Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(192)パリ①(フランス)

2012-05-31 06:01:40 | フランス
 Brussels ( Bruxelles )(ブリュッセル)に2泊した後、Paris (パリ)(フランス)へ向かった。

 ベルギー・フランスは隣国同士だったが、直通の列車となるとTGV(テジェヴェ)(フランス国鉄が運行する高速鉄道の車両)しか見つからなかった(トーマス・クック時刻表(冊子)しか見ずに判断したのか、駅で確認しても他に手段がなかったのか、その辺りの記憶がないので分からない)。

 TGVの座席は全席指定(1等)だった為、インターレイル・パスが使えない。自由席(2等)は存在しないらしく、仕方なくチケットを購入した(約60ドル)。

 しかし、発車してしばらくしてから気が付いたのだが、車両間の出口付近で立ちっぱなしのバックパッカーが数名いた。どうやらあの位置ならインターレイル・パスで乗れたようだ。1時間半の列車の移動で1等料金60ドル。出費は痛かったが勉強代と思うことにした。



 フランスの首都パリの北駅に到着し、ホームに降りた途端に、いきなりポリス・チェックを受けた。
 パスポートを見せると「行ってよし」とのこと。
 しかし、歩き出してわずか10m位で再び別の警官にチェックを受けた。

 「見てなかったのか。そこでポリスチェックを受けたばかりだ!」

 と文句を言うと、すまないと言いつつもパスポートを見せろと言う。ここでもめても面倒なのでパスポートを提示した。
 どうやら黒髪のアジア人ということで目立つらしく、不法入国・不法就労の疑いの目で見られたようだ(ヨーロッパの人達はスルーされていた)。



 しょっぱなから嫌な目にあってしまったが、パリの街に来たということでテンションが上がったのを覚えている。

 この日は宿をとらずに、コインロッカーに荷物を預けた。
 パリの街の概要をつかむべく夜まであちこち散策した後、Mont Saint Michel (モン・サン・ミッシェル)(世界遺産)へ向かった。

※地図はこちら

(191)ルクセンブルグ(ルクセンブルグ)

2012-05-24 07:07:40 | 小さな国々
 Brussels ( Bruxelles )(ブリュッセル)を半日観光した後、Luxembourg (ルクセンブルク)(ルクセンブルク(大公国))まで列車で出掛けた(片道約3時間位)。


 当時、ルクセンブルクという国名から連想出来たのは【ベネルクス3国】ということ位。ベネルクス3国とは、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを併せて呼ぶ名称だ。
 面積は神奈川県と同程度の大きさで人口は約50万人。
 農業国から工業国へ、そして現在では第三次産業を中心としており、金融大国でもある(国民の所得は世界トップレベル)。
 税率が低いことから他国の企業を誘致しやすく、事実上のタックスヘイブン(租税回避地)となっている。
 【北のジブラルタル】の異名を持つ城砦都市で、城砦に囲まれた旧市街世界遺産に認定されている。



 ローマ帝国時代から、この地は2つのローマ街道が交差する交通の要衝だった。
 963年にアルデンヌ家(ベルギー南東部、ルクセンブルク、フランスの一部を含む地域を領有)のジークフリート伯爵(922年~998年)がこの地を手に入れた。
 ジークフリートは西フランク王国(843年~987年)のルイ2世(ルートヴィヒ2世)(846年~879年)(在位877年~879年)の孫で、神聖ローマ帝国(962年~1806年)初代皇帝オットー1世(912年~973年)(在位962年~973年)の姻戚だった。
 この地はアルゼット川に囲まれた岩だらけの崖地だったが、地理的に重要な戦略拠点ということもあり、ジークフリートによって堅固なボック城が建設された。
 当時、砦を“ lucilinburhuc ”(小さな城) と呼んでおり、それが変化して“ Luxemburg ”となった。

