Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(190)ブリュッセル(ベルギー)

2012-05-17 23:51:32 | ドイツ・オランダ・ベルギー
 Amsterdam (アムステルダム)からベルギーの首都 Brussels ( Bruxelles )(ブリュッセル)まで列車で移動した。
 夕方に到着してから宿探しを行ったがなかなか安宿が見つからない。結局ユース・ホステルに宿泊することにした。
 ユース・ホステルは、高い物価の国で最もリーズナブルな宿の一つに挙げられるが、街の中心から離れたところに立地していることが多く、辿り着くのが大変なケースが多い(ブリュッセルのユースは比較的交通の便が良かった気がする)。
 
 到着したのは夜20時頃だったと思う。滞在していた日本人旅行者と数日ぶりの日本語会話を楽しんだ。


 
 翌朝、ブリュッセルの街の観光に出掛けた。

 ブリュッセルは、欧州連合(EU)の主要機関が置かれるなど、欧洲の政治の拠点の一つであり、その美しさから【小さなパリ】とも呼ばれている。
 フランス語オランダ語の2言語地域の為、街中にある看板・標識などは、フランス語・オランダ語の2ヶ国語表示になっている。

 ブリュッセルの名前は、オランダ語で【沼地の村】を意味する【ブルークゼーレ】に由来する。

 この地には、新石器時代の紀元前2250年ごろから農耕民族が暮らしていたらしい。紀元前にローマの属領となり、その後ローマの支配地域が広がっていった。
 この地は地理的条件にも恵まれており、他国との交易の要衝として栄えた(繁栄を極めるのは12世紀以降)。
 その後、1477年にハプスブルク家の領地となったが、1555年にフェリペ2世(1527年~1598年)が神聖ローマ皇帝兼スペイン王に即位すると、プロテスタントを中心にブリュッセル市民はこの新しいスペインのカトリック君主に対し反乱を起こした(この後プロテスタントの信奉者が増加していく)。この宗教的対立は、プロテスタントの反乱、宗教改革へとつながっていった。
 1576年にスペインの支配を脱し、ネーデルラント連邦共和国(1580年頃~1795年)に入ったが、1585年にスペイン軍に攻略され、再びスペイン領ネーデルラントとなる。
 1792年にフランス革命軍によって占拠され、ナポレオン戦争が終結する1815年までフランスの支配下となった。
 1815年のウィーン議定書によって、現在のベルギーとオランダを含むネーデルラント連合王国(1815年~1830年)の都市となった。
 1830年にベルギー独立革命が起こった際、ブリュッセルはその中心地となり、1831年にベルギー王国の首都となった。



 ブリュッセルで観光したのは下記の通り。

グラン・プラス(世界遺産)  110m×70mの大広場。周囲をギルド(職業別組合)ハウスに囲まれている。現在の建物は1695年にフランス軍の攻撃を受け破壊された後に建て直されたもの。ヴィクトール(=マリー・)ユーゴー(1802年~1885年)(詩人、小説家、政治家)が【世界で最も美しい広場】と賞賛し、ジャン・コクトー(1889年~1963年)(芸術家、詩人、小説家、映画監督)も【豊饒(ほうじょう)(豊かな土地の意)の広場】と称(たた)えている。



小便小僧  【ブリュッセルの最長老市民】である小便小僧は、1619年に彫刻家ジェローム・デュケノワ(1570年?~1641年?)によって制作された。制作の由来は諸説あるが、一つは侵略者が城壁を爆破しようとしかけた爆弾の導火線を小便で消し、町を救った少年(ジュリアン)がいたという説が【ジュリアン坊や】という愛称の由来になっている。衣装持ち(世界中から贈られてくる)で有名だが、この時は服を着ていなかった。近所に小便少女もある。

王宮  かつてこの地を治めていたブラバント公爵の館の一つを、ベルギー国王レオポルド2世(1835年~1909年)(在位1865年~1909年)が改築したもの。



 ガイドブックや地図をもたずに散策した為、時間のロスが多かった。 
 実は5年前にトランジットでブリュッセルに滞在したことがあり、その時グラン・プラス周辺を訪問したので、自分の記憶を過信していたところがあったと思う。
 
 訪問を予定していた王立美術館などをカットして午後から日帰りで Luxembourg (ルクセンブルク)(ルクセンブルク(大公国))に出掛けている。

※地図はこちら

(189)アムステルダム(オランダ)

