Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(107)プロヴディフ(前編)(ブルガリア)

2010-08-19 23:58:50 | ブルガリア・ルーマニア
 バチコヴォ僧院で親子の男性達が話しかけてきた。
 父親の名はトニー、息子はアレクサンドルという。

 どこから来たのかという話になり、遠い国日本からよく来てくれたと歓迎してくれた。
 職業は何かと聞かれたので学生と答えた。美術大学で彫刻を専攻していると。
 そして Budapest (ブダペスト)(ハンガリー)で作った国際学生証を見せた。

 これは前回書いたように、長い説明や相手からの嫉妬を避ける為の方便だ。
 ところがいつもならああそうかで終わるのだが、今回は少し勝手が違った。

 「おお、これはまさしく神の思(おぼ)し召しだ。」

 そう言いながら、トニーがハグをしてきた。なんと彼は本物の彫刻家だったのだ。
 息子のアレクサンドルは弁護士で、他に美術大学に通う娘がいるらしい。

 澄んだ瞳をしたトニーの喜ぶ姿を見ると心が痛んだ。
 かと言って、いや実は・・・と前言を撤回するだけの勇気もなかった。

 実はこの日、離れて住む親子が久々に再会した日らしい。アレクサンドルはこれから更なる飛躍を迎えるにあたり父と再会したかったそうだ。
 


 そんなタイミングで出会った自分が彫刻専攻の学生ということで、偶然の一致とばかりトニーのテンションは高まったのだった。
 


 アレクサンドルと別れた後、トニーが私の友人を紹介したいと言った。
 ブルガリア第二の都市 Plovdiv (プロヴディフ)に彼の友人がいるらしい。

 どちらにせよプロヴディフに戻らなくてはならないので、彼に任せることにした。



 トニーから紹介された友人はごっつい体格をした男性だった。
 職業は警察官で、元オリンピック代表のボート選手だったらしい。

 トニーと三人で食事をしたのだが、正直この男性(元五輪選手)はかなり自分本位なところがあったように思える。
 
 たとえば、電話番号を教えてくれと言われたので紙に書いて渡すと、彼はいきなり携帯電話でその番号に電話をかけた。そして、話してみろと言う。
 電話に出た家族は眠そうな声で突然の電話に応対していた。時差があるので日本は夜中だったのだ。

 また、トニーが持参したイコンを見せると、1枚くれと強引に自分のものにしていたし、2軒目のレストラン(こちらはすでに満腹だったが、彼が行きたがった)では、若い女性グループを凝視していた。
 どうやら日本人の青年をダシにしてナンパしたいらしい。
 妻子持ちのこの男性、完全な肉食系だった。

 その隣で、こちらに対しトニーが申し訳なさそうな顔をしている。
 その意味を理解しながら、こちらは更に心を痛めていた。
 この時トニーと自分はお互いに相手に負い目を感じているという不思議な関係だったと思う。

 結局トニーが説得してナンパを断念させ、この男性との食事会はお開きになった。
 正直なところ2軒目を想定していなかったので、2軒目の店では満腹でほとんど口に出来なかった。
 それでも食事をおごってもらい、その後泊めてもらったのだから感謝したい。ここで言いたかったのは、この男性への非難ではなく、それよりもひどいことをしているという罪悪感が自分にあったことだ。
 


 翌日トニーが、ここから列車で2時間半離れた Simeonovegrad (シメオノヴグラッド)へ立ち寄って行けと言う。彼の家がそこにあるらしい。

 お詫びの言葉を言わなければならないという思いもあり、彼の誘いに従うことにした。
 どこかのタイミングでお詫びをしなければならない。



 トニーの家に着くと、昔娘さんが使っていた部屋を貸してくれた。そこには壁に直接描いた絵があった。娘さんはトニーから芸術的才能を受け継いだのだろう。
 トニーの奥さんはすでに亡くなっているらしく、二人の子供達は親元を離れて暮らしている。トニーは一人で寂しく暮らしているらしかった。それだけに突然の来訪者が嬉しかったのだと思う。



 翌朝、車で20分位離れた街に住むトニーの母親の元を訪れた。彼女の作ってくれたパンケーキが美味しかったのを覚えている。



 ちなみにこの街に住む人々の平均月収は約$50らしい。仕事が少ないようだ。



 その後、トニーの仕事場に案内された。正直現在仕事をしているようには見えなかった。不況で売れないのかもしれない。
 彼の作品を見せてもらった後、彼からビジネスの話を持ちかけられた。イコン1枚$30で50枚ほど買わないかと言う。
 学生だからお金が無いとここでも学生を名乗ってしまった。学生という立場は言い訳に便利なのだ。もう実は学生ではないと言えなくなってしまった。

 その後、彫刻刀を渡され君も彫ってみてくれと言われた。一番恐れていた瞬間だった。
 彫る真似だけして彫刻刀を返したのだが、手つきを見れば素人だと分かるだろう。

 今までの自分の態度(自分は嘘が下手なのでずっと心苦しそうにしていたと思う)と、この時の手つきから、トニーは真相が分かったのだと思う。とても優しい慈愛の眼差しになった。



 そこから駅まで送ってもらい、トニーとハグをして別れた。

 プロヴディフ行きの列車でトニーの眼差しは赦しの眼差しだったことに気付いた。
 心の中で詫び続けた自分に対し、彼は無言で許してくれたのだと思う。

 嘘をつくならつき通せと誰かが言っていたが、結局今までトニーにきちんと懺悔(ざんげ)をしていない。
 彼は今どうしているだろう。



 トニー、どうもありがとう。そして、ごめんなさい。



 この嘘は一生本人につき通す嘘になるだろう。どんな嘘であれ、嘘というのは墓場まで持っていく位の覚悟が必要だと感じた出来事だった。



 (追記)

 2011年3月18日、実家から連絡があった。「ブルガリアのトニーさんから電話が来た」とのことだった。
 東北地方太平洋沖地震とその後の福島第一原発事故のニュースを知って心配してくれたのだろう。
 十年以上音信不通だったにもかかわらず、昔出会った旅人のことをきちんと覚えてくれていて心配の電話をかけてくれたのだ。
 たくさんの元気をもらったと思う。

 こちらから電話をかけてみたが、教わった電話番号は通じなかった。メールや手紙も送ってみたが返事は来ていない。

 しかし彼に届いて欲しい。心から感謝していると。



※地図はこちら