 その後要塞は強化されて街は拡大していったが、1443年にヴァロワ=ブルゴーニュ家フィリップ善良公(フィリップ3世)(1396年~1467年)によって征服され、ブルゴーニュ公爵領ネーデルラントの一部に組み込まれた。
 更にネーデルラント一帯はハプスブルク家領となり、ルクセンブルクはハプスブルク領ネーデルラントの一州としてスペインオーストリアの支配を受けた。
 フランス革命期にはフランスの支配を受けたが、1815年のウィーン会議の結果、ドイツ連邦に加盟しながらもオランダ国王大公とするルクセンブルク大公国となった。
 1830年のベルギー独立革命後、首都ルクセンブルクを除いて、ベルギーの統治下に置かれたが、翌年のロンドン会議によって領土の西半分をベルギー、東半分をオランダ国王の統治下へと帰属することが決められた(実現されたのは1839年以降)。
 1867年にはロンドン条約によって永世中立国となる。
 1890年、ルクセンブルク大公を兼任していたオランダ国王ウィレム3世(1817年~1890年)が亡くなる。
 ウィレム3世には嫡子がいなかった為、元ナッサウ公(ドイツ西部のライン地方を発祥としたナッサウ=ヴァイルブルク家の ナッサウ公国(1806年~1866年)の領主)のアドルフ(1817年~1905年)がルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消。完全な独立を果たした。

 その後、二つの世界大戦においては、ドイツの占領下に置かれた。
 戦後、ベネルクス間で関税同盟を結成。1949年にはNATO(北大西洋条約機構)に加盟し永世中立を放棄した。
 その後もEEC(欧州経済共同体)(1957年)、EU(欧州連合)(1967年)、ユーロ圏(1999年)へといずれも原加盟国として参加している。



 移動に時間がかかってしまった為、ルクセンブルクでの滞在はわずか数時間だった。
 首都といえども落ち着いた雰囲気だったのを覚えている。とてもお洒落な感じの街だった。
 観光したのは下記の通り。

ノートルダム寺院  17世紀に建てられたイエズス会の教会。20世紀に再建された。ルネッサンスバロックの建築様式を取り入れている。先代大公ジャン(1921年~)(在位1964年~2000年)とベルギー王女ジョセフィーヌ・シャルロット(1927年~2005年)の結婚式も行われた。

大公宮  かつては市庁舎だった建物が1895年から大公宮として使用されている。



ぺトリュックスの砲台  砲台が置かれていた要塞跡地としてはこちらよりもボックの砲台の方が有名だ。

 また、街の広場でマルク・シャガール(1887年~1985年)の版画展が開かれていた。
 その優しい感じの画風が街の雰囲気に調和していた(記念にポストカードを数枚購入した)。

 この街は当時癒しを感じる街だったが、あれから10年以上経ち街はどう変わっただろうか。



 帰りの列車において、(車窓から)過ぎゆく木々を見て旅日記に一言書き記している。

 「今まで見て来たものは、この木と同じようにその地に踏みとどまって立っていた人達だった。」

 旅の終わりが近づきつつある中、一体何を感じていたのだろう。

※地図はこちら

(190)ブリュッセル(ベルギー)

2012-05-17 23:51:32 | ドイツ・オランダ・ベルギー
 Amsterdam (アムステルダム)からベルギーの首都 Brussels ( Bruxelles )(ブリュッセル)まで列車で移動した。
 夕方に到着してから宿探しを行ったがなかなか安宿が見つからない。結局ユース・ホステルに宿泊することにした。
 ユース・ホステルは、高い物価の国で最もリーズナブルな宿の一つに挙げられるが、街の中心から離れたところに立地していることが多く、辿り着くのが大変なケースが多い(ブリュッセルのユースは比較的交通の便が良かった気がする)。
 
 到着したのは夜20時頃だったと思う。滞在していた日本人旅行者と数日ぶりの日本語会話を楽しんだ。


 
 翌朝、ブリュッセルの街の観光に出掛けた。

 ブリュッセルは、欧州連合(EU)の主要機関が置かれるなど、欧洲の政治の拠点の一つであり、その美しさから【小さなパリ】とも呼ばれている。
 フランス語オランダ語の2言語地域の為、街中にある看板・標識などは、フランス語・オランダ語の2ヶ国語表示になっている。

