Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(75)オラデア(ルーマニア)

2010-03-25 22:41:08 | ブルガリア・ルーマニア
 Sighetu Marmatiei (シゲット・マルマツィエイ)を朝6時半に発ったバスは、13時に Oradea (オラデア)に着いた。

 バスの車内は空調も無くとても寒かった。そのせいか、オラデアに着いた頃は風邪気味になっていた。
 実は前の晩から吐き気がひどく、体調がすぐれない中での移動だった。

 この日は熱のせいか頭がフラフラしており、買い物で釣銭をちょろまかされたり、部屋で体温計を落として壊したりと失敗が多かった。

 この街では、ほとんど観光もせずに宿で休息を取っている。
 外出もしたが、食事とネットカフェでメールをチェックした位だ。

 メールチェックは1ヶ月ぶりなので結構メールがたまっていた。
 体調がすぐれず心細かった為、友人達からのメールで随分と励まされたのを覚えている。



 この日は早めに就寝して、翌朝7時半発の列車で Budapest (ブダペスト)(ハンガリー)へと向かうことにした。



 ルーマニアビザの有効期間(1ヶ月)の大部分をマラムレシュ地方で過ごしたのだが、いろいろな面を垣間(かいま)見た気がする。

 みやこうせい氏の紹介した【魂の美しい人々】は確かに存在したし、今も存在する。
 そして、これからも清らかな魂を持ち続けて欲しいと切に願いながらルーマニアを後にした。

※地図はこちら

(74)シゲット・マルマツィエイ③(ルーマニア)

2010-03-18 00:23:49 | ブルガリア・ルーマニア
 Botiza (ボティザ)に4泊した後、Sighetu Marmatiei (シゲット・マルマツィエイ)に戻ることにした。
 宿代は4泊で$60だった。Poienile Izei (ポイエニレ・イゼイ)(通称ポイエニ)で出会った先生の1ヶ月分の給料と同額だ。

 帰りは宿の主ジョージが車で送ってくれた。彼にとって冬の収入源がいなくなるのは辛いことかもしれない。車中ずっと黙りっぱなしだった。
 そうは言ってもこれ以上長居は出来ない。ルーマニアビザ(有効期間1ヶ月)がもうすぐ切れてしまうからだ。
 


 シゲットに戻りジョージと別れた後、Hotel TISA (現存するか不明)に行くと、宿代が値上がりしていた(約200円の値上がり)。しかも食事も粗末になっていた。
 文句を言ったが何も変わらなかった。オフ・シーズンで観光客は他にいない。サービスの質が下がるのは仕方ないと諦めた。このホテルと女主人の口うるさい民宿しか選択肢が無かったからだ。



 シゲットはマラムレシュ地方の中心都市であり、この地は歴史的にも列強の交易、戦略上の重要な土地だった。
 かつてはオーストリア=ハンガリー帝国の領土であったこともある。
シゲットの北はウクライナだ。
 マラムレシュ地方にはルーマニア人の村だけでなく、ハンガリー人や、ウクライナ人の村もあるそうだ。また三民族が共存している村も多いらしい。



 この街で出国の準備をしつつ、青年マリウスの家に遊びに行っている。
 マリウスの両親、兄、弟、妹の6人家族だ。
 彼の家族は豊かな暮らしをしているようには見えなかったが、心からもてなしてくれたと思う。

 マリウスは軍隊に行くと言っていた。そうでもしないと職が無いのだ。
 彼は強い瞳の光を持っていた。孤独が好きだと言い切る強さがあった。
 彼を見ていると、瀘沽湖(ルーグーフー)(中国)で出会った詩人を思い出した。
 自分は孤独が好きだと言い切れるだろうか。そこまでの強さがあるだろうか。



 マリウス宅ではトランプや折り紙をしたり、歌を歌い合ったりといろいろ遊んでいる。

 ページワン(トランプゲームの一種)のことをルーマニアではウルティマというのが興味深かったらしく、旅日記にメモしてあった。

 旅先で何度か「日本の歌を聞かせてくれ」と言われることがあった。そんな時はたいてい君が代を歌っていたのだが、ここで初めておどるポンポコリンを歌ったら非常にウケが良かった。
 明るい調子の歌をいくつか歌えると、旅先で喜ばれるかもしれない。

(写真は、マリウスの母とマリウス)



 シゲット最後の晩、マリウス一家からプレゼントをもらった。
 マリウスは自ら彫った彫刻をくれた(この彫刻作品には後日助けられた→記事はこちら)。家族の面々もいろいろプレゼントをくれたのだが、驚いたのはマリウスのお母さんがくれたキリストの絵だ。
 それはマリウスのお父さんと初めて出会った日に購入したというものだった。
 そんなに大切なものをもらうわけにはいかないと断ったのだが、彼女は聞き入れなかった。
 こちらからもお礼の品をあげたのだが、何故こんなに大事なものを一介の旅人にくれたのだろう。今でもこの絵は大事に持っている。



 シゲットに2泊した後、早朝のバスで Oradea (オラデア)に向けて出発した。

 旅日記にはこう書いてある。



 もう二度とマラムレシュへは行かない。

 何故なら、これ以上人の変わるのを見たくないから。

 もし行くとすれば、人々のホスピタリティを期待せずに行く。単なる観光として。

 (こう書いているが、今はまたマラムレシュに行きたいと思う(季節は夏に行きたい)。)



