Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

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(225)エピローグ

2018-03-15 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 この旅を終えた数年後、沖縄滞在中に知人より一人の女性を紹介された。
 この後インドを旅するらしく、インドの情報が欲しいらしい。
 その場で自分が持っている情報を伝えたのだが、その後彼女と二度と会うことはなかった(連絡先も聞いていない)。

 それから数年後、その女性がインドで肝炎に罹患(りかん)し、現地で亡くなったことを知人から聞き、何ともやるせない気持ちになった。

 もし自分と会わなかったとしても、彼女はインドに行ったかもしれない。インドに行きたいという強い意志を持っていたから。
 だが、自分の情報が彼女の背中を押すことにならなかったか。そう考えずにはいられなかった。



 船は港にいる時、最も安全であるが、それは船が作られた目的ではない。
 -『アルケミスト―夢を旅した少年』(パウロ・コエーリョ著)(角川文庫)-

 勇気を与えてくれるこの言葉は、自分が旅に出る前に出会った本に書かれていた。自分の背中を押してくれた言葉でもある。

 だが、もしあなたがこれから旅に出るのならば、いつか無事に帰ってきて欲しい。家族がいるなら猶更だ(世界の情勢は変わり、私が旅した土地で治安が悪化しているところも多々ある)。



 次に、このブログを書いている間に思いついたことを都度メモしておいたのだが、残念ながらデータを消去してしまった為、今思いつくことを書き記しておきたい。



昔は字が綺麗だった。

 旅日記の字を見ると一字一字丁寧に書いてある(今よりも人生に対して真摯だったからか(笑))。
 字が汚くなったのは、PCで文書作成するようになった弊害かもしれない。無意識に手書きにもスピードを求めている気がするし、そもそも字を書く機会自体が減っているからだ。



過去に意識を向けること。

 投稿を中途半端な状態で放置している間も、頭の片隅にこのブログのことは常にあった。
 今目の前のことに意識を集中させることが理想ならば、自分は常に漏電した状態だったと思う。
 (ちなみに、記事を書いている当時の状態と似たような出来事が、シンクロのように起きることもあった。人間の意識の力だろうか。)



人間は磁石だ。

 類友の法則。
 ユーラシア大陸横断の旅の中で、何度も再会する旅人もいれば、噂は聞くが一度も会わなかった旅人もいる(旅をしている時期が同じだったにもかかわらず)。
 同じ時代を生きているというだけで運命共同体的な縁があると思うが、同じ場所で共に過ごす時間を持つだけでもかなり縁が深いと言えるのではないだろうか。



 たった今思い出した話を一つ追記しておきたい。
 
 昔、飛行機の中でたまたま席が隣になった異国の女性が、こんな話をしてくれた。
 
 旅先で出会った男性が、同じ国の方だったらしく、帰国してから会う約束をしたらしい。
 帰国後再会して驚いたことに、二人の住んでいる場所は500m位しか離れていなかったそうだ。

 「そして、私達は結婚したの」

 嘘のような本当の話。
 


長期旅行に代わるもの。

 チベットを旅行した際、カイラス山巡礼者の姿に心を打たれ、その後四国の地を歩いた(四国遍路)



 それから神聖な気を肌で感じることが出来る神社仏閣巡りが好きになり、神社仏閣の奥宮がある山に興味をもつようになった。

 今一番の楽しみは、休暇に神社仏閣巡りと登山(登拝)をセットで行う旅行をすること。
 (個人的には、修験道に興味があるせいか、霊山と呼ばれる信仰の山を登拝することが多い。)

 登山に費やす時間は、わずか半日~数日だが、旅の醍醐味が凝縮されているように思う。
 天候の変化等何が起こるか分からない環境の中、自分の判断が試されるし、肉体的・精神的に辛い部分もあるが美しい景色等そこに行かないと得られないものがある。何よりも僅かな時間の中で得られる達成感が大きい(以下に写真を一部紹介したい)。

 (富士山)


 (立山)


 (白山)


 (男体山)


 (七面山)


 最後に、2009年から始まったこのブログに、今まで訪問して頂いた皆様へ。

 時間がかかってしまいましたが、なんとか日本に帰って来るまでの旅の記録を書き記すことが出来ました。
 ご愛読ありがとうございました。心より感謝申し上げます。
 
※いつの日か、写真のアップロード、地図の作成、目次の編集が完了し、ブログが完成しましたら、エピローグ(後編)と題して追加記事を書くかもしれません。
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(224)サンフランシスコ~ロサンゼルス(アメリカ)~成田

2013-04-11 22:45:31 | アメリカ・エピローグ
 San Francisco (サンフランシスコ)(カリフォルニア州)を発つ夜、さん(仮名)がバスターミナルまで見送りに来てくれた。

 城さんは近視だったせいか、私の乗車したバスが出発してすぐにこちらを見失ったらしく(たくさんのバスが発着していたのである意味仕方ないと思う)、全く違う方向に向かって手を振り続けていた。

 その光景を見ながら、自分が当事者であることを忘れ猛烈に感動したのを覚えている。
 勝手な解釈だが、彼は手を振り続けながら私に投影していたのではないだろうか。郷愁を覚え日本に帰りたく思う自分自身を。

 そして、この別れの光景はこの旅で幾度となく繰り返されてきたものだ。
 出会いの数だけ別れがあるというが、本当に多くの人達に支えてもらってここまで来れた。改めて心から感謝したいと思う。



