Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(173)パンプローナ(後編)(スペイン)

2012-01-05 23:56:00 | スペイン・ポルトガル
 夏とはいえ Pamplona (パンプローナ)の夜は肌寒かった。空気が乾燥しているせいだろうか。眠ると体温が下がる為、ウィンドブレーカーだけでは心もとなかった。

 熟睡できなかったこともあり、早朝6時すぎに場所取りにいくことにした。
 昨日下見をした中で、ベストポイントと思ったのはゴールの闘技場に近いポジションだ。
 ここに柵があり、腰かけることができた。

 エンシエロ(牛追い)(闘牛の前に牛を闘牛場に追い込む行事)が始まるのは朝8時から。
 我々が陣取った場所はやはりベストポジションらしく、多くのマスコミ関係者(カメラマン)達が柵の前で機材を並べ始めた(ちょっと見づらくなってしまったが仕方ない)。
 また今朝到着したという観光客も多く、他の場所で出会った旅人達と再会した。



 始まる直前まで牛追いに参加するかどうか迷っていたが、結局参加するのを諦めた(昨日カフェで見た映像のように参加して大けがをしたくなかった)。

 そして午前8時、いよいよエンシエロが始まった。
 遠方からだんだんと歓声が近づいてくる。獰猛(どうもう)な牛が走ってくるのを期待した。

 が、しかし・・・目の前に現れた牛はどう見ても獰猛には見えない。
 カランカランと首につけた鈴が寂しそうに鳴っていた(とてもシュールな光景に思えた)。



 待っていたカメラマンや観光客達から物足りないという表情が見てとれた。
 こんなことなら牛追いに参加しても良かったかもしれない。

※日によって違う牧場の牛を牛追いに参加させるらしく、この日はおとなしい牛の多い牧場の牛だったようだ。



 この後、サン・フェルミンの行列が街を行進し、夕方には闘牛も行われるそうだ。
 しかし、この二日間で充分祭りの雰囲気を楽しんだこともあり、Barcelona (バルセロナ)に戻ることにした。

 ここはあと一週間祭りの熱狂で渦巻く街となり、人々は飲み、語らい、そして踊り続けるのだろう。

 もしいつの日か強烈な非日常の世界の中に身を置きたくなったら、またこの祭りに参加したと思う。
 生卵を顔面で受け止め、牛に弾き飛ばされてもそれを楽しめる位の覚悟を持って。

※地図はこちら

(172)パンプローナ(前編)(スペイン)

2011-12-29 23:55:55 | スペイン・ポルトガル
 この時期大きな祭りが開催されると聞いており、せっかくなので足を延ばしてみることにした。
 行き先は Pamplona (パンプローナ)、祭りの名前はサン・フェルミン祭(牛追い祭り)だ。
 Sevilla (セビリア)の春祭りValencia (バレンシア)の火祭りと並び、スペイン三大祭りの一つとされている。

 Barcelona (バルセロナ)からパンプローナまで夜行バスで所要5時間半。着いたのは朝5時だった。



 パンプローナにはもともとバスク人の祖先ヴァスコン人が住んでいたが、歴史の記録に登場するのは紀元前75年。
 共和制ローマの将軍(グナエウス・)ポンペイウス(紀元前106年~紀元前48年)がヒスパニア(スペイン)で反乱を起こしたクィントゥス・セルトリウス(紀元前126年(?)~紀元前73年)との争いの中で駐屯地とした。

 パンプローナが最盛期を迎えるのは、この地を首都としたナバ(ー)ラ王国の時代だ(824年 ~1620年)。今でも当時の栄華を偲(しの)ばせる歴史的建築物が残っている。

 また、この地はサンチャゴ(サンティアゴ・デ・コンポステーラ)巡礼のルート上にある(いつか巡礼してみたい)。



 牛追い祭りの起源ははっきりと分かっていないが、エンシエロ(牛追い)(闘牛の前に牛を闘牛場に追い込む行事)はスペイン各地(約70ヶ所)で行われている。
 パンプローナの牛追い祭りが世界的に有名になったのは、『日はまた昇る』(アーネスト・ヘミングウェイ著)で紹介されてからだそうだ。



 パンプローナに到着した後、街を散策したり、カフェで時間を潰していた。
 カフェでは過去の祭りの映像を流していたのでしばし見入ってしまった。
 祭りの参加者が獰猛(どうもう)な牛の角で突き上げられて身体を地面に叩きつけられていた。店員の話では、過去に死者が出たことも何度かあるそうだ。



