Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(132)アカバ(ヨルダン)

2011-01-27 00:18:20 | シリア・レバノン・ヨルダン
 Petra (ペトラ)(世界遺産)近郊の街、Wadi Musa (ワディ・ムーサ)に2泊した後、次の目的地 Aqaba (アカバ)へ向かった(バスで Ma'an (マーン)の街を経由して1.5時間位で着いたと思う)。



 ヨルダンで唯一外海(紅海)に接するアカバは、物資調達の面で戦略的に重要な土地であり、近隣諸国との海上交通の要所・海洋貿易の一大拠点となっている。
 気温20℃を下らない温暖な気候で、雨も少ないためリゾート地としても人気の場所だ。



 紀元前4000年頃からこの街は存在しており、初期の集落は聖書によるとエラトと呼ばれていた。エドム人(エドマヤ人)(セム系)、後にはナバテヤ人(アラブ系)の交易の中心地であった。

 その後、支配された王朝によって街の名前が変わっている(ベレニケ(プトレマイオス朝(紀元前306年~紀元前30年))、アエラナ(アイラ)(ローマ帝国))。

 ヨーロッパ・アジア・アフリカをつなぐ海上交易の要衝であり、重要な軍軍事拠点であることもあり、様々な王朝の支配下に置かれてきた。

 この街は、第一次世界大戦中に起こったアラブ反乱(オスマン帝国に対するアラブ人の反乱)の際、アラビアのロレンス( Thomas Edward Lawrence (トーマス・エドワード・ロレンス)(1888年~1935年)の活躍の舞台となっている。

 (写真はロレンス、アカバにて)



 この街では特に観光をしていない。

 ペトラほどではないが、ここもツーリスティックで物価が高かったと旅日記に書き記している。
 そして夜景が美しかったと書いている。アカバからはイスラエルの街 Eilat (エイラット、エイラート)が間近に見れた。



 この街には1泊だけしてすぐに旅立った。次の訪問国はエジプトだ。

※地図はこちら

(131)ペトラ(ヨルダン)

2011-01-20 23:55:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 次の目的地は Petra (ペトラ)(世界遺産)だった。

 ペトラは観光客にとって悪名高き土地だ。遺跡は素晴らしいのだが、物価は観光地価格になっており、あまり居心地はよくない。



 首都 Amman (アンマン)からペトラ近郊の街 Wadi Musa (ワディ・ムーサ)まではバスで3時間。
 料金のことでもめてバスを2本遅らせたのだがこの時すでにその洗礼を浴びていたと言ってもいいかもしれない。
 
 もめた原因は大したことではない。車掌が事前に調査しておいた料金より高い言い値を言ってくるので言い争いになったのだった。
 結局、欧米人旅行者が支払った値段と同額ということで双方が納得した(変な話だが日本人はお金を持っていると思われ、旅行者の中でも一番高い料金を請求されるのでいろいろ面倒だ)。
 これで一段落と思っていると、今度は荷物代まで請求してきた。
 こんなことでずっともめているのも面倒になってしまった。たかだか合計300円の為に1時間以上足止め状態になっているのだ。仕方なく自分を納得させて先方に荷物代を支払った。
 腹を立てた理由、それは金額うんぬんより、足もとを見られている感じが嫌だったのだろう。
 実際、到着したペトラの街は観光地ずれしていて、滞在中お金のことでずっと嫌な思いをした記憶がある。



 ギリシャ語【岩】を意味するペトラには、紀元前1世紀頃から遊牧民のナバタイ(ナバテア)人ベトウィン達が住んでいたという記録が残っている(遺跡内でベトウィンの家族を見かけたが、ここで暮らしているのかもしれない)。
 この地は交通の要衝として中継基地の役割を果たし栄えたらしい。スパイス交易の拠点にもなった。
 治水システムに特徴があり、完全な岩礁地帯である為様々な工夫がなされている(ダム水道管を設置したことが分かっている)。

 紀元前からローマ帝国の影響下にあったが、西暦106年にローマ帝国の属州となった。
 その後363年の大地震で壊滅的な打撃を受け、6世紀には廃墟となったらしい。

 1812年にスイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトが、この地をヨーロッパへ紹介してペトラは再び脚光を浴びた。
 19世紀の英国の詩人・旅行家ディーン・バーゴン「時の刻みと同じくらい古いバラ色の都市」と表現している。
 20世紀初頭から発掘調査が行われ始めたが、その大部分が未調査のままだと言う。



 ペトラ到着後、シークと呼ばれる岩の裂け目を続く道を歩いていくと突然視界が開ける。



 そこには崖を削って造られた宝物殿エル・ハズネ(高さ約43m、幅約30m)があり、観光客を考古学のロマンへと誘(いざな)う。ここは映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台にもなった場所として有名だ。
 建物の外壁の一番上に乗っている壺の中に宝物が隠されていると信じられていた為に宝物殿と呼ばれたらしい。



 光量の変化に伴い1日に50色ものバラ色を見せると言われている。



 その先にはローマ円型劇場(5千人収容)があり、右手には王家の墓と呼ばれる岩窟墓群がある(アーンの墓シルクの墓コリンシアンの墓宮殿の墓(四つの墓の中で最大))。

 かなり広大な遺跡なのでじっくり見るには2日は必要だと思う。
 自分は途中歩き疲れて昼寝をしている。2時間も寝てしまい、すっかり日焼けしてしまった。

 その後、カスール・アル・ビント(オアシスの豊穣を司ると言われるナバテア人の主神ドゥサレス(ナバテア語でドゥシャラ)を祭った寺院、カスールとは【城】の意)の隣にあるエル・ハビス博物館へ(正直あまり印象に残っていないのは遺跡の方がインパクトがあったからだろう)。
 ちなみに最新のガイドブックを見ると、現在エル・ハビス博物館の名前はなく、二つの博物館(ペトラ考古学博物館、ペトラ・ナバテア博物館)の記述がある。

