先月、津和野に行き、安野光雅美術館に行ったこともあり、書店で、この本を見つけて読み始めた。
孫誕生時に、読んで貰いたいと思って「ZEROより愛をこめて」を書いたのだが、その孫も青年になり、本が読まれない時代だから、なおこの本を出したいと考えて、書名も変え全編書き直して出版した。
いくら時代がかわっても、「本を読んで、自分で考えることが大切なことはかわらない」と言う強い信念があって、あらためて、日頃考えていることを、若い人に向けて書いたと言う。
最終章の「オランダイチゴ」で、
イチゴが結実した後、葡萄枝(ランナー)を数本伸ばして、その先に子苗をつくって命を伝えて行く様子や、独力で獲物を仕留めた子ライオンが、親兄弟を蹴散らして必死に獲物を守ろうとするのがライオンの旅立ちだと言う挿話を書いて本を締めくくり、最後に、アザミの絵をバックにして、「わかれの歌」を載せている。
勿論、わが友、前途ある若人の旅立ちへの「わかれ」であるから、篤い思いが満ちている。
菊池寛のように生きたかったと言っていて、菊池が学校を中退して図書館で勉強したと言うところで、
図書館で勉強することは全く賛成です。「そもそも勉強と言うものは、すべて独学」つまり、大学へ入っても独学しなければ、学問は身につかないのです。」と書いている。
このことは、学校へは殆ど行かずに図書館に通い続けて勉強した20世紀最高の経営学者ピーター・ドラッカーや、読書三昧・世界放浪旅(?)で偉大な建築家になった安藤忠雄東大名誉教授が、証明している。
私自身も、大学と大学院ではそこそこには勉強したつもりだが、今、自分にあるとするならば、その知見なり教養の殆どは、その後長い人生で読み続けた大部の本のお陰であることは間違いないと感じている。
さて、私が安野光雅の本や絵を見ていて感じるのは、本来は豊かな文系脳だと思うのだが、しかし、かなり理系脳がかった両刀使い、言い方を変えれば、恵まれたπ型人間で、非常に、発想がユニークで、斬新、それに、既成観念や先入観からフリーであるような気がすることである。
それに、好奇心なり知識欲が旺盛なために、ダボハゼのような貧欲さで間口に捕らわれずに、知や情報にアプローチするのであろう、
とにかく、幅が広くて奥行きが深く、話術の冴えのみならず、ぐいぐい惹きつけて展開して行く話が興味深くて面白いのである。
津和野の安野光雅美術館のプロレタリウムでも、科学と芸術のコラボレーションの大切さを語っていたし、作品の中でも数学を扱ったり、科学的技術的志向の発想による芸術的な追及を伺わせたり、びっくりするような面白さが随所にある。
安野光雅が、あれ程、詩情豊かなメルヘンチックな絵を描いたり、懐かしくて琴線に触れて離さない温かい森羅万象を描き続ける秘密の一端も、このあたりにあるような気がしている。
安野光雅の本であるから、エッセイ集とも言うべき単行本だが、冒頭の「お前はピエロ」と言う黒地の切り絵10枚以下多くの風景画などが掲載されていて楽しませてくれる。
「蚤の市」「ニューオリンズ」「ロンドンの繁華街」など絵付け前の細密な絵などは、特に、興味深かった。
まず、森鴎外の「即興詩人」の「口語訳」の話から始まって、文化と文明の話になり、「走れメロス」を話題にして、筋書きはともかく、「教科書に載る」のは、どうかと思うと持論を展開し、
シェイクスピアの「ヴェニスの商人」から、ユダヤ人論に入り、「アンネの日記」でアンネは自殺ではなかったと言って、一気に、藤村操の自殺論へ飛ぶ。
これで、紙幅の半分を費やしているのだが、本を読むことをテーマにしているものの、数珠つなぎに繰り広げられて行くストーリー展開が面白い。
デカルトからパスカル、ゲーテの「ファウスト」からコペルニクスの地動説、
これに加えて、若かりし頃の人生を語りながら、人の心、自殺、出家、恋愛、「思う」と「考える」、科学と科学技術等々、一所懸命生きることの幸せと悲しみ、優しい滋味にあふれた人生訓を語り続けて、なるほどと思わせて飽きさせないところが、流石に、安野光雅である。
それに、安野光雅は、大分先輩だが、わが老年には実に懐かしい語り口とその余韻が、何とも言えない味があって良い。
