Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(32)タシュクルガン(中国)

2009-05-28 00:08:45 | プロローグ・タイ・中国
 出発前に会った旅人から、パキスタンの首都イスラマバードクーデターがあったと聞き、無事入国出来るか不安になったが、とにかく国境まで行ってみることにした。

※この軍事クーデター(無血クーデター)でシャリフ首相に代わり、ムシャラフ大統領が最高権力者となった(2008年8月辞任)。



 喀什(カシュガル)を発(た)ったバスは、パキスタンへと続くカラコルム・ハイウェイをひたすら南へ進んだ。

 道中、視界に入る山肌に砂が堆積していた。タクラマカン砂漠の砂が風で運ばれて来るのだろう。

 途中、卡拉庫里(カラクリ)で休憩をした。美しい湖だったが、歩くだけでも息が切れた。ここは標高約3600mもあり、酸素が薄いと感じた。



 塔什庫爾干(タシュクルガン)の街に着いたのは、出発から8時間後だった。
 バスの中では高山病でグッタリしていたのだが、カラクリ湖からは少し標高が低くなっており、何とか動き回ることが出来た。

 タシュクルガンは、突厥(とっけつ)語で【石の城】を意味する。
 歴史的には、様々な国の統治下にあったらしい。当時は人口の8割以上がタジク族で、漢族は数%だったらしいが、現在は他の地域同様、漢族が増えているかもしれない。

 街の東端には石頭城なる城壁跡があった。この街の名前の由来はここから来ているのかもしれない。
 ここは、唐代喝盤陀国(かつばんだこく)の都城跡、または同じく唐代の葱嶺守捉(そうれいしゅそく)城跡(パミール高原を警備する兵の駐屯地跡)とされている。



 街の物価は高く、内陸部の値段にまけてもらおうとすると、先方が怒り出すこともあった。僻地(へきち)なので輸送にコストがかかるのだろう。

 中国最後の晩餐は、定番となっていた西紅柿炒鶏蛋(シーホンスー チャオ チータン)を食べた。これでも10元(約150円)した。嘉峪関で食べた時のの5倍の値段だ。
 もう中華料理を食べられなくなると思うと、少し寂しい気がしてじっくり味わって食べた。



 いろいろあったが、明日で中国ともお別れだ。

※地図はこちら

(31)カシュガル(中国)

2009-05-21 22:22:40 | プロローグ・タイ・中国
 阿克蘇(アクス)からバスで10時間半かかり喀什( Ka Shi )(カーシー)(カシュガル)に着いた。
 道中建設中の線路が見えたが、現在南疆(なんきょう)鉄道カシュガル駅が終点になっている。

 カシュガル地区の首府カシュガル市は、今まで訪れた新疆(しんきょう)ウイグル自治区のどの街よりもウイグル人が多く、街の雰囲気もイスラム色が強かった(現在では漢族の移住者が増え、街の中心に巨大な毛沢東像が建っているらしい)。

 カシュガルは、タクラマカン砂漠西端に位置し、東トルキスタン西部のオアシス都市として栄えた。
 蜀漢三国時代(220年~280年)に最盛を誇った疏勒(そろく)の国都があった地でもある。
 シルクロードの要衝として多くの民族の行き交いがあったこの地は、名前(カシュガル)の由来にも諸説ある。

【玉の集まる所】(古ペルシャ語、ペルシャ語、チュルク語)
【緑色の屋根をもつ建物】(モンゴル語)



 ここで有名なのは日曜バザールなのだが、木曜と金曜の2泊しかしていないので残念ながら見ていない。
 記憶に残っているのはウイグル自治区最大のモスクエイティガール寺院(明代の1422年に創建)だ。多くのウイグル人で賑わっていた。
 また、道端で売っていたハミウリ(哈密瓜)(フユメロンの一品種で細長い)が美味しかったのを覚えている(1/4~1/8カットで1元(約15円)。



 自分が泊まった宿は、たまたま辿り着いた色満賓館( John’s Café )だったのだが、多くの旅人は其尼瓦克(チニワク)賓館に泊まっていた。ここからパキスタン国境行きのバスが出ていたからだ。その為、夜は話し相手もいなかった。
 そのせいか分からないが、2日目に無性に音楽が聞きたくなった。

 実は、自分で編集したテープを1本だけ持って来ており、どこかで機会があればラジカセで流してもらおうと思っていたのだが、2ヶ月近くそのチャンスが無かった。
 音楽に飢えていた自分は、我慢できなくなって街で見かけたウォークマンを購入することにした。
 さすがに【SQMY】とロゴの入ったバッタもんを買う気にはならず、ちょっと割高だがラジオ付きのウォークマンを購入した(約千円)。
 その夜、部屋で一人、久し振りに好みの音楽を聴くことにした。

 テープの1曲目は、U2“ ONE ”という曲だった。

※ U2 “ ONE ”のおまけ記事はこちら

 曲が流れ始めると、砂に水がしみ込むかのように心に響くものがあり、感動のあまりが出てきた。今はだいぶ涙もろくなったが、音楽を聴いて涙したのはこの時が初めてだと思う。

 しかし、2曲目になると急にテープの回転が遅くなり、間延びした歌になってしまった。どうやらモーターの回転力が弱いらしい。
 高い買い物になってしまったが、満足したのを覚えている(ちなみにこのウォークマンは Delhi (デリー)(インド)で売り払った)。

 旅日記にはこう書いてある。

 「何か一つでもいいことがあったら感謝するクセを付けよう(本来は嫌なことがあってもそうすべきなのだが)。」

 そして、旅人に交換してもらった『潮騒』(三島由紀夫著、新潮文庫)の一節を書き写している。

 「悪意は善意ほど遠路を行くことはできない。」

 旅の疲れが出始めた自分にとって、この言葉は妙に納得出来るものがあった。



 翌朝、パキスタン行きのバスに乗り込んだ。
 塔什庫爾干(タシュクルガン)を越えれば、中国ともいよいよお別れだ。

※地図はこちら

(30)アクス(中国)

