Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(182)ヴェネツィア⑤(イタリア)

2012-03-15 23:49:15 | イタリア
 Limini (リミニ)の街に到着後、列車に乗り換えた。
 次の目的地は Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))だ。
 まず Bologna (ボローニャ)まで行き、乗り換えてヴェネツィアへ。乗り換え時間含め確か2~3時間だったと思う。

 夕方16時頃に到着後、Belgrad ( Beograd )(ベオグラード)(セルビア)行きの夜行列車のチケットを購入し、サン・マルコ広場に出掛けた。
 5ヶ月ぶりのヴェネツィアの街は暑く、少し水が臭った。夏だから仕方ないのだろう。

 この後夕食を取り、夜行列車に乗り込んだ。



 イタリア入国後、ここまで4日間で忙(せわ)しなく駆け抜けたのだが、そのハードな移動の代償は決して小さなものではなかったと思う。
 疲労がたまり、注意力が散漫になった挙句、大小様々なミスを犯した(リミニからヴェネツィアに行く間にも痛い目にあっている)。
 イタリアという国のシステムに慣れていなかったこともあるが、他の先進国並みのサービスを前提としていたことに間違いがあったような気がする。より注意深く気をつけていなければいけなかったのだ。
 何より一番の問題点は、イタリアのリズムに合っていない旅の仕方だったということだろう。イタリアという国の時の流れに身を任せるべきだったのだと思う。



 しかし、だからと言ってイタリアに対して悪い感情を抱いているわけではない。

 この旅を通じて心がけていたことだが、その土地を発ち去る前に必ず感謝の気持ちを置いてきていた。
 感謝できないままにしておくと、その後感情的しこりになってしまうと考えたからだ。

 おかげさまで全てが良い思い出になっているし、この旅を通じて(強盗などの)危険な目に一度も遭わずに済んだ(ラッキーだったと思う)。

※地図はこちら



 (追記)

 2012年5月20日にボローニャ近郊で地震が発生した。
 多くの方が被災し死傷者も出た模様。
 亡くなられた方のご冥福を祈ると共に、一日も早い復旧を願っています。

(180)フィレンツェ(イタリア)

2012-02-23 23:55:55 | イタリア
 慌てていたせいか、Roma (ローマ)発の急行切符を持っていたにもかかわらず、各駅停車に乗車してしまった。
 一番早く発車する Firenze (フィレンツェ)方面行きの列車に飛び乗ってしまったことが原因だ。

 正確な時間は覚えていないが、2~3時間でフィレンツェに到着。午後の2~3時頃になっていたと思う。
 フィレンツェ滞在は1泊の予定だったので、とにかく駆け足で観光することにした(時間が足りなかった場合は、連泊することも考えた)。



 街の名前は、古代ローマ時代に【フロレンティア】(花の女神フローラの街)と名付けられたことに由来する。
 フィレンツェは古代にエトルリア人によって建設された。
 紀元前59年にローマ植民都市となり、12世紀には自治都市となった。その後、フィレンツェ共和国(1115年~1532年)の首都として栄えた。
 15世紀になると実質的にメディチ家がこの国を支配する。莫大な富と権力を手にしたメディチ家に多数の芸術家達が恩恵を受けた。
 フィレンツェの街は、(サンドロ・)ボッティチェッリ(1445年~1510年)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)、ミケランジェロ(・ブオナローティ)(1475年~1564年)、ラファエロ(・サンティ)(1483年~1520年)などの巨匠が活躍するルネサンスの中心地となって栄えた。



 フィレンツェで観光したのは下記の通り。わずか3~4時間程の駆け足の観光だった。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(世界遺産)   フィレンツェのシンボル。【花の聖母マリア】の名前を持つ大聖堂。アルノルフォ・ディ・カンピオ(1245年頃~1302年(1310年)頃)の設計により1296年から建築が始まり、170年以上の歳月をかけて完成した為、ゴシック、初期のルネサンス、ネオ・ゴシック様式が混在する。世界最大の石積みドームでもある。ドゥオーモ(大聖堂)サン・ジョヴァンニ洗礼堂ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。洗礼堂の【天国の扉】(ロレンツォ・ギベルティ(1381年頃~1455年)作)が印象に残っている。

 (ドゥオーモ)



 (ジョットの鐘楼)



ヴェッキオ宮殿(世界遺産)  14世紀の始めにフィレンツェ共和国の政庁舎として建築され、メディチ家もここを住居としていた時期がある。現在は市庁舎として使用されている。塔の高さは94m。

ヴェッキオ橋  アルノ川にかかるフィレンツェ最古の橋。橋の内部には宝石店が並ぶ。旅人の噂話では、めがね橋のような形状は、映画『魔女の宅急便』(宮崎駿監督)にも登場するらしく、この橋がモデルになったとか(真偽の程は不明)。



