Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

おまけ(その32)【9.11】で思い出すこと(前編)

2013-01-31 23:55:55 | おまけ
(219)ニューヨーク③(アメリカ)のおまけ記事



 【9.11】について考えるとき、直接的に関係しているわけではないが、思い出す奇妙な出来事があるので書き記しておきたい。



 2001年の夏、旅先で出会った旅人の紹介で住み込みの海外ボランティア(滞在国:中国)に参加した(旅行とは違った種類の貴重な体験をすることが出来たと思う)。
 しかし、そのボランティアから帰国してわずか数日後、NY同時多発テロが発生した。

 実はボランティアに行く前に、仕事でお世話になったアメリカ好きの友人に一枚の写真(A3サイズまで引き伸ばしたもの)をプレゼントしていた。
 その写真は、バッテリー・パークのフェリー乗り場からリバティ島の自由の女神(世界遺産)を撮影したものだ。



 9.11の後、その友人に「お前が変な写真をよこすからだ」と言われた。
 


 話変わって、ボランティア出発の前日に中古書店で購入した一冊の本がある。その本のタイトルは、『マスード 愛しの大地アフガン』(長倉洋海著、JICC出版局(2001年河出書房新社より新装版刊行))だ。
 
 たまたま書店で見かけ、マスードの澄んだ眼差しに憧れて購入したのが出発前日だった為、この本をじっくり読むのが帰国後の楽しみの一つだった。

 アハマッド・シャー・マスード( Ahmed Shah Massoud )(1953年~2001年)は、アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線(北部同盟)副大統領、国防大臣、軍司令官を歴任。死後、【アフガニスタン国家英雄】の称号を追贈された。
 マスードが暗殺されたのは2001年9月9日。自分がマスードの本を読んでいる時に本人が亡くなったかもしれない思うと、当時何とも遣り切れない気持ちになった。彼が生きていれば、アフガニスタンは違った形で復興への道を歩んだことだろう。

※マスードの弟であるアフマド・ズィヤ・マスード( Ahmad Zia Massoud )は2004年からアフガニスタン第一副大統領に就任した(2009年まで)。



 不思議なことに、自分をボランティアに誘った旅行者と出会ったのは、Hunza (フンザ)(パキスタン)だった。この村の目と鼻の先にアフガニスタンがある。



 ここまでの話なら【偶然】の一言で済まされてしまいそうだが、この話にはまだ続きがある。

(219)ニューヨーク③(アメリカ)

2013-01-24 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)滞在中にリバティ島にある自由の女神像(世界遺産)(正式名称は【世界を照らす自由】( Liberty Enlightening the World ))も見学している。

 ロウアー・マンハッタンからリバティ島に立ち寄り見学できるフェリーは当時早朝8:30出発のものしかなかった(現在見学可能か状況は不明)。
 期待に胸を膨らませながらフェリーに乗ってリバティ島へ。



 自由の女神像は、高さ93m(台座部分含む)、総重量225トン、1886年に完成。アメリカ合衆国の独立100周年を記念し、フランス人の募金によって贈呈されたものであり、自由の国アメリカの象徴となっている(自由の女神のモデルとなったのはフランス共和国を象徴する女性像マリアンヌ)。



 旅日記には、王冠部分までは行かなかったが、途中まで階段を昇ったという記述がある(どこまで上がったかは覚えていない)。予算的な関係で断念したと思われるが、今となっては多少無理をしてでも行っておけば良かったと思う。

 この後、フェリーはエリス島へ寄港しているが、エリス島移民博物館の見学も断念している。

 また次の機会に・・・そう自分に言い聞かせてそれっきり再訪していない場所が結構な数で存在する。
 【一期一会】とは人だけでなく、場所にも通じる言葉のような気がする。

 