2009-05-14 22:13:00 | プロローグ・タイ・中国
 庫尓勒(コルラ)から阿克蘇( A Ke Su )(アーカースー)(アクス)までは列車で所要10時間半。南疆(なんきょう)鉄道の当時の終着駅だった(現在の終着駅は喀什(カシュガル))。



 途中庫車(クチャ)の街を通ったが、先を急いでいたので下車しなかった。

 クチャは、その昔亀茲(きじ)が栄えた場所だ。
 亀茲国は前漢時代(紀元前206年~8年)に現れ、10世紀頃まで繁栄したらしい。
 仏教が盛んだった国らしく、数多くの仏教遺跡が存在する。

 また、般若心経の訳者(漢訳)とも言われる鳩摩羅什(くまらじゅう)(クマラジーバ)(350年(344年)~409年(413年)は、亀茲国の王族だったらしい。
 鳩摩羅什は玄奘(三蔵法師)(602年~664年)と共に二大訳聖と呼ばれている。

※鳩摩羅什以前の訳経を【古訳】、鳩摩羅什から玄奘以前の訳経を【旧訳(くやく)、玄奘の訳経を【新訳】と呼ぶ。

 と、クチャの街について調べて書いてみたが、当時は仏教遺跡がある位しか知らなかった。

 ちなみに自分は四国遍路をしたことがある。
 その当時、唱えていた般若心経が弘法大師空海によって中国(唐)からもたらされたのは知っていたが、鳩摩羅什のことは知らなかった(鳩摩羅什について知ったのはおよそ2年前)。

 今はクチャに行っておけばよかったと思うし、機会があれば行ってみたいと思う。



 アクスはウイグル語で【白い水】という意味のオアシス都市だ。
 後漢時代(25年~220年)には姑墨(こぼく)が栄えたが、その後亀茲国の支配下に置かれた。
 新疆(しんきょう)ウイグル自治区アクス地区全体ではウイグル族が7割を超えるが、アクス地区の首府アクス市は逆に漢族の方が多いらしい。ビジネスになるのだろう。

 この街に見どころは特に無い。
 列車の移動が2泊続いていたので、宿でゆっくり休みたかった。
 早めに就寝して、翌日の移動に備えることにした。



 翌朝8時に宿を出たが、まだ夜が明けておらず星が出ていた。中国全土に強引に北京時間を採用するのには無理があると感じた。

 仕方なく朝を待ち、早朝10時発のバスでカシュガルへと向かった。

※地図はこちら

(29)コルラ(中国)

2009-05-13 20:46:34 | プロローグ・タイ・中国
 19時間半かかり、翌日庫尓勒( Ku Er La )(クーアールラー)(コルラ)(ウイグル語で【眺め】の意)の街に着いた。
 車窓の風景も砂漠ばかりで単調だった(きれいな砂丘のある砂漠ではない)。

 時刻はすでに18時を過ぎていたが、外はまだ明るかった。
 北京時間を採用しているせいで、時間の感覚にかなり違和感を感じたが、住んでいる人々は適応して生活していた。
 すでに新疆(しんきょう)ウイグル自治区に入っていて、街にウイグル文字が目に付くようになり、ウイグルの音楽も流れていた。【西域】にいることを実感した。

 ここは、ウイグル自治区の中のバインゴル・モンゴル自治州の州都で古来よりシルクロードオアシス都市として栄えた。香梨を盛産するので、【梨城】の名もある。
 天山山脈の南、タリム盆地・タクラマカン砂漠の北に位置する。

 現在の写真を見ると、当時と比べてだいぶ近代化が進んだように思える。近年タリム油田の開発基地として発展しているそうだ。そのせいもあってか、現在、人口の7割が漢族らしい。



 この街にも名所・旧跡はあるのだが、先を急ぐことにした。パキスタンとの国境(フンジュラーブ峠)は雪が降り始めると閉まってしまうらしいのだ。

 観光をしてないこの街で印象に残っているのは、初めて食べたウイグル族の食事【拌面(バンミェン)】だ。いわゆる焼きソバなのだが、麺が太い。味は店によって違うと思うが、この時食べたものはトマトソースのパスタのような味で美味しかった。



 次の目的地は、列車の終点の街阿克蘇(アクス)だ(現在は喀什(カシュガル)まで鉄道が敷かれている)。
 出発は翌日0時半だ(時差を考えると22時半位だろうか)。



 時間があったので食堂で放送している映画を見ることにした。
 放送していたのは香港映画の海賊版らしい。
 中国ではVCDプレーヤーが市販されていて、そのソフトは海賊版が多いことで問題になっている。

 今なら違法ダウンロードされたものが多いかもしれないが、当時は映画館にビデオカメラを持ち込んで直接撮影されたものがVCDとして出回っていた。
 従って映りも悪く、画面が傾いているものもあった。撮影時にカメラを水平に置かなかったのだろう。そんな場合、みな首を傾けながら我慢して見るのだ(首が痛くなる)。



 食事と映画を見ただけの僅(わず)か6時間程の滞在だった。
 出来ればゆっくり移動したかったが、逸(はや)る気持ちを止められなかった。

※地図はこちら

(28)敦煌(中国)

2009-05-07 23:58:38 | プロローグ・タイ・中国
 敦煌( Dun Huang )(ドゥンホアン)(とんこう)は、甘粛(かんしゅく)の西端に位置する。
 西へ行くと新疆(しんきょう)ウイグル自治区だ。