ピッティ宮殿(世界遺産)  アルノ川西岸にあるルネサンス様式の広大な宮殿。トスカーナ大公の宮殿として使用された。メディチ家を中心として収集された絵画や宝飾品のコレクションは、現在ピッティ美術館として一般に開放されている。ここで彫刻家安田侃(かん)氏の作品展について知った。どうやらフィレンツェの街を展示場にした作品展だったらしい(安田侃氏のHPはこちら)。

サンタ・クローチェ教会(世界遺産)  14世紀後半に完成した世界最大のフランシスコ会の教会(ゴシック様式)。フランシスコ会の創始者であるアッシジのフランチェスコ(1182年~1226年)自身によって建てられたという伝承がある。堂内にはミケランジェロやガリレオ(・ガリレイ)(ユリウス暦1564年~グレゴリオ暦1642年)、(ジョアキーノ・アントーニオ・)ロッシーニ(1792年~ 1868年)(作曲家)、(ニッコロ・)マキャヴェリ(1469年~1527年)(政治思想家)など276の墓が納められている。



※アッシジのフランチェスコのおまけ記事はこちら

サン・ミニアート・アル・モンテ教会  ミケランジェロが【美しい田舎娘】と形容した美しい教会(ロマネスク様式)

 移動は小走りというせわしない観光をしたせいか、心から街の美しさを堪能できたとは言い難い。本来は心穏やかに巡るべき街だと思う。
 それでも、ウフィツィ美術館ボーボリ庭園といった世界遺産を見る時間は取れなかった。



 自分の心が穏やかでなかったからなのか、それとも単に安宿だったからなのか、あるいは自分が東洋人だからなのか、ホテルの接客対応が良くないと感じていた。
 そんなこともあり、宿を変えてもう1泊するか迷っていたのだが、観光の最後に再びドゥオーモを訪れ、心穏やかに祈りを捧げた時、明日もう1日観光をするよりも先に進もうという気持ちになった。

 再び訪れた時に、ゆっくりこの街の美しさを味わえばいい。
 そう心に決めて、翌朝に次の目的地 San Marino サン・マリノ(サン・マリノ)に向けて出発した。

※地図はこちら

(179)ローマ(イタリア)(後編)

2012-02-16 23:34:34 | イタリア
 Roma (ローマ)滞在3日目の朝、慌ただしいローマ滞在だったが、とにかく先へ進むことにした。次の目的地は Firenze (フィレンツェ)だ。
 前日にトーマス・クック時刻表を購入したので、今後はヨーロッパの国際列車を活用しやすくなる。

 ローマ・テルミニ駅で切符を購入し、プラットホームに停車している列車(始発列車)に乗り込んだ。
 車両は全てコンパートメント席だった。部屋には他に誰もいない(今までこういうケースは寝台車気分で一眠りしていた)。今回も気持ち良く眠れそうだ。



 さすがイタリアらしく列車はなかなか出発しなかった。出発時間を40分ほど過ぎたところでようやく発車した。

 発車しておかしいと気付いたのは5~10分ほど経ってから。列車のスピードが上がらないのだ。徐行運転という感じだ。
 そのうち停車している多数の車両が見えてきた。車庫に向かっているようだ。
 どうやら回送列車に乗車してしまったらしい。他のコンパートメントを見ると誰一人乗客はいなかった。
 後で聞いたのだが、イタリアでは発車前に車両と乗り場(プラットホーム)が変更になることがあるらしい。
 その場合、発車時刻案内板でのお知らせ構内アナウンスがあるらしいのだが、イタリア語だった為気付かなかったのだろう。



 車庫に停車後、線路に降りると車両整備士のおっちゃん達がいた(おっちゃんという表現が一番しっくりくる)。
 彼らはこちらの姿を見つけると、満面の笑みで話しかけてきた。
 言葉は通じないが、おそらくこう言っていたのだと思う。

 「あんちゃん、やっちまったなー」

 おっちゃん達の一人がトラムのチケットをくれた。これでテルミニ駅に戻れということなのだろう。

 しばらく歩くとトラム乗り場を発見したが、運の悪いことに交通事故が発生してトラムが動いていなかったので、仕方なく歩いてテルミニ駅まで戻った。

 今振り返ると、ローマで見ておくべきものがあったということなのかもしれないと思うが、当時は先を急いでいたので、テルミニ駅に戻ってすぐに次の列車に乗車した。

※地図はこちら

(177)ローマ(イタリア)(前編)

2012-02-02 23:55:55 | イタリア
 イタリアの首都 Roma (ローマ)に到着したのは早朝だった(ローマ・テルミニ駅着)。

 「全ての道はローマに通ず」の言葉通り、ここまでやって来れた(ここはシルクロード終着点でもある)。
 ローマを形容する言葉や諺が思い浮かぶ。【永遠の都】ローマ、「ローマは一日にして成らず」・・・。