 街に続々と人が集まってきていた。
 服装は白の上下(Tシャツパンツ)でそこに赤のアクセントをつけるネッカチーフと腰の飾り帯。これが祭りの正式な服装らしい。とりあえずネッカチーフを購入した。
 この服装は、パンプローナの守護聖人サン・フェルミン(?~ 614年)が首を斬られた時に流された血にちなんだものらしい。



 街を散策していると、この旅で出会った旅人達と続々と再会を果たした(やはりこの祭りは注目度が高い)。
 自然と10人位の日本人の集団が出来あがった。そのうちの一人の男性がツアーガイドの方(和田さん(仮名))で、いろいろと祭りの説明をしてくれた。今までに何度かツアーガイドとしてこの祭りに参加しているそうだ。
 和田さんにとって今回はプライベートでの参加らしい。長年の夢だったそうだ。
 牛追い祭りと言うとどうしても牛追いそのもの(7月7日~14日)に目が向きがちだが、和田さんの話では7月6日の開会式の方がもっと楽しいらしい。

 「何があるのかは見てのお楽しみ」(和田さん談)

 正午近くになったので開会式の始まる市庁舎前に向かったのだが、この時ようやく和田さんの言っている意味が分かった気がした。市庁舎前の広場に向かう人々の手に???な物が握られていたからだ。
 最初はワインシャンパンだけだと思ったが、買い物袋の中にいろいろ小道具を仕込んでいる人もいた。中を見せてもらうと、そこに入っていたものは生卵マヨネーズケチャップマスタード・・・。これから何が起こるのか想像がついた。



 結局、和田さんやビデオカメラを持っている人達が市庁舎前のメインの位置に陣取ることにして、自分含め臆した人達は少し離れたところから事の成り行きを見守ることにした。
 とにかくすごい人の数で、会場に入りきれない人達が道に溢れており、自分達の後ろにも長い列が続いていた。

 ようやく正午になり、いよいよ市長が祭りの宣言をする時が近づいてきた。
 集まった人々が赤いネッカチーフを両手で顔の前に掲げる。



 「サン・フェルミン!サン・フェルミン!」
 熱気が渦巻くとはこのことを言うのだろう。

 「7月6日、日曜の午後に祭は爆発した。他に表現のしようがない」(『日はまた昇る』(アーネスト・ヘミングウェイ著、高見浩訳、新潮文庫))

 市長がスピーチの最後に祭りの開会を宣言した。
 花火が上がり、一斉に物が飛ぶ(会場から離れていてもいろいろな飛んできた)。
 半狂乱とも言える非日常の世界
 これが祭りなのだ。



 どれくらいの時間が過ぎただろうか。
 待ち合わせ場所に戻ってしばらくすると、勇者達が帰ってきた。
 彼らの誰もが目も当てられない姿になっていた(中には着替えを持ってきていない人もいて、そのままの姿で夜を明かした人もいた)。
 どうやら東洋人は目立つらしく標的になってしまったようだが、いい映像が撮れたそうだ。



 次のイベントは翌7日の早朝から始まるので時間がかなりある。
 どこに陣取りするか、牛追いのルートを下見することにした。

 旧市街の狭い道を歩いていると、様々なミニイベントや即興演奏のようなものが行われていた。

 (写真は、路上で一人踊るおじいちゃん。祭りで高揚した感情の昂(たかぶ)りを踊って解放していた。)



 夜になったが、この時期のホテルはどこも満室な為、予約なしでは泊まれない。
 人々はそこかしこで飲んで騒いでいる。酔っ払い同士のケンカもある為、警官が巡回しているが、あまり効果があるようには見えない。
 和田さんの話でスリもいるということなので日本人同士で集まって夜を明かすことにした(交替で睡眠を取った)。



 この街は祭りの期間中夜も眠らない街になるという。
 パンプローナの人達は、この祭りを楽しみに一年を生きているのだろう。



※地図はこちら

(171)バルセロナ(スペイン)

2011-12-22 23:55:55 | スペイン・ポルトガル
 Lisbon (リスボン)から夜行列車に乗り、Madrid (マドリード、マドリッド)(スペイン)に戻ってきた。
 寝台席が取れず2等座席での移動だった為、熟睡はしていない。

 到着してすぐにバスターミナルに向かい、Barcelona (バルセロナ)行きのバスに乗り込んだ。
 バルセロナまで所要8時間の移動だったが、とても快適だったのを覚えている。窓の外に広がる景色は牧歌的で美しかったし、座席が心地良かったので睡眠不足も解消できた。



