熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「博奕十王」

2019年09月01日 | 能・狂言
   狂言の大舞台「博奕十王」、萬斎の舞台で観た。
   当日の公演プログラムは、次の通り。

   ◎狂言と落語・講談《特集・博奕》
   講談  天保水滸伝 笹川の花会 神田松鯉
   落語  狸賽  柳家花緑
   狂言  博奕十王  野村 萬斎(和泉流)

   「博奕十王」は、厳めしい衣装を着けた閻魔大王と派手な出で立ちの沢山の鬼たちが登場する賑やかで大掛かりな舞台で、地獄に送られてきた博奕打ちが、運命の分かれ道六道の辻で、閻魔大王に会って、イカサマ博奕に大王を引き込んで、大王と鬼たちを手玉に取って打ち負かして、天国へ送られると言うと突飛子もない奇天烈な話。50分にも及ぶ狂言としては大曲である。
   大分前に、「萬狂言」で、万蔵の閻魔大王で、この「博奕大王」を観たが、面白かった。

   さて、六道の辻とは、冥界への入口。
   「六道」は、仏教の教義でいう地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅(阿修羅)道・人道(人間)・天道の六種の冥界を言うのだが、人は因果応報によって、生死を繰返しながら死後はこの六道を輪廻転生すると言われており、人は死後に、この世とあの世の境であるこの六道の分岐点である六道の辻に至る。
   この六道の辻には、十王が鎮座するのだが、閻魔大王は中心で、死者の魂を裁判にかけて地獄に落とす恐ろしい役割。
   ところが、最近の人間は賢くなって、仏の教えを守って天国へ行くので、地獄は実入りが少なくなって飢饉になってしまい、困った閻魔大王が、自ら獄卒を引き連れて六道の辻にやって来て、悪人を地獄に落とそうと、悪徳旅館の番頭のように客引きをすると言う締まらない話。

   なんでも見通して知っている筈の閻魔大王が、サイコロ博奕を知らなくて、イカサマ博奕さえも見破られないと言う体たらくは、一体何故なのか、
   今のデジタル革命による文明の利器のように、閻魔大王の前に、「浄頗梨の鏡(じょうはりのかがみ)」と言う便利なモニターがあって、地獄行きの判断を指南してくれるのであるから総て貴方任せ、だと思わせるところが面白い。
   死者が閻魔庁に着くと、この浄頗梨の鏡に、テレビの画面の様に、死者の生まれてから死ぬまでの一挙手一投足まで人生ドラマが映されるので、この博奕打ちの生前の悪行が映しだされて、博奕打が人の金や持ち物を奪い、果ては身ぐるみを剥いで奪う姿が映され、やはり悪人だと言うことで地獄行きの審判が下る筈なのである。
   一方、中国では、閻魔大王は現世では地蔵菩薩と同一であるという信仰が広まっていて、地蔵菩薩として人々の様子を事細かに見ているために、閻魔大王は綿密に死者を裁くことができるので、賭博に無知だとは思えないのだが、これこそ、狂言作者のカリカチュアであろう。

    閻魔大王は、勺や冠、着ている装束、ついに、極楽行きの金札やこの浄玻璃の鑑さえも掛け代にして、身ぐるみ剥がれ、鬼たちも金棒を掛けて取られる、
   十王の権威を、賭博の世界に引き込んで、コテンパンに笑い飛ばすと言う庶民の知恵と言うか、神仏さえ信じられない人々の泣き笑いの人生が垣間見えて面白い。

   博奕打ちの萬斎、閻魔大王の石田幸雄が好演、万作家一門の素晴らしい舞台であった。

   もう一つ、閻魔庁を笑い飛ばした落語を思い出した。
   三遊亭朝橘 の「死ぬなら今」。
   阿漕な商いで巨万を築いた伊勢屋の旦那が死んで、閻魔庁へ出頭して、閻魔大王ほか、冥官十王、赤鬼、青鬼など居並ぶお偉方に賄賂を握らせて天国行き。代々の伊勢屋の遺言で「地獄の沙汰も金次第」が定着しており、その悪事に巻き込まれて、贈収賄が露見して、地獄の鬼たちのお偉方は、すべて、天国にしょっ引かれて、地獄は空っぽ。「死ぬなら今」だと言う噺。

   先日、エコノミスト誌が発表した、世界各国の都市の安全性ランキングで、東京が1位になっていたが、確か、汚職関係の指標が低かったような記憶があるのだが、このあたりは、今も昔も変わっていないのかも知れない。
コメント
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