Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(221)シラキュース~シカゴ~シャイアン~サンフランシスコ(アメリカ)

2013-02-28 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 この日は、Syracuse (シラキュース)(ニューヨーク州)の Downing International Hostel (ユースホステル)に宿泊した。

 宿には数人のアメリカ人国内旅行者が宿泊しているだけで、とても静かだった。
 夕食後、地図とにらめっこをしながら、これからどうするかを考えた。

 五つあった旅の目的地は全て巡った。
 ここで旅を終わりにするか。それとも先に進むか。

※五つの旅の目的地・・・ Hunza (フンザ)(パキスタン)、Maramures (マラムレシュ地方)(ルーマニア)、Jerusalem (エルサレム)(イスラエル)、アイルランドイロコイ族の居留地(アメリカ)

 当初の予定では、イロコイ族に会った後、New York (ニューヨーク)から飛行機で日本に帰るつもりだった。
 だが実際に目的を達した時に、ニューヨークに戻る気にはなれなかった。大都会ニューヨークには旅の情感というものを感じることが出来なかったからだ。
 所持金は底を尽きかけていたが、旅の終わりという実感がまだ湧かなかった。
 あと少し、旅を終えるにあたって何か背中を一押しするきっかけが欲しいと感じていた矢先、旅先で会った旅人(さん(仮名))と連絡が取れた。
 彼は San Francisco (サンフランシスコ)(カリフォルニア州)に住んでおり、行けば家に泊めてくれるという。早速、彼の好意に甘えさせてもらうことにした。



 シラキュースからバスに乗車し、Buffalo (バッファロー)(ニューヨーク州)、Cleveland (クリーブランド)(オハイオ州)を経由して Chicago (シカゴ)(イリノイ州)へ。
 シラキュースからシカゴまでは1泊2日のバスの旅だった(シラキュースとシカゴでは時差が1時間ある)。
 バスはほとんど空席だった為、夜間は横になって寝ていた。
 今となってはその光景を思い出せないが、朝、目覚めると美しい2本の虹が見えたと旅日記に書き記している。

 シカゴで Salt Lake City (ソルトレイクシティ)(ユタ州)行きのバスに乗り換えた。
 シカゴからソルトレイクシティまで Cheyenne (シャイアン)(ワイオミング州)経由で2泊3日かかった。
 バスには自分を含め計三名の乗客がいて、うち一名は北海道から来た女子高生だった。
 彼女はホームステイで3ヶ月間滞在してアメリカの農業を学んだらしく、これから帰国するらしい。
 お互いにこのバスに乗っている理由を話した後、ふと全く会話が噛み合わないことに気が付いた。お互い日本についての最新情報は無く、関心のある物事も違う為、相手が必要としている情報をほとんど持ち合わせていない。
 しばらくすると沈黙の時間が増え、いつしかお互いに自分の世界に戻っていった。



 さて今回のバス旅で二つ困ったことがあった。
 一つは、冷房が効きすぎていること。もう一つは休憩時の食事だった。

 冷房については満席だったとしても寒い位の温度設定で、三人しか乗客がいないバスでは拷問としか考えられなかった。
 何度か巨漢の運転手に交渉をしたのだが、一時的に温度を下げてもらえるものの、しばらくすると再び設定温度を戻してしまう。
 結局諦めて持っている服を重ね着して凌(しの)ぐことにした。
 
 そして二つ目。バス旅の楽しみと言えば食事だが、残念ながら休憩に立ち寄るバスターミナルにあるレストランはファーストフードの店ばかり。当時そのほとんどがマクドナルドダンキンドーナツだった(現在の状況は不明)。
 どちらも美味しいと思うし、嫌いではないのだが、ドーナツを主食として食べる気にはならず、毎食マクドナルドを選択した結果食べ飽きてしまい、食事を抜くこともあった。