 訪問から約1年後の2001年9月11日、NY同時多発テロが発生。多くの方々が亡くなられた。

 自分が訪問した地が想像も出来ないような大惨事に見舞われた時、ブラウン管に映る光景を信じることが出来なかった。

 今でも時々思う。あの時もしかしたら自分がそこにいたかもしれないのだと。

 亡くなられた方々の御冥福をお祈り申し上げます。



※関連する記事はこちらこちら

※地図はこちら

おまけ(その31) ANIMA

2013-01-17 23:55:55 | おまけ
(218)ニューヨーク②(アメリカ)のおまけ記事



 ANIMA の曲を紹介したい。
 ANIMA というアーティストについては詳細不明で動画も見つからなかったが、デヴィッド・アーカンストーン(アメリカのミュージシャン)が彼らの曲をカバーした動画が投稿されていたので紹介させて頂く。

 ちなみに購入した ANIMA のアルバム(“ ancient voices ”)は、かつてフォー・コーナーズに暮らしていた先住民達に捧げられたものらしい。

※フォー・コーナーズ…アメリカ西部にある、四つの州(ユタ州(北西)、コロラド州(北東)、ニューメキシコ州(南東)、アリゾナ州(南西))の境界線が集まった地域。

・ANIMA のカバー曲“ Dream Catcher ”(デヴィッド・アーカンストーン)こちら(動画は削除された模様)

・その他の ANIMA の動画はこちら



 また、先住民つながりで下記の曲も紹介させて頂きたい。

Sacred Spirit“ Yeha-Noha ( Wishes of Happiness & Prosperity )”こちら

(218)ニューヨーク②(アメリカ)

2013-01-10 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)に滞在中にジョージ・グスタフ・ヘイ・センター(国立アメリカン・インディアン博物館の別館)を訪問している(2004年に Washington, D.C.(ワシントンD.C.)に国立アメリカン・インディアン博物館が開館してから別館と呼ばれるようになったと思われ、当時はここが本館だった)。
 この建物はかつて税関として利用されていた重要文化財らしく、立派な建物の中にアラスカから南米までのアメリカ大陸の先住民の文化が紹介されていた。

 この旅最後の目的地イロコイ族の居留地について職員(高齢の女性で風貌から彼女もまた先住民の血を引くと思われた)に尋ねてみた。
 どこにいけばイロコイ族に会えるか情報が欲しかったのだが、彼女は一言「彼らは訪問を歓迎しない」と言う。理由について尋ねても歓迎しないと繰り返すのみで教えてくれなかった。



 この博物館で印象に残っているのはケヴィン・コスナー(俳優・映画監督)の協力によって提供されていた資料(先住民達の生活を記録した映像)だ。
 チェロキー族の血を引く彼は、自身が監督した映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』で、アカデミー賞最優秀作品賞最優秀監督賞を受賞している。

 また、ここで1枚のCDを購入している。ANIMA というバンドの“ ancient voices ”だ。先住民の音楽を現代風に表現したアルバムだった。

※ ANIMA のおまけ記事はこちら

 

 イロコイ族の居留地については、五大湖のほとりにあるという漠然とした情報以外、詳細が分からぬまま旅に出ていた(行けば分かるだろうという楽観的な考えだった)。
 不思議なことに、ニューヨーク滞在中に書店で手に入れた一冊の本によって目的地がはっきりと決まったのだった。
 その本のタイトルは『聖なる魂―現代アメリカ・インディアン指導者の半生』(朝日文庫)(デニス・バンクス森田ゆり共著)。この中にデニス・バンクスが Syracuse (シラキュース)(ニューヨーク州)郊外のオノンダガ国イロコイ族居留地(ネーション)に匿(かくま)ってもらったという記述がある。
 イロコイ族の居住地はアメリカ合衆国建国時の盟約により、現在も治外法権が認められている例外的な土地だそうだ。

※地図はこちら

(217)ワシントンD.C.(アメリカ)

2013-01-03 22:32:24 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)に滞在中に首都 Washington, D.C.(ワシントンD.C.)に出かけている。
 往復の移動手段には夜行バスを利用。グレイハウンド社バスパス(乗り放題チケット)(有効期間2週間のものを購入したと思う)を使用した。グレイハウンドのバスは低所得者層が利用するバスで、乗客はアフリカ系ヒスパニック系の人々が多い。バスはほぼ満席で熟睡は出来なかった。