 バスを下車した後、(名前は忘れたが)あるホテルの前で空港への送迎車を待った(この旅初めての経験だが、送迎サービスも飛行機のチケット代金に含まれていた)。
 しばらくしてやって来た送迎車はなんとリムジンだった。リムジンに乗るのは初めての経験だ。
 しかも、貧乏旅行をしてきた自分が旅の最後にリムジンに乗っているという事実がなんとも可笑(おか)しかった。ご褒美と思うことにしよう。



 その後サンフランシスコ国際空港で夜を明かし、早朝の便で Los Angeles (ロサンゼルス)(カリフォルニア州)へ。
 そしてロサンゼルス国際空港にて日本行きの便に乗り換えた。



 最後の移動に関しては、詳細に記録を残していない(安堵して長旅の疲れが出たのかもしれない)。

 ただ、モロッコの Chefchaouen (シャウエン)で見た百日紅(さるすべり)の木について詩を書き記している。
 (今読み返すと恥ずかしいレベルのものだが、これもまた思い出の一つだ。)



 【モロッコのバスの車窓にて】

 道端の木々が踊っているように見えた

 実際彼らは踊っていたのだ

 長い年月をかけて

 木々だけではない

 俺が通り過ぎた 何十という国々の人々も

 地に足をつけて踊っていた

 働いて生活をしていた

 さあ 俺も働こうと思う 踊ろうと思う

 そして自分の人生を 自分というものを 表現しよう

 I shall dance!!



 ロサンゼルスからのフライトにて無事成田国際空港に到着した際、サンフランシスコと対照的な湿度の高さに日本を感じた。

 自分の実家のある街は大きく変わってはいなかったが、それでも新しい道や店が出来ていた。
 自分一人いなくなったところで誰も困りはしないし、地球は廻り、世界は進化していくのだということを痛感した。

 それでもやはり、家族は私が無事帰って来たことを喜んでくれた。帰る家があるということはとても幸せなことだと思う。
 そして、無事に帰って来れたことはとてもラッキーだったと改めて思う。



 無事帰国・帰宅したことと直接関係があるか分からないが、旅を通じて一つ心がけていたことがある。

 何の為に始めたのかは覚えていないが、滞在していた土地を去る時に、必ずその土地に感謝の念を捧げていた。

 恐らく自然発生的に始めたのだと思う(旅の最初の頃は何もかもが新鮮で感動が多かった→【追記】初期の記事を読み返したところ、無理矢理感謝していたことを思い出した)。

 長い旅の中で腹の立つ出来事ももちろんあったが、それでもその地を離れる時には感謝をしてから次の目的地に向かうようにしていた。そうしないと、嫌な思い出の地として記憶に残ってしまいそうな気がしたからだ。

 この心がけがあったおかげなのか、自分が旅をしてきた土地に対して思いを馳(は)せるとポジティブな気持ちが湧き上がってくる。

 自分の滞在した時空間に感謝の念を置いていくということは、(長い目で見ると)幸運を呼ぶ秘訣ではないかと思う。
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おまけ(その37)" Let it be "( The Beatles )

2013-04-04 23:55:55 | おまけ
(223)サンフランシスコ(アメリカ)(後編)のおまけ記事



 この旅に出る前に自分で編集した音楽テープの最初の曲は、U2" ONE "だった。

 そして最後の曲には、The Beatles" Let it be "を選曲していた。



 サンフランシスコを発つ前日、眠る前に曲を聴きながら、旅日記の最初に書いた言葉のように、自分の感じたまま歩んで来れただろうかと自問した。



※魂に響く名曲" Let it be "はこちら



 【追記】

 若かりし頃の自分は、旅のエンディングテーマとして" Let it be "を選んでいた。
 何のためらいもなくこの曲を選んだところに、(今の自分と比べると痛い位の)純粋さを感じる。それは=(イコール)若さとも言えるのかもしれない。

 もし、今の自分がこの旅のエンディングテーマを決めるとしたら、下記の曲を選ぶだろう。この後も(自分にとっての)旅は続くからだ。



※ U2 の名曲 " I still haven't found what I'm looking for "こちら
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(223)サンフランシスコ(アメリカ)(後編)

2013-03-28 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 San Francisco (サンフランシスコ)(カリフォルニア州)を発つ前日、さん(仮名)が秘密の場所(お気に入りの場所)を案内してくれた(自分の住む街にお気に入りの場所があるのが素晴らしい)。
 旅日記には、Seal Rocks (シール・ロックス)についての記述がある。確かロボス岬( Point Lobos )からランズ・エンド( Land's End )の辺りを散策したと思う。

 到着したのは夕暮れ時だった。座禅を組んで瞑想をしていた人達の姿が印象に残っている。自然と一体となれる場所だった。



 太平洋夕陽が沈んでいった。

 その沈みゆく太陽の先にあるのは日本だ。

 

 最初の予定では、Syracuse (シラキュース)(ニューヨーク州)にてイロコイ族に会った後、New York (ニューヨーク)から帰国する予定だった。
 しかし、大都会ニューヨークでは旅を終える気になれなかった。旅の情感・風情というものを感じることが出来なかったからだ。

 今回、城さんのご好意に甘えさせて頂き、美しい街サンフランシスコに滞在することが出来た。
 そして、太平洋に沈む夕陽を眺めながら、ようやく旅を終える気持ちになれた。
 現実的には所持金が無いので旅を終えなければならなかったが、無理やり自分を納得させるのではなく、自然な形で旅の終わりを感じることが出来た。