 日本でも、井上靖さんの小説『敦煌』(新潮文庫)(映画化もされている)でお馴染(なじ)みの土地かもしれない。



 バック・パッカーのたまり場である飛天賓館には多くの旅人がいた(【飛天】とは天女の意味らしい)。
 チベットから近いせいか、チベット帰りの旅行者やこれからチベットに向かうという旅行者が多かった。彼らの語るチベット談話に耳を傾けていたのを覚えている(後年チベットに行ったが噂に違(たが)わず素晴らしい土地だ(参考記事はこちら))。
 旅人の一人が語った言葉を旅日記に書き留めてある。

 「自分にしか分からないものを求めるのが旅」

 自分にしか分からないもの、それはきっとそこにしかないものなのだろう。
 しかもその時・そのタイミングでないと得られないものなのかもしれない。



 到着初日の夕方、鳴沙山(ミンシャーシャン)(めいさざん)に行った。
 生まれて初めて見る砂漠は、とても美しかった。
 砂丘に登り辺りを見渡したところ、砂丘はどこまでも続いていた。



 この砂丘の上で日没を待ち、美しい夕陽が消えていくのを眺めた。

(写真は、三日月型のオアシス月牙泉(ユエヤーチュエン)(げつがせん))



 翌日、中国三大石窟の一つとして有名な莫高窟(モーガオクー)(ばっこうくつ)(世界遺産)を見に行った。

※中国三大石窟 ― 莫高窟、龍門石窟(河南省洛陽市)、雲崗(うんこう)石窟(山西省大同市)

 莫高窟は、敦煌が五胡十六国時代前秦の支配下にあった366年(355年とも)に仏教僧楽僔(らくそん)が彫り始めたのが最初と言われ、その後1000年もの間、この近辺の600余りの洞窟に彫り続けられた仏像の数は2400を越えるという。

 当時莫高窟内で見学出来たのは15の石窟だったが、半分位しか見学しなかった。
 日本人ツアー客に混じってガイドの説明を聞いたりもしたが、ただ漠然と見ていても情報が無いので正直良く分からなかったのだ(ガイドブックは購入しなかった)。
 見学するのに追加料金を払わされる特別窟もあったりしたが、結局見学しなかった。
 当時の自分はまだその価値を判断するには未熟すぎたのだと思う(今も変わらないかもしれないが)。



 宿に戻り、次の場所に向かうことにした。

 敦煌滞在時一緒に行動していた旅人がバスターミナルまで見送りに来てくれた。
 別れ際、その方から一冊の本を手渡された。それは『アジア横断(旅行人ノート)』(旅行人刊)だった。
 ガイドブックと言えば『地球の歩き方』(ダイヤモンド社)しか知らず、そのコピーを持ち歩いていた自分にとって、それは渡りに船とも言うべき一冊だった。

 しかし何故自分にくれるのか。

 その方は中国に留学していた方で、留学を終えた後ユーラシア大陸を横断してから帰国する予定だったらしいのだが、親御さんが病気になった為、やむなく帰国されるとのことだった。

 その一冊を熱い想いと共に託されたような気がした。



 バスターミナルから柳園駅までは2時間かかった。
 ここから西へ向かう次の列車は庫尓勒(コルラ)行きらしい。
 出発まで時間があったので駅に荷物を預けて夕陽を見に行くことにした。

 夕陽を見るポイントを探している間に、工事をしている人々に出くわした。
 彼らは道路脇で自分の位置より高いところで作業していた。
 土嚢(どのう)を担(かつ)ぐ労働者の背後に沈みゆく夕陽が重なり、働く人の姿がシルエットとなって浮かび上がった。

 カメラを持って行くのを忘れたことを後悔したが、今でも心に焼き付いている光景だ。

 人の働く姿に深く感動し、同時に旅に満足した実感があった。

 旅を始めてもうすぐ2ヶ月になる。旅は2ヶ月がちょうどいいのかもしれない。
 好奇心が旅の大きな原動力だと思うのだが、これは言い換えれば飽くことのない心のことだと思う。
 旅は満足したら終わりなのだ。

 この後、何を見ても今までと同じように感動することが難しくなっている。好奇心が磨耗してしまったとも言えるし、陸路だと変化が分かりづらいからとも言える。或いは、旅という【非日常】【日常】になってしまったからかもしれない。



 しかし、一冊の本を託してくれた旅人の想いも背負っているのだ。
 そう自分を奮い立たせて先に進んだ。

※地図はこちら

(27)嘉峪関(中国)

2009-04-30 23:51:32 | プロローグ・タイ・中国
 中国西部の甘粛(かんしゅく)にある嘉峪関( Jia Yu Guan )(ジアユーグアン)(かよくかん)の街は、今までの中国の街とは少し雰囲気が違っていた。
 どちらかというと、新疆(しんきょう)ウイグル自治区に近い感じがする。砂漠のそばだからだろう。
 この街は、ゴビ砂漠の下方に位置する(厳密には、隣接する砂漠の名前をバダインジャラン砂漠と言う)。

 ちなみに、物価の安いのはありがたいが、甘粛省は中国でも最も貧しい地域の一つだ。



 到着した日には西紅柿炒鶏蛋(シーホンスー チャオ チータン)(2元(約30円)と安かった)を食べてゆっくり休んだ。
 そして翌日、レンタサイクルで街を観光した。



 この街の見所は、名前の通り嘉峪関、万里の長城(世界遺産)の西端の砦だ。
 現在、万里の長城の東端の砦は遼寧(りょうねい)虎山(こざん)とされており、ここまでの距離は約8852kmにも及ぶ。
 始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)以降歴代王朝にとって死活問題ともいうべき北方の異民族対策として、長い世紀に渡り拡張されたらしく、嘉峪関が建設されたのは明代(14世紀後半)になってからだ。

 また嘉峪関長城博物館もあり、2階からの展望が良かった。

(写真は、嘉峪関の北東8kmに位置する懸壁(けんぺき)長城(かなり修復されていた)。【壁を空に引っ掛けたように見える】ところからこの名前が付けられた。)



