Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(167)ティトゥアン(モロッコ)~セウタ~アルヘシラス(スペイン)

2011-11-24 23:55:55 | スペイン・ポルトガル
 Tetouan (テ(ィ)トゥアン)に1泊した翌朝、気合を入れて朝7時過ぎには宿を発った。

 バスに乗る前に朝食をとることにした。モロッコ最後の食事だ。魚のタジン、ハリラ(スープ)、サラダ、パンにチャイ(紅茶)で約200円。地元のおやじさん達はハリラとパンのみ。朝食からタジンを食べるなんて贅沢なのだろう。申し訳ない気持ちもあったが、最後の食事を楽しんだ。



 Ceuta (セウタ)(スペイン)までバスで約1時間半かかった。

 セウタとは、【七つの丘】を意味するラテン語 Septem Fratres に由来すると言われている。
 モロッコと同じアフリカ大陸に存在するが、現在この地はスペイン領になっている。モロッコはセウタの返還を求めているが、街の歴史をひも解いても、イスラム王朝側、キリスト王朝側と幾多の変遷があり、複雑な問題だ。

 セウタの白い街並みはとても美しく、近代的だった。
 ここで両替と食事をした。久しぶりのマクドナルドだ。普通に食事するより安い。倹約生活のスタートだ。



 その後、セウタから Algeciras (アルヘ(ー)シラス)までジブラルタル海峡をフェリーで渡った(所要1時間半)。到着したのは14時~15時頃だったと思う。 
 早速、バスターミナルに向かったが、首都 Madrid (マドリード、マドリッド)行きの夜行バスは満席だという。仕方なく、列車で行くことにしたが、寝台ではなくニ等客車でも3000円位かかる。バスより2000円近く高くなるのは痛かった。
 日本の物価の基準で考えれば特に普通のことかもしれないが、モロッコでは1日2000円位の予算で十分生活できたことを考えると、この先のことが思いやられた。

 ここで考えた対策は2つ。

①食事の量・回数を減らす→一日3食分の食事を2食分に減らす(食事量というより食費)

②宿泊費を浮かせる為、長距離移動する場合は夜行バス・列車を使用する。

 とにかく、背に腹は代えられない。何とか最後の目的地まで辿り着きたかった。



 アルヘシラスの街は713年、イスラム系のムーア人(モーロ人)によって建てられた。街の名はアラビア語【島】を意味する Al Djezirah に由来する。
 レコンキスタ(キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動)が高まる中、1344年カスティ(ー)リャ王国(1035年~1715年)の攻略によって支配者がイスラム王朝からキリスト王朝に代わった。

 アルヘシラスの街を観光はしていない。列車のチケットを手に入れた頃には夕方になっていたので、駅の待合室で大人しく夜行列車の時間を待った。
 今考えればせっかく訪れた街を見ないなんてもったいない話だが、この時はとにかく【倹約】のことしか考えられなかったのだろう。スペインとモロッコの物価の違いは大きかった。

※地図はこちら

(166)ティトゥアン(モロッコ)

2011-11-17 23:55:55 | モロッコ
 Chefchaouen (シャウエン)を発った後、すぐにスペインに入国せずにモロッコでもう1泊することにした。

 なるべくなら、早い時間帯でスペインに入国した方がいい。入国審査や情報収集、両替・・・やることはたくさんある。しかも国境を越えるとシステムが変わる。それを考慮した上でもいろいろと制限の多い夕方以降の時間帯で入国するのをは避けたい。その為に、入国前日はなるべく国境に近い位置で迎えたかった。

 ジブラルタル海峡を渡るには、西の Tanger (タンジェ)からのルートと、東の Ceuta (セウタ)(スペイン)からのルートがある。
 タンジェはとにかく旅行者の中で評判が悪かった。物価も高いし、人もすれているらしい。その情報を元にセウタからスペイン入りすることに決めたのだが、セウタも宿代等の物価が高いと考え、結局セウタの南にある Tetouan (テ(ィ)トゥアン)に宿をとった。