 城さんには心から感謝したいと思う。どうもありがとう。

 さあ、日本へ帰ろう。



※おまけ記事はこちら
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おまけ(その36) enduring spirit

2013-03-21 23:55:55 | おまけ
(222)サンフランシスコ(アメリカ)(前編)のおまけ記事



 San Francisco (サンフランシスコ)で購入した一冊の本について紹介したい。
 書籍のタイトルは、『 enduring spirit 』( Phil Borges 著)、当時33ドルで購入した。

※ enduring …[形容詞]永続する、持続する、耐久性のある、不朽の、息の長い、辛抱強い、我慢強い

 この旅において、大きな本やハードカバーの本は荷物の重量が増える為、なるべく買わないようにしていた。
 所持金が少ないにも関わらず、この本を購入したのは、この機会を逃すと手に入れるのが大変だと思ったからだ(当時はアマゾン等のネットショッピングも一般的では無かった)。
 もちろん、旅が終わるという点も理由として挙げられる。重いバックパックを背負う日課からも解放されるからだ。
 しかし一番の理由は、この本に登場する人物達の視線に射抜かれたことだと思う。



 この本に登場する人物達は、アフリカの部族民アメリカ先住民チベット人等、どちらかというと発展途上の地に住む人々だ。
 貨幣経済的な視点から言えば、貧しく慎ましい生活を営む彼らだが、そのに宿る力は我々よりはるかに強い。それはきっと彼らの強いを表しているのだろう。

 彼らの様々な表情(笑い、悲しみ、誇り…)が映し出されているが、たとえ小さな子供であったとしても、その視線によって本来見ている側の自分が、逆に見られているような感覚に陥(おちい)る。しかも彼らが見ているのは、私自身の魂だ。
 背後まで見透かされているような奇妙な感覚と共に、彼らにこう言われているような気がする。

 「お前は、全身全霊をかけて今この瞬間を生きているか」

 上記の言葉は、私が感じたことを100%正確に伝えきれていない。どちらかと言うと、

 「お前はそれ(今の現状)でいいのか」

 という感じだろうか。

 彼らよりはるかに物質的に恵まれ、楽な方に流されながら生きていて、(おのれ)を高める努力をしているのか?
 この本を読み返す度に、同じことを感じる。



 余談になるが、昔聞いた手相の話を思い出したので書き記しておきたい。

 農業等の身体を使う仕事をしている人は、毎日相当の力を使う。
 手を使って物を掴(つか)んだり運んだりすることにより、手の皺(しわ)が深くなる。
 皺の深い手は、立派な人生を送った手の証だそうだ。



※『 enduring spirit 』の著者、Phil Borges 氏のHPはこちら
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(222)サンフランシスコ(アメリカ)(前編)

2013-03-14 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 San Francisco (サンフランシスコ)(カリフォルニア州)は、アメリカ西海岸のサンフランシスコ半島の先端に位置するとても美しい街だった。
 ヨーロッパの街の雰囲気に近く、この旅で訪れた近代都市の中で、最も印象的な街の一つだ。
 数日間の滞在中、空は毎日晴れ渡り、気温も摂氏20度前後と過ごしやすかった。



 18世紀後半、かつては先住民達の村落があったこの地に、スペイン人入植者達が住み着いた。この地に入植したキリスト教フランシスコ会の修道士が、創設者の聖フランチェスコ(1182年~1226年)を街の名に付けたことが街の名前の由来らしい。
 1821年にメキシコ独立革命が起こり、スペインから独立しメキシコ領となったが、その後の米墨戦争(アメリカ・メキシコ間の戦争)(1846年~1848年)中にアメリカ領となった。
 その直後に起こったカリフォルニア・ゴールドラッシュにより街の人口が増大すると共に、街も発展し、交易地・金融センターとしての役割が増していった。
 街には多種多様な文化が入り交じり、第二次大戦後にはアメリカのカウンターカルチャーの中心地としての立場を築いた。



 この街では旅先で出会ったさん(仮名)宅に厄介になった(旅の縁に感謝)。
 城さんにいろいろと街を案内してもらった。観光したのは以下の通り。

グレース大聖堂  ゴールドラッシュの時代にグレース教会として建てられたが、1906年のサンフランシスコ大地震で焼失。その後1964年に再建された(ゴシック建築)。

チャイナタウン  ゴールドラッシュの時代に移民が押し寄せた。一時期移民法により移民が制限された時代もあったが、今やアメリカ最大のチャイナタウンだそうだ。

ロンバード・ストリート  この通りの一区画は【世界一曲がりくねった坂道】と呼ばれている。坂道の多いサンフランシスコの街でもここは別格で、急勾配の中、8つのヘアピンカーブが続く。

ノースビーチ(リトルイタリー)  かつては海岸線だったエリア。イタリア系の移民が多いことから、リトルイタリーとも呼ばれている。
 ここは、ビート・ジェネレーション発祥の地と呼ばれている。ジャック・ケルアック(1922年~1969年)やアレン・ギンズバーグ(1926年~1997年)等の詩人・小説家達の思想が若者達に影響を与え、後にヒッピー・ムーブメントへとつながっていった。
 (ちなみにこの旅の前にケルアックの小説『 On the road (路上)』を読んでいたが、サンフランシスコに来るまでそのことをすっかり忘れていた。)