 当時は観光客も少なかったので、とても静かだった。
 旅日記を見るとこう書いてある。

「お-い」と叫んだ。
・祈った。一瞬、地球と呼吸が合った。

 北京では長城を見に行かなかったが、ここを見れて良かったと思う。



 この街ではタクラマカン砂漠の南側のシルクロード(西域南道)を通って来た旅人に出会っている。
 彼のお勧めは塔中(とうちゅう)という街だった。砂漠の真ん中にあり、交通手段が無いのでヒッチハイクでないと行けないらしい。
 「今まで見たことがない位、星がきれいだった」という言葉に、思わず行きたくなってしまったが、時間が無いので諦めた。

 自分が知らずにいる素敵な場所はたくさんあるのだ。



 この街に2泊した後、敦煌(ドゥンホアン)の街に向かった(バスで所要7時間)。
 敦煌を越えると、いよいよ【西域】に入ることになる。

※地図はこちら

(26)西安③(中国)

2009-04-24 23:27:43 | プロローグ・タイ・中国
 平遙(ピンヤオ)から太原(タイユエン)まで、帰りはミニバスで戻った(所要2.5時間)。
 そこから西安( Xi' An )(シーアン)までの夜行列車は、またも硬座(木の座席)しか切符が取れなかった。二等寝台席を取る大変さを痛感している(太原から西安までは13.5時間)。



 この時、西安では2泊している。
 次の目的地嘉峪関(ジアユーグアン)までの切符は、手数料(500円位)を取られるが、宿(人民大厦公寓)で手配してもらうことにした。
 西安のような大都市では、窓口に並んでもニ等寝台は取れない可能性が高い。
 硬座の移動には正直懲(こ)りていた。



 すでに西安の観光を終えていたので(記事はこちら)、この時は街をブラブラと散策しただけだった。

 この時発見したのだが、大きい郵便局には代筆家なる職業の人が活躍していた。
 年配者の中に字を書けない人がいるのを見て、教育のありがたさを知った。

 また、美味(おい)しい食堂を発見したのでよく通っている。
 青椒肉絲(チンジャオロース)や回鍋肉(ホイコーロー)等の肉料理ももちろん美味(うま)かったが、ここで発見したのは、西紅柿炒鶏蛋(シーホンスー チャオ チータン)という安くて美味しい家庭料理だ。

※西紅柿(シーホンシスー)→トマト、鶏蛋(チータン)→卵

 その名の通り、トマトと卵のシンプルな炒め物なのだがご飯によく合った。
 作り方を見せてもらったが、中華鍋にトマトを炒め、後から卵を加えて塩胡椒を加えるだけの簡単な料理だった。
 しかし、帰国後何度か試してみたがうまく作れなかった。おそらく火力が強くないと美味しくならないのだろう。
 フライパンではなく中華鍋で作るといいのかもしれない。

 この料理は食費の節約にもなるので、この後もお世話になった。



 西安から嘉峪関までは所要29時間。手数料を払ってでも硬臥(インウォ)(こうが)(二等寝台)に乗って良かったと思う。

 道中、車両内でどこかの家族が歌い始めた。瞬(またた)く間に輪が広がって大合唱になった。
 見ると女性車掌も歌っている。微笑ましい光景だった。

 寝台席の対面の夫婦が話しかけてきたので、筆談で会話した。

 【孤単】

 意味をいろいろ推測していると、こう続けた。

 【孤独】

 「一人で寂しくないのか?」ということらしい。

 「寂しさが身に沁(し)みる時もあるが、いろいろな人との出会いもあるし、移動や行動を共にする時もあるよ。」

 と答えたかったのだが、そこまで説明出来るだけの語学力は自分には無かったので、大丈夫だよとだけ答えた。



 朝になって気付いたのだが、この夫婦は自分が寝ている間に下車しており、別れの挨拶が出来なかった。

 十月上旬だったが肌寒く、列車の水道は凍っていた。大陸の秋は冷え込むのだ。

※地図はこちら

(25)平遙(中国)

2009-04-23 12:27:10 | プロローグ・タイ・中国
 北京( Bei Jing )(ベイジン)から夜行列車で山西省の省都太原( Tai Yuan )(タイユエン)(たいげん)に向かった(所要10時間)。
 硬座(木の座席)しか切符が取れなかったが、段々慣れてきている。
 その後太原駅で乗り換えて、平遙( Ping Yao )(ピンヤオ)(へいよう)へと向かった(所要2.5時間)。



 平遙は古い城塞都市で、その保存状態の良さから世界遺産に登録されている。
 明代の城壁がほぼ完全な形で残っているのは、中国国内でここだけらしい。

 平遙古城は、別名亀城(きじょう)といい、南の迎薫(げいくん)は頭、北の拱極(きょうきょく)は尾、西の鳳儀(ほうぎ)永定(えいてい)・東の親翰(しんかん)太和(たいわ)は4本の脚、迎薫門の外にある二つの井戸が目を表している。

 訪問時の天候は中国内陸部ではありがちな曇天(どんてん)で、街も埃っぽかった。

(写真は平遙古城城壁の屋上)



 城壁内で人々が普通に生活をしていたのが印象に残っている。世界遺産に住んでいるという意識はあまり感じられなかった。
 当時は観光客もあまり見かけなかったが、今は変わっているかもしれない。

(写真は、平遙古城内の住居)



 ここは、西安(シーアン)で出会った建築家夫婦(特に奥さん)の強いお勧めの場所だった。
 しかし、正直申し上げて印象は薄い。
 幾多の建築物を目にし、想像力を持って古代のロマンを感じることの出来る段階になって初めて訪れる価値のある所だと思う。
 玄人(くろうと)向けのその遺跡に行くにはまだ早かった。

※当時の『地球の歩き方 中国』(ダイヤモンド社)には、1ページ分の記述しかなかったが、現在のものにはいろいろ見所が書かれている。情報があれば訪問時の印象も違うと思う。