 その後、ライオン・トリクリニウム(岩窟墓)を見学し、最後のクライマックスエド・ディルを見学した。ここは高さ約45m、幅約50mとエル・ハズネより大きい神殿だ。
 ディルとは【修道院】を表しており、ここはかつて修道院だった場所でもある。
 近くの丘からは、アラバ渓谷ジャバル・ハルーン山(モーゼの兄アロンの墓がある)が見渡せた。



 正直言って遺跡には飽きていたが、エル・ハズネと遺跡の広大さは今でも印象に残っている。



※地図はこちら

(130)死海(ヨルダン)

2011-01-13 23:55:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 首都 Amman (アンマン)を拠点にして死海( Dead Sea )(ヨルダン側)にも行っている。

 アンマンで海水パンツを購入したのはまさにこの為で、子供のような好奇心で死海に向かった。
 この時、旅仲間の中田さん(仮名)(参考記事はこちら→ Antakya (アンタクヤ)(トルコ)、Damascus (ダマスカス)(シリア))と行動を共にしている。



 死海までバスで所要1時間程。早速水着に着替えて海に入った。

 死海は、地球上で最も低い海抜にある海(およそマイナス400m)で、その塩分濃度は通常の約10倍(30%程)あると言われている。その塩分濃度の為生物は生息していない

 海水をじっくり見てみた感想。
 うまい例えが見つからないが、理科の実験でビーカーに塩の水溶液を作りかき回せた時の感じに似ている。水に溶けた塩(の流れみたいなもの(モヤモヤした感じ))を見ることが出来た。

 泳いでみると楽に水に浮く。中田さんはカナヅチらしいのだが、ここでは泳げるそうだ。
 仰向(あおむ)けに水に浮かんで空を眺めた。足も沈まないし、手や足を動かす必要もない。とても不思議な感覚だった。目に見えない浮輪に乗っているみたいだ。

 しばらく泳いでいると、皮膚の弱い部分がヒリヒリし始めた。傷があったら痛くて水に入れなかったと思う。まさしく傷口に塩を塗ることになるからだ。



 余談になるが、この日は水星・金星・火星・木星・土星・月・太陽の7天体が、地球の中心から見て25度53分の角度内におさまるという天文学的に興味深い日だったので、惑星同士が一番近い角度になる時刻に太陽の写真を撮影している。



 高濃度の海水に漬かった皮膚が音(ね)を上げ始めたので、泥パックをしながらビーチに横になった。
 このビーチの名前は覚えていないが(アンマン・ビーチかもしれない)、外国人観光客や地元の人々が数多く訪れていた。
 美容の為泥パックをしている人がツーリストに多かったが、地元の人々は普通に海水浴をしているようだ(肌を露出しているのは男性のみ)。大音量のアラビア音楽を流しながら(昼寝をしようと思ったがうるさくて出来なかった)。

 しばらくして再び海に入ったが、やはり皮膚がヒリヒリしたので海水浴を切り上げようと思った。
 しかし、中田さんは生まれて初めて泳げたことが嬉しいらしく、いつまでも泳ぎたそうにしていたので彼の納得のいくまで泳いでもらうことにした(バックパッカーには時間だけが十分ある)。



 ビーチ近くにシャワーなどの設備が無かった為(現在の状況は不明)、近くの温泉に行くことにした。確かタクシーかセルビス(ミニバス)で10~15分位かかったと思う。行き先は、Hamamat Ma'in (ハママート・マイン)と呼ばれる温泉だ。

 死海の塩分・鉱分濃度が高い理由は、死海の水が外に流れ出ない為らしい(太陽の熱で水分が蒸発し塩分・鉱分が凝縮する)。
 その他の理由として、ヨルダン側にある多数の温泉のミネラルが流れ込んでいることも上げられる。



 ハママート・マインに到着すると多くの子供達で賑わっていた。死海と同様、水着で肌を露出しているのは男性だけで、女性は服のまま入浴していた。イスラムの戒律は徹底している。
 ここには滝があり、温水シャワー代わりに滝に打たれたのだが、水量は適量を越えているので痛い。しかしとても気持ち良かった。塩漬けされ縮んでいた皮膚が伸びる感じだ。

 すっかり肌がつるつるになった感じがして、これは女性に人気が出るわけだと中田さんと体験談を語り合いながら、アンマンに戻ることにした。なかなか貴重な経験だったと思う。

※地図はこちら

(129)アンマン(ヨルダン)

2011-01-06 23:40:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 次の目的地はヨルダンの首都 Amman (アンマン)だった。シリアの首都 Damascus (ダマスカス)からアンマンまでは列車で行くことにした。

 個人的にはバスより列車の旅の方が好きだ(これは感覚的なものだと思う)。そのせいか旅先の国において少なくとも1回は列車や地下鉄に乗るようにしていた。 
 しかし、国際列車というのは国境審査が大変でスムーズにはいかないことが多い。今回はかなり手間取った。
 国境で数時間待たされた為、ダマスカスを朝8時に出発したのにアンマン到着は18時と10時間かかっている。



 この街には約1週間滞在している。観光したのは下記の通り。

ローマ劇場  Bosra (ボスラ)(世界遺産)のものよりは小さいが、ヨルダン最大のローマ劇場。思った以上に大きかった。夏場にはコンサートも開かれる。

アンマン城  ダウウンタウンを見下ろす山ジャバル・アル・カラーの山頂にある城跡。古代から要塞としての役割を果たしていた。ここからアンマンの夜景を見たが、ローマ劇場の美しさが印象に残っている。

