Amsterdam (アムステルダム)からベルギーの首都 Brussels ( Bruxelles )(ブリュッセル)まで列車で移動した。
夕方に到着してから宿探しを行ったがなかなか安宿が見つからない。結局ユース・ホステルに宿泊することにした。
ユース・ホステルは、高い物価の国で最もリーズナブルな宿の一つに挙げられるが、街の中心から離れたところに立地していることが多く、辿り着くのが大変なケースが多い(ブリュッセルのユースは比較的交通の便が良かった気がする)。
到着したのは夜20時頃だったと思う。滞在していた日本人旅行者と数日ぶりの日本語会話を楽しんだ。
翌朝、ブリュッセルの街の観光に出掛けた。
ブリュッセルは、欧州連合(EU)の主要機関が置かれるなど、欧洲の政治の拠点の一つであり、その美しさから【小さなパリ】とも呼ばれている。
フランス語とオランダ語の2言語地域の為、街中にある看板・標識などは、フランス語・オランダ語の2ヶ国語表示になっている。
ブリュッセルの名前は、オランダ語で【沼地の村】を意味する【ブルークゼーレ】に由来する。
この地には、新石器時代の紀元前2250年ごろから農耕民族が暮らしていたらしい。紀元前にローマの属領となり、その後ローマの支配地域が広がっていった。
この地は地理的条件にも恵まれており、他国との交易の要衝として栄えた(繁栄を極めるのは12世紀以降)。
その後、1477年にハプスブルク家の領地となったが、1555年にフェリペ2世(1527年~1598年)が神聖ローマ皇帝兼スペイン王に即位すると、プロテスタントを中心にブリュッセル市民はこの新しいスペインのカトリック君主に対し反乱を起こした(この後プロテスタントの信奉者が増加していく)。この宗教的対立は、プロテスタントの反乱、宗教改革へとつながっていった。
1576年にスペインの支配を脱し、ネーデルラント連邦共和国(1580年頃~1795年)に入ったが、1585年にスペイン軍に攻略され、再びスペイン領ネーデルラントとなる。
1792年にフランス革命軍によって占拠され、ナポレオン戦争が終結する1815年までフランスの支配下となった。
1815年のウィーン議定書によって、現在のベルギーとオランダを含むネーデルラント連合王国(1815年~1830年)の都市となった。
1830年にベルギー独立革命が起こった際、ブリュッセルはその中心地となり、1831年にベルギー王国の首都となった。
ブリュッセルで観光したのは下記の通り。
・グラン・プラス(世界遺産) 110m×70mの大広場。周囲をギルド(職業別組合)ハウスに囲まれている。現在の建物は1695年にフランス軍の攻撃を受け破壊された後に建て直されたもの。ヴィクトール(=マリー・)ユーゴー(1802年~1885年)(詩人、小説家、政治家)が【世界で最も美しい広場】と賞賛し、ジャン・コクトー(1889年~1963年)(芸術家、詩人、小説家、映画監督)も【豊饒(ほうじょう)(豊かな土地の意)の広場】と称(たた)えている。
・小便小僧 【ブリュッセルの最長老市民】である小便小僧は、1619年に彫刻家ジェローム・デュケノワ(1570年?~1641年?)によって制作された。制作の由来は諸説あるが、一つは侵略者が城壁を爆破しようとしかけた爆弾の導火線を小便で消し、町を救った少年(ジュリアン)がいたという説が【ジュリアン坊や】という愛称の由来になっている。衣装持ち(世界中から贈られてくる)で有名だが、この時は服を着ていなかった。近所に小便少女もある。
・王宮 かつてこの地を治めていたブラバント公爵の館の一つを、ベルギー国王レオポルド2世(1835年~1909年)(在位1865年~1909年)が改築したもの。
ガイドブックや地図をもたずに散策した為、時間のロスが多かった。
実は5年前にトランジットでブリュッセルに滞在したことがあり、その時グラン・プラス周辺を訪問したので、自分の記憶を過信していたところがあったと思う。
訪問を予定していた王立美術館などをカットして午後から日帰りで Luxembourg (ルクセンブルク)(ルクセンブルク(大公国))に出掛けている。