 レンタサイクルで城壁内を散策したりしているが、一番印象に残っているのは食堂のおじさんだ。
 城壁内の食堂で昼食を取ったのだが、ここのおじさんはとても優しかった。
 日本から遠路はるばるやって来たということで、とても喜んでサービスしてくれた。
 こういう人に出会うと、自分も感化されると思う。

 平遙は中国の観光地には珍しく、素朴な人々が住んでいる街だった。

※地図はこちら

(24)北京(後編)(中国)

2009-04-16 22:55:33 | プロローグ・タイ・中国
 建国節(建国記念日)後、2日かけて北京( Bei Jing )(ベイジン)の観光名所を巡った。

天安門広場   天安門は、明清時代の旧王宮の正門(高さ33.7m)。世界でも最大規模の広場(面積40万㎡)には人・人・人と大勢の観光客がいた(日本ではあまり見られない光景だと思う)。



故宮( Gu Gong )(世界遺産)   かつては紫禁城(しきんじょう)と呼ばれた明清時代の旧王宮。現在は広大な博物館になっている。



天壇(世界遺産)   明清時代に皇帝が天に五穀豊穣を祈った、現存する中国最大の祭祀(さいし)建造物。晴天時に訪問したせいか建物が映(は)えて印象深い。

(写真は祈念殿)



 尚、郊外には万里の長城の観光スポット八達嶺( Ba Da Ling )長城( Chang Cheng )(はったつれいちょうじょう)があるが、往復で丸一日かかるのでこの時は行かなかった。



 北京では、お店巡りも楽しかった。中国の他の都市と比べて品揃えも豊富だったと思う。

 ここで NB (ニューバランス)の靴が安かったので購入したのだが(千円強)、そんなに安い値段でニューバランスの靴が買えるはずもなく、やはりバッタもんだった。十日ともたずに、靴底が剥(は)がれてしまった。
 結果的に安物買いの銭失いになってしまったのだが、無駄遣いも出来ないのでテープを巻いて Tehran (テヘラン)(イラン)まで使用している。



 次の目的地は城塞都市平遙(ピンヤオ)(世界遺産)だ。

※地図はこちら

(23)北京(前編)(中国)

2009-04-11 08:02:22 | プロローグ・タイ・中国
 10月1日の朝、天安門広場前で建国節(建国記念日)の式典・パレードを行うということを聞いていた。しかし、一介の旅行者が見学できるほど甘くはなかった。

 この年(今から10年前)、中国建国50周年ということでかなり盛大なパレードを行っていたと思う(15年ぶりの軍事パレードだったらしい)。
 そして、天安門広場を中心に、大通りは2重に封鎖されていた。

 天安門広場を囲んだ大通りには、バスが並べられバリケードの役割を果たしていた。
 その更に外側を囲んだ大通りには、検問が設置され、それ以上中に入れないようになっていた(裏道から入ってみたが、公安がいて中心部には入れなかった)。



 それならばと高い建物の上の階から見ようとしたが、建物の入り口にも公安が配置されていた。

 何とか様子を見れないものかと焦る自分に、パレードの演奏の音と、演説の声だけが届いていた。



 いつしか自分は庶民の居住区に迷い込んでいた。
 天安門広場の目と鼻の先であったが、昔ながらの生活を送っている庶民の姿がそこにはあった(しかし2年後に訪れた時には、北京五輪に向けた再開発の為、街並みは一新されており面影は残っていなかった)。

 食堂のTVで式典の模様を中継していたが(おそらく他の番組は放送していなかったのだろう)、誰も熱心に見ていなかった。
 歴史的に幾多の王朝が存在した中国では国民の国家意識(国家に対する帰属意識)が低いとは聞いていたが、共産党員でない限り、庶民の意識はこんな感じなのかもしれない。

 TVでは、江 沢民(こう たくみん)主席(当時)が、演説を行っている。
 天安門の方からエコーのように遅れて生の声が届く。
 にもかかわらず、無関心な人々・・・

 成都(チョンドゥ)で見た映画『国歌』の客の入りが少なかったのが分かる気がした。

 このパレードは国民と共に喜びを分かち合うというよりも、国威発揚(こくいはつよう)、そして対外的な軍事力のアピールの意味合いが強いのだろう。



 そんなことを考えていると、空に突然轟音(ごうおん)が鳴り響いた。戦闘機だ。

 今まで無関心だった人々も皆空を見上げた。

(写真中央左に見える、点のような影が中国人民解放軍空軍の戦闘機(機種不明))



 帰り際に、パレードに参加していた学生達の行進に出くわした。学校に戻る途中なのだろう。

 先頭(共産党員?)の学生は背筋を伸ばしてきちんと行進しているが、列の後ろになるにつれて、だらけて間延びしている。
 その光景が何かを象徴しているように思えてしまった(あくまで表面的に見た一旅行者の視点であるが)。



 今年中国は建国60周年を迎える。
 経済発展を遂げ豊かになった人々の目に、今度の式典はどのように映るのだろうか。

※地図はこちら

(22)曲阜~済南~北京(中国)

2009-04-10 23:47:20 | プロローグ・タイ・中国
 曲阜(チューフー)から山東省の省都済南( Ji Nan )(ジーナン)(さいなん)までは、バスで約2時間半かかった。
 済水という川の南にあるというのが地名の由来である。後に黄河の流れが変わり、済水の河川敷はそのまま現在の黄河下流となってしまったそうだ。

 ここで生まれて初めて黄河を見た。黄色い河と名付けられたのも分かる気がした。
 古代から文明が栄えた地には大きな河があり、肥沃な土を上流から運んでくれたらしい。
 今でもそれは変わらないのかもしれないが、現在は高度経済成長に伴う環境汚染が進んでおり、かなり深刻な状況のようだ。