 人類史初めての世界帝国、ローマ。この地はそのローマ帝国の首都だった。
 紀元前8、9世紀頃に北から移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したのがこの街の始まりと考えられている。
 伝説によれば、ローマは紀元前753年にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスレムスにより建てられたということになっている。
 その後世界史の中心として隆盛を誇り、帝国が滅んだ現在でも様々な国にその影響を遺している。

※たとえばイタリアとルーマニアの国歌には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分がある(ルーマニアの国名は【ローマ人の国】という意味である)。



 ローマには2泊しかしていないが、精力的に観光している。観光したのは下記の通り。

ヴェネツィア広場  旧市街の中心に位置する広場。奥にヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂がある。ここでイタリア大統領カルロ・アツェリオ・チャンピ氏(1920年~)(在位1999年~2006年)を見かけた(イタリアの大統領は象徴的元首)。広場に面したヴェネツィア宮殿(博物館)は当時閉まっていた。

 (写真は、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂)



フォロ・ロマーノ(世界遺産)  古代ローマの中心部【フォルム・ロマヌム】の遺跡。首都に開設された最初のフォルム(【フォーラム】の語源)と呼ばれる公共広場で、政治・経済・宗教の中心地だった。広さは東西約300m、南北約100m。

コロッセオ(世界遺産)  9代皇帝(ティトゥス・フラウィウス・)ウェスパシアヌス帝(9年~79年)(在位69年~79年)の命で72年に建設開始。完成したのは息子の10代皇帝ティトゥス(・フラウィウス・ウェスパシアヌス)帝(39年~81年)(在位79年~81年)の時代。当時は【フラヴィオの円形劇場】(周囲527m、高さ57m)と呼ばれ、5万人収容できたらしい。今までシリアやヨルダンで見て来た円形劇場より大きく迫力があった。

コンスタンティヌスの凱旋門(世界遺産)  高さ28m。315年にミルヴィオ橋の戦いにおける勝利の記念に建設された。

サン・クレメンテ教会  4代ローマ教皇に列せられている聖者クレメンス1世( ?~101年?)(在位91年?~101年?)に捧げられた教会。4世紀に建てられた。

サン・ピエトロ・イン・ヴィンゴリ教会  5世紀に建てられ、15世紀に再建された教会。聖ペテロJerusalem (エルサレム)と Mamertino (マメルティーノ)(イタリア)で牢につながれていたときの鎖(ヴィンコリ)を祀っている。ミケランジェロ(・ブオナローティ)(1475年~1564年)作のモーゼ像があることでも有名。

トレヴィの泉  紀元前19年、古代ローマ初代皇帝アウグストゥス(紀元前63年~ 紀元14年)(在位、紀元前27年~紀元14年)の命で娘婿(マルクス・ウィプサニウス・)アグリッパ(紀元前63年~紀元前12年に作らせた水道がその起源。ヴェルジネ水道(【乙女の水道】の意)と呼ばれた水道の終端施設としての泉が場所を替えた後、今の位置になった。現在の泉は建築家ニコラ・サルヴィ(1697年~1751年)の設計で再建築され、彼の没後の1762年に完成したもの。「ローマへもう一度戻りたいと願うならば後ろ向きにコインを(1枚)投げ入れよ」という言い伝えがある。真実の口に手を入れるのと同様、コインを投げるとローマに来た!!という気分を味わえる。



スペイン広場  スペイン大使館が近くにある為この名称になった。広場の中央にある【バルカッチャ(舟)の噴水】の建築者、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598年~1680年)は、バロック芸術(16世紀末~17世紀初頭)を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家で、「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と言われている。東には映画『ローマの休日』のワンシーンで有名な【スペイン階段】(トリニタ・デイ・モンティ教会へと続くことから正式名称は【トリニタ・デイ・モンティ階段】)がある。この階段はフランチェスコ・ディ・サンクティス(1817年~1883年)の設計で、1725年に完成した。

ナヴォーナ広場  紀元1世紀に11代皇帝ドミティアヌス帝(51年~96年)(在位81年~96年)が造らせた競技場が元になっている。噴水で有名(ネプチューンの噴水(北)、四大河の噴水(中央)、ムーア人の噴水(南))。ここで鳩と戯れた。

パンテオン  【パンテオン】(全ての神々の)という名前の通り、神々に捧げられた神殿。世界最大の石造建築(直径・高さともに43.3m)であると同時に、ローマ建築の最も完全な遺構でもある。最初のパンテオンは紀元前25年頃にアグリッパによって建設されたが80年に火災で焼失した。現存するのは2代目のパンテオンで118~128年に 14代皇帝(プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・)ハドリアヌス帝(76年~138年)(在位117年~138年)によって再建されたもの。ルネサンスの代表画家・建築家ラファエロ・サンテ(1483年~ 1520年)の墓がある。