 また、この街では古着が安く販売されており、シャツ海水パンツを数百円で購入している。
 旅立つ前に用意した海水パンツは陽(阳)朔( Yang Shuo )(ヤンシュオ)(中国)で参加した鍾乳洞ツアーで泥だらけになり、宿の従業員にゴミと間違われて捨てられていたので、これから死海( Dead Sea )に行くにあたって、海パンを購入する必要があった。

 他には日本大使館(ここには新聞が無かった)や、イラク大使館に行っている。
 イラクに行きたいという旅人がいたので、ビザを発給してもらえるか一緒に確認に行ったのだった(予想通り断られた)。
 記念にイラクの紙幣を両替商で手に入れてイラク行きを諦めたのだが、あの時ビザを発給してもらえていたら、自分もイラクに行っていたかもしれない(現実的には残金の不安もあったし、先を急いでいたので何とも言えないが)。



 後年(2004年)、イラクを訪れた青年香田証生さんがテロリストに殺害されるという痛ましい事件が起こった。自己責任という冷たい響きの言葉が今でも記憶に残っている。あの時、自分が彼と同じ立場になっていたかもしれないと考えると、人ごととは思えなかった。

 余談になるが、今週末サッカーアジアカップ(AFCアジアカップ2011)ヨルダン戦が行われる。
 サッカーつながりになるが、当時先を急いでいたのはモロッコで行われる第3回ハッサン2世国王杯を観戦したかったから。
 旅の予定にモロッコは含まれていなかったが、トルシェジャパンの参加が決まった時点で試合観戦に行きたくなっていた。当時は大会に間に合う方法を模索している最中でもあった。



 話が変わるが、ヨルダン国王アブドゥッラー2世(・ビン・アル=フセイン)(1962年~)(在位1999年~)について書いておきたい。

 ヨルダンの街中の至るところにアブドゥッラー2世の写真が飾られていた。
 好奇心旺盛で人懐っこそうな人柄が写真からも窺(うかが)い知れた。

 この街で国王夫妻のポストカードを購入している。国王の家族をポストカードとして販売している国は他にもあったが、一番印象に残っているのはヨルダン国王夫妻のものだ。

 アブドゥッラー2世のウィキペディア記事によると、国王は一般人に変装してお忍びで国民の生の声を聞かれる努力(極秘視察)をされているそうだ(変装がばれたこともある)。まるでヨルダン版水戸黄門だ。
 先代国王フセイン1世・ビン・タラール(1935年~1999年)も同様のことをされていたそうなので、国民から広く愛されているのも分かる気がした。

※国王アブドゥッラー2世のHP(英語)(アラビア語)はこちら

 (写真はアブドゥッラー2世とラニア王妃夫妻(ポストカードをスキャンした画像))



 最後に、旅日記より当時見た夢についての記述を紹介したい。日記にはこう書いてある。

 きょうだいの魂は近い→父と母は選べる

 今は、自分の魂が父と母を選んで生まれて来たと思っている(もう両親はこの世を去ってしまったが)。
 いつからこういう考え方をするようになったかは覚えていないが、自分の中で腑に落ちる瞬間があったのだと思う。

 夢というのは非常に意味深なメッセージを残すことがあるものだ。

※追記になるが、くしくもこの記事の投稿日と同じ日(1月6日)に、アブドゥッラー2世のご子息アリ・フセイン王子(1980年~)がFIFA(国際サッカー連盟)副会長選に初当選された。

※地図はこちら

(128)ボスラ(シリア)

2010-12-30 20:08:24 | シリア・レバノン・ヨルダン
 首都 Damascus (ダマスカス)を拠点として古代都市 Bosra (ボスラ)(世界遺産)にも出かけている。

 ボスラに行くには、Daraa ( Dera'a )(ダラー)(ダルアー)の街を経由していくのが行きやすい。乗り換えも含めてダマスカスからボスラまでは2時間位だ。

 ここはヨルダンとの国境も近いので、どうせならそのまま南下してヨルダンに行くつもりだった。その為ダラーの街で宿をとってからボスラへ行くことにした。。

 しかし、この街には空いているホテルが無かった。
 街の人にホテルの場所を聞いたが、ホテルの数が少ないらしい。何とかホテルを見つけても断られた。 
 相手の言う通り本当に部屋が無いのか、或いは見ず知らずの外国人を泊めたくないのか分からないが、とにかく諦めて一旦ダマスカスに戻ることにした。

 この街でホテルを探している間に声をかけた地元の青年が、昼食を御馳走してくれたのを覚えている。
 彼は警察官で寮に住んでいるらしい。寮に行って同僚(警察官達)と一緒に昼食を食べた。
 このまま泊めてくれないかと図々しいお願いをしようか迷ったが、夜まで時間があるし、彼らはこれから勤務に戻るということなのでダマスカスに戻るという判断をした(おそらく頼めば泊めてくれたと思うが)。



 翌日、再びボスラへ向かった。

 紀元前14世紀の頃からこの都市の記録が残っており、紀元前2世紀には、当時 Petra(ペトラ)(ヨルダン)を中心に栄えたナバテア王国最初の都市となっている。
 その後は、ローマ帝国やローマ帝国分裂後のビザンティン帝国の支配下で繁栄した。
 7世紀にイスラムの勢力下になり、12世紀頃には十字軍の攻撃に備え要塞化されたが、幹線道路から外れ、廃墟となった。
 ボスラはその歴史の通り、ローマ、ビザンティン、イスラムの諸様式を残した都市遺跡として人気を集めている。

