席に案内された。
 とは言っても、昨日とは違う場所だった。観客席の中心部はフランスからのツアー客の為に確保されており、その外側に座らざるを得なかったのだ。岡野俊一郎JFA(日本サッカー協会)会長(当時)や釜本邦茂JFA副会長(当時)も割を食うはめになった様子を見て、諦めることにした。Mr.ALOVANI の気持ちを感じたので、これ以上ごねる気は起きなかった。

 そう言えば、当時はフィリップ・トルシエ(フィリップ=ベルナール・ヴィクトル・トルシエ)監督の解任騒動があり、今大会の結果次第では監督更迭もありえる状況だったと思う。真偽の程は定かでないが、トルシエ氏と釜元氏の間でいろいろあったというニュース記事を見た覚えがある。

 また、観客席でうじきつよしさん等著名人を見かけて、改めて日本代表人気の高さを感じたのを覚えている。



 まず最初に、日本代表VSジャマイカ代表の試合(3位決定戦)が行われた。
 98年のフランスW杯で戦った時は2-1でジャマイカが勝利したが、その後の両国には大きな実力の差がついたように思える。
 試合は、日本が4-0で勝利した。この試合の得点者は城彰二氏(2得点)、柳沢敦選手(現ベガルタ仙台)(1得点)、カズ(三浦知良)選手(現横浜FC)(1得点)。
 中でも【キング】カズ選手のゴールを見れたことを幸せに思う。今のところ、このゴールがカズ選手の代表ラストゴールとなっている。
 
 ちなみにモロッコの人々も日本代表のことを応援してくれていたのだが、彼らにとって日本人の名前は馴染みがないらしく、車のメーカーの名前を連呼していた。

 「ホンダ、ホンダ、シシキ(スズキのこと?)シシキ」 

 正直言って、喜んでいいのかどうか分からないが・・・。



 試合後だっただろうか、中田英寿氏が自分の席のすぐ後ろの通路を通って控室に戻って行った。こちらを見て自分と目が合ったので、一人だけ日本人が観客席にいるのに気づいたようだった。
 何か声をかけようと思ったが、言葉が出てこなかった。
 「お疲れ様です」と言うのも変だし、「こんにちは」と言う状況でもないような気がする。「グッジョブ!!」なんて言うのは論外だ。
 皆さんが同じ立場だったらどうするだろうか。

※それにしても、後年中田さんが現役引退後、旅人になった時は驚いたと同時にとても不思議な気がした。彼はいつから旅への欲求を募らせていたのだろうか。



 第二試合(決勝戦)の前に、モロッコ国王ムハンマド6世(1963年~)が登場した。
 この時は、席を移動して宿の仲間達と一緒にいたのだが、ムハンマド6世がこちらに向かって手を振った瞬間、我を忘れて立ち上がって手を振っていた。我に返ると隣の友人達も同じ行動を取っていた。
 ここまで人を惹きつける力は一体何だろう?日本代表にも、カズ選手、ゴン中山選手、中田氏とオーラを感じる人達がいたが、ムハンマド6世のものは全く違う種類のオーラだった。
 人懐っこい笑顔とあいまって、モロッコ国民が「国王の為に」という気持ちになるのも自然なことのような気がした。



 決勝戦はフランス代表VSモロッコ代表だった。結果は5-1でフランスの圧勝。事実上の決勝戦は日本代表VSフランス代表の試合だったと思う。

 何はともあれ、日本代表の試合を生まれて初めて生で見れたこの機会を生涯忘れないと思う。
 この時の感動を再び味わいたくて、帰国後W杯アジア予選を観に何度かスタジアムに足を運んでいる。

 もしサッカーに興味がない方でも、今年行われたアジアカップ決勝( Doha (ドーハ)(カタール))や、女子W杯決勝( Frankfurt (フランクフルト)(ドイツ))の会場で試合を観戦したとしたら、またスタジアムに足を運びたくなると思う。
 そこまでの感動ではなかったかもしれないが、ハッサン2世国王杯もなかなか見ごたえのある大会だったと思う。

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(154)ラバト(モロッコ)