2012-05-10 23:55:55 | ドイツ・オランダ・ベルギー
 Berlin (ベルリン)から夜行列車に乗り、翌早朝にオランダの首都 Amsterdam (アムステルダム)に到着した。
 夜行列車で2等客車に乗る場合、熟睡できることは少ない。眠りながらも盗難防止の意識を張っているからだ。浅い眠りの繰り返しになるのだが、今回はそれすら厳しかった。
 乗客達がずっとおしゃべりしていた為(眠っているのは少数だった)、ウォークマンで音楽を聞きながら眠ろうとしたが、おしゃべりの音を聞こえなくする為には音楽を大音量にしなければならず、結局ほとんど眠れなかった。今晩は宿に泊まろうと思う。



 旅行者達は、この街のことを省略して【アムス】と呼んでいた。

 アムステルダムは、オランダのビジネスの中心地であり、観光地としても有名だ。
 ちなみにオランダの政治の中心地はアムスの南西約60kmに位置するオランダ第3の都市 Den Haag (デン・ハーグ)だそうだ。

 この街の成り立ちは、13世紀に遡る。
 アムステル川の河口にダムが築かれ、元々は小さな漁村だった場所に街が築かれた。伝説によると、犬を連れた2人の猟師がアムステル川の川岸に上陸して築いたということになっている。【アムステルのダム】(アムステル川をせき止めたダム)というのが街の名前の由来。

 1287年12月14日、ゾイデル海において【聖ルチア祭の洪水】と呼ばれる大水害が起こった。これによってゾイデル海は大きく拡大し、北海へと開口した。
 この出来事はゾイデル海の一番奥に位置するアムステルダムが海陸の接点として注目されるきっかけとなった(現在アムステルダムは長い北海運河によって北海と接続されている)。
 その後、1300年(1301年)に自由都市となり、15世紀にはバルト海交易の中心地となり、海運貿易の港町として発展していく。17世紀に最盛期を迎えたアムステルダムの街は、第二次世界大戦中の1940年にナチスドイツの占領下に置かれるが、戦後復興を遂げ、現在でも商業(ビジネス)の街として世界的にも高く評価されている(世界都市ランキング(ビジネス分野)第10位)。



 また、アムステルダムは移民の街としても有名で、5割以上をオランダ外からの移民が占めている(若年層にその傾向が強い)。多民族国家としての問題を抱えながらも今後更なる発展を遂げるだろう。



 この街で観光したのは下記の通り。

王宮  1655年に市庁舎として建てられた。その後フランスの統治下において王宮として使用され、現在もオランダ王家の王宮としての役割を果たしている。

マヘレのハネ橋  この街に現存する木製のハネ橋の一つ。川の多いオランダならではの光景だ。

アンネ・フランクの家  ナチスドイツの侵攻2年後の1942年から、アウシュビッツ強制収容所に送られた1944年までの2年間、アンネ・フランク一家が過ごした家が現在博物館になっている。『アンネの日記』に登場する15分毎に1回鐘を鳴らす教会(西教会)もすぐそばにある。ここで起こったことは悲劇だと思うし、二度と繰り返してはならないことだと思う。しかしなぜか今思い返すとこの家に暗い印象は残っていない。明るく前向きに生きようとしたアンネの想いがこの家に残っているからかもしれない。15歳で亡くなった彼女の魂のご冥福を祈りたい。



国立ゴッホ美術館  オランダの生んだ偉大な画家(後期印象派)(フィンセント・ファン・)ゴッホ(1853年~1890年)の作品が数多く展示されている。また、ゴッホに影響を与えた画家達の作品も展示されている。ここに展示されているのは有名な絵画ばかりだが、個人的には『種をまく人』((ジャン=フランソワ・)ミレー(1814年~1875年)に影響を受けた作品)が一番印象に残っている。

 この街で押さえておきたかったのは、アンネ・フランクの家と国立ゴッホ美術館だった。国立博物館にも行きたかったのだが、夕方までに Brussels ( Bruxelles )(ブリュッセル)(ベルギー)に着きたかったので、今回は諦めた。



 この日の旅日記には、アンネ・フランクの言葉を書き記している。

 「ときどき私は、神様が私を試そうとしていらっしゃる、そう考えることがあります。今もそう考えますし、将来もそれは変わらないでしょう。」

※地図はこちら

(188)ベルリン(ドイツ)

2012-05-03 23:55:55 | ドイツ・オランダ・ベルギー
 Bern (ベルン)から夜行列車に乗り、ドイツの首都 Berlin (ベルリン)に翌早朝に到着した。