 バルセロナには約一週間滞在し、ここを拠点にして郊外に観光にも行っている。

 余談になるが、かつてオリンピックが開催されたということもあり、スペインに来るまではバルセロナが首都だと思っていた(実際はマドリードだということをこの旅で知った)。

 バルセロナはスペイン第二の都市であり、フランスとの国境(ピレネー山脈)から160km南に位置する。
 紀元前にカルタゴ人の都市として始まり、後にローマ帝国の支配下となった。
 その後西ゴート王国(5世紀)、ウマイヤ朝(8世紀初め)、フランク王国(9世紀初め)の領地となり、9世紀末にバルセロナ伯国(カタルーニャ君主国家)(987年~1716年)として独立した(現在のカタルーニャの起源)。ここから約4世紀にわたり、アラゴン(・カタルーニャ)連合王国を構成する一勢力として勢力を地中海に拡大し最盛期を迎えた。
 しかし、15世紀にアラゴン連合王国とカスティーリャ王国(1035年~1715年)との間で統一王朝が形成されると(スペイン統一)、スペインの中心はマドリードへと移行した為バルセロナは衰退していった。
 (カタルーニャ・)モデルニスモという芸術運動が興り、バルセロナが復興していくのは19世紀半ばから(カタルーニャ・ルネッサンスの時代)。この時期に活躍した建築家にガウディ(アントニ・ガウディ・イ・コルネット)( 1852年~1926年)がいる。
 現在もこの地にはカタルーニャ独自の文化が色濃く残っており、カタルーニャ語公用語として使われている。
 


 バルセロナで観光したのは下記の通り。

サグラダ・ファミリア聖堂(世界遺産)  現在も建設中の大聖堂でバルセロナのシンボル。(カタルーニャ・)モデルニスモの建築の代表例。カタルーニャ出身の建築家アントニ・ガウディの精神は彼が亡くなった今でも受け継がれている。



カサ・パトリョ(世界遺産)  をテーマにガウディによって増改築された住宅。

カサ・ミラ(世界遺産)  これもガウディの作。別名【ラ・ペドレラ】(石切り場の意)。をテーマに建築され石を積み上げたような外観になっている。

グエル公園(世界遺産)  ガウディ作。もともとは宅地として計画されていたが資金面などの問題によって公園に生まれ変わった。敷地内にガウディの家博物館がある。  

カテドラル(サンタ・エウラリア大聖堂)  ゴシック地区にある。13世紀から建設が始まり15世紀に完成。バルセロナの守護聖人サンタ・エウラリアが地下に眠っている。

市庁舎  ゴシック地区のサン・ジャウマ広場に面して建っている。この広場にはローマ時代からのバルセロナ行政の建物が残っている。14世紀に完成。

ピカソ美術館  ゴシック地区。パブロ・ピカソ(1881年~1973年)の絵画を展示。早熟だったピカソの9歳頃~23歳頃までの初期の作品中心。

スペイン広場  バルセロナ・オリンピックのメイン会場になったモンジュイックの丘の麓にある広場。

コロンブスの塔  ランプラス通りの南端にある塔(高さ60m)。1888年のバルセロナ万博の際、アメリカとの交易を記念して建設された。

凱旋門  シウタデリャ公園そばにある。上記の万博の際、ここが入り口だった。



 バルセロナには、他にもカタルーニャ音楽堂サン・パウ病院などの世界遺産、ガウディの建築物、美術館・博物館関係など見どころが多々ある。
 ルイス・フィーゴ氏(サッカー元ポルトガル代表)の経営する寿司屋もあったが、とにかく倹約第一だったので、外観しか見ていない。
 もしいつか行く機会があれば、この街を十分堪能したいと思う。

※地図はこちら

(170)ロカ岬(ポルトガル)

2011-12-15 23:55:55 | スペイン・ポルトガル
 Lisbon (リスボン)からロカ岬( Cabo da Roca )まで Cascais (カスカイス)経由で約1時間。バスを乗り継いで行った記憶がある。
 ロカ岬はユーラシア大陸の最西端にあり(北緯38度47分、西経9度30分)、そこから西に広がる大西洋が見渡せる。



 到着したのは14~15時頃だったが、まだまだ陽は高かった。
 リスボンでは雨が降っていたのだが、ここは快晴で景色が素晴らしかった。
 大陸の終わる先に広がる大西洋。世界は果てしなく広い。