2011-08-18 00:58:00 | モロッコ
 Casablanca (カサブランカ)滞在四日目。

 宿(ユース・ホステル)の友人達は日本代表の宿舎に行くという。
 記念写真やサインをもらいにいくそうだ。

 しかし、自分には他にやることがあった。
 
 昨日の試合、一番カテゴリーの高い席(約8000円)と次のカテゴリーの席(約2000円)の差がほとんどなかった。
 自分の購入した8000円の席は柱が邪魔して隣の2000円の席の方が見やすかった。
 これでは奮発して高いチケットを購入した意味がない。差額の6000円で何日モロッコで生活出来るだろうか。
 首都 Rabat (ラバト)まで出掛けてでもチケット代を返してもらおうとこの時意気込んでいた。



 カサブランカからラバトまでは列車で約50分。
 確かモロッコのサッカー協会の事務所を訪ねたと思う。担当者が不在ということで、彼が出掛けているというホテルへ。そこはフランス代表の滞在しているホテルだった。
 前回のようにフランス代表と記念写真を撮ってもらう気にもなれず、担当者を探しまわった。

 現在手元には、Official Representative (Representativeとは代表者・代理人の意)の Ali SBAI 氏の名刺がある。この方から紹介された Mr.ALOVANI と交渉したのを覚えている。
 確か「こんなことでW杯を開催するなんて無理だ」というようなきついことを言った覚えがある(当時モロッコは2010年のW杯開催を目指していた)。
 彼は最初「日本人は皆金持ちだろう?なぜこれ位のお金で文句を言うのだ。」と言っていたが、こちらの必死さに結局は折れてくれた。
 しかし、お金は返せないと言う。どうやら次の試合も一番高いカテゴリーの席で試合観戦させてやるから納得しろということのようだ。
 完全に納得したわけではないが、相手の気持ちも伝わってきたので了承することにした。
 
 

 その後、日本大使館へ行き新聞を読み漁(あさ)った。
 それから、特に観光もせず、カサブランカへ戻った。旅日記に記録しているのは遠目からハッサンの塔(ムーア様式)を見たことぐらい。



 ラバトの街の歴史は古く、紀元前3世紀にはすでに人が住んでいたらしい。
 その後、西暦250年までローマ帝国の支配下にあった。
 再び活気を呈するのは12世紀にムワヒッド朝(1130年~1269年)がこの地に大規模なリバート・エル・ファトフ(勝利の要塞)を築いてから。この名はラバトの街の名の起源になっている。
 その後再び衰退するが、17世紀に復興。1912年、フランスの植民地下になると Fez (フェズ)からラバトに首都が移転。以後、モロッコ独立後もこの地が首都と定められている。

 そんな歴史のある街だったが、観光しなかったのはサッカーのことで頭がいっぱいだったからだろう。今思えば、きちんと自分の目で見ておくべきだったと思う。

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(153)カサブランカ③(モロッコ)

2011-08-04 23:55:55 | モロッコ
 Casablanca (カサブランカ)滞在三日目の午後。

 宿(ユースホステル)の旅仲間達と楽しみしていたハッサン2世国王杯日本代表戦を観に行った。 

 会場に着くと、既に日本代表の面々がアップを始めていた。
 この時オーラを感じた選手は3人。
 個人的に注目していたからかもしれないが、人を惹きつける存在感がそこにはあった。

カズ(三浦知良)選手(現横浜FC)  キングの風格が漂っていた。「何があっても自分らしく」(旅日記の表紙に書いた言葉)の主を見ることが出来て感激した。

ゴン(中山雅史)選手(現コンサドーレ札幌)  代表には選ばれたものの、残念ながら今大会は怪我で出場機会が無かった。その形相はTVで見るイメージと全く違っていて(真剣で戦っている武士のようだった)、試合に出たいという気持ちが伝わって来た。

中田英寿氏  サッカー一筋の選手が多い中で、どこか達観しているというか、独特のオーラを感じた。



 この日のチケットは一番カテゴリーの高い席(約8000円)だったが、旅仲間達が見ている席(約2000円)とたいして離れていないし、柱が邪魔で却って良く見えなかった。仕方なく、仲間達のところに移ることにした(後で交渉してお金を返してもらうつもりだった)。

 フランス代表との試合は日本代表の善戦が光り、2-2の引き分けだった(PK戦は2-4でフランスの勝利)。
 この試合でゴールを決めた西澤明訓(あきのり)氏(現セレッソ大阪アンバサダー)は、このゴールをきっかけにリーガ・エスパニョーラ(スペインリーグ)の RCD エスパニョールへと移籍している。