 ブリュッセルの名前は、オランダ語で【沼地の村】を意味する【ブルークゼーレ】に由来する。

 この地には、新石器時代の紀元前2250年ごろから農耕民族が暮らしていたらしい。紀元前にローマの属領となり、その後ローマの支配地域が広がっていった。
 この地は地理的条件にも恵まれており、他国との交易の要衝として栄えた(繁栄を極めるのは12世紀以降)。
 その後、1477年にハプスブルク家の領地となったが、1555年にフェリペ2世(1527年~1598年)が神聖ローマ皇帝兼スペイン王に即位すると、プロテスタントを中心にブリュッセル市民はこの新しいスペインのカトリック君主に対し反乱を起こした(この後プロテスタントの信奉者が増加していく)。この宗教的対立は、プロテスタントの反乱、宗教改革へとつながっていった。
 1576年にスペインの支配を脱し、ネーデルラント連邦共和国(1580年頃~1795年)に入ったが、1585年にスペイン軍に攻略され、再びスペイン領ネーデルラントとなる。
 1792年にフランス革命軍によって占拠され、ナポレオン戦争が終結する1815年までフランスの支配下となった。
 1815年のウィーン議定書によって、現在のベルギーとオランダを含むネーデルラント連合王国(1815年~1830年)の都市となった。
 1830年にベルギー独立革命が起こった際、ブリュッセルはその中心地となり、1831年にベルギー王国の首都となった。



 ブリュッセルで観光したのは下記の通り。

グラン・プラス(世界遺産)  110m×70mの大広場。周囲をギルド(職業別組合)ハウスに囲まれている。現在の建物は1695年にフランス軍の攻撃を受け破壊された後に建て直されたもの。ヴィクトール(=マリー・)ユーゴー(1802年~1885年)(詩人、小説家、政治家)が【世界で最も美しい広場】と賞賛し、ジャン・コクトー(1889年~1963年)(芸術家、詩人、小説家、映画監督)も【豊饒(ほうじょう)(豊かな土地の意)の広場】と称(たた)えている。



小便小僧  【ブリュッセルの最長老市民】である小便小僧は、1619年に彫刻家ジェローム・デュケノワ(1570年?~1641年?)によって制作された。制作の由来は諸説あるが、一つは侵略者が城壁を爆破しようとしかけた爆弾の導火線を小便で消し、町を救った少年(ジュリアン)がいたという説が【ジュリアン坊や】という愛称の由来になっている。衣装持ち(世界中から贈られてくる)で有名だが、この時は服を着ていなかった。近所に小便少女もある。

王宮  かつてこの地を治めていたブラバント公爵の館の一つを、ベルギー国王レオポルド2世(1835年~1909年)(在位1865年~1909年)が改築したもの。



 ガイドブックや地図をもたずに散策した為、時間のロスが多かった。 
 実は5年前にトランジットでブリュッセルに滞在したことがあり、その時グラン・プラス周辺を訪問したので、自分の記憶を過信していたところがあったと思う。
 
 訪問を予定していた王立美術館などをカットして午後から日帰りで Luxembourg (ルクセンブルク)(ルクセンブルク(大公国))に出掛けている。

※地図はこちら

(189)アムステルダム(オランダ)

2012-05-10 23:55:55 | ドイツ・オランダ・ベルギー
 Berlin (ベルリン)から夜行列車に乗り、翌早朝にオランダの首都 Amsterdam (アムステルダム)に到着した。
 夜行列車で2等客車に乗る場合、熟睡できることは少ない。眠りながらも盗難防止の意識を張っているからだ。浅い眠りの繰り返しになるのだが、今回はそれすら厳しかった。
 乗客達がずっとおしゃべりしていた為(眠っているのは少数だった)、ウォークマンで音楽を聞きながら眠ろうとしたが、おしゃべりの音を聞こえなくする為には音楽を大音量にしなければならず、結局ほとんど眠れなかった。今晩は宿に泊まろうと思う。



 旅行者達は、この街のことを省略して【アムス】と呼んでいた。

 アムステルダムは、オランダのビジネスの中心地であり、観光地としても有名だ。
 ちなみにオランダの政治の中心地はアムスの南西約60kmに位置するオランダ第3の都市 Den Haag (デン・ハーグ)だそうだ。