 そこには石碑が立っていた。観光客がひっきりなしに記念撮影をしている。
 石碑にはポルトガル最大の詩人、ルイス・デ・カモンイス(1524年頃~1580年)の叙事詩「ウズ・ルジアダス」第3詩20節の一節が刻まれている。

 “ Onde a terra acaba e o mar começa ”(ここに地終わり、海始まる)

 (見えづらいが、下記写真上部の文字 “ CABO DA ROCA ” の下に記載有り)



 正直言うと、(出発前の計画では)ここには陸路で辿り着く予定だったし、そうしたかった。その方が何倍も感慨深かっただろう。
 しかし、旅に予定変更はつきものだ(おかげでモロッコという国を知ることができた)。



 ここで大西洋に沈む夕陽を見たかったのだが、最終のバスが16時半頃に出発してしまう。
 この時期(7月上旬)にここで夕陽を見る為には、レンタカーで行くか現地で宿泊するしかなかったのだ。
 簡単に夕陽を見れると考えていた自分が甘かった(現在は20時頃までバスが運航している模様)。
 仕方ないので終バスで帰ることにした。



 リスボンに戻って思い出したのだが、この日はユーロ2000決勝戦だった。
 慌てて市内のバル( BAR )を駆け巡ったが、意外なことにTVのある店でもこの大一番を放送していない(正確に言うと客達は他のチャンネルを見ていた)。
 地元のクラブの試合ならば違うのかもしれないが、代表戦しかも母国以外の国同士の戦いにはあまり興味がないのかもしれない。

 何軒か渡り歩いてようやくTV中継している店を発見。この時点で後半の残り時間もわずかとなっていた。
 しかし、後半ロスタイムにフランスが追いつき、延長戦でイタリアを下した(スコア2-1)。
 気さくに写真撮影に応じてくれたフランス代表を応援していたので、この勝利はとても嬉しかった。このチームと互角に渡り合った日本代表の今後に期待が持てる!(と、この時感じた)。



 ポルトガルに来た当初は体調不良でどうなることかと思ったが、ロカ岬に行きユーロ2000決勝も観戦できた。
 これでとても気持ち良くこの地を去れる。

 この地に来れたことに感謝して、次の目的地 Barcelona (バルセロナ)に向かった。

※地図はこちら

(169)リスボン(ポルトガル)

2011-12-08 06:10:40 | スペイン・ポルトガル
 スペインの首都 Madrid (マドリード、マドリッド)から夜行列車に乗り、翌早朝に Lisbon (リスボン) ( Lisboa )(リジュボア)(ポルトガル)に到着した。
 リスボンはポルトガルの首都であり、南ヨーロッパ有数の世界都市でもある。古代から港町として栄え、現在でもポルトガル最大の海港だ。



 昨日から風邪を引いてしまった為、安宿を探してこの日はホテルに宿泊することにした( HOTEL IBERICA 、1泊約1500円)。

 その後街を散策しようとしたものの、体調が芳(かんば)しくないせいか初日はあまり動けなかった。
 休憩する為マクドナルドに入ると日本人旅行者2人と出会った(2人とも先程知り合ったばかりらしい)。休暇を利用して旅行に来たそうだ。
 話を聞いて驚いたのは、2人ともスペインでスリの被害にあっていたこと。何ともひどい話だ(自分がスペインで出会った旅行者の3割はスリや強盗の被害にあっていた。被害にあわれた方の話を聞く度に注意喚起されたせいか、自分は被害にあわずに済んだ)。

 彼らと別れた後、いったん宿に戻ることにした。部屋に戻って熱を計るとなんと38℃を越えていた。
 この後,更に熱が出るかもしれない。その前に体力をつけなければ。
 先程出会った旅行者にガイドブックを見せてもらった際に、この街に日本食レストランがあることを知ったので早速夕食を食べにいくことにした。

 宿から必死の思いで歩くこと20分位。途中公園で休憩をはさんでやっと日本食レストランに辿り着いた。しかし、メニューを見て愕然(がくぜん)としてしまった。
 様々な定食(どれも美味しそうだった)があるのだが、どれも予算オーバーだ。

 すきやき定食、天ぷら定食、しゃぶしゃぶ定食・・・セットで2000円近い値段だ。
 悲しいかな、ここで心の中でかなりの葛藤があった。美味しい料理を食べたいという欲求と、倹約をしなければならないという現実の間で。