※地図はこちら
夕方に到着してから宿探しを行ったがなかなか安宿が見つからない。結局ユース・ホステルに宿泊することにした。
ユース・ホステルは、高い物価の国で最もリーズナブルな宿の一つに挙げられるが、街の中心から離れたところに立地していることが多く、辿り着くのが大変なケースが多い(ブリュッセルのユースは比較的交通の便が良かった気がする)。
到着したのは夜20時頃だったと思う。滞在していた日本人旅行者と数日ぶりの日本語会話を楽しんだ。
翌朝、ブリュッセルの街の観光に出掛けた。
ブリュッセルは、欧州連合(EU)の主要機関が置かれるなど、欧洲の政治の拠点の一つであり、その美しさから【小さなパリ】とも呼ばれている。
フランス語とオランダ語の2言語地域の為、街中にある看板・標識などは、フランス語・オランダ語の2ヶ国語表示になっている。
ブリュッセルの名前は、オランダ語で【沼地の村】を意味する【ブルークゼーレ】に由来する。
この地には、新石器時代の紀元前2250年ごろから農耕民族が暮らしていたらしい。紀元前にローマの属領となり、その後ローマの支配地域が広がっていった。
この地は地理的条件にも恵まれており、他国との交易の要衝として栄えた(繁栄を極めるのは12世紀以降)。
その後、1477年にハプスブルク家の領地となったが、1555年にフェリペ2世(1527年~1598年)が神聖ローマ皇帝兼スペイン王に即位すると、プロテスタントを中心にブリュッセル市民はこの新しいスペインのカトリック君主に対し反乱を起こした(この後プロテスタントの信奉者が増加していく)。この宗教的対立は、プロテスタントの反乱、宗教改革へとつながっていった。
1576年にスペインの支配を脱し、ネーデルラント連邦共和国(1580年頃~1795年)に入ったが、1585年にスペイン軍に攻略され、再びスペイン領ネーデルラントとなる。
1792年にフランス革命軍によって占拠され、ナポレオン戦争が終結する1815年までフランスの支配下となった。
1815年のウィーン議定書によって、現在のベルギーとオランダを含むネーデルラント連合王国(1815年~1830年)の都市となった。
1830年にベルギー独立革命が起こった際、ブリュッセルはその中心地となり、1831年にベルギー王国の首都となった。
ブリュッセルで観光したのは下記の通り。
・グラン・プラス(世界遺産) 110m×70mの大広場。周囲をギルド(職業別組合)ハウスに囲まれている。現在の建物は1695年にフランス軍の攻撃を受け破壊された後に建て直されたもの。ヴィクトール(=マリー・)ユーゴー(1802年~1885年)(詩人、小説家、政治家)が【世界で最も美しい広場】と賞賛し、ジャン・コクトー(1889年~1963年)(芸術家、詩人、小説家、映画監督)も【豊饒(ほうじょう)(豊かな土地の意)の広場】と称(たた)えている。
・小便小僧 【ブリュッセルの最長老市民】である小便小僧は、1619年に彫刻家ジェローム・デュケノワ(1570年?~1641年?)によって制作された。制作の由来は諸説あるが、一つは侵略者が城壁を爆破しようとしかけた爆弾の導火線を小便で消し、町を救った少年(ジュリアン)がいたという説が【ジュリアン坊や】という愛称の由来になっている。衣装持ち(世界中から贈られてくる)で有名だが、この時は服を着ていなかった。近所に小便少女もある。
・王宮 かつてこの地を治めていたブラバント公爵の館の一つを、ベルギー国王レオポルド2世(1835年~1909年)(在位1865年~1909年)が改築したもの。
ガイドブックや地図をもたずに散策した為、時間のロスが多かった。
実は5年前にトランジットでブリュッセルに滞在したことがあり、その時グラン・プラス周辺を訪問したので、自分の記憶を過信していたところがあったと思う。
訪問を予定していた王立美術館などをカットして午後から日帰りで Luxembourg (ルクセンブルク)(ルクセンブルク(大公国))に出掛けている。
※地図はこちら