熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

久しぶりの旅:佐渡旅行(6)

2022年07月04日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今度の佐渡旅行は、72歳の老耄の涯に、お上をないがしろにしたと言う覚えなき理由で、将軍義教に、佐渡流謫の刑に処された世阿弥を偲ぶ旅でもあった。
   しかし、世阿弥が最初に立ち寄った長谷寺の門前に立っただけで、世阿弥の佐渡に於ける遺跡やゆかりの場所には、一切立ち寄らなかった。
   日蓮大聖人の故地を訪れているうちに、場所は正確な位置であったとしても現状は様変わりで、むしろ、抱いていたイメージと全く違った印象に陥ってしまうのに戸惑いを感じたからである。
   まず、単純は話、先日読んだ藤沢周の「世阿弥最後の花」のイメージを壊したくなかったし、私が多くの世阿弥の能の舞台を観たり本を読んで培世阿弥の世阿弥の世界を壊さずに、この地で、世阿弥が晩年を過ごしたと感じさえすれば、それで良かったのである。

   余談になるが、例えば、ストラトフォード・アポン・エイボンの路地に迷い込むと、今にも、シェイクスピアが飛出してくるような錯覚に囚われたり、ヴィッテンベルクに行けば、マルティン・ルターが、大聖堂の壁に「九十五ヵ条提題」を貼り付けた宗教改革のはしりの雰囲気が分かるような気がした。それがないのである。
   石と煉瓦の文化には、歴史を封じ込める要素があるが、日本の木と紙の文化には、悲しいかな、紆余天変が激しくて、すべてを忘却の彼方に消し去ってしまう。

   さて、「京都は着倒れ、大阪は食い倒れ。佐渡は舞い倒れ、という言葉があるとかで、佐渡には、日本の能舞台の3分の1が集中しているほど、能の盛んな土地だと言うことである。
   世阿弥が、将軍足利義教によって佐渡に流罪となったのは、永享6(1434)年5月であるから、その影響があったのかどうかは不明だが、藤沢周は、世阿弥がその種を蒔いたことを小説で匂わせている。
   佐渡芸能によると、
   佐渡の能楽の始まりは、慶長9(1604)年、佐渡代官として渡島した大久保長安が、能楽師常太夫・杢太夫、そのほか脇師・謡・笛・太鼓・大鼓・小鼓・狂言師一行をつれてきたことによります。そして、寛永12(1635)年、佐渡奉行伊丹康勝が相川の春日社の祭礼に能を奉納しました。また、正保2(1645)年も、能楽師常太夫が登場することもあるので、大久保長安とともに来島した人物が襲名した二代目と思われます。いずれにしても、この2人によって佐渡の能の基盤は作られました。

   私は、実際の能舞台に接したくて、大膳神社に出かけて、境内の広い庭に立つ野ざらしの能舞台を観に行った。
   東京で見慣れている能舞台は、ビルの中や立派な建屋の中に鎮座まします冷暖房完備で、照明や音響設備の整った近代的な劇場だが、本来の能舞台は、稲穂の靡く田園地帯の森に、このように野ざらしで、風雨をものともせず存在するのである。
   
   

   佐渡伝統芸能館では、京の都につながる伝統・芸能・文化を再現と言う形で、佐渡へ配流されてきた3人のロボットが、時代を超えて佐渡の昔へタイムスリップして、故事来歴を演じる。
   世阿弥は、能舞台に立って、雨乞いの能を舞う。
   正法寺に、世阿弥がこの時掛けて舞ったという「神事面べしみ」があり、藤沢周が感動的な舞台を展開しているので、世阿弥にとっては、佐渡での最も重要な営みであったのであろう。
   
   
   

   泊まっていたホテル佐渡リゾートホテル吾妻のロビーに、鏡板が設えられていて、能人形が一体ディスプレィされていた。
   やはり、能の島である。
   私の観能は、殆ど、国立能楽堂などで演じられる最高峰の能なので、佐渡で地方の能を観たいと思ったのだが、残念ながら、1週間ずれていてチャンスをつかめなかった。
   
コメント
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