孫誕生時に、読んで貰いたいと思って「ZEROより愛をこめて」を書いたのだが、その孫も青年になり、本が読まれない時代だから、なおこの本を出したいと考えて、書名も変え全編書き直して出版した。
いくら時代がかわっても、「本を読んで、自分で考えることが大切なことはかわらない」と言う強い信念があって、あらためて、日頃考えていることを、若い人に向けて書いたと言う。
最終章の「オランダイチゴ」で、
イチゴが結実した後、葡萄枝(ランナー)を数本伸ばして、その先に子苗をつくって命を伝えて行く様子や、独力で獲物を仕留めた子ライオンが、親兄弟を蹴散らして必死に獲物を守ろうとするのがライオンの旅立ちだと言う挿話を書いて本を締めくくり、最後に、アザミの絵をバックにして、「わかれの歌」を載せている。
勿論、わが友、前途ある若人の旅立ちへの「わかれ」であるから、篤い思いが満ちている。
菊池寛のように生きたかったと言っていて、菊池が学校を中退して図書館で勉強したと言うところで、
図書館で勉強することは全く賛成です。「そもそも勉強と言うものは、すべて独学」つまり、大学へ入っても独学しなければ、学問は身につかないのです。」と書いている。
このことは、学校へは殆ど行かずに図書館に通い続けて勉強した20世紀最高の経営学者ピーター・ドラッカーや、読書三昧・世界放浪旅(?)で偉大な建築家になった安藤忠雄東大名誉教授が、証明している。
私自身も、大学と大学院ではそこそこには勉強したつもりだが、今、自分にあるとするならば、その知見なり教養の殆どは、その後長い人生で読み続けた大部の本のお陰であることは間違いないと感じている。
さて、私が安野光雅の本や絵を見ていて感じるのは、本来は豊かな文系脳だと思うのだが、しかし、かなり理系脳がかった両刀使い、言い方を変えれば、恵まれたπ型人間で、非常に、発想がユニークで、斬新、それに、既成観念や先入観からフリーであるような気がすることである。
それに、好奇心なり知識欲が旺盛なために、ダボハゼのような貧欲さで間口に捕らわれずに、知や情報にアプローチするのであろう、
とにかく、幅が広くて奥行きが深く、話術の冴えのみならず、ぐいぐい惹きつけて展開して行く話が興味深くて面白いのである。
津和野の安野光雅美術館のプロレタリウムでも、科学と芸術のコラボレーションの大切さを語っていたし、作品の中でも数学を扱ったり、科学的技術的志向の発想による芸術的な追及を伺わせたり、びっくりするような面白さが随所にある。
安野光雅が、あれ程、詩情豊かなメルヘンチックな絵を描いたり、懐かしくて琴線に触れて離さない温かい森羅万象を描き続ける秘密の一端も、このあたりにあるような気がしている。
安野光雅の本であるから、エッセイ集とも言うべき単行本だが、冒頭の「お前はピエロ」と言う黒地の切り絵10枚以下多くの風景画などが掲載されていて楽しませてくれる。
「蚤の市」「ニューオリンズ」「ロンドンの繁華街」など絵付け前の細密な絵などは、特に、興味深かった。
まず、森鴎外の「即興詩人」の「口語訳」の話から始まって、文化と文明の話になり、「走れメロス」を話題にして、筋書きはともかく、「教科書に載る」のは、どうかと思うと持論を展開し、
シェイクスピアの「ヴェニスの商人」から、ユダヤ人論に入り、「アンネの日記」でアンネは自殺ではなかったと言って、一気に、藤村操の自殺論へ飛ぶ。
これで、紙幅の半分を費やしているのだが、本を読むことをテーマにしているものの、数珠つなぎに繰り広げられて行くストーリー展開が面白い。
デカルトからパスカル、ゲーテの「ファウスト」からコペルニクスの地動説、
これに加えて、若かりし頃の人生を語りながら、人の心、自殺、出家、恋愛、「思う」と「考える」、科学と科学技術等々、一所懸命生きることの幸せと悲しみ、優しい滋味にあふれた人生訓を語り続けて、なるほどと思わせて飽きさせないところが、流石に、安野光雅である。
それに、安野光雅は、大分先輩だが、わが老年には実に懐かしい語り口とその余韻が、何とも言えない味があって良い。