サンタ・マリア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会  通称骸骨寺【カプチーノ】の由来(由来は修道服の色など諸説あり)にもなったカプチン派の枢機卿アントニオ・(マルチェロ・)バルベリーニ(1569年~1646 年)の命により1626年に創設された。約4000体の修道僧の骨が納められている。夕方になってからこの教会を訪れた為、ちょっとした肝試しになってしまった。ちなみに地動説を唱えたガリレオ・ガリレイ(ユリウス暦1564年~グレゴリオ暦1642年)を非難した、ガリレオの元親友235代ローマ教皇ウルバヌス8世(1568年~1644年)はバルベリーニの兄である。

真実の口(サンタ・マリア・イン・コスメディン教会)  6世紀に建てられ、その後何度か改修された。教会の正面柱廊奥に真実の口がある。海神トリトーネの顔が刻まれているが、元々は下水溝のマンホールの蓋だったとか。「偽りの心を持つ者(嘘を言った者)が口に手を入れると抜けなくなる」という言い伝えがある。おそらくほとんどの人が大丈夫だと知りつつもちょっとドキドキしながら手を入れるのではないだろうか。



 以上が2日間の観光の記録だ。
 他にもいろいろ見どころはあるし、世界遺産も全て見ていない。
 国立パスタ博物館や、当時開催されていたダリ展などは断腸の思いで諦めた。

 もっと滞在しても良かったのではないかと今なら思うが、当時は先へと急ぐ気持ちが強かった。
 おそらくローマの街の持つ人とお金のエネルギーに負けていたのだと思う。あまりにも人が多かったし、経済的にも余裕が無かったからだ。

 橋の彫刻一つをとってみてもそこに深い歴史を感じたローマ。
 いつかまた行ってみたい。その為に泉にコインを投げたのだから。

※地図はこちら

(176)モナコ(モナコ)~ニース(フランス)~ローマ(イタリア)

2012-01-26 23:55:55 | イタリア
 昼過ぎに Monaco (モナコ)を発ち、一旦 Nice (ニース)(フランス)へ戻った。



 ニースの街は紀元前5世紀頃ギリシャ人によって建設され、古代には交易植民都市ニカイアとして知られていた。
 紀元前154年にローマ人に占領された後は支配者が何度も代わっている為、様々な文化を融合したエキゾチックな雰囲気が残っている街だ。



 ニース・ヴィル駅Roma (ローマ)(イタリア)までの夜行列車の切符を購入した後、街を散策することにした。
 最初に向かったシャガール美術館が休館していた為、バスで旧市街へと向かった(2007年末からトラムが開通した模様)。

 海岸(浜辺)のそばのレストランやカフェは観光客でごった返していた。まるで夏の熱海のようだ。
 モナコのビーチとは雰囲気が違う。観光客のテンションが高すぎる為、みんなお上(のぼ)りさんに見えた(高級リゾート地域に入れば雰囲気は変わるのだろう)。
 南仏の白い砂浜をイメージしていたが、思ったほど白くなかったということもあり、食事を済ませた後に喧騒を離れることにした。
 夜行列車の出発時刻は夕方だったので、歩いて駅まで戻ればちょうどいい時間に着くだろう。しかし、結果的にはこれが失敗だった。

 街の地図ガイドブックも持っていなかったので、路線バスのルートを戻ろうと考えていた(バスルートは感覚的に4km位だったが、今地図を見たところ駅から旧市街まで最短距離だと約1.5km)。 
 しかし、行きのバスのルートは随分と迂回していたらしく、いつまで歩いても駅に着かない。そのうちに痺れを切らして他のルートを歩き出した挙句(あげく)道に迷ってしまい、駅に辿りついたのは列車が発った後だった。

 自分の失敗に腹が立ったが、すぐに次の手を考えなくてはならない。
 駅の切符売り場には長蛇の列が出来ていた為、並んで再び切符を買うと更に出発が遅れてしまう。
 時刻表を見ると、乗り遅れた列車の1時間後にローマ行きの列車があったのでそれに乗ることにした。
 切符は前の列車のものだが、同じ2等客車なので大丈夫だろう。
 もし罰金・追加料金を払わされたらそれはそれで仕方のないことだ。



 発車後の車中ですっかり眠ってしまい、イタリアとの国境付近でイタリア人車掌に起こされた。
 切符を見せると何か言っている。英語が話せないようだが、言いたいことはなんとなく分かった。

 「この切符は1本前の列車のものだぞ」(車掌談)

 しかし本当にそう言っているかは分からない。こちらの勝手な想像なのだ。
 なにせ言葉が通じないのは厄介だ。

 これからどうなるのだろうと車掌と見つめ合っていると、諦めたように車掌が首をクイッと傾けた。
 「やれやれだ」という感じで。
 そしてそのまま出て行った。
 このおおらかさというかいい加減さがイタリアっぽいと思った。