 2夜連続で夜行列車に乗っていた為、シャワーを浴びたかった。すると運良くベルリン中央駅の構内にシャワー室を発見した。
 しかし、営業時間を過ぎているにもかかわらず、掃除のおばちゃんがシャワー室の鍵を開けてくれない。掃除をするのを面倒くさがっているように思えた。
 だからといって、ここで引き下がるわけにはいかない。どうやって交渉したか忘れてしまったが、なんとか開けてもらいシャワーを浴びた。新しい下着に着替え服も交換した。
 夜行列車は2等客車だった為、熟睡出来ずに疲れを感じていたのだが、シャワーを浴びたことによってリフレッシュ出来たような気がした。
 朝食をマクドナルドで済ませ(日本並みの物価の国では、マクドナルドの値段の安さが魅力だった)、ベルリンの街の観光に出掛けた。



 ベルリンの名が歴史に登場するのは1244年。1448年にはブランデンブルク辺境伯(ブランデンブルク選帝侯)フリードリヒ2世(1413年~1471年)(在位1440年~1471年)が Brandenburg (ブランデンブルク)からベルリンに宮殿を移した。
 1871年にプロイセン王国(1701年~1918年)国王ヴィルヘルム1世(1797年~ 1888年)(在位1861年~1888年)が初代ドイツ皇帝となり(在位1871年~1888年)、ドイツ帝国(1871年~1918年)が成立した際ベルリンはその首都となった。
 その後、第一次世界大戦(1914年~1918年)でドイツ帝国は崩壊し、戦後はワイマール共和国(1919年~1933年)の首都となった。
 ヨーロッパの芸術・学問の中心として栄えたベルリンだったが、1933年にナチスが政権を奪取してから、政策によって文化が衰退していった。
 第二次世界大戦(1939年~1945年)ではナチス・ドイツの最後の戦場となり、街は徹底的に破壊された(ベルリン市街戦)
 第二次世界大戦後、ベルリンの街は東西冷戦の象徴ともいうべき分割統治となった。
 ベルリンの周辺地域は旧ソビエト連邦(ソ連)の占領地域となったが、ベルリンの西側(米英仏3ヶ国占領地域)は飛地、西ベルリンとなった(その後、西ベルリンの統治権は西ドイツに移った)。
 1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊するまでこの状態は続いた。



 ベルリンで観光したのは下記の通り。

ブランデルブルク門  プロイセン王国の凱旋門として1791年に完成(ドイツ古典主義建築)。東西ドイツ分裂時代には、すぐそばに壁が築かれ門をくぐることができなかった。ここを訪問したのは夕方近くにだったが、犬の為のデモ行進が行われていた。



ベルリン大聖堂  プロイセン公国(1525年~1701年)の統治者であるホーエンツォレルン王家の記念教会(墓所がある)。16時過ぎに訪問したところ閉まっていて中には入れなかった。

森鴎外記念館  森鴎外(1862年~1922年)が留学中(1884年~1888年)に滞在していた下宿が現在記念館となっている。10時~14時までの開館ということを知らず、訪問時(14時すぎ)には閉まっていた。

カイザー・ヴィルヘルム記念教会  初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を記念して19世紀末に建てられた教会(ネオロマネスク様式)。1943年の空襲で破壊された跡が残っている。礼拝堂を参拝している間、背中がビリビリした。とても神聖な空間だった。

壁博物館  ベルリンの壁の歴史を様々な写真や映像、展示物で振り返ることができる。ベルリンの壁の崩壊を遠い昔のことのように感じたが、実際はわずか10年ほどしか経過していなかった。壁のかけらをカプセルケースに入れたポストカードを購入したが現在手元には残っていない。



 ベルリンの街は広く、丸一日あっても周りきれなかった。
 バスなどの交通費を倹約した為、徒歩(サンダルばき)で合計10km以上歩いたと思う。
 履いていたサンダルは革製でしっかりとした作りのものだったが、凸凹のある歩道(石畳)を歩くのには向かなかった(足が痛くなった)。
 靴を履かなかったのは、夏場に一日中歩くと足が蒸れるから(足の臭いも気になる)。
 きちんと宿に泊まりシャワーを浴びるならともかく、夜行列車の移動が続く時はなるべく履かないようにしていた。
 結果的に、博物館の島(ムゼウムスインゼル)(世界遺産)や、新ナショナルギャラリーを周ることはできなかった。
 ガイドブックを持っていればもっと計画的に周れたかもしれない。

 またいつの日かベルリンの街を訪れてみたいと思う。

※地図はこちら