 そんなことがあったが、それでも車窓からの景色は美しく、特にロッキー山脈の朝焼けは荘厳だった。

※関連記事はこちら



 この時読んでいた本の言葉を旅日記に書き記している。

 「今、自分が何かをしたいと思っても、それは何代も前から受け継がれた願望であったかもしれません」平山美知子(『私たちのシルクロード』(中公文庫))-



 ソルトレイクの街はソルトレイクシティ五輪(2002年冬)を1年半後に控えていたが、特に五輪に関する掲示物を見た記憶が無い。到着日は休日ということで閉まっている店も多かった。
 風光明媚な街で滞在したかったが、残念ながら所持金を考えると先を急がねばならない。
 数時間滞在した後、すぐにサンフランシスコ行きの夜行バス(1泊2日)に乗った。


 
 そして、ついに翌朝サンフランシスコの街に到着した。
 車中4連泊で駆け抜けたアメリカ横断だった為、残念ながら達成感は少なかった。

 この後、Los Angeles (ロサンゼルス)(カリフォルニア州)の空港に立ち寄っているが、実質的にこの地が旅の終焉の地となった。

※地図はこちら

おまけ(その34)イロコイ族

2013-02-21 23:55:55 | おまけ
(220)シラキュース(アメリカ)のおまけ記事



 イロコイ族のことを知ったきっかけは、一冊の書籍だった。
 『一万年の旅路-ネイティヴ・アメリカンの口承史-』(ポーラ・アンダーウッド(著)、星川淳(訳)、翔泳社)だ。



 大地震による津波で安住の地を追われた民たちが、ユーラシア大陸を東に向かって横断し、ベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に辿り着いた。
 その後五大湖のほとりに永住の地を見つけるまでの気の遠くなるような長い旅路について、イロコイ族は口承史を伝え残していた。
 この一冊の本にはその壮大な智慧が、物語として書き記されている。



 この本の翻訳者である星川淳氏は、他にも多数イロコイ族に関する著作を翻訳、執筆されている。
 『知恵の三つ編み』(ポーラ・アンダーウッド(著)、星川淳(訳)、徳間書店)(イロコイ族の文化を中心に紹介)、『小さな国の大いなる知恵』(ポーラ・アンダーウッド(著)、星川淳(訳)、翔泳社) (イロコイ族の歴史を中心に紹介)、『環太平洋インナーネット紀行-モンゴロイド系先住民の叡智-』(星川淳(著)、NTT出版)(イロコイ族探訪の記述あり)、等々。

 イロコイ族の理念は、その盟友であるアメリカ合衆国憲法にも反映されている。
 近年、イロコイ感謝決議としてその関係性が評価されたらしい。



 「一つの道でもなく、またもう一つの別な道でもなく、その二つの釣り合いが確かな道を照らし出す」-イロコイ族の言葉-

(220)シラキュース(アメリカ)

2013-02-14 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)に約1週間滞在した後、向かったのは Syracuse (シラキュース)(セラキュース)だ(バスで所要1.5時間)。

 シラキュースは、五大湖の一つオンタリオ湖の南東、ニューヨーク州中央部に位置する商工業都市でオノンダガ郡郡庁所在地となっている(オノンダガ郡の名称はイロコイ連邦オノンダ(ー)ガ族に敬意を表して付けられた)。

 バスターミナルに荷物を預け、路線バスで Nedrow (ネドロウ)のオノンダーガ族リザベーション(居留地)(保留地)へ。下車した後、二人のイロコイ族のおばちゃんに道案内をしてもらい、イロコイ族の小学校まで連れて行ってもらった。

※五大湖周辺に住むイロコイ連邦の六部族

セネカ族( Onodowohgah (オノドワーガ)(丘の上の人々の意))・・・【西の扉を守るもの】であり、【六兄弟の長兄】
モホーク族( Kanienkehaka (カニエンケハカ)(火打石の人々の意))・・・【東の扉を守るもの】
・オノンダガ族(Onundagaono (オヌンダガオノ)(丘の人々の意))・・・【炎とワムパムを守るもの】であり、【六兄弟の兄】
オナイダ族(Onayotekaono (オナヨテカオノ)(直立した石の人々の意))・・・【中央の炎を守るもの】であり、【六兄弟の弟】
カユーガ族( Guyohkohnyo (グヨーコーニョ)(大沼沢地の人々の意))・・・【聖なるパイプを守るもの】であり、【六兄弟の弟】
タスカローラ(テスカレーラ)族( Ska Ru ren (スカルレン)(麻を採る人々の意))・・・18世紀初めに加わった【六兄弟の弟】