 この街の成り立ちは、13世紀に遡る。
 アムステル川の河口にダムが築かれ、元々は小さな漁村だった場所に街が築かれた。伝説によると、犬を連れた2人の猟師がアムステル川の川岸に上陸して築いたということになっている。【アムステルのダム】(アムステル川をせき止めたダム)というのが街の名前の由来。

 1287年12月14日、ゾイデル海において【聖ルチア祭の洪水】と呼ばれる大水害が起こった。これによってゾイデル海は大きく拡大し、北海へと開口した。
 この出来事はゾイデル海の一番奥に位置するアムステルダムが海陸の接点として注目されるきっかけとなった(現在アムステルダムは長い北海運河によって北海と接続されている)。
 その後、1300年(1301年)に自由都市となり、15世紀にはバルト海交易の中心地となり、海運貿易の港町として発展していく。17世紀に最盛期を迎えたアムステルダムの街は、第二次世界大戦中の1940年にナチスドイツの占領下に置かれるが、戦後復興を遂げ、現在でも商業(ビジネス)の街として世界的にも高く評価されている(世界都市ランキング(ビジネス分野)第10位)。



 また、アムステルダムは移民の街としても有名で、5割以上をオランダ外からの移民が占めている(若年層にその傾向が強い)。多民族国家としての問題を抱えながらも今後更なる発展を遂げるだろう。



 この街で観光したのは下記の通り。

王宮  1655年に市庁舎として建てられた。その後フランスの統治下において王宮として使用され、現在もオランダ王家の王宮としての役割を果たしている。

マヘレのハネ橋  この街に現存する木製のハネ橋の一つ。川の多いオランダならではの光景だ。

アンネ・フランクの家  ナチスドイツの侵攻2年後の1942年から、アウシュビッツ強制収容所に送られた1944年までの2年間、アンネ・フランク一家が過ごした家が現在博物館になっている。『アンネの日記』に登場する15分毎に1回鐘を鳴らす教会(西教会)もすぐそばにある。ここで起こったことは悲劇だと思うし、二度と繰り返してはならないことだと思う。しかしなぜか今思い返すとこの家に暗い印象は残っていない。明るく前向きに生きようとしたアンネの想いがこの家に残っているからかもしれない。15歳で亡くなった彼女の魂のご冥福を祈りたい。



国立ゴッホ美術館  オランダの生んだ偉大な画家(後期印象派)(フィンセント・ファン・)ゴッホ(1853年~1890年)の作品が数多く展示されている。また、ゴッホに影響を与えた画家達の作品も展示されている。ここに展示されているのは有名な絵画ばかりだが、個人的には『種をまく人』((ジャン=フランソワ・)ミレー(1814年~1875年)に影響を受けた作品)が一番印象に残っている。

 この街で押さえておきたかったのは、アンネ・フランクの家と国立ゴッホ美術館だった。国立博物館にも行きたかったのだが、夕方までに Brussels ( Bruxelles )(ブリュッセル)(ベルギー)に着きたかったので、今回は諦めた。



 この日の旅日記には、アンネ・フランクの言葉を書き記している。

 「ときどき私は、神様が私を試そうとしていらっしゃる、そう考えることがあります。今もそう考えますし、将来もそれは変わらないでしょう。」

※地図はこちら

(188)ベルリン(ドイツ)

2012-05-03 23:55:55 | ドイツ・オランダ・ベルギー
 Bern (ベルン)から夜行列車に乗り、ドイツの首都 Berlin (ベルリン)に翌早朝に到着した。

 2夜連続で夜行列車に乗っていた為、シャワーを浴びたかった。すると運良くベルリン中央駅の構内にシャワー室を発見した。
 しかし、営業時間を過ぎているにもかかわらず、掃除のおばちゃんがシャワー室の鍵を開けてくれない。掃除をするのを面倒くさがっているように思えた。
 だからといって、ここで引き下がるわけにはいかない。どうやって交渉したか忘れてしまったが、なんとか開けてもらいシャワーを浴びた。新しい下着に着替え服も交換した。
 夜行列車は2等客車だった為、熟睡出来ずに疲れを感じていたのだが、シャワーを浴びたことによってリフレッシュ出来たような気がした。
 朝食をマクドナルドで済ませ(日本並みの物価の国では、マクドナルドの値段の安さが魅力だった)、ベルリンの街の観光に出掛けた。