トルシエジャパンの代名詞とも言えるフラット3の中心選手として相手の攻撃を防いでいたのは本日亡くなられた松田直樹さん(松本山雅 FC ( JFL ))だ。彼は今大会ゲームキャプテンを任されていた。ご冥福をお祈りします(松田さんの追悼記事はこちら)。

 (下記画像は大会ガイドブックをスキャンしたもの。左上の人物が松田さん。)





 第二試合は、モロッコ代表VSジャマイカ代表だった。
 楽しみにしていた【ロレーヌの真珠】ムスタファ・ハッジ選手(2010年まで CSフォーラ・エシュ (ルクセンブルクリーグ)に所属)は、怪我の為出場しなかった。
 試合結果は1-0でモロッコ代表の勝利。試合内容を考えると、第一試合の日本VSフランスの試合が事実上の決勝戦と言えた。

※ムスタファ・ハッジ選手のおまけ記事はこちら

※地図はこちら

(152)カサブランカ②(モロッコ)

2011-07-21 01:12:04 | モロッコ
 Casablanca (カサブランカ)滞在三日目。

 この日は日本代表VSフランス代表と、モロッコ代表VSジャマイカ代表の試合が組まれていた。

 宿(ユース・ホステル)のベッドほとんど日本人旅行者で占められていた。誰もが今日の日本代表戦を心待ちにしていた。
 そんな中、一人アメリカ人旅行者(職業は大工、名前は聞き忘れた)だけが周囲のテンションについていけないと困惑した表情を浮かべていた。
 彼に「なぜ日本人達はそんなに浮かれているんだ?」と聞かれたので、旅仲間(日本人)が説明をした。

 「今日本は2002年のW杯を前に空前のサッカーブームが起きている。今日はその日本代表チームの試合があるんだ。しかも相手は98年W杯優勝国のフランスだ。」

 彼の国アメリカでは、サッカーは他の4大プロスポーツの後塵を拝している。

※北米4大プロスポーツ(リーグ)とは、NFL(アメリカンフットボール)、MLB(野球)、NBA(バスケットボール)、NHL(アイスホッケー)のことを指す。

 アメリカ人である彼に話題を合わせるべく、メジャーリーグの話をすることにしたが、彼の知る日本人メジャーリーガーはいなかった(あまりスポーツに興味は無いらしい)。
 仕方なく、昔見て感動した映画『フィールド・オブ・ドリームス』の話を持ち出したところ、彼の瞳が輝き出した。
 なんと、彼の妹がこの映画に出演していると言う。

※映画『フィールド・オブ・ドリームス』のおまけ記事はこちら

 彼の妹の名前は Gaby Hoffman (ギャビー・ホフマン)らしい(映画ではケヴィン・コスナーの娘役で出演していた)。
 余談になるがハリウッド女優Christina Ricci (クリスティーナ・リッチ)と仲が良いらしい。
 その後彼から妹さんの出演作を教わった(申し訳ないがまだ観ていない)。

“ Black and White ”

“ 200 Cigarettes ”

“ Sleepless in Seattle ”

“ You Can Count on Me ”

 彼がギャビー・ホフマンの兄を詐称した可能性も否定できないし、この記事を読まれた方からそういう突っ込みを受けるかもしれない(名前を聞き忘れたので尚更だ)。
 真相を確かめるには、ギャビー・ホフマンに会って「あなたのお兄さんは大工ですか?お兄さんは2000年の6月にモロッコにいませんでしたか?」と聞くしかない。

 しかし、皆さんにはこういう体験がないだろうか。



 場が盛り上がっているところに自分だけ遅れてやって来たと仮定した場合の話。

 みんなに聞いてもらいたい話があるのだが、場の話題と全然関係のない話なので切り出せずにいると、話したい事柄に近い話題が自然発生的に起きる。結果的にスムーズな流れで自分の話したい話を切り出せる。

※場の話に関係なく「ねぇ聞いて、聞いて」と強引に自分の話を切り出すのではなく、あくまで自然発生的に自分の話が出来るようになるケース。

 不思議なことだが、こういう奇妙なシンクロ(みたいなもの)がイスラエル辺りからずっと続いていた。テンションが高いといろいろ楽しいことが起こる。これも引き寄せの法則かもしれない。

※地図はこちら