 余談になるが、若き日のムハンマド(570年頃~632年)がボスラを訪れた際、アッシリア東方教会の修道士バヒラから将来預言者となることを告げられている。



 ボスラの街は全体的に黒っぽかった。これは遺跡に玄武岩を使用している為らしい。



 ここでは、シタデル・ローマ劇場コリント式円柱などを見学している。
 特にローマ劇場は音響的にも優れていることから現在でも演奏会等で使われている。

 更に近郊の遺跡の街 Shahba (シャハバ)にも行こうと思ったが、バスが無かった為諦めた。



 この日の朝ダマスカスの宿で目覚まし時計が壊れたので、ボスラ観光の帰りにダラーの街で新しい目覚まし時計を購入している。

 実は目ざまし時計が壊れる前に不思議なことがあった。



 この日の明け方に目覚めた時、3時45分だと分かった。目覚まし時計を見るとやはり3時45分だった。

 再び眠りについたのだが、朝にタイマーをセットしておいた目覚ましが鳴らなかった。時計が止まっている。電池を替えても動かなかった。



 ただこれだけのことなのだが、下記のことから旅日記に「何か意味があるのかもしれない」と書き記している。

①目覚めた時に時刻をピタリと当てたこと
②その時間が3時45分だったこと

 個人的に思うのは、3時40分前後というのは非常に奇妙であり不安定な時間帯ということだ。
 曲阜( Qu Fu )(チューフー)(きょくふ)(中国)でもそうだったし、以降の人生でも不思議な体験をすることの多い時間帯だった為、自然とそう思うようになっている。

※地図はこちら

(127)クネイトラ(シリア)

2010-12-25 23:55:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 首都 Damascus (ダマスカス)を拠点として Quneitra (クネイトラ)に出かけた。

 クネイトラは古代から人々が住んでいた歴史ある街で、オスマン帝国時代に隊商の中継地となった。
 イスラエル(イギリスから独立)とシリア(フランスから独立)の両国国境付近の街だった為、第二次大戦後のゴラン高原における戦略的に重要な都市としての位置付けがなされ、市場基地が置かれて人口も2万人を越えたらしい。

 この街がクローズアップされたのは6日間戦争(第三次中東戦争)(1967年)の時で、この時クネイトラはイスラエル軍に占領されている。
 1973年のヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)シリア軍が一時的に奪回したが、イスラエル軍の反撃にあって再度占領された。
 1974年にイスラエル軍が撤退した時には街並みは激しく破壊されていた。

 シリアはこの地をイスラエルの残虐行為を記録する街として修復せずに保存している。
 イスラエルは、プロパガンダのため故意にクネイトラを放置しているシリアの姿勢を非難している。



 現在、クネイトラは国連監視下における非武装地帯となっている。
 当時聞いた話では、クネイトラ地区の自衛隊はイスラエル軍、シリア軍とも45名ということだった(確認できたわけではないので真相の程は不明)。



 この地に行く為には、ダマスカスにある内務省の機関でパーミット(入域許可証)を申請する必要がある(パスポートが必要)。



 バスとタクシーを乗り継いで約1時間半かかってクネイトラに着くと、シリア人の公認ガイドが破壊された街を案内してくれた。

 まず案内されたのが、ゴラン病院跡だ。入口の看板にはシオニストに破壊され銃撃の対象になったと書かれていた。



 その後も周囲一帯の破壊された建物を見学した。
 戦争の悲惨さを肌で感じると共に、奇妙な違和感を覚えたのを覚えている。
 なぜかというと、そこが一大観光地(シリア国民の巡礼地)になっていたからだった。日本の小学校で言うならば社会科見学にあたるのだろうか、多くの小学生達が廃墟の周囲でお弁当を食べている。家族連れもいた。

 戦争を体験したことのない自分にとって、こういった戦争の傷跡を見るとショックを受けるのが常だった。
 しかし、彼らにとってはもはやそれが当たり前の世界(日常)で、慣れきってしまっているのかもしれない。



 もっと街をよく見たかったが、30分も経たないうちにガイドが「見学は終わりだ」と言ってツアーは強制終了させられてしまった。わけのわからない日本人旅行者(しかも一人)の為に無駄にする時間はないということなのであろう。



 この時利用したタクシーの運転手に値段をふっかけられてごねたと旅日記に書き記してある。
 破壊された街を見て、一人神妙な面持ちで考え込んでしまっている自分に対し、現地の人々はタフに生きていたと思う。それが経験の差なのかもしれない。

※地図はこちら

(126)ダマスカス(シリア)

2010-12-23 23:55:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 Palmyra (パルミラ)から首都 Damascus (ダマスカス)へはバスで約3時間。

 ダマスカスは4000年の歴史を誇ると言われ、古代よりシリア地方の中心都市として栄えた大都市だ。紀元前10世紀にはアラム人の王国の首都が置かれていたらしい。
 アラビア語の正式名称は Dimashq ash-Sham (ディマシュク・アッシャーム)。 シリア人はアッシャームと呼ぶ。



 この街には約1週間滞在している。観光したのは下記の通り。

旧市街(世界遺産)  城壁に覆われていて、内部はスーク(市場)になっている。街の中心を1500mにわたって貫く Street Called Straight ( Straight St. )(まっすぐな道)新約聖書にも登場しているらしい。

国立博物館  遺跡の多いシリアで発掘された出土品の数々が展示されている。考古学的にも非常に興味深い。 Doura Europos (ドゥラ・エウロポス)のシナゴーク(会堂)から移設されたという2世紀半ばの壁画は評判通り素晴らしかった。

ウマイヤ・モスク(世界遺産)  もともとは洗礼者ヨハネ教会だった場所をウマイヤ朝(661年~750年)第6代カリフのワリード1世(674(675)年~715年)が705年から715年にかけて改築した。現存する世界最古のモスクであり、世界最大級のモスクのひとつでもある。洗礼者ヨハネの墓が残されている。



アゼム宮殿(世界遺産)  ウマイヤド・モスクのすぐ隣にある。オスマン帝国のダマスカス州総督アサド(アッサード)・パシャ・アル・アゼムによって1749年に建てられた。現在は民族博物館として公開されている。