 ほっと一息ついて窓の外を見た。
 そこに広がるのは月に照らされた地中海。とても幻想的な光景だ。

※地図はこちら

(95)ヴェネツィア④(イタリア)

2010-06-13 02:30:16 | イタリア
 Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))滞在三日目。

 今日のメインイベントは、ACヴェネツィア(現在の FBCユニオーネ・ヴェネツィア)とユヴェントスF.C.の試合だ。
 当日券は売り切れの為、ダフ屋を探して手に入れるしか方法はない。何とかダフ屋を探し出して当日券を手に入れた(ゴール裏の席で約3000円)。



 スタジアムの選手入場口で大野さん(仮名)と選手が到着するのを待っていると、モトスカーフィ(水上タクシー)に乗って選手が続々やって来た。まず最初にユヴェントスの選手達が到着した。

 (写真中央の人物は、ジネディーヌ・ジダン氏(元フランス代表))



 選手達は目と鼻の先だ(5~10m位)。そばにいた日本人の若い女性達が黄色い声で叫ぶ。キャーという声が響いた。

 「インザギー!!」(フィリッポ・インザーギ選手(現 ACミラン)(元イタリア代表))
 「デルピエロー!!」(アレッサンドロ・デル・ピエロ選手)(元イタリア代表))

 次に到着したのはヴェネツィアの選手達だ。

 名波浩さん(元日本代表)はチームメイトと一緒ではなく、一人で登場した(チームスタッフと一緒だったかもしれない)。
 Sarajevo (サラエヴォ)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)の日本大使館で読んだ新聞に名波さんのセリエA初ゴールの記事があったが、言葉も文化も違う異国の地で活躍するのは本当に大変なことだと思う。
 
 彼のその背中が全てを物語っていた。さっきまでユヴェントスのイケメン選手達に黄色い声で声援を送っていた女の子達も何も言葉を発しなかった。
 もうちょっと離れたところにいれば、遠くから何か声援を送れたかもしれない。
 だが正直言って、必死に戦っている人を目の前にしてかけられる言葉は何もなかった。
 もし自分が普段から名波さんの熱烈な大ファンで、いつも一生懸命応援していたならば、声援を贈る権利があったかもしれない。同じ苦しみを分かちあえる同志として。

 サッカー後進国から来た日本人選手が、チームメイトに受け入れてもらう為には、レベル2つ位の実力差を見せるか、抜群のコミュニケーション力で打ち解けるしかないと思う。それ位ハードルが高いのではないだろうか。

※名波さんはこの経験をバネにして、日本代表が優勝した2000年のアジアカップ(レバノン大会)で大会MVPを獲得している。



 スタジアムに入ると、席は仮設スタンドだった。設備的にも十分ではないと感じた。
 余談になるが、このクラブは昨年経営が破綻(はたん)してしまい、2009-10シーズンセリエDからの再スタートとなっている。



 練習風景で覚えていること。

 まず、エドガー・スティーヴン・ダーヴィッツ氏(元オランダ代表)の体のキレが凄かったのを覚えている。ゴールポストにひたすら張り手をしていた。相撲でいう鉄砲だ。

 ジダンとデルピエロがパス交換をしていたのも覚えている。
 ジダンはどんなボールでもピタリとトラップしていたが、デルピエロは3回ほどトラップミスをして後ろにボールを取りに行っていた。
 おそらく、ジダンの吸いつくようなトラップに対抗心を燃やしていたのではないかと思う。完璧さを求めなければ、普通にトラップできるようなパスだったからだ。
 
 (写真中央やや下の位置に写っているのがジダン)



 試合が始まると、戦前の予想通りユヴェントスの一方的な試合となった。選手のレベルが違う。
 ヴェネツィアでは、名波さんが一番上手い。キープ力があるのでボールを取られないが、味方のサポートが少ない為、結果的に相手のファールを誘うプレーが多かった。

 試合は4-0でユヴェントスが勝利した。インザーギがハットトリックを達成したゲームだ。



 試合後、ユヴェントスファンがスタジアムに残って「セリエB」と大合唱していた。
 拳(こぶし)を突き出して親指を下に向けている。完全にヴェネツィアを小馬鹿にしていた。
 近くに美しいイタリア人女性がいたのだが、その綺麗なお姉さんまでも子供みたいに「セリエB」と連呼しているのを見て、興ざめしたのを覚えている。

※結局1999-2000シーズンで18チーム中16位だったヴェネツィアは、セリエBに降格になってしまった。



 滞在四日目。この日は、大野さんと街を散策しており、たまたま見かけたドイツの写真家 Jan Kobel の写真展を見学している( Jan Kobel のHP(ドイツ語)はこちら)。