フィッシャーマンズワーフ  漁師の波止場の意。イタリア人漁師の船着場として栄えたエリア。

Pier 39(ピア39)  フィッシャーマンズワーフの中でも最も集客のあるショッピングエリア。元々は桟橋だった場所。野生のアシカが住み着いていた。
 付近の寿司屋にて城さんにカリフォルニア巻をご馳走になった。
 (このエリアだったか記憶が定かではないが、)本屋の中にカフェが併設されており、購入していない本でもカフェでお茶を飲みながら閲覧可能だった。当時こういったサービスを日本では見かけなかった為、その発想に驚いたのを覚えている。

サンフランシスコ海洋国立歴史公園  フィッシャーマンズワーフから【世界一美しい吊り橋】ゴールデン・ゲート・ブリッジ方面に向かって海沿いに歩いて行くとこのエリアに辿り着く。
 第二次大戦時の潜水艦パンパニト( USS Pampanito, SS-383 )が停泊し、公開されている(内部を見学した)。

アルカトラズ島  通称【ザ・ロック(監獄島)】。フィィッシャーマンズワーフの沖3km程に位置する島。脱獄不可能と形容された刑務所として使用された。マフィアの帝王アル・カポネ(1899年~1947年)も服役している。見学の為、フェリーツアーに参加した。

ジャパンタウン  サンフランシスコ大地震の後、荒れ地に日本系移民が住み始め、日本人街となった。ジャパンセンターにて書籍を購入している。

※購入した書籍『 enduring spirit 』のおまけ記事はこちら

ヘイトアシュベリー  1960年代のヒッピー発祥の地。お洒落なお店が多く、街の雰囲気に感化され、ここでTシャツを購入した。
 恐らくこのエリアだったと思うが、神秘的な雰囲気を醸(かも)し出す専門書の書店に入ったところ、そこには当時の日本ではあまりお目にかかれない書籍が並んでいた(ニューエイジ精神世界関連の本)。

カストロストリート  虹色の旗(レインボーフラッグ)で彩(いろど)られたエリアがあったので、不思議に思い城さんに尋ねたところ、サンフランシスコはゲイ・カルチャーの街でもあるということだった。6色のレインボーは多様性を意味する。
 (今でこそ LGBT と言う言葉を日本でも聞くようになったが、当時は何のことか分からなかった。)

※LGBT…女性同性愛者(レズビアン、Lesbian )、男性同性愛者(ゲイ、Gay )、両性愛者(バイセクシュアル、Bisexual )、トランスジェンダー( Transgender )の各単語の頭文字を組み合わせた表現。



 当時、アメリカは日本の10年後の姿と言われていたが、この街を観光した時のことを思い出すと、確かにその通りだと思う(今はタイムラグが短くなったように感じる)。
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おまけ(その35)ロード・ムービー

2013-03-07 23:28:34 | おまけ
(221)シラキュース~シカゴ~シャイアン~サンフランシスコ(アメリカ)のおまけ記事



 北米大陸をバスで横断した時に見た景色、それは旅をテーマにした映画でよく見た光景そのものだった。
 都市部を離れると、荒野の中を果てしなく道が続くのみ。
 西アジアから中東にかけての砂漠地帯と若干似ている部分もあるが、それよりもやはり映画で見た光景と言った方がしっくりくると思う。

 旅という場面での出来事を描いた映画を【ロード・ムービー】というらしいが、印象に残っている映画を幾つか紹介したい。



(1)『イントゥ・ザ・ワイルド』( Into the Wild )(ショーン・ペン監督)



 エミール・ハーシュ演じる、この映画の主人公クリストファー・マッカンドレスは、実在の人物。
 優秀な成績で大学を卒業したにもかかわらず、彼は家族から探し出されないように消息を断ち、アレクサンダー・スーパートランプ と名前を変えて放浪の旅に出る。



 一度は自分を試すこと

 一度は太古の人間のような環境に身を置くこと
 
 自分の頭と手しか頼れない
 
 苛酷な状況に一人で立ち向かうこと




 2年間北米大陸を転々とした後、彼が向かったのはアラスカだった。
 物質世界とかけ離れ、厳しい自然が残る大地で、たった一人で生きていこうとした彼の言葉(アラスカの地で書き記した最後の言葉)が心に染みる。

 Happiness only real when shared. (幸福が現実となるのは、それを誰かと分ちあった時だ。)



 長い旅に出る者は、その心の中に強い渇望感のようなものがあり、それが旅の原動力になっていると、昔誰かが言っていたのを、映画を見て思い出した。

 映画の中で主人公はヘンリー・D・ソローの言葉を引用している。



 愛よりも

 金銭よりも

 信心よりも

 名声よりも

 公平さよりも

 僕に真理を与えてくれ




※『イントゥ・ザ・ワイルド』の予告編はこちら



(2)『星の旅人たち』( The Way )(エミリオ・エステベス監督)



 製作者が違うが、『イントゥ・ザ・ワイルド』の続編的テーマがあると思う映画だ。

 主演に実父のマーティン・シーンを起用。
 彼は、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着く前に亡くなった息子ダニエル・エイヴリー(エミリオ・エステベス)の遺志を継ぎ、巡礼の旅をする父親トム・エイヴリーを演じている。

