熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

「春雨じゃ、濡れてまいろう」は日本だけ?

2015年08月10日 | 海外生活と旅
   「春雨じゃ、濡れてまいろう」
   これは、月形半平太が、馴染みの芸子と料亭から外に出て見たら、しっとりとした春雨が夜の風情を醸し出して、ほろ酔い気分には気持ちよく、思わず呟いた言葉とか。
   好きな女と酔いが回って夢見心地でしっぽりと春雨に濡れて味わう幸せなひと時・・・粋なシーンである。
   
   何故、こんな話から始めるのか、それは、
   デイヴィッド・ピリングの「日本―喪失と再起の物語」を読んでいて、「国家の品格」の藤原正彦と、自然との調和について議論していて、雨に対する日本人と英国人の対応の違いについて語っているのを面白いと感じたからである。
   自然を愛する筈の日本人は、雨がぱらつくとすぐに傘をさし、にわか雨が降っただけであっという間に雨傘で埋め尽くされる、それ程、雨に濡れるのを嫌がるが、英国人の著者は、びしょ濡れになっても平気だし、雨傘なんて持とうと思ったことさえない、
   つまり、自分の方が豊かな自然と調和していると思いませんか、と言う。
   この雨に対する国民感情の差に、思い至ったのである。

   日本人には、何となく、英国紳士と言えば、雨が降っても降らなくても、何時もアンブレラを抱えて歩いている姿が定着している感じであるが、確かに、言われてみれば、あれは、いわば、紳士のアクセサリーと言うべきか、私の経験では、英国では、雨の時に、傘を使っている人が少なかったような気がする。

   傘で思い出すのは、英国在住ながら文化勲章を受けた世界的に高名な経済学者森嶋通夫教授とロンドン・スクール・オブ・エコノミクス構内を歩いていた時に、雨がぱらついて来たので、傘をさしかけたら、「そんなこと、しーないな」と言われたことがある。
   大先輩でもあるし、偉大な経済学者でもあり尊敬していたので当然だと思ったのだが、今考えてみれば、イギリスでは、小雨に濡れるのは平気で気にしないと言うことだったのかも知れないと言う気がしている。

   イギリスでは、防水の利いたバーバリーやアクアスキュータムのコートが普及しており、ハットやハンチングなど帽子が結構重宝されていて、常備着のような態をなしているのだが、これなどは、何時雨が降っても、少々の雨なら平気だと言う生活の知恵であろうか。
   しかし、確かに、日本人の雨と傘との関係は神経質なくらいであり、英国人の方が、雨に無頓着だと言うことは、5年間の英国在住の経験から言えそうな気はしている。

   ここで、考えなければならないことは、雨に対する国民感情の差も大切であろうが、むしろ、雨の質であり、雨の降り方の違いにあるような気がする。
   日本の雨は、春雨に始まって、五月雨、時雨、梅雨、狐の嫁入り、氷雨・・・等々、最近のゲリラ豪雨など含めれば、場所と季節によって千差万別であり、時間によっても微妙に変化する。
   これに比べて、イギリスの雨は、原則的には極端な差がないにしても、もう少し単純と言うか、比較的豪雨が少なくて単調であったような気がしている。
   車での生活が多かったが、確かに、8年間のヨーロッパの生活では、折り畳み傘など携帯用の傘は持ったことはなかったし、大雨に難渋したと言う記憶もない。

   雨のことで思い出すのは、サウジアラビアの雨である。
   砂漠地帯が延々と続いていて、殆ど、雨などとは縁のない国なのだが、出張の時に、一度だけ、大雨が降って大洪水(?)に見舞われたことがあった。
   バーレン空港は、大雨で空港の建物は、ズタズタ。
   サウジアラビアの砂漠は、延々と俄か湖に覆われて、高低差のあるところは滝のように濁流が渦巻き、風景が一変してしまっていた。

   興味深かったのは、提携先の地元会社が、その日は休日にして、社長一家が、我々日本からの出張者を誘って、濁流が渦巻く暴れ川と俄か滝を見に行くために、日帰りツアーを行ったのである。
   郷に入っては郷に従えで、ネゴの進捗が気になったが、日本では、何のことはない、一寸した田舎の川が増水して暴れていると言った感じの風景を楽しみにつきあった。
   しかし、砂漠の民にとっては、干天の慈雨どころの比ではなく、豪雨の齎す天変地異は、正に、途轍もない自然の脅威なのである。

   前述したように、日本には、どう表現すれば良いのか分からないくらいの変化に富んだ雨が降るのだが、サウジアラビアでは、雨は、すべて雨。
   降り出したら、正に、日本の花見や紅葉狩りと同じように、弁当を持って見物に行く。

   また、日本には季節によって、無数の花が咲き乱れるのだが、寅さんが、どんな花でもタンポポでしょ、と言ったように、サウジアラビアでは、花は、花だと聞いたことがある。
   その代わり、日本は、ラクダは、ラクダだが、サウジアラビアでは、ラクダは、歳や性別、親族関係などによって、色々な呼び方で使い分けられているのだと言う。

   さて、本題に戻るのだが、確かに、日本は四季の変化が激しくて自然環境や自然現象の移り変わりについては、千差万別で、世界でも珍しい国であり、日本人の自然への対応なり感受性の豊かさには定評があるのであろうが、私は、藤原教授が言うほど、日本人が特別だとは思っていないし、ピリングの見解にも納得している。
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