本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

余命の通告

2018-07-31 09:19:49 | Weblog
 新聞に「余命1年」と医師から通告されたが、5年経って今も生存している人の話があった。喜ばしい話かと思ったら、覚悟を決めて早々に財産を分配や処分をしてしまって、今は困った状態という。

 義姉もガンで余命半年といわれて1年経った。つい最近、病院から余命2か月といわれたと聞いたので、見舞いに行った。九州から東北まで遠距離だから空路になる。
 その後2か月過ぎた。今度は余命1か月と告げられたそうだ。それも過ぎようとしている。

 余命の通告があたかもネコの目のように変わる。そもそも、余命の見積もりは確度が高いとは思えない。はずれてうれしいのは余命だろうが、冒頭のように大きくはずれたときは痛しかゆしでもある。

 イギリスの俳優ダドリー・ムーアは1998年に深刻な病で余命いくばくもないと発表された。この時はいつまでという期限はなかったようだ。
 翌年の99年9月、年内までの命と診断されたと発表、実際に死去したのは2002年3月だった。難病だったらしいが、余命の通告には悲観論が先行するのではないか。通告というより単なる予言だろう。

賭け麻雀

2018-07-30 09:37:20 | Weblog
 裁判官の書いた本に「三大愚問」というものがあった。新聞記者からの質問のことである。
 その愚問とは「赤提灯に行くか」、「賭け麻雀をするか」、「ソープランドに行くか」である。応答を結論から言えば「赤提灯には行く」、「賭け麻雀はご想像にまかせる」、「ソープランドには絶対に行かない」だった。

 麻雀については裁判官的用語でいえば認否不明だが、それを補うように「一時の娯楽に供する物と同程度の金額であれば賭博罪にならない」という説があると述べている。麻雀大会で出す商品に供する金銭程度はおとがめなしとなるか。

 そういえば、少女監禁事件中に新潟県警は麻雀接待していた。麻雀大会と言っていたがウソだろう。賭け麻雀にきまっている。ブン屋も深く追求しなかったのは、日頃、県警記者クラブでジャラジャラとパイをかき混ぜていたからだろう。

 今は、全般に麻雀は衰退しているようだが、裁判官が息抜きにやるのは大いに結構だ。もっとも、負けがこんで判決がおかしくなっては困るが。

中国の格差

2018-07-29 09:06:07 | Weblog
 中国の退役軍人のデモが各地で起こっていると報じていた。もちろん、待遇表現要求だった。軍事大国が退役軍人を切り捨てている構図だ。どうやら、使いものにならなくなるとポイと捨てるらしい。
 しかし、57百万人も元軍人がいるようだから習政権の基盤は揺らみかねない。がたがたになってほしいけど。

 世界第二位の経済大国だが、やや古い6年前の数字ではあるが、所得による貧富を3区分しており、約520万円以上の富裕層が0.8%、約104万円~520万円未満の中間層が6.2%、104万円未満の低所得層が93%とあった。人口13億人の1千万人程度が富裕層というわけ。

 九州では地理的条件から中国観光客を「熱烈歓迎」としているが、中間層の上位たとえば300万円以上は目と鼻の先より欧米に向かうだろう。
 
 となれば、低いクラスの中間層が来るにしてもあまりカネは落ちないのではないか。それよりも観光公害を心配する。

死刑執行

2018-07-28 08:58:49 | Weblog
 オウム事件の死刑囚すべての刑が執行された。オリンピック前に、いや新天皇の恩赦に引き出される前に、いや平成の事件は平成中に、いや自民党総裁選前に、とささやかれていたらしい。

 死刑執行の手続きとして、確定判決に事実誤認がないか、再審事由や恩赦事由がないかなど検討し、所要決裁を経たあと「御高裁を仰ぐ」と墨書された半紙を付けて死刑執行指揮書を法務大臣に提出するという。

 ただ、オウム死刑囚の何人かは再審請求中だったとある。執行を引き伸ばしたいため何度も何度も再審するのは権利の濫用と思うが、1回目の再審請求中の者の執行は、弁護人たちが言うように確かに問題かもしれない。

 とはいえ、冤罪の心配があるので再審に慎重を期すわけだが、オウム事件ははっきりしている。それに長い年月、刑を執行されずにいたではないか。

 刑の執行前に死刑囚が望む場合は教誨師と面談するそうだ。今回のオウムに限らず、面談に応接した教誨師は刑の執行にも立ち会うそうだ。
 聞いた話によると、教誨師ではないが僧籍のある裁判官は執行に立ち会うそうだ。うれしくないらしいが。

 最後に、世界中から死刑執行に非難がある。弁護士一家の殺害や罪のない人々の無差別殺人のオウム事件をわかってのことだろうか。

YesにもNoにも使う言葉

2018-07-27 09:07:44 | Weblog
 新聞のコラムに「根性」はもともと好ましくない性質を指す言葉だとあった。その例としてやじうま根性や役人根性を例に挙げている。
 
 どうやら「根性を入れろ」と試練に耐える精神を求める意味になったのは、スポーツ界に根源があるようだ。
 本来、それは誤用だというが、「根性をたたき直せ」は悪い根性をよい根性にすることだろう。となれば、「根性」は使い方によって意味が肯定になったり否定になったりする言葉ではないか。

 「結構」も「結構なお味です」と肯定するときにも「その話は結構です」と否定するときにも使う。
 日本語を少し理解する外国人が、駅の階段で荷物を持つおばあさんに「持ちましょうか」と親切心で言うと「結構です」と応じた。それではと荷物に手をかけると、おばあさんは血相を変えて荷物を抱え込んだ。そんな作り話がありました。

 「いいです」も「体の調子はいいです」はYesで「手伝いはいいです」はNoだ。「悩ましい」もネガティブに迷っているのか、ポジティブに官能的なのか前後の文脈によりけりだ。

「こだわり」は「根性」よりも一義的には「失敗にこだわる」など悪い意味での執着だったはずだ。それが「素材にこだわる」とよい意味の執着にも使う。

 日本語の面白い性格の一面だ。