 そしてこの日の夜行列車で Budapest (ブダペスト)(ハンガリー)へ向かうことになっていた。楽しい時間はあっという間に過ぎるものだ。

 本当に大野さんにはお世話になったと思う。そして何よりもその人間性に感銘を受けた。
 年齢は自分の方が上だったが、人間的には彼の方がずっと大人だと感じた。

 駅まで見送ってくれた大野さんに心からお礼を言って、夜行列車に乗り込んだ(大野さんは現在も異国の地で頑張っておられる)。



※地図はこちら

(94)ヴェネツィア③(イタリア)

2010-06-12 20:14:45 | イタリア


 Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))滞在二日目に道に迷った際、一人の旅人に出会った。
 
 前述の BONO (U2)も道に迷ったそうだが、ヴェネツィアは道が複雑に入り組んでおり、突然進路を断たれることがよくあった。運河(水路)が行く手を阻(はば)むのだ。



 特にガイドブックの類(たぐい)を持っていたわけではなく、頼りになるのはツーリスト・インフォメーションでもらった地図だけだった。 とは言うものの、いちいち地図を見ながら歩くのは面倒くさかったし、今まで自分の勘で切り抜けてきたという自負みたいなものがあった。
 しかしこの街では自分の勘は頼りにならず、結果的に自分が今どこにいるのかさえ分からなくなってしまった。

 そんな時前方にいる一人の旅行者が目に留(と)まった。手には『地球の歩き方』を持っている。これは渡りに船とばかり、早速声をかけた。
 しかし、何と彼もまた道に迷っていたのだった。

 彼の名は大野さん(仮名)といい、スイスでフレンチのシェフをされているらしい。休暇を利用して小旅行に来たらしいのだが、異国を旅するのは初めてだそうだ。

 長期旅行者に初めて出会ったらしく、こちらに興味を持たれたようだった。
 いろいろ話をしているうちに意気投合して、一緒にムラーノ島へ観光に行ったりしている。



 夕方になり、夕食の時間が近づいてきた。
 「どこかで食事をしませんか。」と言うと、「是非私の作った食事を食べて下さい。」とのこと。こんなに嬉しい提案はない。早速食材を買出しに行くことにした。

 八百屋に着くと、大野さんはフランス語で会話を始めた。イタリア語とフランス語はもともとラテン語から派生した言語なので、通じる部分もあるようだ。
 とそこに、近所のおじさんが入ってきた。
 「 Buongiorno (ボンジョールノ)(こんにちは)と元気よい挨拶をするこのおじさんは、とてもダンディーだった。
 この時、イタリアのファッションのレベルの高さを肌で感じたように思う。この位のお洒落は一般的なのだ。観光地ということを差し引いても、そこに文化の深さを感じた。

 八百屋で野菜を買い、他のお店で肉とワインを購入した。
 しかも、代金は全て大野さんが払ってくれた。「お金を払います。」と言っても彼は聞き入れなかった。
 「そのお金で旅を長く続けて下さい。」と彼は言う。
 結局大野さんの好意に甘えさせてもらった。



 ペンションに戻り、食事を作ることになったのだが、何も手伝わなくていいとのこと(もし手伝ったとしてもかえって足手まといになるだけだっただろう)。
 それにしても手際(てぎわ)がいい。普段作っている量に比べれば2人分など朝飯前なのだろう。

 今となっては料理の写真を残しておかなかったことが悔やまれる
 サラダから始まりメインディッシュまで、この旅で一番美味しい食事を頂いたと思う。
 実はこの時食べたトマトのサラダがとても美味しかったおかげで、嫌いだったトマトが食べられるようになった。トマトがこんなにも美味しい食べ物だとこの時初めて知ったような気がする。

 買出しの帰りの光景として覚えている場面がある。
 とあるレストランの前を通り過ぎた時、中に日本人男性と思われる旅行者がいた。食事が出されるのを待っているらしい。特に何もすることなく寂しそうにしていた。
 それはまるで昨日の自分の姿だった。

 食事は単なる栄養補給ではなく、人生を楽しくするものなのだろう。
 楽しい食事が出来た時は本当に幸せを感じる。

 そして、美味しい料理を作る根底にあるのは、食べてもらう人に喜んでもらいたいという気持ちだと思う。大野さんは謙虚な方だがサービス精神旺盛で、料理は愛情だということを身を持って体現されている方だ。



 食事を終え、ワインを飲んでほろ酔い加減になった大野さんが、突然持って来たギターで流したいと言い出した。
 こちらはギターを弾けないのであまり役には立てないが、とにかくやってみることになった。
 しかし、いざ街中に出ると、結構恥ずかしいようだ。人の多いところではなく、静かな公園で落ち着くことになった。
 持って来たギターケースに少額の小銭を入れ、大野さんはギターを弾き始めた。