 様々な目的を持って集(つど)ったサンティアゴ巡礼者達のドラマが面白く、四国遍路以来の巡礼をしたくなった映画だ(いつかサンティアゴ巡礼をしたいと思う)。



※『星の旅人たち』の予告編はこちら



 【追記】

(3)『 LIFE ! /ライフ』( The Secret Life of Walter Mitty )(ベン・スティラー監督)



 この映画の主人公ウォルター・ミティを演じるのはベン・スティラー。
 休刊となる『 LIFE 』誌の写真管理部で働くウォルターは、10代の時に父を失くしてから自分の夢を封印して家族の為に働いてきた(モデルとなった LIFE 誌は2007年に休刊)。
 自分の心を閉じ込め、空想(妄想)で現実逃避をしていた彼だが、世界を旅していくうちに徐々に顔つきが精悍(せいかん)になっていくと共に、空想も減っていく。
 壮大な景色が美しい映画だ。

 (尚、この映画に『イントゥ・ザ・ワイルド』の監督ショーン・ペンが、カメラマンのショーン・オコンネル役で登場している。)



 「自分が信じていること、思いきってやろうとしていることであればリスクを考える必要はないさ」(ベン・スティラー)



 歳を重ねるにつれ失っていく情熱というエネルギーを、取り戻すきっかけになる映画だと思う。



[映画に登場した LIFE 誌の社訓]

 TO SEE THE WORLD (世界を見よう)

 THINGS DANGEROUS TO COME TO (危険でも立ち向かおう)

 TO SEE BEHIND WALLS (壁の裏側をのぞこう)

 LIFE !

 TO DRAW CLOSER (もっと近づこう)

 TO FIND EACH OTHER (お互いを知ろう)

 AND TO FEEL (そして感じよう)

 THAT IS THE PURPOSE OF LIFE (それが人生の目的だから)




※『 LIFE ! /ライフ 』の予告編はこちら
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(221)シラキュース~シカゴ~シャイアン~サンフランシスコ(アメリカ)

2013-02-28 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 この日は、Syracuse (シラキュース)(ニューヨーク州)の Downing International Hostel (ユースホステル)に宿泊した。

 宿には数人のアメリカ人国内旅行者が宿泊しているだけで、とても静かだった。
 夕食後、地図とにらめっこをしながら、これからどうするかを考えた。

 五つあった旅の目的地は全て巡った。
 ここで旅を終わりにするか。それとも先に進むか。

※五つの旅の目的地・・・ Hunza (フンザ)(パキスタン)、Maramures (マラムレシュ地方)(ルーマニア)、Jerusalem (エルサレム)(イスラエル)、アイルランドイロコイ族の居留地(アメリカ)

 当初の予定では、イロコイ族に会った後、New York (ニューヨーク)から飛行機で日本に帰るつもりだった。
 だが実際に目的を達した時に、ニューヨークに戻る気にはなれなかった。大都会ニューヨークには旅の情感というものを感じることが出来なかったからだ。
 所持金は底を尽きかけていたが、旅の終わりという実感がまだ湧かなかった。
 あと少し、旅を終えるにあたって何か背中を一押しするきっかけが欲しいと感じていた矢先、旅先で会った旅人(さん(仮名))と連絡が取れた。
 彼は San Francisco (サンフランシスコ)(カリフォルニア州)に住んでおり、行けば家に泊めてくれるという。早速、彼の好意に甘えさせてもらうことにした。



 シラキュースからバスに乗車し、Buffalo (バッファロー)(ニューヨーク州)、Cleveland (クリーブランド)(オハイオ州)を経由して Chicago (シカゴ)(イリノイ州)へ。
 シラキュースからシカゴまでは1泊2日のバスの旅だった(シラキュースとシカゴでは時差が1時間ある)。
 バスはほとんど空席だった為、夜間は横になって寝ていた。
 今となってはその光景を思い出せないが、朝、目覚めると美しい2本の虹が見えたと旅日記に書き記している。

 シカゴで Salt Lake City (ソルトレイクシティ)(ユタ州)行きのバスに乗り換えた。
 シカゴからソルトレイクシティまで Cheyenne (シャイアン)(ワイオミング州)経由で2泊3日かかった。
 バスには自分を含め計三名の乗客がいて、うち一名は北海道から来た女子高生だった。
 彼女はホームステイで3ヶ月間滞在してアメリカの農業を学んだらしく、これから帰国するらしい。
 お互いにこのバスに乗っている理由を話した後、ふと全く会話が噛み合わないことに気が付いた。お互い日本についての最新情報は無く、関心のある物事も違う為、相手が必要としている情報をほとんど持ち合わせていない。
 しばらくすると沈黙の時間が増え、いつしかお互いに自分の世界に戻っていった。



 さて今回のバス旅で二つ困ったことがあった。
 一つは、冷房が効きすぎていること。もう一つは休憩時の食事だった。

 冷房については満席だったとしても寒い位の温度設定で、三人しか乗客がいないバスでは拷問としか考えられなかった。
 何度か巨漢の運転手に交渉をしたのだが、一時的に温度を下げてもらえるものの、しばらくすると再び設定温度を戻してしまう。
 結局諦めて持っている服を重ね着して凌(しの)ぐことにした。
 
 そして二つ目。バス旅の楽しみと言えば食事だが、残念ながら休憩に立ち寄るバスターミナルにあるレストランはファーストフードの店ばかり。当時そのほとんどがマクドナルドダンキンドーナツだった(現在の状況は不明)。
 どちらも美味しいと思うし、嫌いではないのだが、ドーナツを主食として食べる気にはならず、毎食マクドナルドを選択した結果食べ飽きてしまい、食事を抜くこともあった。

