熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

(28)ストラトフォード・アポン・エイボンでシェイクスピア戯曲を その3

2021年06月25日 | 欧米クラシック漫歩
   さて、この時の観劇記を残しているので、書き留めておきたい。

   帰国前でもあったので、貴重な機会だと思って、「リア王」を、二回続けて聴いた。
   ヘンリー4世のファルスタッフを演じたロバート・ステファンスが、タイトルロールを演じていて、非常に人気が高かった。イギリス人が最も愛するシェイクスピアのキャラクターの一人である無頼漢のファルスタッフを演じて、全くと言っても過言でない程性格の違った悲惨な主人公「リア王」を、それも、間髪を入れずに演じるのであるから、その力量の凄さは分かるというもの。観客の先入観を取り除く必要もあったのであろう、残酷な運命を畳みかけるように切々と語り続ける芸の確かさは格別であった。
   気が触れた後半、正気と狂気の間を、まさに鬼気迫る迫力でリア王を蘇らせるステファンスの役者魂が凄い。第4幕第6場のドーヴァーに近い野原の場で、眼を抉られて追放されたグロスター伯爵に再会したときに、リア王がグロスターに語りかけるのを聞いた伯爵の息子エドガーが、「ああ、意味のあること、ないことが入り交じって。狂気の中にも理性がある。」と独白するシーンがある。狂気か正気か、そのはざまで、リア王が、「人間、生まれてくるときに泣くのはなあ、この阿呆どもの舞台に引き出されるのが悲しいからだ。」と、肺腑を抉るような真実を述べる。理性と真実と正気の入り交じった狂気の世界を彷徨うリア王を、魂が乗り移ったように演じるステファンス、悲しくも辛い感動的な舞台である。大詰めで、コーディーリアの死体をかき抱き、断腸の悲痛に絶叫するリア王が、真実の父親に戻って絶命する場面も、真迫の演技で涙を誘う。
   この「リア王」は、エイドリアン・ノーブルの演出による素晴らしい舞台であった。

   「ヴェニスの商人」の舞台は、鉄骨むき出しの柱に二階のフロアーが乗っているようなモダンな舞台セッティングで、登場人物も、背広やスーツ姿で、現代劇に移し替えている。ヴェニスの商人シャイロックを演じるディビッド・カルダーは、リア王の舞台で、王の唯一の忠臣ケント伯爵を、実に骨太に演じていた、豪快な野武士のような風格のある役者で、黒澤映画の三船敏郎の役がよく似合う感じであった。このシャイロックという役は、特異なユダヤ人の金貸しという何重にも先入観の染みついた性格俳優的なキャラクターなのだが、カルダーは、チラリと人間の弱さを見せながら、激しさを抑制した理知的な役作りに務めていた。私自身、この芝居では、個人的にシャイロックには同情的であり、最後の裁判で、形勢不利になり始めてから、段々追い詰められていく姿を見るのが嫌なので、今回のカルダーの運命を甘受したようなからりとした演技が救いでもあった。普通にイメージされている狡猾で情け容赦のないユダヤ人金貸しシャイロックの悲劇の没落劇ではなく、きわめてスマートでシャープな現代感覚に訴える演出が小気味よい舞台であった。
   尤も、その前に、ロンドンで見た別バージョンのRSCの「ヴェニスの商人」の舞台は、追い詰められて胸の肉1ポンドを切り取られそうになって、腹の筋肉をピクピク緊張させて恐怖に戦くシャイロックのリアルな舞台を観ているのだが、それはそれで、素晴らしい舞台であったので、演出の差や役者の藝の妙を楽しむのも、シェイクスピアの奥深さだと思っている。

   先日書いた「ウインザーの陽気な女房たち」も素晴らしい舞台であった。
   ドイツ語圏では、年末にシュトラウスの「こうもり」を上演して笑い飛ばして年を越すのだが、先日、シェイクスピアでは、年末年初には、「間違いの喜劇」が面白いと書いた。
   しかし、この色好みの無頼漢ファルスタッフが、女房たちにモーションをかけて振られて散々虚仮にされていたぶられ、最後には、幻想的にセッティングされた夜の森の中で、大団円のハッピーエンドとなる「ウインザーの陽気な女房たち」を鑑賞しながら、新年を迎えるのも面白いのではないかと思っている。
   このRSCの舞台も、それなりに、趣向を凝らして楽しかったが、昔観たウィーン国立歌劇場の「ファルスタッフ」の夢のように幻想的で美しい舞台が現出されるのなら、最高ではないかと思っている。
   

   口絵写真は、シェイクスピアの生家、
   この写真は、シェイクスピアの妻アンの里である。
コメント
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