 済南駅北京( Bei Jing )(ベイジン)行きの列車の切符を購入しようとしたが、明日の列車しか席がないとの事だった。建国節(建国記念日)間近ということで切符が手に入りにくいらしい。

 仕方ないのでバス乗り場に行くと、運良く北京行きの夜行バスの切符が手に入った。
 しかし結果的に、かなりハードな移動になってしまった。



 すでに切符も購入していたので、ゆっくり街を散策したり食事をしたりしてから、出発時間(20時)間際にバスに乗り込むと、すでに満席だった。
 どうやらチケット売り場だけでなく、車掌がバスの前で切符を売っている為らしかった。ダブルブッキングもお構いなしだ。
 しかもこの時は需要の方が多いので、乗せられるだけ乗せてしまおうという考えらしかった。
 早めに切符を購入しても意味が無かったようだ。自分含め席に座れない人達は、諦めて通路の荷物の間に腰を降ろした。

 走り出して2時間程すると検問所に到着し、審査を受ける間待たされることとなった。
 しかし動き出す気配が感じられない。結局午前2時まで待たされ他のバスに乗り換えさせられた。

 乗り換えたバスでようやく座ることができた。
 次の検問所には早朝に着き、午前8時まで待たされてようやく出発した。
 
 しばらく行くとまた検問所があった。ここでも待たされて動き出す気配が感じられなかった。
 待ちきれなくなって徒歩で検問所を越えることにした。切符代がもったいないが仕方ない。
 ここでは持っていたサバイバルナイフを取り上げられてしまった。ほとんど果物ナイフみたいなものだが、持ち込み禁止の【匕首(あいくち)に相当するらしい。

 結局、根気良く6台のバスを乗り継いで首都北京に辿り着いた。ちょうど昼の12時だった。
 この日は9月29日。急いだ甲斐があって建国記念日の式典に間に合った。



 しかし、無理をした為、洛陽(ルオヤン)から続いている咳がひどくなってしまった。
 運のいいことにバスの終点近くにすぐユース・ホステル(風龍賓館)があった。
 他の宿に行く予定だったが、無理をせずここに泊まることにした。

 一休みをして咳も落ち着いたので、北京の街を見に行った。
 天安門広場王府井(ワンフーチン)と、どこもすごい人の数だった。さすが中国だ。

 移動がハードだったからか、この日の日記にはこう書いてある。

 「心の持ち方一つで変わる」

 「過ぎたことにこだわらず、感謝して進め」



 翌日(30日)は、レンタサイクルで盧溝橋(ろこうきょう)に行った(北京市南西にあり、宿から10km位)。
 この橋は、マルコ・ポーロ(1254年~1324年)がその美しさを紹介した為、別名マルコ・ポーロ・ブリッジとも言うらしい。
 今は威平門(西)・順治門(東)も修復されたようだが、当時は橋しか残っていなかったと思う。

 1937年7月7日、ここでの銃撃戦をきっかけにして、日本と中国は日中戦争へと突入した(盧溝橋事件、中国では七七事変とも言う)。
 ここで中国人観光客と握手して日中友好の写真を撮ってもらった。
 自己満足でしかないが、そうしておきたかったのだと思う。



 その後強い雨が降り出した為、自転車を預けてバスで宿に帰ることにした。
 ここには、中国人民抗日戦争記念館があるらしいのだが、その存在を知ったのは後になってからだ。

 翌日(10月1日)、早朝に自転車を取りに行った後、建国節の式典を見るべく天安門へと向かった。

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(21)曲阜(後編)(中国)

2009-04-09 19:27:07 | プロローグ・タイ・中国
 曲阜( Qu Fu )(チューフー)(きょくふ)では、孔子のお墓の近くの宿に泊まった。
 それが理由なのか分からないが、ここでは不思議な体験をした。幽体離脱(?)だ。

 幽体離脱に関しては様々な意見があり、真偽の程は定かではない。
 眠っている間は誰もが幽体離脱をしているという意見もあれば、そんなことはありえないという否定的な意見ももちろんある。

 今までの人生において2回、「これはもしかしたら幽体離脱ではないか」という経験があり、この時が最初の体験だった。



 曲阜到着の翌日(9月27日の未明)、突如金縛りにあった。(金縛りも、霊的な原因があるのか、あるいは体の疲れからくるものなのか意見が分かれるところだが、個人的には様々な要因がからんでいると思う)。

 金縛りで身体(からだ)が動かない中、ふっと何者かに抱えられ、そのまま持ち上げられた。
 しかし、本体である身体はそのままだった。自分の意識だけがベッドから離れ、宙に浮かんでいた。
 そのまま高窓のところに連れていかれ、「このままでは外に出てしまう」と考えると急に怖くなった。
 金縛りを解(と)く時にするように、右肩を前に出して振り解(ほど)こうとした。

 そこで目が覚めた。時計を見ると3時40分だった。



 自分を連れ出そうとしたのは、おそらく霊的な存在だと思うのだが、善いとか悪いとかよりも義務的という表現がピッタリだと思う。
 連れていかれそうになった方角は、孔子を祀(まつ)る孔廟(コンミャオ)(こうびょう)の方角だった。



 途中で怖くなって振り解いたことを後悔したので、本来なら1泊だけで出発するつもりだったが、再チャレンジの為もう1泊することにした。
 この日は、幽体離脱(?)の続きを期待して早めに就寝した。



 翌28日は、中国政府が認定した孔子生誕の日である。
 結論から言うと、この日は幽体離脱出来なかった。



 28日の未明、睡眠中に映像が浮かんだ(今まで真っ暗闇だったところに突然映像が浮かんだような感じ)。
 一言で言うなら艶めかしい光景だ。しばし目を奪われてしまった。