サラディン廟(世界遺産)  アイユーブ朝(1171年~1342年)の創始者サラディン(サラーフッディーン、サラーフ=アッディーン)(1137年または1138年~1193年)の墓所。
 
軍事博物館  印象に残っているのはロシア(旧ソ連)と合同で行った宇宙飛行実験の展示。初めて知ったのだが、シリアのパイロットムハンマド・アフマド・ファーリス氏が日本人よりも先に宇宙に行っていたらしい(ウィキペディアの記事はこちら)。この博物館のどこかに日本赤軍の署名があるという噂を訪問後に旅人から聞いた(真偽の程は不明)。

サルヒエ(サーリヒーエ)通り  新市街にある華やかな通り。シリアの銀座という古い表現しか思いつかない(苦笑)。ここで皮のサンダルを値切って購入した($13)。シリアは物価が安いのでこの値段だったが、日本で購入すると7000~8000円位の値段が付いてもおかしくない品質のものだった。旅の残りの期間このサンダルをとても重宝した。

カシオン山  旧約聖書に登場する人類最初の殺人の地。ここでカインアベルを殺害したらしい。旅仲間達と一緒に夜景を見るべく徒歩で山を上っている。かなり疲れたがダマスカスの夜景は美しかった。特に緑の光でライトアップされたモスクが印象的だった。

ダマスカス大学  シリアを代表する大学には、将来のシリアを背負う人材が集っていた。



 この街では幾つか大使館に出かけている。

ヨルダン大使館エジプト大使館ビザ取得

日本大使館  旅先では日本大使館に行き日本の新聞を読むように心がけていた。他の国でもそうだがここは特に日本語を勉強しに来ている若者が多かった。日本の新聞の翻訳(英語に訳す)を頼まれたり、「日本に留学する為に奨学金が欲しいから日本の大学教授を紹介して欲しい」(奨学金を申請するのに保証人が必要)と言われたりと、その必死さに驚かされたのを覚えている。



 この街では久しぶりにインターネットでメールをチェックしている。なぜここでそんなことを書くかというと、シリアではネットの検閲が厳しい為、日本語のページが開けなかったのだ。旅人はこういった情報を共有しあっていた。



 他にもう一つ書くとすれば、中田さん(仮名)と再会したことだろうか。実はでも何度か再会しているが、 Hama (ハマ)でUFO見た。」と言う彼の言葉が印象に残ったのか、この時旅日記に書き記している。
 羨ましかったのか、半信半疑だったのか覚えていないが、後に自分もUFOを見ることになるとは思わなかった。



 余談になるが、約一ヶ月後、当時の大統領ハーフィズ(ハーフェズ)・アル=アサド氏(1930年~2000年)が亡くなり、息子のバッシャール・アル=アサド氏(1965年~)が大統領に就任している。

 シリアは欧米諸国からテロ支援国家と呼ばれ、現在経済封鎖を受けている。

※地図はこちら

(125)パルミラ③(シリア)

2010-12-21 22:58:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 ユーフラテス川流域の街 Dayr az-Zawr (デリゾール)で雨が降ったので、Palmyra (パルミラ)(世界遺産)へと戻り夕陽を見ることにした。
 バスで約2時間の移動なのだが、窓が壊れていて大変だった。風で砂が舞っているので、窓を開けていると砂塵が入ってくるのだ。



 3度目の訪問となるパルミラには昼頃到着した。日没まで時間があったのでツアーに参加することにした。
 エラベール家の塔墓3兄弟の地下墓室(壁画が有名)、そしてアラブ城を巡るツアーだった。

 ありがちなことなのだが、アラブ城に到着してからガイドが「アラブ城に入るには別途入場料がかかる。」と言う。どうやら入場料はツアー代には含まれていないらしい(前回日没間際に徒歩で行った時は、入場料を徴収されなかった)。

 入場料のことは事前に告知を受けていなかったし、前回は払わなかったとガイドに説明して、払わない方向で話がまとまりかけていた。
 しかし、同行していたフランス人夫妻があっさり払ってしまったおかげで、ごねている自分がみっともないという状況に置かれてしまい結局支払った。金額的にはわずか数百円の出費だが腹が立った。

 実はこの時イライラしていたのは他に原因があったと思う。空は晴れていたが靄(もや)がかかっていたのだ。
 これはパルミラ到着時に分かっていたことだったが、駄目もとでアラブ城に夕陽を見に来たのだった(アラブ城は丘の上にある)。結局この日も期待通りの夕陽を見ることは出来なかった。

 一番最初にここに来た日のあの澄んだ空が、実はめったにお目にかかれないものだったとは・・・。
 あれは恩寵ともいうべき贈り物だったのだろう。そして恩寵を受け取ることの出来るチャンスは決して逃してはならないのだ。
 あの時、予定通り Hama (ハマ)の街に戻ったわけだが、左脳通りに動くのではなく右脳に従ってパルミラの街に残るべきだったのだろう。



 当時読んでいた本の一文を旅日記に書き写している。

 「実際にはこの世界で切りのつくことなんか何もない筈(はず)なんですが、切りをつけた形にして、それで終わりにするのがコツです。」(『宣告』(加賀乙彦著)(新潮文庫))

 そしてこう書いている。

 「とにかく何があっても感謝して、そして先に進もう。」

 この言葉は旅を通じて心に決めていたことでもある。



 結局パルミラで美しい夕陽を見るのを諦め、翌日バスでシリアの首都 Damascus (ダマスカス)へと向かった。

※地図はこちら

(124)デリゾール(シリア)

2010-12-16 06:21:24 | シリア・レバノン・ヨルダン
 Palmyra (パルミラ)(世界遺産)で1泊した翌朝も晴れていたが靄(もや)がかかっていた。
 近日中に雨が降ってくれないだろうか。