 彼はクラシックギターを習っていたらしく、弾き始めたのは『愛のロマンス』(スペイン民謡、映画『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督)の主題歌)だった。他には、『スタンド・バイ・ミー』ビートルズの楽曲など。
 観客はいない。たまに通行人がいる位だ。酔っ払った若者がニルヴァーナの曲を弾いてくれと言ってきたりしたが、出来ないと断った。
 それでもコインを投げ入れてくれる人はいた。大野さんはとても気分よい時間を過ごせたようだ。



 その後宿に戻り、大野さんも同じペンションに泊まることになった。すでに他のホテルの部屋を借りていたが、こちらのペンションに空き部屋があったので借りることにしたのだ。



 翌日、一緒に ACヴェネツィア(現在の FBCユニオーネ・ヴェネツィア)とユヴェントスF.C.の試合を見に行くことになった。縁とは不思議なものだとつくづく思う。



 (写真は、ペンションで撮影したトイレ(外は運河)。下水がどこに流れるのか気になった。)



※地図はこちら

(93)ヴェネツィア②(イタリア)

2010-06-10 23:11:20 | イタリア
 【水の都】 Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))は、街全体が世界遺産に登録されている(登録物件名は【ヴェネツィアとその潟(かた))。
 ヴェネツィア共和国(697年~1797年)の首都として盛えたこの街は、他にも【アドリア海の女王】【アドリア海の真珠】など、様々な呼び方をされている。
 


 この街で観光したのは下記の通り。

サン・マルコ広場  ヴェネツィアといえばまずここを思い浮かべる。しばし水没する為、地球温暖化の影響が懸念されている。ここから運河へ向かう途中にある小広場の名称はサン・マルコ小広場となる。

サン・マルコ寺院  サン・マルコ広場に面した寺院でヴェネツィアのシンボル。街の守護聖人である聖マルコ(新約聖書マルコ伝の著者)の遺体を祀(まつ)る為、9世紀に建てられた(ロマネスク・ビザンチン建築)



ドゥカーレ宮殿  サン・マルコ寺院の隣にあり、かつてのヴェネツィア共和国の総督の居城。3階には世界最大の油絵と言われる『天国』(ティントレット( Tintoretto )( 1518年~1594年)作)がある。  

 (写真はドゥカーレ宮殿の門、羽の生えたライオンは聖マルコのシンボル=ヴェネチアのシンボルとなっている)



鐘楼  サン・マルコ小広場に面しており、高さは96.8mある。 エレベーターで上まで昇れる。1912年に再建された。



嘆き(溜息)の橋  ドゥカーレ宮殿から新牢獄へとかかる橋(16世紀に造られた)。外観は大理石で造られている。



コッレール博物館  サン・マルコ寺院の対面にある。14~18世紀のヴェネツィアの調度品や美術品を展示している。

アカデミア美術館  14~18世紀のヴェネツィア派絵画を数多く展示している。本来なら、大きな見どころの一つなのだが、中世の宗教画にあまり興味が無い為、さらっと見ただけで済ませてしまった。

アカデミア橋  大運河にかかる3つの橋の中で唯一の木製橋。ここからサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会が見える(著名な画家の絵の構図にもなっていたと思うが作者を忘れてしまった)。



・サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会  ヴェネツィアの建築家バルダッサーレ・ロンゲーナ( Baldassarre Longhena )(1598年~1682年)により建てられた教会(ヴェネツィアン・バロック様式)。当時流行していたペストが終焉したことを聖母マリアに感謝する為に建立されたらしい。

リアルト橋  大運河にかかる3つの橋の中で最大(長さ48m、幅22.1m)。最初の木造製の橋は壊れてしまい、アントニオ・ダ・ポンテの設計により大理石製にかけ替えられた(1592年完成)。橋の上にはみやげ物屋が並ぶ。

ムラーノ島  ガラス博物館があった。古代の異国のガラス製品も展示していた。ヴェネチアングラスの製造が始まったのは13世紀で、マエストロ(グラス職人)は島外に出られなかったらしい(技術の流出防止と火事対策の為)。

サン・ミケーレ島  広大な墓地があった。



 他にもいろいろ街を散策したと思うが、旅日記にメモしてあるのはこれ位だ。

 当時は世界三大カーニバルの一つと言われるヴェネツィアのカーニバルの開催前で、少しずつ盛り上がりを見せ始めたところだった。
 街にはカーニバルで被る仮面を販売しているお店をよく見かけた。





(写真は仮装した地元の若者たち)



 この街には大勢の観光客が訪れており、みな楽しそうだ。正直自分も誰かとその楽しみを分かち合いたかった。
 夜レストランに入ると特にそれを強く感じた。今まで幾度となく一人の食事をしてきても寂しいと思ったことはなかったが、ここでは堪(こた)えた。
 