 目が覚めて時計を見ると3時40分だった。昨日目が覚めたのと同じ時刻だった。

 その時思ったのは、誘惑に負けずにいれば、昨日の続きを体験出来たかもしれないということだ。



 再々チャレンジをしたかったが、残念ながら先を急がなくてはならなかった。
 10月1日の建国節(建国記念日)の式典を見る為には、遅くとも30日までに北京入りしておく必要があり、時間は残っていなかった。



 ここでの幽体離脱(?)は霊的な体験だと思う。それには理由が3つある。

①ここが聖地であること(聖地では不思議な体験をすることが多い)
②目覚めたのが連日3時40分だったこと
③この後、中国・パキスタン国境まで不思議な現象が続いたこと(ここで書きたいテーマ(旅)から大きく外れるので記述を差し控えさせて頂きたい)



(結論)人生いろいろある

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(20)曲阜(前編)(中国)

2009-04-08 20:49:41 | プロローグ・タイ・中国
 洛陽(阳)(ルオヤン)から泰安( Tai’ An )(タイアン)まで、列車で約12時間かかる。
 中国で初めての2等客車の旅はとても新鮮だった。いわゆる硬座(木の座席)というやつだ。

 インドで2等客車に乗ったことがあり、そのハードさは知っていたつもりだったが、自分の想像を超える光景を目にすることとなった。
 今回乗車した列車が長距離線ではなく、ローカル線だったことも関係あるのかもしれない。



 洛陽が始発駅でなかった為、すでに座席は満席だった。通路に荷物が置かれていて足の踏み場も無い。
 乗客たちはひっきりなしにおしゃべりと飲み食いをしていた。
 ゴミは窓から捨てるか、通路にそのまま捨てていた。たまに乗務員が清掃に来るが、すぐにゴミだらけになってしまう。

 通路に置かれた荷物の上には、ひまわりの種(食用)のカスが散乱していた。
 乳飲み子を抱えた女性が、赤ん坊におしっこをさせている。トイレに行くのが面倒なのだろうか。
 通路におしっこさせている為、辺りに置いてある荷物は濡れてしまっていた。
 しかし母親に気にする様子は見られない。他人のことは関係ないのかもしれない。

 中国の子供服で股の部分が開いているものをよく見かけたが、これはどこでもトイレ出来る優れものなのだろう。



 しばらく立ちっぱなしだったが、ようやく席が空いて座ることが出来た。対面のおじさんと仲良くなった。
 彼の名は(シィ)さんといい、洛陽の奇岩奇石商だそうだ。変わった形の石を売って商売にしていると言う。
 これから曲阜( Qu Fu )(チューフー)(きょくふ)で開かれる奇石展示会に出展するらしい。

 自分は泰安からバスで曲阜入りする予定だったが、彼は途中の駅で下車した。
 降りる間際に【把玩】と一言書き、握り拳(こぶし)大の石をくれた。
 てっきり石の名前とばかり思っていたが辞書で調べると、【手にとって賞玩(しょうがん)する】という意味らしい。
 彼がいなくなった後、まわりの乗客は「そんな石捨ててしまえ」と言っていたが、彼の気持ちを考えると捨てられなかった。
 荷物が重くなるのは困ったが、Delhi (デリー)(インド)から実家に荷物を送るまで、この石と共に旅をした。



 泰安から曲阜までは、バスで2時間かかった。
 曲阜は儒教の開祖孔子(紀元前551年~紀元前479年)の故郷として有名である。

※計算上、中華人民共和国は孔子生誕2500年の年に建国されたことになる。

 中国政府は9月28日孔子生誕の日と認定し、毎年9月26日~10月10日まで孔子祭(国際孔子文化節)を開催している。運良くこの機会に訪れることが出来た。
 最近では随分盛大な式典を行っているようだが、当時はもっと素朴な感じだったと思う。



 曲阜では孔子や儒学者に縁(ゆかり)のある地を観光した。

孔廟(コンミャオ)(こうびょう)(世界遺産)   儒教の総本山、孔子を祀(まつ)る
孔府(コンフ)(こうふ)(世界遺産)   孔子の子孫が暮らしていた邸宅
孔林(コンリン)(こうりん)(世界遺産)   孔子一族の巨大な霊園
顔廟(イェンミャオ)(がんびょう)   孔子の第一弟子顔回(紀元前514年 ― 紀元前483年)を祀る
孟廟(メンミャオ)(もうびょう)(隣の鄒城市(すうじょうし)にある)   儒学者孟子(紀元前372年?~紀元前289年)(儒教において孔子に次ぐ重要人物とされる)を祀る
孟府(メンフ)(もうふ)(隣の鄒城市にある)   孟子の子孫が暮らしていた邸宅

 尚、奇石展示会の会場にも行き、史さんを探したが会えなかった。



 ここでは孔子のお墓の近くの宿に泊まったのだが、毎晩不思議な体験をした。

(写真は孔子墓、手前は新調されたお墓のようだ)



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(19)嵩山(中国)

2009-04-02 23:52:18 | プロローグ・タイ・中国
 少林寺( Shao Lin Si )(シャオリンスー)は嵩山( Song Shan )(ソンシャン)(すうざん)の麓(ふもと)にある。
 嵩山は五岳の一つで古来より山岳信仰の対象とされてきたらしい。

※五岳(五名山)とは、中国の道教の聖地である5つの山の総称。陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。神話によると万物の元となった盤古(ばんこ)という神(天地創造神)が死んだとき、その五体が五岳になったと言われている。

 東岳 泰山(たいざん) (山東省泰安市泰山区)
 南岳 衡山(こうざん) (湖南省衡陽市衡山県)
 中岳 嵩山 (河南省鄭州(ていしゅう)市・登封市)
 西岳 華山(かざん) (陝西(せんせい)省渭南(いなん)市・華陰市)
 北岳 恒山(こうざん) (山西省大同市渾源(こんげん)県)