 この後、ユーフラテス川流域の街 Dayr az-Zawr ( Deir ez Zor )( Deir al-Zur )(デリゾール)へと向かうことにした。パルミラで時間を潰すよりは、未知の土地へ行ってみたかったからだ。

 パルミラからデリゾールまではバスで約2時間。ユーフラテス川流域に位置するこの街はトルコ東部やイラク北部にも近い交通の要所で、1867年にオスマン帝国により設置されたらしい。
 ロシア国境付近から追放された膨大な数のアルメニア人がこの地に向かったが、その途中で数多くの人々が亡くなったらしい(アルメニア人虐殺問題)。ここにはアルメニア人犠牲者の祈念碑が建立されている。



 宿に着いて、まず見たかったのがユーフラテス川だった。デリゾール橋に向かい、その下を流れるユーフラテス川を見ながらかつてこの川の流域に栄えたメソポタミア文明のことを思い出していた(紀元前3500年前位にもっと下流の場所でこの文明は栄えた)。



 この街に滞在している間に Doura Europos (ドゥラ・エウロポス)( Salhiye (サルヒーエ))にも出かけている。
 デリゾールの南東85km(バスで約1.5時間)に位置するこの遺跡は、セレウコス朝シリア(紀元前312年~紀元前63年)によって築かれた軍事都市で、257年にササーン朝(サーサーン朝)ペルシャ(224~637年)のシャプール1世(?年~272年?)によって滅ぼされたが、20世紀になって発見された。

 ここには廃墟となった遺跡とユーフラテス川以外何もない。他は360度見渡す限りの砂漠だ。

 もっと歴史に詳しければ、いろいろイメージ出来るのだろうが、遺跡に行くたびに自分の勉強不足を嘆いたのを覚えている。



 デリゾールの街では、久しぶりにローストチキン(チキンの丸焼き)を食べた。



 他には床屋にも行っている。いらなくなったシャツと壊れた腕時計をあげる代わりにカットしてくれた。大阪人の感覚で交渉してみるものだ。



 旅日記を見るまで忘れていたがこんなこともあった。

 子供達が前足を怪我した馬をいじめていた。
 通りかかった自分は、子供達の気をそらそうと話しかけた。
 しかし、しばらくして子供達は再び馬をいじめ始めた。
 そこに通りかかったおじさんが子供達を注意して追っ払った。

 「最初から注意するべきだった」と書き記している。

 旅人は得てして傍観者になりやすい。いつの間にか、旅先の光景を、そこで生活する人々をただ眺めているだけになってしまうのだ。

 そしてその傾向は日本に帰ってからも身に着いてしまっているような気がする。
 確かにいろいろな価値観があり、考え方がある。自分の考えが絶対正しいとは思わないし、逆にそう断言するような人を見ると「?」と思ってしまう。
 しかし、何もかも人それぞれとかいろいろな見方・価値観があるという言い方で逃げてしまうと、本当に人生の傍観者になってしまうような気がする。



 この地に滞在中雨が降ったので、夕陽を見るという期待を込めてパルミラに戻ることにした。距離が離れているのでパルミラに雨が降ったという確証は無いが、とにかくチャレンジしてみるしかない。

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(123)パルミラ②(シリア)

2010-12-09 23:55:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 次の目的地は古代都市 Palmyra (パルミラ)(世界遺産)だった。

 Homs (ホムス)からパルミラまでは所要3時間。再度この遺跡を訪問したのは、前回見れなかった夕陽を見る為だ。

 この時、徒歩で丘の上にあるアラブ城まで夕陽を見に行っている。しかし晴れてはいたのだが靄(もや)がかかっていてはっきり夕陽が見れなかった。
 しかも子供達とサッカーをした後だったので、へとへとになりながら宿に帰った。



 この日旅日記にはこう書いてある。

 「宇宙には光よりも闇の部分の方がはるかに多い(真偽の程は不明)。しかし、その光ははるかかなたまで届くし、光のもと(恒星など)は力強く輝き続ける。」 


 1泊した後、再びこの地に戻って来ることを決意してユーフラテス川流域の街 Dayr az-Zawr (デリゾール)へと向かうことにした。

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(122)クラック・デ・シュヴァリエ(シリア)

2010-12-02 22:22:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 Homs (ホムス)からミニバスで約1時間かかり Crac des Chevaliers (クラック・デ・シュヴァリエ)に着いた。Crac は、シリア語では Krak (砦)と表記される( Crac des Chevaliers とはフランス語で【騎士の砦】の意)。

 同乗した男達の手は皆ごつごつしていた。指も太い。黙していても手が人生を物語る。ちょっと引け目を感じた。



 クラック・デ・シュヴァリエは、1031年に建築され、1099年の第一回十字軍遠征時に落城した。
 
 その後は聖ヨハネ騎士団(テンプル騎士団ドイツ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の一つ)により護られ、拡張工事も行われてより強固になった。

 1188年のアイユーブ朝(1171年~1250年、最後の地方政権のハマ・アイユーブ朝は1342年まで存続)の創始者サラディン(サラーフッディーン、サラーフ=アッディーン)(1137年または1138年~1193年)の包囲にも耐えたが、1271年にマムルーク朝(1250年~1517年)の第5代スルタンバイバルス(?年~1277年) により1163年に落城。礼拝堂はモスクに変えられた。

 イングランドのエドワード1世(1239年~1307年)(プランタジネット朝(1154年~1399年)第5代イングランド王)は、これを参考にした城をイングランドやウェールズに多く築いた(エドワード式コンセントリック型)

 ヨーロッパ風の外観とイスラム風の内装を併(あわ)せ持った、とても興味深い建造物だ(十字軍の美術品も保存されている)。
 アラビアのローレンス( Thomas Edward Lawrence (トーマス・エドワード・ロレンス))(1888年~1935年)から世界で最も素晴らしい城と絶賛されたこの城は2006年に世界遺産に登録されている。