 ベルリンの名が歴史に登場するのは1244年。1448年にはブランデンブルク辺境伯(ブランデンブルク選帝侯)フリードリヒ2世(1413年~1471年)(在位1440年~1471年)が Brandenburg (ブランデンブルク)からベルリンに宮殿を移した。
 1871年にプロイセン王国(1701年~1918年)国王ヴィルヘルム1世(1797年~ 1888年)(在位1861年~1888年)が初代ドイツ皇帝となり(在位1871年~1888年)、ドイツ帝国(1871年~1918年)が成立した際ベルリンはその首都となった。
 その後、第一次世界大戦(1914年~1918年)でドイツ帝国は崩壊し、戦後はワイマール共和国(1919年~1933年)の首都となった。
 ヨーロッパの芸術・学問の中心として栄えたベルリンだったが、1933年にナチスが政権を奪取してから、政策によって文化が衰退していった。
 第二次世界大戦(1939年~1945年)ではナチス・ドイツの最後の戦場となり、街は徹底的に破壊された(ベルリン市街戦)
 第二次世界大戦後、ベルリンの街は東西冷戦の象徴ともいうべき分割統治となった。
 ベルリンの周辺地域は旧ソビエト連邦(ソ連)の占領地域となったが、ベルリンの西側(米英仏3ヶ国占領地域)は飛地、西ベルリンとなった(その後、西ベルリンの統治権は西ドイツに移った)。
 1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊するまでこの状態は続いた。



 ベルリンで観光したのは下記の通り。

ブランデルブルク門  プロイセン王国の凱旋門として1791年に完成(ドイツ古典主義建築)。東西ドイツ分裂時代には、すぐそばに壁が築かれ門をくぐることができなかった。ここを訪問したのは夕方近くにだったが、犬の為のデモ行進が行われていた。



ベルリン大聖堂  プロイセン公国(1525年~1701年)の統治者であるホーエンツォレルン王家の記念教会(墓所がある)。16時過ぎに訪問したところ閉まっていて中には入れなかった。

森鴎外記念館  森鴎外(1862年~1922年)が留学中(1884年~1888年)に滞在していた下宿が現在記念館となっている。10時~14時までの開館ということを知らず、訪問時(14時すぎ)には閉まっていた。

カイザー・ヴィルヘルム記念教会  初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を記念して19世紀末に建てられた教会(ネオロマネスク様式)。1943年の空襲で破壊された跡が残っている。礼拝堂を参拝している間、背中がビリビリした。とても神聖な空間だった。

壁博物館  ベルリンの壁の歴史を様々な写真や映像、展示物で振り返ることができる。ベルリンの壁の崩壊を遠い昔のことのように感じたが、実際はわずか10年ほどしか経過していなかった。壁のかけらをカプセルケースに入れたポストカードを購入したが現在手元には残っていない。



 ベルリンの街は広く、丸一日あっても周りきれなかった。
 バスなどの交通費を倹約した為、徒歩(サンダルばき)で合計10km以上歩いたと思う。
 履いていたサンダルは革製でしっかりとした作りのものだったが、凸凹のある歩道(石畳)を歩くのには向かなかった(足が痛くなった)。
 靴を履かなかったのは、夏場に一日中歩くと足が蒸れるから(足の臭いも気になる)。
 きちんと宿に泊まりシャワーを浴びるならともかく、夜行列車の移動が続く時はなるべく履かないようにしていた。
 結果的に、博物館の島(ムゼウムスインゼル)(世界遺産)や、新ナショナルギャラリーを周ることはできなかった。
 ガイドブックを持っていればもっと計画的に周れたかもしれない。

 またいつの日かベルリンの街を訪れてみたいと思う。

※地図はこちら