 そんなことがあったが、それでも車窓からの景色は美しく、特にロッキー山脈の朝焼けは荘厳だった。

※関連記事はこちら



 この時読んでいた本の言葉を旅日記に書き記している。

 「今、自分が何かをしたいと思っても、それは何代も前から受け継がれた願望であったかもしれません」平山美知子(『私たちのシルクロード』(中公文庫))-



 ソルトレイクの街はソルトレイクシティ五輪(2002年冬)を1年半後に控えていたが、特に五輪に関する掲示物を見た記憶が無い。到着日は休日ということで閉まっている店も多かった。
 風光明媚な街で滞在したかったが、残念ながら所持金を考えると先を急がねばならない。
 数時間滞在した後、すぐにサンフランシスコ行きの夜行バス(1泊2日)に乗った。


 
 そして、ついに翌朝サンフランシスコの街に到着した。
 車中4連泊で駆け抜けたアメリカ横断だった為、残念ながら達成感は少なかった。

 この後、Los Angeles (ロサンゼルス)(カリフォルニア州)の空港に立ち寄っているが、実質的にこの地が旅の終焉の地となった。
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おまけ(その34)イロコイ族

2013-02-21 23:55:55 | おまけ
(220)シラキュース(アメリカ)のおまけ記事



 イロコイ族のことを知ったきっかけは、一冊の書籍だった。
 『一万年の旅路-ネイティヴ・アメリカンの口承史-』(ポーラ・アンダーウッド(著)、星川淳(訳)、翔泳社)だ。



 大地震による津波で安住の地を追われた民たちが、ユーラシア大陸を東に向かって横断し、ベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に辿り着いた。
 その後五大湖のほとりに永住の地を見つけるまでの気の遠くなるような長い旅路について、イロコイ族は口承史を伝え残していた。
 この一冊の本にはその壮大な智慧が、物語として書き記されている。



 この本の翻訳者である星川淳氏は、他にも多数イロコイ族に関する著作を翻訳、執筆されている。
 『知恵の三つ編み』(ポーラ・アンダーウッド(著)、星川淳(訳)、徳間書店)(イロコイ族の文化を中心に紹介)、『小さな国の大いなる知恵』(ポーラ・アンダーウッド(著)、星川淳(訳)、翔泳社) (イロコイ族の歴史を中心に紹介)、『環太平洋インナーネット紀行-モンゴロイド系先住民の叡智-』(星川淳(著)、NTT出版)(イロコイ族探訪の記述あり)、等々。

 イロコイ族の理念は、その盟友であるアメリカ合衆国憲法にも反映されている。
 近年、イロコイ感謝決議としてその関係性が評価されたらしい。



 「一つの道でもなく、またもう一つの別な道でもなく、その二つの釣り合いが確かな道を照らし出す」-イロコイ族の言葉-
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(220)シラキュース(アメリカ)

2013-02-14 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)に約1週間滞在した後、向かったのは Syracuse (シラキュース)(セラキュース)だ(バスで所要1.5時間)。

 シラキュースは、五大湖の一つオンタリオ湖の南東、ニューヨーク州中央部に位置する商工業都市でオノンダガ郡郡庁所在地となっている(オノンダガ郡の名称はイロコイ連邦オノンダ(ー)ガ族に敬意を表して付けられた)。

 バスターミナルに荷物を預け、路線バスで Nedrow (ネドロウ)のオノンダーガ族リザベーション(居留地)(保留地)へ。下車した後、二人のイロコイ族のおばちゃんに道案内をしてもらい、イロコイ族の小学校まで連れて行ってもらった。

※五大湖周辺に住むイロコイ連邦の六部族

セネカ族( Onodowohgah (オノドワーガ)(丘の上の人々の意))・・・【西の扉を守るもの】であり、【六兄弟の長兄】
モホーク族( Kanienkehaka (カニエンケハカ)(火打石の人々の意))・・・【東の扉を守るもの】
・オノンダガ族(Onundagaono (オヌンダガオノ)(丘の人々の意))・・・【炎とワムパムを守るもの】であり、【六兄弟の兄】
オナイダ族(Onayotekaono (オナヨテカオノ)(直立した石の人々の意))・・・【中央の炎を守るもの】であり、【六兄弟の弟】
カユーガ族( Guyohkohnyo (グヨーコーニョ)(大沼沢地の人々の意))・・・【聖なるパイプを守るもの】であり、【六兄弟の弟】
タスカローラ(テスカレーラ)族( Ska Ru ren (スカルレン)(麻を採る人々の意))・・・18世紀初めに加わった【六兄弟の弟】

 子供達の姿は無かったが、小学校の先生が教室を案内してくれた。
 一番驚いたことは、教室にパソコンが多数置かれていたことだ(当時日本でパソコンを導入している小学校は少なかったと思う)。居留地で暮らしているアメリカ先住民は貧しいという先入観があったが、どうやらイロコイ族は経済的に豊かなようだ。

 他に印象に残っていることを書き記しておきたい。

・掛け算の暗算は12×12まで(覚える)
 日本でいうところの九九。ヨーロッパなどでは十二進法の名残で12×12までの掛け算の表を学ぶらしい(ちなみにインドでは99×99まで学ぶ地域もあるようだ)。