 残念ながらガスっていて周囲が良く見えなかった。晴れていれば更にその美しさが際立ったかもしれない。
 宮崎駿監督の映画『天空の城ラピュタ』のモデルにもなったと噂されていたので(真偽の程は不明)、映画の主題歌『君をのせて』を心の中でBGMにしながら見学していた。

※『君をのせて』のおまけ記事はこちら



 帰りのバスまで時間があったので近郊を散策してみると、羊飼いのテントがあったのでお邪魔している。

 遊びたいのを我慢して仕事を手伝わされるのが嫌だったのか、小さな子供がすねていた。



 世界遺産に登録された後は、この地を訪れる観光客もかなり増えたのではないだろうか。
 あれから10年、この子供は今は商売人になっているかもしれない。

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(121)ホムス(シリア)

2010-11-25 19:30:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 Baalbeck (バールベック)(世界遺産)を観光した後、レバノン・シリアの国境を越え、Homs (ホムス)(シリア)へ着いた(所要3時間)。

 ホムスは、Damascus (ダマスカス)、Aleppo (アレッポ)に次ぐ、シリア第三の都市で、両都市の中間に位置する。

 この街は歴史的にも古く、記録として残っているのはセレウコス朝シリア(紀元前312年~紀元前63年)の頃かららしい。
 セレコウス朝は、アレクサンドロス大王後継者の一人、セレウコス1世ニカトール(紀元前358年~紀元前281年)が築いた。シリア、アナトリア、イランと広大な版図を築いた帝国だ。

 古代ローマ時代には Hemesa (ヘメサ)(エメサ)と呼ばれ、宗教都市としての役割を果たしていたらしい。
 この地にあった神殿(太陽神エル・ガバルを祀(まつ)っていた)の司祭であり、ヘメサの首長でもあったアラム人サムプシケラムスがセレコウス朝を滅亡に追いやった後、世襲の祭司王による王朝がローマ帝国支配下で続いてゆくこととなった。
 この地からローマ皇帝ヘリオガバルス(マルクス・アウレリウス・アントニウス)(203年~ 222年)が誕生している。



 いろいろ歴史的に見ても興味深い街なのだが、勉強不足だった自分にとって、ここは休息の為の街でしかなかった。

 ここを拠点にして、再び Hama (ハマ)の街を訪問している。
 ハマでフェスティバルがあると聞いていたのだが、特に大きなイベントがあるわけでもなく、露店商が店を出しているだけだった。
 それでも地元の人にとっては大きなイベントということで、結構楽しそうだった。



 ホムスを拠点にして訪問したのは、ハマともう一つ、Crac des Chevaliers (クラック・デ・シュヴァリエ)(世界遺産)だ。
 十字軍の拠点となったこの城は、宮崎駿監督の映画『天空の城ラピュタ』のモデルにもなったと旅人の間で噂されていた(真偽の程は不明)。

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(120)バールベック(レバノン)

2010-11-18 23:59:15 | シリア・レバノン・ヨルダン
 レバノン滞在3日目、トランジットビザの為この日のうちに出国しなくてはならない。
 シリアに戻る前に、レバノン最大の観光名所、Baalbeck (バールベック)(世界遺産)に立ち寄ることにした。

 ここは、Beirut (ベイルート)の北東86km、ベカー高原の中央にある(バスで所要2時間)。

 Palmyra (パルミラ)の入場料がただ同然の値段だったので、バールベックの入場料約700円(当時)が非常に高く感じられた。シリアとレバノンの物価の違いだろうか。



 バールベックは世界でも有数のローマ神殿跡で、中東・ヨーロッパの人々にとって人気の観光地となっている。毎夏に中東・ヨーロッパの芸術家達を招いてバールベック・フェスティバルが開催されている。

 バールベックとは、【ベカー高原の主神】を意味する。
 元々フェニキアの豊穣の神バール(ハタド)が祀(まつ)られていたことにに由来すると考えられている。

※バールとはセム語【主】を意味し、元々カナン地域を中心に崇められた嵐と慈雨の神。旧約聖書では悪魔扱いされている(異教徒の神だった為)。
 
 後に、ギリシア・ローマ系の神々と習合し、祭神はジュピター(天地を創造する最高神)、ビーナス(愛と美の女神)、バッカス(酒神)になった。
 この三神を祀った三つの神殿から成っている。

 バールベックは、ローマ帝国の手によって紀元1世紀頃から神殿が築かれていったと考えられている。
 その後、312年にコンスタンティヌス帝(272年~337年)がキリスト教改宗したことにより、異教徒の神殿であるバールベックは破壊され続け、教会へと役割を変えた。
 7世紀にアラブ人の手に落ちてからは、要塞都市として機能したらしい。

(写真は、バッカス神殿の入り口)



(同じくバッカス神殿の内部)



 バールベックで有名なのは、トリリトン(驚異の三石)と呼ばれる3つの組み石だ。

 ジュピター神殿の名残(なごり)として残ってる6本の大列柱(柱の高さ20m・直径2.5m、かつては54本あり神殿を支えていたらしい)の基壇にある土台の石なのだが、長さ18m・幅4m・高さ4m、重さ650トン~970トンという巨石で、建築物に使われた切石としては世界最大を誇る。

 この近辺にも南方の石と呼ばれる巨石(重さ2000トン)が存在するのだが、現在の技術ではこれらの巨石の運搬は不可能らしい。

 太古の昔にどうやってこれらの巨石を運搬したのか、今だその技術はと言うのが面白い(人力の場合、数万人規模の労働力が必要らしい)。

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(119)ブシャーレ(レバノン)

2010-11-10 23:58:00 | シリア・レバノン・ヨルダン
 シリア・レバノン国境で取得したビザはトランジットで3日間有効のものだった。
 それほど自由な時間があるわけではない。