 結果的に注文したのは湯豆腐定食だった(1500円弱)。
 今考えれば、500円位余計に出してでもより栄養のあるものを食べた方が良かったと思う。
 しかし、当時は何としても最終目的地まで辿り着かなくてはならないというその思いの方が強かった。

 久しぶりに食べる湯豆腐はとても美味しく、あっと言う間に食べ終えてしまった。
 ほとんどが野菜だったので、精力をつけるには物足りなかったかもしれないが、それでも美味しい食事を食べられたことに感謝した。



 宿に戻り、Gilgit (ギルギット)でもらった薬(抗生物質)が残っていたのでこれを服用。汗をかく為、厚着をして就寝。

 それから3時間後、汗だくになって寝苦しくて目覚めた。熱を計ると39℃を越えている。汗で濡れた服を着替えたいのだが、それさえも億劫なくらい力が出なかった。
 なんとか着替えて寝たのだが、夜中に再び汗だくで目が覚めた。熱は若干下がったが、まだまだ予断を許さない。再度着替えて眠りについた。

 そして翌朝。
 昨日までの悪寒が消え、身体の内側から力が湧き出る感覚がある。嵐は去ったのだ。



 まず、リスボン市内を散策することにした。
 この時観光したのは、下記の通り。

ベレンの塔(世界遺産)  テージョ川河口を守る要塞。16世紀前半に完成した。司馬遼太郎氏が【テージョ川の貴婦人】と評している。

クリスト・レイ  テージョ川の南岸にそびえ立つ110mの巨大なキリスト像。

グルベンキアン美術館  アルメニア人石油王カルースト・サルキス・グルベンキアン(1869年~1955年)のコレクションを集約して1969年にオープンした美術館。印象に残った画家は、Jose Julio de Souza Pinto (1856~1939)、Jose Malhoa (1855~1933)、Carlos Reis (1863 - 1940)
 
 他にもサン・ジョルジェ城などいろいろ見たかったが、この日の夜行列車のチケットを手配していた為諦めた。
 この日最優先で観光したかったのはロカ岬( Cabo da Roca )だ。午後の時間をロカ岬訪問に費やした。

※地図はこちら

(168)マドリード(スペイン)

2011-12-01 23:55:55 | スペイン・ポルトガル
 Algeciras (アルヘ(ー)シラス)から夜行列車に乗り、翌早朝に首都 Madrid (マドリード、マドリッド)に到着した。
 ニ等客車にしたのは正直失敗だった。コンパートメントには子供が何人かいて、うるさくて寝付けなかった(夕食をパンだけにしたのでお腹が減っていたせいもある)。子供の母親達も寝ようとせず、ずっと起きていてゴソゴソと袋からおつまみを取り出して食べていた。とは言ってもまあ二等客車なんてこんなものだし、こういう状況でも寝なくてはならないのだろう。

 マドリードに早朝到着し、すぐに Lisbon (リスボン)(ポルトガル)行きの寝台列車を手配した。寝台にしたのは、今晩きちんと寝ないと体調を崩すという予感があったから(少し風邪気味だった)。本来ならば、ホテルに泊まるべきなのだろうが、倹約する為に先を急ぐことにした。



 マドリードは、イベリア半島の中心に位置する。標高655mと欧州の首都で一番標高が高い。人口約325万人。

 この地には先史時代から人間が住んでいたらしい。最初に歴史に登場するのは、9世紀後半。後ウマイヤ朝(756年~1031年)のムハンマド1世(823年~886年)(在位852年~886年)によってイスラム勢力の北の要塞として建設された。
 近くを流れるマンサナーレス川アラビア語アル・マジュリート(【水の源】の意)と呼ばれ、そこからこの地はマジェリトと呼ばれるようになり、現在のマドリードとなった。
 1085年にカスティ(ー)リャ王国(1035年~1715年)のアルフォンソ6世(1040年頃~1109年)(在位1072年~1109年)によってキリスト教徒の手に奪回された。
 1561年にフェリペ2世(1527年~1598年)(在位1556年~1598年)が宮廷をマドリードに移した為、事実上の首都となり、以降スペインの黄金時代の中心となって栄えた。



 マドリードの街を美術館中心に観光している。観光したのは下記の通り。

プラド美術館  半日位の時間をかけてじっくり見たい美術館。3万点以上の絵画・彫刻を所蔵する。宮廷画家ゴヤ(フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス)(1746年~1828年)の絵を生で見れて感激した。