 子供達の姿は無かったが、小学校の先生が教室を案内してくれた。
 一番驚いたことは、教室にパソコンが多数置かれていたことだ(当時日本でパソコンを導入している小学校は少なかったと思う)。居留地で暮らしているアメリカ先住民は貧しいという先入観があったが、どうやらイロコイ族は経済的に豊かなようだ。

 他に印象に残っていることを書き記しておきたい。

・掛け算の暗算は12×12まで(覚える)
 日本でいうところの九九。ヨーロッパなどでは十二進法の名残で12×12までの掛け算の表を学ぶらしい(ちなみにインドでは99×99まで学ぶ地域もあるようだ)。



ラクロスの大会の優勝カップを多数展示
 現在のラクロスはイロコイ族の競技が発祥となっているらしい。もともとは北米先住民達の間で儀式の一環として行われたり、部族間の争いの平和的解決手段として催されていたもののようだ。

・13枚の甲羅の亀の絵
 床に13枚の甲羅を持つ亀の絵が描かれていた(確か二階から見下ろせるようになっていたと思う)。
 13枚の甲羅は13の月、つまり一年を表すらしい。
 先住民族達は北米大陸を亀の背に乗っている【亀の島】と考えていたらしい。地図が無かった時代にどうやって北米大陸の形を認識していたのか気になるところだ。



・男性不在
 小学校だけでなく、居留地では男性や子供達の姿を見かけなかった。その理由を問うと、男連中や子供達は皆 POWWOW (パウワウ)(先住民族達の祭り)に出かけているということだった(開催されている場所についてはニューヨーク州ということ以外不明)。
 POWPOWを見てみたかったが、行くとなると予算の問題がある。残念だが所持金を考えて行くのを諦めた。

 もう少し居留地を散策したい気持ちもあったが、住人不在では仕方がない。イロコイ族の話を聞けたことで良しとして居留地を去ることにした。

※イロコイ族のおまけ記事はこちら

※地図はこちら

おまけ(その33)【9.11】で思い出すこと(後編)

2013-02-07 23:55:55 | おまけ
(219)ニューヨーク③(アメリカ)のおまけ記事



 【9.11】の翌年(2002年)、自分は北海道で働いた。

 きっかけはアイルランドコネマラ地方周遊ツアーガイドから「この景色は日本の北海道みたいだろう」と言われたことだ(そうだと答えつつも、北海道に行ったことがなかったことを内心恥じた)。そんな訳で、北海道に一度住んでみたいと思っていた。

 仕事先として北海道の東と西に候補地があったが、道東を選んでいる。
 その地で非常にお世話になった方(間宮さん(仮名))の御宅に招待された時のこと。訪問すると何故かそこには長倉洋海さんの写真が多数飾ってあった。
 理由を伺うと、「長倉洋海さんは俺の親友だ」と間宮さんは言う。二人とも出身地が同郷(釧路)であり、長倉さんが帰郷される度に会う間柄だそうだ。

 写真集(『マスード 愛しの大地アフガン』(長倉洋海著、JICC出版局(2001年河出書房新社より新装版刊行)))から長倉さんの出身地が釧路という情報を得ていた可能性があり、忘れていただけで潜在意識に情報が残っていた為、仕事先として道東を選んだのかもしれない。
 しかし、彼(か)の地に長倉さんの親友がいるということを全く知らなかったから驚いたのだった。



 一見偶然に見える物事の背後には、かすかな糸のような可能性があると思う。
 それは「そんなの偶然だよ」という一言で、もろくも切れてしまう蜘蛛の糸のようなものかもしれないが、そんなわずかな可能性に目を凝らしてみると、我々は一見何の関係の無いように思える出来事にも実は関係しているのではないかとたまに思うことがある。
 数学的に表すならば0.0000000000..........1%という微々たる関係性だとしても、時と場合によりその数値は変動する。
 その数値が大きくなった時に、奇妙なシンクロニシティ( Synchronicity )( Coincidence )として知覚されることがあるのではないかと思う。