 ワシントンD.C.は、アメリカ合衆国の東海岸、メリーランド州ヴァージニア州に挟まれたポトマック川の北岸に位置する(【ワシントンD.C.】とは、【ワシントン・コロンビア特別区】( Washington, District of Columbia )の省略形)。



 約4000年前からアナコスティア川(ポトマック川の支流)周辺の地域には先住民族が住んでいた。

 1608年、ジョン・スミス(1580年~1631年)(イギリスの軍人、船長、作家)がヨーロッパ人として初めてこの地域を探検した当時、ポトマック川北岸にはピスカタウェイ族(アルゴンキン語族)、南岸にはポウハタン族(アルゴンキン語族)が住んでいたが、その後次々とヨーロッパ人開拓者がやって来て、先住民達を西方に追いやってしまった。

 1790年に制定された合衆国首都設置法により、首都がポトマック川河畔に設置されることになった(詳細は合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(1732年~1799年)(任期1784年~1797年)が選定し、首都名は初代大統領にちなんで【ワシントン】と名付けられた)。

 1801年、コロンビア特別区基本法によりコロンビア特別区が編制された(【コロンビア】の名前は探検家クリストファー・コロンブス(1451年頃~1506年)に由来している)。

 米英戦争(1812年~1814年)の際、イギリス軍によってワシントンD.C.の街は焼け野原になったが、その後見事な復興を遂げた。

 現在は自国だけでなく世界の政治を牽引する都市であり、また多くの観光客が訪れる観光名所にもなっている。



 ワシントンD.C.で観光したのは下記の通り。

ホワイトハウス  言わずと知れたアメリカ合衆国首相官邸。ツアーに参加して内部見学が出来るはずだったが、訪問時には敷地内に入れなかった。ちなみにワシントンD.C.には、アメリカ合衆国三権機関(ホワイトハウス、連邦議会(議会議事堂)連邦最高裁判所が所在し連邦機関が集まっている。



フォード劇場  合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーン(1809年~1865年)(任期1861年~1865年)が暗殺された場所。フォード劇場博物館ではリンカーンの大統領就任から暗殺までを展示・解説している。

ペンタゴン(国防総省)  米国国防総省の本部。建物の形が五角形( Pentagon )をしている為ペンタゴンと呼ばれる。建物の構造上、どの場所からも徒歩7分以内に最も遠い地点に行くことが出来る。9.11アメリカ同時多発テロの際、建物の一部が破壊された。以後内部見学ツアーは廃止されてしまったようだが、訪問当時(2000年)にはツアーに参加することが出来た。印象に残った展示物として旅日記にメモしているのはB2爆撃機(ステルス戦闘機)と、Maxine McCaffrey が描いた絵画だ。

国立航空宇宙博物館  全米屈指の人気博物館。日本の零銭(零式艦上戦闘機)(【A6M5 ZERO】と表示)も展示されていた。

ナショナルギャラリー(国立絵画館)  13世紀から現代までの絵画や彫刻を中心に展示。市民の寄贈や寄付金で購入されたコレクションの総数は11万6000点に達する。時間が足りず全てを鑑賞することは出来なかった。


ホロコースト記念博物館  ホロコースト(ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺)をテーマにした博物館。ここで初めて杉原千畝(ちうね)(1900年~1986年)(【日本のシンドラーと呼ばれている)・幸子(ゆきこ)(1914年~2008年)夫妻のことを知った。第二次大戦中、リトアニアに外交官として赴任していた杉原千畝氏の手書きのビザ(約6000通)(【命のビザ】と呼ばれた)によって、多くのユダヤ人達がシベリア鉄道ユーラシア大陸を横断し、Vladivostok (ウラジオストク)(ロシア(当時はソビエト連邦))から日本を経由しアメリカなどの諸外国へと向かった。日本のビザ発給は日本国政府の命令に背いた彼の独断であるが、杉原千畝氏の信念により多くのユダヤ人達の命が救われた。

NASA(アメリカ航空宇宙局)  本部がワシントンD.C.にある。建物の前で記念撮影をしただけ。



 ワシントンD.C.に滞在したのは、残念ながら1日のみ。もっとじっくり見たかった場所だ。

※地図はこちら