ティッセン・ボルネッサ美術館  近現代絵画を中心に展示。ビリャエルモサ宮殿を改装した建物にティッセン・ボルネッサ男爵2代にわたるコレクションが所蔵されている。

ソフィア王妃芸術センター  20世紀の現代美術の巨匠たちを中心に展示。ピカソ(パブロ・ピカソ)(1881年~1973年)の大作『ゲルニカ( Guernica )』が展示されている。

マヨール広場  旧市街の中心にあるこの広場は、1619年にフェリペ3世(1578年~ 1621年)(在位1598年~1621年)によって造られた。中央にフェリペ3世の騎馬像がある。市民の憩いの場となっている。

 マドリードは治安が悪いと聞いていたが、特に危険な目にはあわなかった。しかしシエスタ(昼休憩、13時~16時頃)の時間帯は、人通りも少なくなるので多少警戒心を持って行動した。

 他に印象に残っているのは、どの美術館で見たか忘れてしまったが、ユーゴー(ヴィクトール=マリー・ユゴー)(1802年~1885年)の絵だ。とても絵が上手かった。
 ユーゴーが絵を描いていたことを知らなかった(ユーゴーはフランス・ロマン主義の詩人、小説家、政治家)のだが、多才な人物だったのだろう。



※後年(2004年)3月11日に、この地で爆弾テロが発生(スペイン列車爆破事件)。191人が死亡、2000人以上が負傷した。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

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(167)ティトゥアン(モロッコ)~セウタ~アルヘシラス(スペイン)

2011-11-24 23:55:55 | スペイン・ポルトガル
 Tetouan (テ(ィ)トゥアン)に1泊した翌朝、気合を入れて朝7時過ぎには宿を発った。

 バスに乗る前に朝食をとることにした。モロッコ最後の食事だ。魚のタジン、ハリラ(スープ)、サラダ、パンにチャイ(紅茶)で約200円。地元のおやじさん達はハリラとパンのみ。朝食からタジンを食べるなんて贅沢なのだろう。申し訳ない気持ちもあったが、最後の食事を楽しんだ。



 Ceuta (セウタ)(スペイン)までバスで約1時間半かかった。

 セウタとは、【七つの丘】を意味するラテン語 Septem Fratres に由来すると言われている。
 モロッコと同じアフリカ大陸に存在するが、現在この地はスペイン領になっている。モロッコはセウタの返還を求めているが、街の歴史をひも解いても、イスラム王朝側、キリスト王朝側と幾多の変遷があり、複雑な問題だ。

 セウタの白い街並みはとても美しく、近代的だった。
 ここで両替と食事をした。久しぶりのマクドナルドだ。普通に食事するより安い。倹約生活のスタートだ。



 その後、セウタから Algeciras (アルヘ(ー)シラス)までジブラルタル海峡をフェリーで渡った(所要1時間半)。到着したのは14時~15時頃だったと思う。 
 早速、バスターミナルに向かったが、首都 Madrid (マドリード、マドリッド)行きの夜行バスは満席だという。仕方なく、列車で行くことにしたが、寝台ではなくニ等客車でも3000円位かかる。バスより2000円近く高くなるのは痛かった。
 日本の物価の基準で考えれば特に普通のことかもしれないが、モロッコでは1日2000円位の予算で十分生活できたことを考えると、この先のことが思いやられた。

 ここで考えた対策は2つ。

①食事の量・回数を減らす→一日3食分の食事を2食分に減らす(食事量というより食費)

②宿泊費を浮かせる為、長距離移動する場合は夜行バス・列車を使用する。

 とにかく、背に腹は代えられない。何とか最後の目的地まで辿り着きたかった。



 アルヘシラスの街は713年、イスラム系のムーア人(モーロ人)によって建てられた。街の名はアラビア語【島】を意味する Al Djezirah に由来する。
 レコンキスタ(キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動)が高まる中、1344年カスティ(ー)リャ王国(1035年~1715年)の攻略によって支配者がイスラム王朝からキリスト王朝に代わった。

 アルヘシラスの街を観光はしていない。列車のチケットを手に入れた頃には夕方になっていたので、駅の待合室で大人しく夜行列車の時間を待った。
 今考えればせっかく訪れた街を見ないなんてもったいない話だが、この時はとにかく【倹約】のことしか考えられなかったのだろう。スペインとモロッコの物価の違いは大きかった。

※地図はこちら