 少林寺までは洛陽(阳)(ルオヤン)からバスで2時間位。
 宿前からミニバスが出ていたので乗り込んだ。

 10元という言い値を6元にまけてもらった。わずか50円程の値切りだが、先のことを考えると節約の精神は大切だ。
 しかしこの車掌は曲者(くせもの)で、しばらく進むと少林寺の周遊券40元を125元で買えと言い出した。
 嫌なら降りろという。
 仕方なく降りることにした。仲良くなった中国人観光客も一緒に降りた。
 中国の観光地はどこもこんな感じなのかもしれない。

 運良く後続のバスを捕まえ少林寺に辿り着いたが、着いたのは午後になっていた。
 残念ながら、少林寺拳法の演舞は見れなかった。午前中で終わってしまうようだ。



 昔TVで見た記憶が正しければ、試験を受けて少林寺に入門出来るのはごく一部の選ばれた子供だけで、他の子供は周りに点在する学校(予備校みたいなもの)でチャンスを待ちながら修行するらしい。

 周辺には膨大な数のスポーツ用品店が立ち並んでいた。
 ここで靴やウィンドブレーカーを新調しようと思ったが、サイズが合わなかったので諦めた。ここは少年少女の街だった。



 ここから山道をしばらく上ったところに達磨洞(だるまどう)(ダーモードン)がある。



 禅宗の開祖と言われる達磨(菩提達磨(ぼだいだるま)(ボーディダルマ)、達磨祖師、達磨大師)(382年?~532年)が、壁に向かって9年間坐禅を続けた場所とされている。

 坐禅をしていた達磨に、神光という僧侶がようやく入門を認められ、名を慧可(えか)と改めた。後に慧可は中国禅宗の第二祖、正宗普覚大師となった。

 尚、縁起物のだるまは、達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説に由来する。



 洛陽の空気で喘息(ぜんそく)になった自分にとってこの山道は堪えた。
 やっとの思いで達磨洞に辿り着くと、そこには【處去黙】と書いてあった。【黙して去る処(ところ)】という意味だろうか。

 しばし黙しながら休憩していると、トレーニングをしている子弟達が軽快な走りで上ってきた。そしてすぐに麓に戻って行った。何回か往復しているようだ。
 彼らが降りていくのを見送った後、自分も黙したまま一礼して去ることにした。

 (写真はトレーニング中の少年)



※少林寺の公式サイトはこちら(中国語)


 10月1日の建国節(建国記念日)には北京にいたかったので、少林寺から洛陽に戻るとそのまま夜行列車に乗り込んだ。
 次の目的地は孔子の故郷である曲阜(チューフー)だ。

 寝台席を取れずに、この旅初めての2等客車に乗ることになった。
 体調の良くない体に負荷をかけることになるが、時には無理することもある。

※少林寺などを含む歴史建築群天地之中は2010年8月1日に世界遺産に認定された。

※地図はこちら

(18)洛陽(中国)

2009-03-26 14:07:47 | プロローグ・タイ・中国
 西安(シーアン)の次の目的地は少林寺(シャオリンスー)だ。
 少林寺へは、洛陽(阳)( Luo Yang )(ルオヤン)経由で行くことにした。



 旅行をしていて感じたのだが、中国で買い物をする場合、サービス精神というものを感じることが少なかった(今はだいぶ変わったと思うが)。

 一番困ったのは列車の切符を買うときだ。欲しい切符が売り切れの場合、「没有(メイヨウ)」(無いわよ)の一言で済まされてしまうのだ。「はい、次の人」という態度を取られてしまう。すかさず、後ろの人間が購入しようと体を入れてくる。
 こちらも長時間並んでやっと窓口にたどり着いたわけで、簡単には引き下がれない。
 何とか粘って切符を購入しなければと、窓口ではいつも必死だったと思う。

 そのことに気づいたのが西安(シーアン)駅だった。今までは運が良かったのだ。

 桂林(グイリン)→昆明(クンミン)   (旅行代理店で手配)
 攀枝花(パンヂーファ)→成都(チョンドゥ)   (同行者が代わりに購入)
 成都→西安   (すんなり購入出来た)

 中国を旅するうちに、こちらが客であっても相手に気を遣うようになっていた。
 特に笑顔は大切だと感じた。



 洛陽までの列車の切符を手に入れた後、銀行で両替をした。
 ここで出会った欧米人のおばちゃんに、中国では笑顔が大切だという話をすると、

 「あら、そんなのどこの国だってそうよ。」と言われてしまった。その通りだ。

 余談になるが、欧米人がスマイリーなのは、隣国と陸続きだからという話を聞いたことがある。
 ちょっとした火種ですぐ戦争になりえたのだ。ある意味歴史から学んだ教訓とも言える。



 洛陽までは、列車で約5時間半。車中にて白馬寺(バイマースー)の住職と知り合った。
 白馬寺は、中国で初めて建立された仏教寺院らしい(西暦68年創建)。

 洛陽は、5000年の歴史を誇り、九朝(きゅうちょう)の古都と呼ばれている。

※九朝 ― 東周・東漢(後漢)・曹魏(前魏)・西晋(せいしん)・北魏(後魏・元魏・代魏)・隋・唐・後梁(こうりょう)・後唐(こうとう)



 ここで、ビザの延長をした。すでに中国入国後一月近く経っている。
 かなり急ぎ足でここまで来たと思う。
 中国・パキスタン国境のフンジュラーブ峠は降雪が始まると閉ざされてしまうので、その前にパキスタンに入りたかった。

 洛陽では、関林廟(グアンリンミャオ)(三国志で有名なの武将関羽を祀(まつ)っている)しか観光していない。
 晴れていても太陽が霞(かす)んで見える程空気が汚れていて、この街を歩いていたら喘息(ぜんそく)になってしまった。

 白馬寺に行くのを諦め、翌日少林寺に行けるよう体を休めることにした。

※地図はこちら