 Beirut (ベイルート)到着翌日、レバノンの国旗にも描かれているレバノン杉を見に行くことにした。



 まず、バスでレバノン第二の都市 Tripoli (トリポリ)( Trablos (トラブロス))へと向かった。
 ベイルートの北85kmに位置するこの街も古い歴史を持つが、この時観光する時間は無かった。

 道中戦車を見た時、この国の置かれている状況を改めて知った気がする。



 ここでバスを乗り換えて Bcharre (ブシャーレ)という村に向かった。
 標高1450mの位置にあるこの村に着くと、日曜日ということでミサに参加した人達で賑わっていた。

 中東の国々=イスラム教国家というイメージがあるが、ここレバノンの約4割の人々はキリスト教徒だ。

 この村は、詩人・画家のジュブラン・カリール・ジュブラン(1883年~1931年)の生地として有名らしい。
 この地には彼の遺体を祀(まつ)っている修道院(ジュブラン博物館)があるが、時間が無かった為訪問していない(HP(英語)はこちら)。

 (写真は15歳の時のジュブラン、この時はすでにアメリカに移住していた)



 ここからレバノン杉まで5km程上らなくてはならない。
 幸い、大勢の人々がいたので片っ端から声をかけてヒッチハイクで行くことにした。

 ここで運良くレバノン杉まで車を出してくれるという青年が見つかったので、彼の好意に甘えて案内してもらった。



 カディーシャ渓谷を望む標高2000mのこの地域には、レバノン杉の群生地が残っている。
 樹齢1200年~2000年という長い年月を生き抜いた木々は、この地で起こった多くの出来事を見て来たのだろう。いっこうに争いをやめない人間に愛想を尽かしているかもしれない。

 (写真は二番目に大きいレバノン杉、正確にはマツ科の樹木になる)



 ブシャーレに戻り、トリポリ行きのバスの出発時刻までかなり待たなければならなかったのだが、気前のいい青年がそのまま送ってくれると言う。

 この青年、金持ちのボンボン青年実業家といったところだろうか(お礼のお金を受け取ろうとしなかった)。

 彼は高級外車を運転しながら同じ曲を大音量で聞いていた。
 そのせいか、自分の中でレバノンという国のテーマソングはこの曲だ。

 Sting (スティング)“ Desert Rose ”

※スティング“ Desert Rose ”のおまけ記事はこちら

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(118)ベイルート(レバノン)

2010-11-04 08:52:20 | シリア・レバノン・ヨルダン
 古代都市 Palmyra (パルミラ)(世界遺産)での夕陽を見ることなく Hama (ハマ)に戻って来たことを後悔したので、明日荷物を持って再度パルミラに行くつもりでいた。

 しかし、ここハマの街で出会った旅人に強く誘われ、結局 Beirut (ベイルート)(レバノン)へと向かうことにした。
 予定通りにいかないのが旅だとつくづく思う。その気ままな感じが旅の醍醐味だ。



 ハマから Homs (ホムス)経由で国境を越え、ベイルートまでかかった時間は4時間余り。バスや乗り合いタクシー等を乗り継いだ記憶がある。
 
 道中、崖下に転落直後と思われるショベルカーの脇を通り過ぎた。
 作業員たちによって救助されたショベルカーの運転手は体に力が入っていないようだった。人間というより軟体動物のような印象を受けた。
 乗車していたバスは止まることなく走り過ぎてしまったので状況は詳しく分からないが、もしかしたらショベルカーの運転手は既に亡くなっていたかもしれない(無事だったことを祈りたいが)。

 旅日記にはこう書いてある。

 「人生明日があるのが当たり前と思ってはいけない。一日一日を精一杯生きよ。」


 ベイルートに到着後、街へ観光に出かけた。

 東地中海交易の中心地として栄えたベイルートは、国際色豊かな都市として中東のパリと呼ばれていたが、1975年に始まったレバノン内戦(~1990年)により大きく様変わりしてしまった。
 街の東側(一部)をキリスト教徒、西側(大部分)をイスラム教徒が占め、その争いにより多くの人々が亡くなった。上流階級の人達はアメリカ等の外国に亡命したらしい。
 
 (写真は、当時も残っていた内戦の傷跡)



 シリアでは情報統制の為かインターネットの日本語閲覧が禁止されていたので、この街でメールをチェックすることにした。
 ネットカフェを探して人々に道を尋ねていくと、いつの間にか南地区(イスラム教徒地区)に向かっていた。
 すれ違う人々の目が穏やかではない。長い内戦を経験した心の傷が癒えていないのかもしれない。治安も良くないと感じた。

 イスラム教徒地区の方が内戦の傷跡が残っていたように思える。これは資本の差かもしれない。
 第一次大戦後、フランス統治下で少数派のキリスト教徒が優遇され、宗教間の緊張が高まった背景がある。東地区(キリスト教徒地区)は今でも外国資本の援助を受けているのだろう。

 東地区に向かうと、きらびやかな店が立ち並び、腕や脚などの肌を露出した服装の女性達を見かけるようになった。
 同じ街でこうも違うものかと驚いたのを覚えている。



 海岸通り(コルニーシュ)を通って鳩の岩に辿り着いた頃には日も暮れかかっていたので、ここで水平線に沈む夕陽を眺めた(曇って霞(かす)んでいたのが残念だったが、パルミラの夕陽にかける期待がますます高まった)。

 レバノンは内戦後平和を取り戻したかに見えたが、2006年にはイスラエル軍によるレバノン侵攻(イスラエル軍がヒズボラ(神の党の意、シーア派系非国家軍事組織)をレバノン領内に追跡侵攻した戦争)もあり、完全な平和が訪れたとは言い難い。

 一日も早く、この地の人々が安心して暮らせる日が来ることを願いたい。

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