 みやこうせい氏の愛した【魂の美しい人々】
 400年以上もの間、誇りと伝統を守り続けてきた民の生活は、今大きく変わろうとしていた。
 その原因は TV 、そして先進国からの観光客だと思う(自分自身もその一人なのだが)。

 マラムレシュに住む魂の美しい人々は、貧しく質素であっても自らの暮らしに誇りを持っていた。

 その心はいつまでも変わらないで欲しい。そう思うのはエゴだろうか。

※マラムレシュを紹介するサイトはこちら(英語)

※地図はこちら

(73)ポイエニレ・イゼイ(ルーマニア)

2010-03-11 22:50:00 | ブルガリア・ルーマニア
 Poienile Izei (ポイエニレ・イゼイ)(通称ポイエニ)は Botiza (ボティザ)から6kmほど離れたところにある村だ。革命前までボティザの一部という扱いだった。

 ポイエニレ・イゼイとは、【イザ川流域のポイエニ】という意らしい。
 その昔、1400年代の初めに、イザ川沿いの Bogdan Voda (ボグダン・ヴォーダ)から、罪人イリシェという男が逃げてきて生活を始めたのがポイエニの集落の始まりとされている。



 この地をこよなく愛したみやこうせい氏は、ポイエニについていろいろ書き記している。
 しかし、当時と比べてかなり変わってしまった部分もあるようだ。
 資本主義経済の波は、辺境の地(マラムレシュ地方)の人々の生活を変え、人の心をも変えてしまったのかもしれない。
 そうは言っても、我々よりはるかに素朴でピュアな心を持っているのだが。



 ここには2回ほどボティザから歩いて訪問している。道中の景色がとても美しかった。
 美しい山が見えたと旅日記に書いてある(バラテック山というらしい)。



 ポイエニでは、先生をしているというおじさんに学校を案内してもらった。
 彼の月給は約$60(税引き前)。日本なら1日アルバイトすれば稼げる金額だ。
 という強い通貨の恩恵を受けて旅をしている身ではあるが、何とも申し訳ない気持ちになった。



 マラムレシュ地方の村では、毎週日曜日に教会前のメインストリートを散歩するという習慣があると聞いていた。休日のおしゃべりを楽しむそうだ。
 若い男女にとっては、意中の異性と会話するチャンスでもある。

 実際今でもこの風習が残っているということだったので、日曜日(結婚式の翌日)に再訪した。



 暖かい季節には老若男女問わず語り合う姿が見られるそうだ。そして16時頃からみんなでダンスを踊るらしい。
 この時は、寒さが厳しい為若者しかいなかった。雪の為ダンスも見られなかった。



 だが、伝統を守り伝える若者達がいるということが嬉しかった。
 伝統を誇りに思っているからこそ、風習を守っているのだと思う。 

※地図はこちら

(72)ボティザ(後編)(ルーマニア)

2010-03-04 01:03:24 | ブルガリア・ルーマニア
  Botiza (ボティザ)滞在3日目。その日は土曜日で、夜に結婚式が行われると聞いた。

 マラムレシュ地方において、結婚式のパーティーは誰でもウェルカムだと聞いていたが、実際そうらしい。



 確か夜だったと思うが、花嫁行列が街のメインストリートを進んでいった。

 宿の主ジョージも参加することを勧めてくれたので、結婚パーティーに行ってみることにした。場所は、ジョージの宿からすぐのところだった。



 裏口のようなところから入ると、すでに村人たちが飲んで踊って盛り上がっていた。

 料理を作っていたおばちゃんが、よくぞ来たという感じでこちらの手を取り踊りだした。
 ルーマニア人はラテン系の血が流れているというが、マラムレシュの人々は本当にオープンマインドだと思う。



 会場では、新郎新婦を中心に村人たちが踊っていた。演奏する音楽に合わせてとても楽しそうに踊っている。



 上手く踊れなくてもかまわない。楽しいから踊る。それが踊り本来のあるべき姿なのかもしれない。



 他の村人たちは、楽しそうに食事をしていた。ツィカ(プラム酒)を飲みながら。
 一緒に飲もうと声をかけてくれたのはいいが、お酒は勘弁願いたい。
 言葉がうまく通じないが、とにかく歓迎してくれているのは分かった。
 マラムレシュでは、ツィカを勧められたら二度目までは断れるが、三度目は飲まなくてはならないらしい。仕方ないのでツィカを一口飲んだ。

 「ノロック(乾杯)!!」

 ものすごい強いお酒だ(アルコール度数40度)。むせこんでいる自分の姿を見て村人たちが大笑いしている。「どうだ、マラムウのお酒はうまいだろう。」とか何とか言っていたのだろう。

 この後酔っ払ってしまったので途中で宿に帰った。彼らは朝まで飲んで歌って踊りまくるらしい。

 新郎新婦の名前も聞かずに帰ってきてしまったが、この時撮った写真を帰国後ジョージに送って、彼らに渡してもらうよう頼んだ。



 マラムレシュの冬は厳しい。農業主体で生きている彼らにとって、この時期は農閑期にあたり結婚式が多いようだ。

 冬の厳しい寒さの中で結ばれた愛は、とても強固なものに思えた。

 あれから10年、今や彼らの子供達が元気に村を駆け回っていることだろう。



 末永くお幸せに。

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