 食事を待ちながら旅日記を書いていると、ウェイターの若者が話しかけてきた。どうやら日本の女の子に話しかける口説き文句を教えて欲しいらしい。I LOVE YOU.を日本語で何と言うのか等いろいろ聞かれた。
 
 昔インドを旅した時に、自称ガイドを名乗る胡散(うさん)臭い男が「俺は評判のいいガイドだ」と言って日本語で書かれた紙を見せてくれたことがある。
 そこにはお礼の言葉ではなく「この人危険です。騙されないで下さい。怪しまれないようにさりげなく断って下さい。」と書かれていた。

 思わずそのことを思い出して、日本人女性に嫌がられる言葉を教えようと一瞬思ったが、結局ちゃんと教えてあげた。この街で日本人女性に声をかけるのは彼一人ではないだろうし、女性の方も出会いを求めて来ているかもしれないからだ。

 前述の鐘楼のエレベーターに乗った時の話に戻るが、そこには自分と卒業旅行で来たと思われる日本人女性3人とエレベーターボーイしかいなかった。
 3人の女の子達は小柄で童顔だった(正直高校生位にしか見えなかった)。彼女達はみなエレベーターボーイを見上げてニコニコしていた。見つめられたその青年はシャイなのか顔を真っ赤にしていたのだが、彼女達にしてみればその青年と友達になりたかったのかもしれない。
 
 自分もそうだったが、日本人はみな童顔に見える。環境が恵まれているからかもしれない。



 結論から言うと、初日の夜は寂しい食事となってしまったが、翌日以降は楽しい食事が出来た。出会いとは不思議なものだ。 
 
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(92)ヴェネツィア①(イタリア)

2010-06-03 06:00:00 | イタリア
 Belgrad ( Beograd )(ベオグラード)から Venezia (ヴェネツィア)( Venice (ヴェニス))(イタリア)行きの客車にどれだけの乗客がいたのかよく覚えていないが、旅日記に書き残していることがある。

 それは深夜のことだった。
 クロアチアからスロベニアに入国する際、国境で入国拒否されたルーマニア人カップルがいた。彼らはスロベニアのビザが無かった為、真冬の寒さの中、国境で降ろされたのだった。ヴェネチアまでの切符を持っていたのでスロベニアはトランジットのはずなのだが、それでも許可が下りなかった。
 確かにヴェネツィアに観光に行くようには見えず、寄り添うように座っていた姿からはどちらかと言えば駆け落ちして二人だけの世界にいるような雰囲気にも思えた。貧しい国を出て新天地で二人の人生を始めたかったのかもしれない。
 ベオグラードからヴェネチアまでの切符の値段は、正確な金額を記録していないが確か数千円だった。教師の月給が$100位の国から来た彼らにしてみれば、決して安い金額ではなかったと思う。

 もしかしたらセルビア(当時のユーゴスラビア)、そしてクロアチアはルーマニア人にとってビザが無くても入国できる国なのかもしれない。そして分裂前のユーゴスラビアなら問題なかったのかもしれない。皮肉にも、分裂後のスロベニアは遠い国になってしまった。

 どちらにせよ、イタリア入国時に拒否される可能性もあったわけだが、観光で行く自分がすんなり通され、(真相は違うかもしれないが)人生をかけて異国に向かう彼らが降ろされたのではないかと思うと、なんとも遣り切れない気持ちになってしまった。職を求めて国外で不法入国で捕まったことがあると語った青年マリウスのことを思い出した。
 自分は本当に恵まれていると感じた。そして彼らに申し訳なく思った。



 そんなことがあったのだが、翌朝目を覚ますともうすぐヴェネツィアへ着くという時間だった。左手に美しいアドリア海が広がり、その先にヴェネツィアの街が見えた。まさしく【水の都】の名にふさわしいその光景の美しさにすっかりテンションが高くなり、何か楽しいことが始まりそうな予感は十分あった。



 18時間以上の列車の旅を終え終点ヴェネツィアに着いた後、最初にしたのは宿探しだ。これは意外とすんなりいい宿が見つかった。案内された場所はペンシオーネ(ペンション)だった。
 部屋にはキッチンも付いていて自炊も出来る。しかもカーニバル前の時期で予約が入っていないということで少し値段もまけてくれた(1泊約3500円)。



 ヴェネツィアの宿ということで思い出したが、この1年半後、U2BONO がこの街を休暇で訪れている。

 ヴェネツィアは路地が複雑に入り組んでおり道に迷いやすい。裏道で道に迷った彼は、方角を確認する為に付近にあったアメリカン・ホテルに入った。その時、ホテルのロビーにあったTVではニュース速報が流れていた。
 彼はその日を境に何もかもが変わってしまったと言っている。

 その日は2001年9月11日だった。
 
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