ラクロスの大会の優勝カップを多数展示
 現在のラクロスはイロコイ族の競技が発祥となっているらしい。もともとは北米先住民達の間で儀式の一環として行われたり、部族間の争いの平和的解決手段として催されていたもののようだ。

・13枚の甲羅の亀の絵
 床に13枚の甲羅を持つ亀の絵が描かれていた(確か二階から見下ろせるようになっていたと思う)。
 13枚の甲羅は13の月、つまり一年を表すらしい。
 先住民族達は北米大陸を亀の背に乗っている【亀の島】と考えていたらしい。地図が無かった時代にどうやって北米大陸の形を認識していたのか気になるところだ。

・男性不在
 小学校だけでなく、居留地では男性や子供達の姿を見かけなかった。その理由を問うと、男連中や子供達は皆 POWWOW (パウワウ)(先住民族達の祭り)に出かけているということだった(開催されている場所についてはニューヨーク州ということ以外不明)。
 POWPOWを見てみたかったが、行くとなると予算の問題がある。残念だが所持金を考えて行くのを諦めた。

 もう少し居留地を散策したい気持ちもあったが、住人不在では仕方がない。イロコイ族の話を聞けたことで良しとして居留地を去ることにした。

※イロコイ族のおまけ記事はこちら
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おまけ(その33)【9.11】で思い出すこと (後編)

2013-02-07 23:55:55 | おまけ
(219)ニューヨーク③(アメリカ)のおまけ記事



 【9.11】の翌年(2002年)、自分は北海道で働いた。

 きっかけはアイルランドコネマラ地方周遊ツアーガイドから「この景色は日本の北海道みたいだろう」と言われたことだ(そうだと答えつつも、北海道に行ったことがなかったことを内心恥じた)。そんな訳で、北海道に一度住んでみたいと思っていた。

 仕事先として北海道の東と西に候補地があったが、道東を選んでいる。
 その地で非常にお世話になった方(間宮さん(仮名))の御宅に招待された時のこと。訪問すると何故かそこには長倉洋海さんの写真が多数飾ってあった。
 理由を伺うと、「長倉洋海さんは俺の親友だ」と間宮さんは言う。二人とも出身地が同郷(釧路)であり、長倉さんが帰郷される度に会う間柄だそうだ。

 写真集(『マスード 愛しの大地アフガン』(長倉洋海著、JICC出版局(2001年河出書房新社より新装版刊行)))から長倉さんの出身地が釧路という情報を得ていた可能性があり、忘れていただけで潜在意識に情報が残っていた為、仕事先として道東を選んだのかもしれない。
 しかし、彼(か)の地に長倉さんの親友がいるということを全く知らなかったから驚いたのだった。



 一見偶然に見える物事の背後には、かすかな糸のような可能性があると思う。
 それは、「そんなの偶然だよ」という一言でもろくも切れてしまう蜘蛛の糸のようなものかもしれないが、そんなわずかな可能性に目を凝らしてみると、我々は一見何の関係の無いように思える出来事にも実は関係しているのではないかとたまに思うことがある。
 数学的に表すならば0.0000000000..........1%という微々たる関係性だとしても、時と場合によりその数値は変動する。
 その数値が大きくなった時に、奇妙なシンクロニシティ( Synchronicity )( Coincidence )として知覚されることがあるのではないかと思う。
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おまけ(その32)【9.11】で思い出すこと (前編)

2013-01-31 23:55:55 | おまけ
(219)ニューヨーク③(アメリカ)のおまけ記事



 【9.11】について考えるとき、直接的に関係しているわけではないが、思い出す奇妙な出来事があるので書き記しておきたい。



 2001年の夏、旅先で出会った旅人の紹介で住み込みの海外ボランティア(滞在国:中国)に参加した(旅行とは違った種類の貴重な体験をすることが出来たと思う)。
 しかし、そのボランティアから帰国してわずか数日後、NY同時多発テロが発生した。

 実はボランティアに行く前に、仕事でお世話になったアメリカ好きの友人に一枚の写真(A3サイズまで引き伸ばしたもの)をプレゼントしていた。
 その写真は、バッテリー・パークのフェリー乗り場からリバティ島の自由の女神(世界遺産)を撮影したものだ。



 9.11の後、その友人に「お前が変な写真をよこすからだ」と言われた。
 


 話変わって、ボランティア出発の前日に中古書店で購入した一冊の本がある。その本のタイトルは、『マスード 愛しの大地アフガン』(長倉洋海著、JICC出版局(2001年河出書房新社より新装版刊行))だ。
 
 たまたま書店で見かけ、マスードの澄んだ眼差しに憧れて購入したのが出発前日だった為、この本をじっくり読むのが帰国後の楽しみの一つだった。

 アハマッド・シャー・マスード( Ahmed Shah Massoud )(1953年~2001年)は、アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線(北部同盟)副大統領、国防大臣、軍司令官を歴任。死後、【アフガニスタン国家英雄】の称号を追贈された。
 マスードが暗殺されたのは2001年9月9日。自分がマスードの本を読んでいる時に本人が亡くなったかもしれない思うと、当時何とも遣り切れない気持ちになった。彼が生きていれば、アフガニスタンは違った形で復興への道を歩んだことだろう。