 シャウエンからティトゥアンまでバスで約2時間。バスターミナルから近い HOTEL TREBOL に宿泊している。



 この街の歴史は紀元前3世紀頃から始まっているらしい。
 もともとベルベル人の国マウレタニアに属する町であったが、その後ローマ帝国の属州となっている。
 現在のティトゥアンの街がマリーン朝(1196年~1465年)によって築かれたのは1305年頃。
 15世紀末にはレコンキスタ(キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動)イベリア半島を追われた難民が押し寄せてテトゥアンを再建した(特に1492年のグラナダ陥落で)。その為、ティトゥアンの街は【グラナダの娘】とも呼ばれている。

※グラナダ陥落・・・イベリア半島における最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国(1232年~1492年)がカスティ(ー)リャ王国(1035年~1715年)とアラゴン王国(1035年~1715年)の連合王国によって滅ぼされた。

 また、ティトゥアンは、1913年から1956年に独立国モロッコが誕生するまでの間、スペイン領モロッコの首都でもあった。



 この街の旧市街世界遺産に認定されているが、当時そのことを知らなかったように思う。街をブラブラ散策した位で特に観光はしていない。

※地図はこちら

(165)シャウエン(モロッコ)

2011-11-10 23:55:55 | モロッコ
 Asilah (アシラ)に3泊したが、滞在中夕陽を見ることはできなかった。
 滞在最終日に、子供達と砂浜でサッカーをした。夕陽の代わりではないが、それで踏ん切りをつけて先に進むことにした。

 次の目的地は、【青い街】(旧市街が美しい青に染められた街) Chefchaouen (シャウエン)(正式名称シェフシャウエン)だ。バスで移動した。
 アシラから Ksar-el-Kebir (クサール・エル・ケビール)まで南下。そこから西に行けばシャウエンなのだが、乗り換えのバスが無かったのか北西へ向かって Tetouan (ティトゥアン)へ。そこから南下してシャウエンへ辿り着いた(乗り換え時間含め5~6時間位かかったと思う)。

 道中、百日紅(さるすべり)の木が辺り一面に植えられている地域があった。果樹園のような感じだ。葉が全く無かった。
 そのたくさんの百日紅の木々を見ていると、まるで木が立ちながらダンスしているかのようだった
 そうだ、木も踊っている。その動きが緩やかすぎて気付かないだけだ。長い年月をかけて自分を表現しているのだ。

 その姿を見て、自分も自分の人生を生きたい、自分を表現したいと強く感じた。そしてそれが世の中の役に立つことなら最高だと思う。



 シャウエンでは、Ketama Hotel に宿泊した。

 シャウエンとは、アラビア語【角(つの)を意味する。街がリフ山脈ティスーカ山(2050m)とメッグ山(1616m)の麓にあり、この二つの山が角のように見えることからこの名前がついたらしい。
 この街は、1471年にムーレイ・アリ・ベン・ラシッドによって建設された。彼の部族は後にワッタース朝(1472年~1554年)を建国している。
 1492年以降、スペインから逃れてきたイスラム教徒の流入によって人口が増大した。
 その後、1561年にサア(ー)ド朝(サーディ(ン)朝)(1509年~1659年)の支配下に置かれている。
 1920年にスペイン領に組み込まれ、その後30年間スペインの支配下にあったが、イスラム教徒の聖地として長い間異教徒に閉ざされていた為、秘境的な雰囲気を残している。



 この街に2泊している。
 特に観光スポットがあるわけではないが、街をブラブラ散策した。

 本来なら、アシラを発ってすぐに北上しスペインに入国しても良かったのだが、ちょっと躊躇していたところがあった。
 これから物価の高いヨーロッパに入るにあたり、更に倹約をしなければならなくなる。
 食費や宿代を節約する必要が出てくるだろう。その為にいろいろと気合をいれる必要があった。

※地図はこちら

(164)アシラー(モロッコ)

2011-11-03 23:55:55 | モロッコ
 Meknes (メクネス)に滞在した時期、街は祭りの期間だったらしいのだが、あまり盛り上がっているようには見えなかった。聞くところによると、自分は祭りの終わりのタイミングで到着したらしい。まさしく後の祭りだった。
 祭りでは是非ファンタジア(馬上でバロウドと呼ばれる銃を撃つ、昔の騎馬戦術を再現した祭り)を見たかったのだが仕方ない、諦めることにした。



 メクネスに3泊した後、大西洋を望む小さな街 Asilah (アシラー)に向かった(列車で所要3時間半)。
 この街は Casablanca (カサブランカ)で出会った旅人から勧められた静かな街だが、紀元前1500年頃から人が住んでいたらしく歴史のある街でもある。
 フェニキア人の交易拠点の一つとして栄え、15世紀にポルトガルの支配下に置かれた。
 1692年にはアラウィー朝モロッコ(1660年~)の支配下になった。
 19世紀から20世紀にかけては海賊の基地となり、その後スペイン領モロッコに属していたが(1912年~1956年)、1956年に再びモロッコ王国領となり現在に至る。
 街にはポルトガル人の造った Kasba (カスバ)(白い城壁)が残り、青い海とのコントラストが美しい。


 街に到着したのが夕方だった為、すぐに宿を探さなくてはならなかった。
 街を歩いていると、地元のおじさんが声をかけてきた。名前を Mr.アドナンというらしい。
 親切なおじさんで、宿を一緒になって探してくれた。しかし、この街の宿代は今までの街よりも相場が高かった。
 どうしようか迷っていると、家に泊めてくれるという。彼はプライベートルーム(民宿)も手掛けているらしい。

 アドナンの家に着くと、そこには可愛い娘さんのアミナちゃん(5歳位)、そして預かっているという女の子アミナ(高校生)がいた。奥さんとは別居しているらしい。アドナンがどういう経緯で彼女を預かることになったのか覚えていないが、とにかく同居していた。
 女子高生のアミナは、人に対して心を閉ざしていた。両親の不和が思春期の彼女に大きな影響を与え、登校拒否になっているそうだ。大人の価値観の中で子供が生きなければならないのは悲しいことだと感じた。
 
 この街に3泊したが、アミナ(女子高生)とはほとんど交流していない。彼女は英語を話せなかったし、人との交流を求めているように見えなかったからだ。
 旅をしていると、傍観者のスタンスが身についてしまうのだろうか。他の人ならもっと積極的に彼女の心を開かせようとしたかもしれない。

 アミナと話す時間が取れなかったのは他にも理由があった。アドナンが話好きだったからだ。哲学者のような雰囲気のアドナンが家にいる間はずっと話を聞いていなければならなかった。奥さんもいない、アミナは会話しない、そうなると彼の話し相手が務まるのは自分しかいないということもあったのだろう。いつもそうなのか、それともようやく話し相手が見つかったからなのか、真相は分からないが。

 彼の話によると、アシラは芸術の街であり、夏には大きな芸術祭が開かれるらしい。この祭りは世界的に有名だそうだ。
 彼の父親は半年前に98歳で亡くなったそうだが、アートが好きで芸術家の友人がたくさんいて、この街を訪れる芸術家達と交流があったそうだ。
 アドナンは父親のことをとても尊敬していた。人の悪口を決して言わず、妻以外の女性を見なかったそうだ。

 ちなみに、アドナン宅に滞在中UFOの夢を見たので、Jerusalem(エルサレム)(イスラエル)でUFOを見たことをアドナンに話したのを覚えている。
 こういう類(たぐい)の話は誰にでもするわけではないが、彼なら理解を示してくれるような気がした。
 しかし、彼は全く信じようとしなかった。彼の宗教観、世界観の枠の外にある話なのだろう。



 この街には観光スポットのようなところは特に無かったと思う。街を散策するだけで十分だった。曇りの為夕陽が見れなかったのが残念だが。

 日中はほとんどアドナンの話し相手をしていたと思う(彼は失業中のようだった)。
 夜にはアドナンにファンタジアのビデオを見せてもらったり、ユーロ2000(サッカー欧州選手権)のTV中継を見たりして過ごした。



 この街で旅日記に詩を書き記している。
 拙(つたない)い英語と日本語で書いてあるが、日本語の方だけ記録の意味で書いておきたい。



俺はここにいる

空には星が見える

俺もいつか星になる

たくさんの魂(命)が星になった

身体は砂になった

月がそれを教えてくれた


俺はここにいる

陽が大地(砂)を照らす

彼らもそれに応える

熱い風が吹く


そしてまた夜になる

空には星が見える

俺はここにいる


※地図はこちら