※マスードの弟であるアフマド・ズィヤ・マスード( Ahmad Zia Massoud )は2004年からアフガニスタン第一副大統領に就任した(2009年まで)。



 不思議なことに、自分をボランティアに誘った旅行者と出会ったのは、Hunza (フンザ)(パキスタン)だった。この村の目と鼻の先にアフガニスタンがある。



 ここまでの話なら【偶然】の一言で済まされてしまいそうだが、この話にはまだ続きがある。
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(219)ニューヨーク③(アメリカ)

2013-01-24 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)滞在中にリバティ島にある自由の女神像(世界遺産)(正式名称は【世界を照らす自由】( Liberty Enlightening the World ))も見学している。

 ロウアー・マンハッタンからリバティ島に立ち寄り見学できるフェリーは当時早朝8:30出発のものしかなかった(現在見学可能か状況は不明)。
 期待に胸を膨らませながらフェリーに乗ってリバティ島へ。

 自由の女神像は、高さ93m(台座部分含む)、総重量225トン、1886年に完成。アメリカ合衆国の独立100周年を記念し、フランス人の募金によって贈呈されたものであり、自由の国アメリカの象徴となっている(自由の女神のモデルとなったのはフランス共和国を象徴する女性像マリアンヌ)。

 旅日記には、王冠部分までは行かなかったが、途中まで階段を昇ったという記述がある(どこまで上がったかは覚えていない)。予算的な関係で断念したと思われるが、今となっては多少無理をしてでも行っておけば良かったと思う。

 この後、フェリーはエリス島へ寄港しているが、エリス島移民博物館の見学も断念している。

 また次の機会に・・・そう自分に言い聞かせてそれっきり再訪していない場所が結構な数で存在する。
 【一期一会】とは人だけでなく、場所にも通じる言葉のような気がする。

 

 訪問から約1年後の2001年9月11日、NY同時多発テロが発生。多くの方々が亡くなられた。

 自分が訪問した地が想像も出来ないような大惨事に見舞われた時、ブラウン管に映る光景を信じることが出来なかった。

 今でも時々思う。あの時もしかしたら自分がそこにいたかもしれないのだと。

 亡くなられた方々の御冥福をお祈り申し上げます。



※関連する記事はこちらこちら
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おまけ(その31) ANIMA

2013-01-17 23:55:55 | おまけ
(218)ニューヨーク②(アメリカ)のおまけ記事



 ANIMA の曲を紹介したい。
 ANIMA というアーティストについては詳細不明で動画も見つからなかったが、デヴィッド・アーカンストーン(アメリカのミュージシャン)が彼らの曲をカバーした動画が投稿されていたので紹介させて頂く。

 ちなみに購入した ANIMA のアルバム(“ ancient voices ”)は、かつてフォー・コーナーズに暮らしていた先住民達に捧げられたものらしい。

※フォー・コーナーズ…アメリカ西部にある、四つの州(ユタ州(北西)、コロラド州(北東)、ニューメキシコ州(南東)、アリゾナ州(南西))の境界線が集まった地域。

※ ANIMA のカバー曲“ Dream Catcher ”(デヴィッド・アーカンストーン)こちら



 また、先住民つながりで下記の曲も紹介させて頂きたい。

Sacred Spirit“ Yeha-Noha ( Wishes of Happiness & Prosperity )”こちら
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(218)ニューヨーク②(アメリカ)

2013-01-10 23:55:55 | アメリカ・エピローグ
 New York (ニューヨーク)に滞在中にジョージ・グスタフ・ヘイ・センター(国立アメリカン・インディアン博物館の別館)を訪問している(2004年に Washington, D.C.(ワシントンD.C.)に国立アメリカン・インディアン博物館が開館してから別館と呼ばれるようになったと思われ、当時はここが本館だった)。
 この建物はかつて税関として利用されていた重要文化財らしく、立派な建物の中にアラスカから南米までのアメリカ大陸の先住民の文化が紹介されていた。

 この旅最後の目的地イロコイ族の居留地について職員(高齢の女性で風貌から彼女もまた先住民の血を引くと思われた)に尋ねてみた。
 どこにいけばイロコイ族に会えるか情報が欲しかったのだが、彼女は一言「彼らは訪問を歓迎しない」と言う。理由について尋ねても歓迎しないと繰り返すのみで教えてくれなかった。



 この博物館で印象に残っているのはケヴィン・コスナー(俳優・映画監督)の協力によって提供されていた資料(先住民達の生活を記録した映像)だ。
 チェロキー族の血を引く彼は、自身が監督した映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』で、アカデミー賞最優秀作品賞最優秀監督賞を受賞している。

 また、ここで1枚のCDを購入している。ANIMA というバンドの“ ancient voices ”だ。先住民の音楽を現代風に表現したアルバムだった。

※ ANIMA のおまけ記事はこちら

 

 イロコイ族の居留地については、五大湖のほとりにあるという漠然とした情報以外、詳細が分からぬまま旅に出ていた(行けば分かるだろうという楽観的な考えだった)。
 不思議なことに、ニューヨーク滞在中に書店で手に入れた一冊の本によって目的地がはっきりと決まったのだった。
 その本のタイトルは『聖なる魂―現代アメリカ・インディアン指導者の半生』(朝日文庫)(デニス・バンクス森田ゆり共著)。この中にデニス・バンクスが Syracuse (シラキュース)(ニューヨーク州)郊外のオノンダガ国イロコイ族居留地(ネーション)に匿(かくま)ってもらったという記述がある。
 イロコイ族の居住地はアメリカ合衆国建国時の盟約により、現在も治外法権が認められている例外的な土地だそうだ。 
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